発達現象に関する科学的な議論と規範的な議論の峻別と統合及び標準化アセスメントの危険性
爽やかなそよ風が吹いている。空にはうっすらとした雲がかかっているが、幾分晴れ間も見える。午後になればもっと天気が良くなるだろう。
先ほど、少しばかり雑多なことを考えていた。1つには、人間発達というものを私たちがいかに取り扱っていくのかに関することである。
数年前までの私は、発達科学の研究に集中しており、発達科学者であるがゆえに、科学的な発見事項と規範的な事項を区別する形で取り扱っていた。つまりは、発達とはいかなるものであるかを科学的に明らかにするスタンスと、発達とはどうあるべきであるかという規範的なスタンスを分けるべきだと考えていたのである。
しかしながら、最近になってそうしたあり方は単なる分離的な発想に基づくものであり、必要なことは双方の峻別からの統合的な議論なのではないかと思ったのである。
巷では、発達現象に対して盲目的ないしは無意識的に価値的な意味合いを付与する傾向が蔓延している。例えば、発達は高ければ高いほど良いというような考え方である。
まさにここでは、科学的な事柄と規範的な事柄が混ぜこぜになっており、両者が未分化の状態なのだ。それがゆえに発達を歪めてしまうような実践が行われたり、浅薄な議論がなされたりする。
私たちが発達現象に価値的な意味合いを付与してしまうのはある意味不可避であり、それは規範的な精神を持つ人間存在にとっては内在的な性向であるために——人間は事実に対して価値を付与し、その価値を起点にした物語を紡ぎ出してしまう不可避の性向があり(言い換えると、人間は意味のみだけではなく、価値を付与することを宿命づけられた生き物だと言えるかもしれない)、社会もまたそうした性向を持って回っているのだ——、発達現象に価値的な意味合いを付与することを制御するのではなく、その意味付けの方法そのもの及びその物語をより緻密なものにしていく必要があるのではないだろうか。
つまり、発達現象に価値を付与することが悪いことなのではなく、いかなる価値をいかような意味合いで付与するのかが重要であり、そしてそれが個人や社会にもたらす帰結まで念頭に入れた上で、発達現象に付与する意味付けの幅と深さをより豊かなものにしていく必要があるのではないかということである。
端的には、発達現象に関する科学的な意味と規範的な意味を峻別しながらも、それでいて双方を統合的に語っていく必要があるということである。どちらか一方だけを語るというのでは不十分なのだ——峻別するだけで不十分なのは、例えば発達現象に関する様々な科学的真実が明らかになった時に、それでは私たちは一体どうしたらいいのだろうという問いに対して、議論と実践を実りあるものにしていけないからである——。
まさに統合的な視野と発想を持って、科学的事実(発達とは何であるか)と規範的価値(発達とはどうあるべきか)の区別と統合を図っていくことが私たちに求められることだろう。決してどちらか一方を優先させるのでもなく、両者を分離させるだけで終わらせるのではなく、双方にまつわる意味付けと物語を豊かなものにしていく必要がある。
もう1つ考えていた雑多なこととしては、カート·フィッシャー教授が果たした功績に思いを巡らせていたときに、「心(知性)は機械である」というメタファーではなく、「心(知性)は生態系である」というメタファーとして認識することの大切さと標準化されたアセスメントについて考えていた。
発達理論に基づくアセスメントを導入する前には、上述の通り、発達に関する科学的な議論と規範的な議論を十分に行い、さらにはアセスメントが持つ教育的かつ処方的な効果まで十分に議論しなければならない。それが最低限要求される事柄だと思うのだが、そうした議論がなされたとしても、私たちはまだ注意しなければならないことがある。
それは、発達測定というものが標準化の産物であるということだ。それは、多様な発達プロセスの中に共通の発達パターンを見出すことによって一つの物差しとして生み出される。ここに思わぬ落とし穴がある。
まさにそれは、多様性の中に潜む普遍性を見い出しているという優れた側面があるが、それを大規模な形で多様な人間に適用することは大きな問題を内包している。
それがまさに、私たちの心や知性を標準化してしまう危険性があるという問題である。例えば、ある1つの極めて優れたアセスメントが世に送り出された時、私たちの社会はいかように振る舞うことが予想されるだろうか。
おそらく、企業や学校、そして親などは、こぞってそのアセスメントで測定される知性領域(能力領域)の開発に躍起になることが容易に想像される。それが押し進められると人間はどのようになるだろうか。
おそらくは、私たちが本来持つ知性や能力の多様性は損なわれ、そのアセスメントを通して光が当てられた知性や能力だけが発達するという実に奇妙な人間、すなわち知性的·能力的に偏りのある奇形種の人間が生み出されてしまう危険性がある。
今回のコロナの1件でも、一極集中型の都市の脆弱性は明るみに出されているが、私たち個人の知性や能力においても同じである。標準化されたアセスメントの導入は、本来多様性の確保された生態系としての知性を単一なものにしてしまう危険性があり、それは個人を超えて、集合的な意味合いにおいても知性を単一なものにしてしまう危険性がある。
個人及び集合的規模での知性の生態系が崩壊してしまうことを防ぐためには、仮に極めて優れた標準化アセスメントが開発されたとしても、そのアセスメントが内包している危険性を深く理解し、その運用に関する議論を絶えず緻密なものにしていくように尽力する必要があるだろう。
そして何よりも、人間発達に関する社会の物語を大きく変容させ、より豊かなものにしていく必要がある。今の物語はあまりに貧弱なものなのだから。フローニンゲン:2020/5/25(月)11:23
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