5974. 新たな眼差しで胸を高鳴らせて日々を生きること

時刻は気がつけば午後3時半を迎えていた。この日記を執筆したら、近所のスーパーに買い物に出かけようと思う。明日と明後日は雨のようなので、必要なものは今日購入しておこう。

先ほど、イギリスの経済地理学者のデイヴィッド·ハーヴェイの書籍"Limits to Capital (2006)”の中で興味深い指摘を見つけた。ハーヴェイは、現代の金融資本主義における問題解決の方法は、問題を根本から解決しようとしているのではなく、問題を拡散あるいは分散させるか、問題を単に別の場所に置き換える形で解決させようとする傾向にある、述べている。

まさに私たちの家庭で出されるゴミに対して、そもそも根本からゴミが出ないような仕組みを作るのではなく、出されたゴミを拡散させたり、どこか別の場所に押し付けるかのような形で問題解決に当たる傾向にあるのがこの現代社会の特徴なのだろう。ここにも、問題を生み出す構造そのものへの眼差しの欠如と、そうした眼差しを育む仕組みや支援の欠如が見られ、はたまたそうした眼差しを抑圧するような風潮や仕組みがこの現代社会に蔓延っているのではないかと思う。

午後に仮眠を取って目覚めたときに、求める愛と与える愛について考えていた。本当の与える愛というのは、与えようという意思すら芽生えない形で発揮されるものなのだろう。

愛を与えるという考えが芽生える隙もなく、愛を自発的に降り注いでいるというのが与える愛の本質にある。そのようなことを考えていた。

数日前の日記に、カート·フィッシャー教授の教え子かつ協同研究者でもあったマリー·イモーディノ=ヤング博士の研究について言及していたように思う。“We feel, therefore we learn”という言葉を引用し、学習やや発達における感情が果たす役割についてそこで述べていた。

ふとしたご縁で最近知り合ったある方に成人発達理論という学問領域があることを伝えたところ、「新しい発見にドキドキしています」というメッセージをいただいた。このメッセージを受け取ってしばらくしたときに、思わずハッとさせられた。というのも、そこには学びや成長の本質が隠されているのではないかと思ったからである。

日々私たちは、何かを学習する時や実践する時に、こうした胸が高鳴る気持ちを感じているだろうか?新しいことを学ぶ喜びや、自分や他者及びこの世界の新しい側面に気づく喜びを毎日感じているだろうか?

もしこうした感情が芽生えないのであれば、それは感情を持つという人間要件の大切な側面を失いつつあることの現れではないかと思う。またそれは、実りある学習や実践に従事していないことの現れではないかとも思う。

そのようなことを考えていると、監修させていただいた有冬典子さんの書籍『リーダーシップに出会う瞬間』の中に、「ワクワクは枠の外にある」という名言があったのを思い出した。毎日同じ枠の中にいると、こうした胸の高鳴りを感じることはできないだろう。

人間性心理学を切り開いたアブラハム·マズローの研究で、真に自己実現を果たした人の特徴の1つに、この世界を絶えず新しい眼差しで見つめ、新たな発見に喜びを見出して毎日生きることができるというものがある。

発達理論の観点からさらに意味付けをしてみると、日々新たな眼差しを獲得するというのは、毎日死と再生を十全に行い、死を経て再生が実現されることによって新しい眼が生まれてくるのではないかと思えてくる。

『モモ』の作者であるミヒャエル・エンデの父のエドガー・エンデはかつて、「夢の世界を訪れることは、死の世界の先取りである(夢を見ることは死という体験の先取りである)」という意味の言葉を残していた。日々夢の世界に足を運ぶ私たちは、本来小さな死を体験しているのである。そうしたことを考えてみると、自己実現を真に果たした人というのは、毎日十全に死に、十全に再生を遂げている人なのだろう。

与える愛を降り注ぎながら、善く·美しく生きること。そして、日々十全に死と再生を繰り返していくことが、とても大切な生き方のように思えてくる。フローニンゲン:2020/7/8(水)15:43

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