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常識が崩れていく・・・

ようやく世間に出て働くようになった頃の私は、日本の一般的な中流サラリーマン家庭の子が備えてそうな常識で仕上がっていた。
親の躾とか、周りの環境、学校教育、付き合う人々、そんなものがジワジワと私をかたち作って行った。

その場の平均的な意見からはみ出ないよう、無駄な争いをするような自己主張はしない。
無難に安全に。
もちろん生き方にもその方式が当てはまる。
学校を卒業したらなるべく良い条件の企業に就職したい。
結婚相手は平均以上の収入があって、友達が羨むようなやさしくカッコイイ男性。
都会的でオシャレな生活。
これを目指している訳だからそれ以上の筈がない。

際立って上流でも下流でもない。
日本と言う集団生活に、無難に当てはまる庶民である。

この世界観で出来上がっている私の常識が、超大金持ちの常識とも、芸術家、芸能一家、明日の暮らしもままならない人の常識とも同じ筈がない。
ましてや他の国の常識なんて、国の数だけある。

自分が常識と思っていることなんて、所詮ただの思い込みだった。
この固定観念というもので大人はできあがっている。

常識と固定観念はニワトリと卵のようなもので、どっちが先かよくわからない。
個人的な考えを世間と言い換えているだけかも。
「でも」をすぐ口にする人は、固定観念が強いのだろう。
自分の中の方程式では「ああすればこうなる」がガッチリと出来上がっている。


その超庶民な私の固定観念が崩れ去った。

原因は「限度を越えた断捨離」

当時、自分の全てを変えたくて、八方塞の殻を破りたくて、
新しい生活を始めるために身軽になりたかった。
まだ何も決まっていなくても、とにかく身の回りの整理をした。
いつでも、どこにでも踏み出せるよう、自分の持ち物を処分し続け、必要な物は段ボール箱一つになった。

その整理の過程で頭の中が変わって行った。
物を手放すと、こだわりがなくなっていった。
これまであった「自分」というものが壊れ続けていった。

一旦崩れ始めたものは、もう止まらない。
あれから10年以上、自分の意志とは無関係に大波小波を繰り返し、

りっぱな常識外れの人間になった。


まさかの平和な毎日。


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