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その奇妙な店は~薄紅色の籠の中で【奇談】

※この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件とは一切関係がありません
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 その桜を見て、久恵は目を丸くした。

 会社帰りのことであった。
 深夜である。
 普段ならもう少し早く家路に付くのだが、会議やら会食やらが立て続けに入り、気付いたら終電を逸していた。別の路線ならば、まだ電車が出ている。タクシーを使うことも考えたが、節約を命じている立場である。自らが破るわけにはいかないと思い直した。

 それで、歩いていたのである。

 普段通らない道を、新鮮な気持ちで歩いていた久恵は、ふと立ち止まった。道の端に見慣れぬ明かりを見つけたのである。
 花屋のようであった。家と家との間に、緑が生い茂っている。ポトス。アイビー。テーブルヤシに、ベンジャミン。異国情緒溢れたラインナップに、煌々と明かりが降り注ぎ、そこだけ植物園のような有様である。

 腕時計を見ると、深夜の零時を回っている。
 コンビニやスーパーならばいざ知らず。こんなに遅くまで開けている花屋など、聞いたことがない。

 興味を覚えて、近寄ってみた、その軒先に。見つけたのである。
 桜の鉢植えであった。久恵が両手で抱えられるほどの鉢である。
 ソメイヨシノのような、枝のしっかりしているものではない。折れた傘の骨のような、歪な形の木が、こんもりと盛られた土の上に鎮座ましましている。
 簾のように垂れ下がった枝、その節ばった灰色のひとつひとつには、みっしりと蕾がついていた。まだ花は咲いていない。どの蕾も、春はまだ遠いのだとでもいうように、固く閉じられている。

「それが、お気に召しましたか」

 声をかけられて、久恵は顔を上げた。店員であろうか、まだ若い青年が人好きのする笑顔で久恵に近寄ってくる。
「ええ。これ、枝垂桜ね。良い枝ぶりだこと」
 青年は軽く目を見張った。
「そうですか。――桜。なるほど」
 妙に引っかかる言い方である。怪訝そうに首を傾げた久恵を安心させるように、青年は物柔らかに問いかけてくる。
「お客様は、桜を育てたことがおありですか?」
「ええ」
 頷くと、青年はにこりと笑った。人を心地よくさせる笑みである。つられて久恵も笑顔になる。
「育てたと言っても、私が丹精込めたわけではないの」
「と、言いますと」
「昔住んでいた家の庭にね、桜があったのよ。こういった、枝垂れているやつね。近くには池があって……。懐かしいわ」

 長らく思い出すこともなかった故郷の風景が瞼の裏に蘇ってくるようで、久恵はうっとりと枝垂桜を眺めた。
 生家の桜も、こんな風体であった。勿論大きさは違う。大人が見上げるほどの巨木であった。幹は池の淵にしっかりと根を下ろし、その簾のような枝は、大きく池の上に張り出している。
 久恵はその枝の作り出した空間がとても好きであった。花が咲く時分に木の下に入ると、まるで自分が、赤の花で作った籠の中に入るような気分になったものだ。

 簾のように垂れ下がった枝。そこにひしめき合うようにして咲き誇る、赤みを帯びた花弁が、庭の池にしらしらとその身を沈めていく。静かな風景の中で、そこだけが時が止まったかのような……。

 久恵が郷愁に浸っていた、そんな折であった。

「もし宜しければ。その桜、差し上げましょうか」
「――え?」
 青年の突然の申し出に、久恵は驚いた。思わずまじまじとその顔を見つめてしまう。
「料金はいりません。是非この――桜、を、引き取っていただけませんか?」
 青年は微笑んだ。
「実を言うと、この桜、少々問題がありまして。ああ、いえ。売り物にするには、という意味です。助けると思って。是非……」
 畳みかけるように勧めてくる。
「あなた……」
 声に嫌悪の響きが混じるのを、止めることは出来なかった。
「結構よ。もし戴いたとしても、それに見合うものを返せるとは思いませんから」
 立場的に、こういった申し出を久恵はよく受ける。それは久恵の為にというよりも、彼女に気に入られようとするための行為である。それを責めるつもりもないし、ある程度仕方のないことだと思ってはいるが、まさか行きずりの花屋までが言い出すとは思わなかったのだ。
 酷く不快であった。思い出に釘を刺されたような気すらした。

「お客様」

 踵を返した久恵の背後から、青年の声がする。
「枝垂桜の花言葉を、御存じですか」
 咄嗟に立ち止まった。自分でも、その理由が分からなかった。

「『ごまかし』、と、言うんですよ」

 どきりとした。脈打つ心臓を宥めるように、久恵は胸を抑える。

 ――あの枝を。
 ――切って頂戴。

「また、お待ちしております」
 その声から逃げるように、久恵は店を後にした。
 何やら嫌な予感が、胸の中に渦を巻いているようであった。

***

 成功か否かと言えば、人は皆、成功したというであろう。
 久恵は今年で五十五になる。
 田舎の中学を卒業してすぐに上京し、青春も恋も投げ打って、遮二無二働いて。気がつけば、実業家という肩書がついていた。
不惑を超える前に会社を立ち上げ、軌道に乗せることができたのは、運が良かったこともあるが、その八割は久恵の努力があったからと言っていい。随分と嫌な思いをしてきた。幾度となく挫折もした。その度に負ける者かと歯を食いしばってきたのである。

 帰宅すると、久恵は真っ先に洗面所に向かった。丁寧に化粧を落とし、顔を濯ぐ。胸の中には、まだあの嫌な予感が燻っていた。
 もう怖いものはないと思っていた。自分に群がる蟻の群れを手懐け、甘い汁を吸わせるかのように振る舞うのも慣れたものであった。
 それなのに、あの花屋の何がそんなに気に障ったのであろうか。
 桜の鉢植えを、無料で譲るという。
 久恵は雑誌やテレビにも随分と顔を出しているし、あの青年が自分のことを知っても可笑しくはない。もしかしたらその花を自分に押し付けることによって、自分の口からあの花屋の素晴らしさを広めてもらおうと考えたのかもしれない。
 いや、そんなことよりも、青年のあの言葉。

 ――『ごまかし』。

 久恵は頭をひとつ振った。
 やめよう。考えても仕方のないことだ。もうあの道を通らなければいい。終電を逃さないようにする良いきっかけをもらったのだと、プラスに考えることにしよう……。
 丁寧にタオルで顔を拭い、化粧水に手を伸ばしながら、久恵はうやもやとした感情を追い出すように大きく息を吐いた。

***

 夢を見ているのだ、と、久恵はすぐに分かった。
 土塀に囲まれた広い庭。その半分を閉める池。そのほとりに零れるように咲くのは。
 枝垂桜。
 ここは、自分の生家だ。
 長閑な風景であった。
 春の柔らかな光が水面にきらきらと反射している。その光の演舞場で、踊り子のように舞う、桜。
 白ではない。赤に近い桃色の、艶やかな、八重咲きの桜である。
 久恵は、庭に面した部屋で、布団に横になっている。
 よく、ここで桜を眺めていたものだ。
 幼い時分は体が弱く、外遊びが苦手であった。長く床に臥せったこともあったように思う。特に春は、体調を崩すことが多かった。そんな自分を慰めてくれたのは、母と、この桜と――……。

 ――久ちゃん。

 母の声だ。柔らかく響く声に、久恵はそっと瞳を閉じだ。こうすると、母はくすりと笑って、額に手を乗せるのだ。そのひんやりとした手が心地よくて、久恵はうっとりとしたものだった。
 ――具合はどう?
 手が額に落ちる。そっと瞳を開くと、見上げた母の、笑みを湛えた口元が。
 赤く。
 ざらり、と、音がした。 



 目覚めると、びっしょりと冷や汗をかいていた。何とも言えない嫌な予感が胸の中に渦を巻いている。息苦しさを覚えて、久恵は口元に手を当てた。意識して、ゆっくりと息をする。
 懐かしい夢を見た。寝ている自分の所に母が来て、看病してもらう夢。温かく、幸せな夢であったのに、この胸に渦巻く不吉な感情は、なんなのだろう。
 久恵は慎重に起きあがると、枕元のペットボトルを開け、一口含んだ。
 喉を滑り落ちていく生ぬるい水の感覚で、ようやく人心地つく。時計を見ると、もう起床の時間である。久恵は体をベッドから引きはがすようにして起きあがった。
 体が重い。水泳の後のような気怠さである。
 それでも何とか顔を洗い、化粧をし、最後に紅を引こうとした時であった。口紅をくるくると出し、筆に色を乗せる。それを刷こうと、口元に近づけて、はっとした。
 いつも使っている色である。赤に近い紅。深紅ではない。ほんの少しだけ桃色の混じった、淡い、優しい色だ。
 あの、枝垂桜のような……。
 久恵は無言で口紅を元に戻すと、別の色を取り上げた。何となく、今日はこの色を付ける気分にはなれなかった。

***

「河原さん、メイク、変えました?」
 朝の挨拶もほどほどに、秘書の守山がそんなことを言ってくるので、久恵は軽く眉を寄せるようにする。
「女性にそういうことを言うのは御法度よ、守山君」
「そうなんですか? いえ、いつものも素敵ですけど、今日の色、僕、好きです」
 臆面もなくこういうことを言う。久恵は無言で席に着いた。
 自分よりも一回りも下のこの男は、職業柄かもしれないが、妙に気のつくところがある。心配そうにこう言い出したものだ。
「なんだか、今日、元気がないですね。お疲れですか?」
「そう見える?」
「ええ。いつもよりも隙があるというか」
 守山はどこかもじもじと
「悪い意味じゃないんですよ。そうだ、もしよければ、今度気晴らしに食事でも……ああ、いえ、すみません」
 黙れ、という意をこめて、一瞥を投げると、守山はしゅんとうなだれた。
 久恵は息を吐く。
 恋愛に縁のない生活をしてきたとはいえ、寄せられている感情に気付かないほど初心ではない。しかし、彼は干支が一周回るほど年下であるし、久恵には立場もある。おいそれと靡くわけにはいかないのだ。
 気合いを入れて、パソコンを立ち上げた。デスクトップの初期画面、その水色に波紋が浮かぶ。
 まるで水面のようだ。
 そこに一片、紅色の花弁が落ちていく。

 ――お嬢さん。

 ふと聞こえた声に、久恵は耳を澄ませた。耳によく馴染む声。
 あれは……そう、司の声だ。

 父は滅多に家にいなかった。その代わりに、雑用を引き受ける男手として一緒に住んでいたのが、司である。
 柔和な声と、笑顔の持ち主で、いつも左足を引きずるように歩いていた。歳は、確か久恵よりも十は上だったと思う。頭が良くて、優しくて、一人っ子の久恵にとって、兄のような存在であった。
 久恵は彼と話すのが好きであった。柔らかな声で呼ばれると、体の奥が熱くなるような、むず痒いような気持ちになるのである。
 彼の足が畳を擦る音。それが聞こえる度に、久恵はわくわくしながら布団の端を握り締めたものだ。
 襖を開ける、すう、という音と共に、新しい空気の流れが久恵の頭を撫ぜる。
 ――お嬢さん。
 ――ああ、ほら、起きあがっては駄目ですよ。横になって。
 ざり、ざりと音が鳴る。畳を擦りながら、司が部屋へと入ってくる。ふわり、と甘い香りがした。何の香りなのかは分からない。けれどよく知っている、そんな香りだ。
 額に、司の手が触れた。
 ――熱は、下がったようですね。
 間近で見る司の顔は、相変わらず優しく微笑んでいた。少し屈んだ襟元から覗く肌理の細かな肌。久恵はほんの少しどぎまぎとする。まるで女の人のようだ。ちらちらと盗み見ていたその玉のような肌に、一片。
 桜が。

 ――いかがなさいました、お嬢さん。
 ――お嬢さん?

「……さん。河原さん?」
 久恵は目を瞬かせた。
「どうしたんです? ぼーっとして」
「ああ……いえ、何でもないの。大丈夫」
 守山の心配そうな声に、久恵は曖昧に答え、指先で額を抑えるようにする。
 今のは、何だ。
 あの家だ。自分が生まれ育った家。それから。
 司。
 自分と母の面倒を見てくれていた、優し気な青年。兄のような存在で、そして、恐らくは初恋の相手であるあの人。
「何でもないっていうようには、見えませんけれど」
「大丈夫だって、言ってるでしょ」
 覚えず、きつい言葉になった。久恵は頭を軽く振る。今のは、白昼夢というやつに違いない。今朝の夢のせいで寝が浅かったので、それできっと見てしまったのだろう。
 パソコンはとうに立ち上がっている。守山の視線に気づかないようにして、久恵はキーを叩き始めた。集中しよう。呆けている暇などないのだから。
 そうして、仕事に没頭したのがいけなかったのかもしれない。
 また終電を逃したのである。
 あれ程気を付けようと思っていたのに、会議やら書類の決裁やらに追われているうちに、また、逸した。
 慌てて帰り支度をし、オフィスを飛び出したときには、もう零時を大きく回っていた。流石に今日はタクシーを使おうとも考えたが、こういうときに限って一台も通らない。
 仕方ない。
 久恵は歩き始めた。
 あの路線を使うとなると、例の花屋の前を通ることになる。それが引っかかってはいたが、背に腹は変えられない。

 南国のような緑の茂みは、遠目からでも異彩を放っている。店が近づくにつれ、軒先に出された桜の鉢植えも目に入ってくる。
見ないように、と思いながらも、久恵はどうしても見ずにはいられなかった。
 足早に通り過ぎようとした、その横眼でちらと見て、気付いた。
 蕾が、膨らんでいる。
 昨日はあれほど固く閉じ、枝と同系の色をしていたその花芽が、今はうっすらと淡く色づいているのである。
 覚えず、足が止まった。
 そこで、声をかけられたのである。
「いらっしゃいませ」
 あの青年であった。
「昨晩遅くに、急に膨らみ始めたんです」
 青年はそっと屈むと、桜の枝につうと指を這わせた。灰色の枝に付いた仄赤い蕾が、今にも咲き零れそうな気配を漂わせている。その蕾を慈しむように一度触れ、青年は微笑んだ。

「……思い出したら、花開く」
「――え」

 驚いて、青年を見つめると、彼は真摯な表情でこう囁いた。
「この桜は、お客様でないと咲かすことはできないのです」
 どきりとした。久恵は胸を抑えるようにする。
 何を言っているのだ、この青年は。口を開こうとして、久恵は硬直する。

 枝垂桜の、薄紅の花。
 その垂れ下がった枝に包まれるようにして、重なり合う影、二つ――。

 脳裏に差し込まれたかのように、流れ込んでくる映像。
「……様? お客様?」
 息を呑んだ。ここにいてはいけない。今すぐここから立ち去らねば、自分の中の、何かが壊れる。
 ――早く。
 心の声に従って、久恵は踵を返した。そのまま二、三歩、歩き、気付けば、走り出していた。
 深夜とて、人の流れはゼロではない。血相を変えて走る久恵に、通行人の奇異の目が刺さる。分かってはいるが、久恵は立ち止まることができなかった。

 怖い。
 恐ろしい。
 ――あの枝を。
 何かが起こっている。
 ――切って頂戴。
 逃げなければ!

「あっ……」
 左足に衝撃を感じて、久恵はよろめいた。近くの電柱に手を付いて、恐る恐る下を見る。ヒールが折れてしまっている。何故だか無性に泣きたくなって、久恵は唇を噛み締めた。
 踏切の音がする。
 帰ろう。もう駅はすぐそこだ。
 久恵はへこへこと音のする左足を引きずるようにして、駅の改札を潜ったのである。

 その晩のことであった。
 久恵は目を瞬かせた。
 自室の物とは違う板張りの天井に、蛍光灯の橙色。そこから延びた紐がゆらゆらと揺れている。
 また、夢だ。
 夜のようであった。橙色の豆電球に、二匹の小さな蛾が踊っている。頭をずらすと、何かがほとりと落ちた。濡れた手拭いである。もう随分と生温くなっている。
 遠くから、音が聞こえた。闇を切り裂くような、けたたましい音である。
何かが割れる音。打擲。悲鳴。
 始まった。久恵は布団の中に潜り込み、体を丸めて耳を塞いだ。
 もうこんな音、聞きたくない。
 目を閉じた瞼の奥で、赤や黄色の光が乱舞する。
 眠らなきゃ。
 眠らなきゃ……。

 頬を流れ落ちる感覚に、久恵はぽっかりと目を開けた。いつもと同じ、白の天井にシーリングライト。それが幾分ぼやけている。瞬きをすると、すうと視界が澄んだ。
 どうやら泣いていたようであった。
久恵はそっと起きあがると、掌で瞼を拭った。
 長らく思い出さなかった、思い出したくなかった事。今更、何故こんなにも。
 ――思い出したら、花開く。
 あの青年の言葉が、脳裏に蘇った。もし、あの言葉が、枝垂桜のことを言っているのならば……。
「花が開くたびに、思い出す……?」
 自分の言葉に、久恵は口の端に笑みを浮かべる。馬鹿馬鹿しい。何を考えているのだ。そんなことあるはずがない。余りにも非常識な話である。
 けれど、もし、本当だったら……。
 あの桜が完全に咲いてしまったら、どうなる。
 急に速まった鼓動に、久恵は冷汗を流した。

 駄目だ。あの花を咲かせてはいけない。
 これ以上、思い出してはいけないのだ。

***

「桜、貰いに来たわ」
 そう言うと、青年は軽く目を見張り、大きく頷いた。
 朝である。
 明るい陽光の下で見ても、店は南国のようであった。その異国情緒あふれる店先で異彩を放っている、枝垂桜の鉢。もう蕾ははち切れんばかりに膨らんでいる。
「綺麗に咲くといいですね」
 青年の言葉を背に受けて、久恵は店を後にした。両手で抱えるようにして鉢を持つと、オフィスまでの道を歩いて行く。
 綺麗に咲くといい、と青年は言った。久恵は唇を噛み締めるようにする。誰が咲かせるものか。あんな夢を見たのも、全てこの桜のせいだ。
 だから――。

 オフィスに着いた久恵は、人目を憚るようにして、地下のゴミ捨て場に直行した。今日は燃えるゴミの日だ。きっとここに置いておけば、この桜もゴミと一緒に処分されるだろう。
 改めて、腕の中の桜を見やる。折れた傘のような幹。そこから垂れ下がった簾のような枝。そしてみっしりと付いた、仄かに赤い蕾。もう花弁も見えかけている。咲くのは時間の問題だ。
 鉢を置くときは、流石に胸が痛んだ。
 自分でも馬鹿なことをしていると分っている。花が咲くから思い出す、など、あまりにも荒唐無稽である。それでも、久恵はそうせずにはいられなかったのだ。
 そのまま逃げるようにその場を離れる。
 花に罪はないのに――けれど咲いたら終わりだから――そんなこと有り得ないだろうに――現に夢を見たじゃないか――だとしても、いったい何をそんなに怖がっているのだ。
 ぐるぐると回る思考に吐き気がする。思わず女子トイレに駆け込んだ。洗面台に縋りつくようにして、久恵は口元を手で押さえた。
 何を、怖がっている。本当にその通りだ。万が一、本当に思い出すのだとしても、それに何の不都合がある。

 それとも、思い出したくない何かがあるのか。

 顔を上げると、鏡に久恵の顔が映った。随分と疲れた顔をしている。無理矢理笑顔を作ろうとして、久恵はぎくりとした。
 自分の顔に、もう一つ。顔が被っている。
 あれは、母だ。

 ――秘密よ、久ちゃん。
 ――お父様には秘密。

 そう言った母の口元に、綺麗に刷かれた紅。まるであの、枝垂桜のような。
「なんで……」
 久恵は呻いた。
 ――お嬢さん?
 屈みこんだ司の、襟元から覗く肌。
「なんで今になって……!」
 確かに久恵は見たのだ。あの春の日。池の畔に立つ、枝垂桜の樹の下で。赤い簾の、小さな空間の中にいたのは――。

 弾かれるように、久恵はトイレを飛び出した。
 早く仕事に入ろう。今日は大切な会議もあるし、それが終わったら取引先との会食、決済しなければならない書類も山になっている。

 早く。
 日常に。

 階段を駆け上がる勢いで上り、自分の仕事場の前に立つ。
 扉を開けた、久恵の目に飛び込んできたのは。
「な……!」
 あの、桜であった。窓際の、光の当たる場所にわざわざ折り畳みの椅子を出し、その上にちょこなんと置かれている。
「おはようございます。どうですこれ、綺麗でしょう?」
 守山が、にこやかにそう言った。
「さっき、ゴミ捨て場で拾ったんですよ。勿体ないことしますよね」
 枝垂桜の蕾は、差し込む日に照らされてきらきらと輝いている。その蕾が、ゆっくりと、ほどけるように。
「駄目!」
 久恵はデスクに駆け寄り引き出しを乱暴に開けると、中から鋏を取り出した。
「河原さん!?」
「咲かせては駄目!!」
「いったいどうしたんです!? 落ち着いて!」
 取られた腕を振りほどいて、久恵は枝垂桜に駆け寄った。
 こんな桜、切ってしまえばいい。
 そうすれば咲くこともできやしない。
 鋏を簾のような枝に差し入れ、力を籠めようとしたその時。
 ――あの枝を。
 ――切って頂戴。
「あ……」
 ――でも、お嬢さん。
 ――言うこと聞かないと、お父様に言いつけるからね。

 思い、出した。

***
 
「あの枝を切って頂戴」
 そう呟くと、司は困ったように首を傾げた。
「あの枝って、どの枝です?」
「庭の桜よ。あの枝が欲しいの」
 丁度夕暮れの時分であった。母は勝手で食事の準備をし、相変わらず体を壊していた久恵の相手を、司がしてくれていた時のことである。

 庭に面した部屋で、久恵は布団に横になっていた。その枕元で、額に置いた手拭いを取り換えようとしていた司に、久恵はそう言ったのだ。
 斜陽が長々と部屋に入り込み、司を橙に染めていた。逆光で、顔は見えない。それでも彼が困った顔をしているのは気配でわかったので、久恵は苛々としたものだ。
「ねえ、今すぐ。あの桜を取ってきて」
「でも、お嬢さん」
「私の言うことが、聞けないの?」
 久恵はそう言うと、とん、と自分の首元を指差した。司は瞠目し、慌てたように自分の襟を掻き合わせるようにする。
「お、お嬢さん……?」
「言うこと聞かないと、お父様に言いつけるからね」

 最初に気付いたのはいつであろうか。滅多に化粧をしない母が、紅を引いていたことか。それとも彼の首元に、桜の花が咲いていたことか。
 自分の父親が、他にも家庭を持っていることは、久恵も薄々勘付いていた。父が母に暴力を振るっていることも承知していた。それでも、父を裏切った母が、母に陥落したこの青年が、どうしても許せなかったのだ。

 司はよろめくようにき出し窓から外に出ると。高鋏を持ち、池の畔に脚立を立てた。
 久恵はその様子を、じっと見ていた。
 橙色の斜陽が、枝垂桜の影を長く伸ばしている。まるで生き物のように蠢く枝の影にすっぽりと収まった司は、籠の中の鳥のようであった。
 一段、また一段と脚立を上っていく。
 左足が、脚立に擦れて、かつりかつりと音が鳴った。
 枝垂れた薄紅の籠の中で、司は高鋏を伸ばし――。
 一瞬の永遠の中。その姿だけが、ゆっくりと、傾いて。
 傾いて。

 風が、吹いた。

 紅色の花吹雪が、水面にしらしらと降り注ぐ。その花弁を、まるで掴もうとしているかのように、水面から突き出た掌が、ゆらゆらと揺れていた。

 ――お母様!
 ――大変……! 司兄さんが……

 花が開く。まるで久恵を嗤っているかのように。灰色の枝に、薄紅の花が咲く――。
「ああ」
 久恵はその場に膝をついた。鋏が床に落ち、二、三度回転して止まった。
 思い出してしまった。桜の花が咲いてしまったのだ。
 ――枝垂桜の花言葉、御存じですか?
 久恵は、本当はそうなると知っていて、彼に無茶を言ったのだ。
 だとしたら、彼を殺したのは……。
 崩れ落ちた久恵の肩に誰かがそっと触れた。守山だ。振りほどく気にはなれなかった。ただひたすらに、満開に咲いた枝垂桜の紅色を、見つめることしかできなかった。

***

「その様子だと、桜は無事に咲いたようですね」
 青年の言葉に、久恵は微笑みながら頷いた。
 昼である。本来ならオフィスにいるこの時間帯に、久恵は敢えてこの花屋を訪ねてみたのである。
 久恵を見ても、青年は驚かなかった。その柔和な顔に笑みを浮かべ、にこやかに、いらっしゃいませ、と声をかけた。
「咲かせてしまったことを、後悔しておいでですか?」
 青年の問いに、久恵は首を振った。
「……いいえ」
 久恵は、自らの手をそっと重ね、左薬指の指輪を確かめるようにそっと撫でた。こんな自分でも、彼は、いいと言ってくれたのだ。一緒に乗り越えていこう、という言葉に、どれだけ勇気づけられたか分からなかった。
「これから、警察に行ってくるわ」
 はるか昔のことだ。しかし、きっと、騒ぎになるだろう。今まで積み重ねてきた物も、一瞬にして芥になるに違いない。
 それでも、きっと自分は後悔しないだろう。
「あなたには感謝しているの。自分の行いを正すきっかけをくれたこと、本当にありがとう」
 そう告げると、青年は一瞬驚いたように目を見張り、ややあって微笑んだ。まるで花が綻ぶような、優しい笑みであった。

 店を出ると、春風が久恵の髪をゆるりと嬲った。その温かさに背を押され、駅で待つ夫の元へ、歩き出そうとした時である。
「お客様」
 久恵は立ち止まった。
「お幸せに」
 応えようとして振り返り、彼女は目を疑った。
 そこには、まるで最初から店などなかったというように、ただこんもりとした、緑の茂みだけが残されていた。


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