「能力のフラットランド化」が進行する現代社会で求められる能力とは
時刻は午後7時を迎えた。今、燦然と輝く夕日がフローニンゲンの街を照らしている。小鳥たちは今もまだ鳴き声を上げており、1日の終わりを祝福しているかのようだ。
今日は早朝に、人間発達に関していくつか考え事を書き留めていたように思う。その後もそれらの論点に付随することを色々と考えていた。備忘録がてら、それらについて書き留めておこうと思う。
今回のコロナの一件で明らかになったように、私たちは置かれている生存状況が変化に晒されると、それに応じて人間要件も変わる。そしてそれは不可避的であり、突発的でもある。
このような状況に突如として晒されうるのが人間社会の不可避的な特性であれば、私たちはこのような時代においてどのような能力を少なくとも持っておくべきなのだろうか。
巷では、個別具体的なある特定の能力を伸ばすことがあたかもこの現代社会で生きていく上で必須のように喧伝しているが、それらの能力を冷静になって眺めてみると、果たして今回のような生存状況に関わるような社会情勢下で必須の能力なのかと疑ってしまいたくなる。
また派手な形で、あたかも普遍的に通用するかのように宣伝されるスキル——例えば「21世紀に求められるスキル」と宣伝される類のもの——というのも、全く未知の生存状況や社会状況に突発的に巻き込まれうるこの現代社会で必須のスキルなのかは疑わしい。
端的に言えば、私たちが発揮する能力や涵養すべき能力というのも、社会的なコンテクストの変化に応じて変わるものである。様々な業界や領域で声高に叫ばれている必須のスキルと呼ばれるものも、それは決して不変的なものではないはずであるし、本質的には社会のコンテクストの変化によって変動するものなのだという当たり前のことを私たちはもう一度確認しておく必要があるだろう。おそらくそうした態度が欠落しているがゆえに、何か万能薬的な1つの能力だけを躍起に伸ばそうとしてしまうのではないかと思う。
今朝方に書き留めていたように、確かに能力開発においては、1つの能力に時間やエネルギーを割くことはその能力を伸ばす上では重要なことなのだが、最初から設定の誤った能力に時間やエネルギーを割いてしまうというのは不幸である。残念ながら、実際にこの世の中で起こっているのはそうしたことのように思える。
つまり、多くの人たちはそもそも、この現代社会で生きていく上で真に大切な能力とはかけ離れた能力を伸ばしているのではないかということである。明日に何が起こるかわからない社会の中で、そして絶えず変化するこの社会の中で必要だと言えそうな能力にはどのようなものがあるかを考えていた。
確かに、それを個別具体的に挙げればキリがないかもしれない。もし仮に、社会的なコンテクストの変化が激しいこの現代社会において重要な能力を挙げるとするならば、絶えず変化する社会コンテクストの種類と性質を察知し、考察し、そのコンテクスト下で浮上する問題を解決に導く能力がどのようなものなのかを見極め、そしてそれを自ら伸ばしていける能力なのではないかと思う。
さらには、社会的に構築された物語の歪みに気づき、それを是正していく試みに乗り出していける力も必須のものなのではないかと思う。端的に言えば、巷で叫ばれている開発するべき能力というのは、そもそもそうした能力が必要だと叫ばれる前提条件や社会コンテクスト——ある特定の能力が能力だと定義される際には、そしてそれが議論の焦点になる際には、特定のコンテクストが必ず存在している——には一切焦点が当てられない形で開発が進められる。
それらの個別具体的な能力は、確かに個別具体的な問題や課題に取り組む際には不可欠なものなのだが、そもそもそうした能力が必要となる前提条件や社会コンテクストに対する洞察が欠けている場合には、ひとたびその前提条件や社会コンテクストが変化した場合には、全く使い物にならない能力になってしまう危険性を持っている。
そうしたことを考えながら、また別の表現で言えば、上記の能力は、人間要件にせよ、能力要件にせよ、社会コンテクストにせよ、それらを取り巻く既存の物語を読み解く力だと言えるかもしれない。そしてそうした物語を読解する力を超えて、今回のような生存状況が脅かされる現代社会においては、そして今後の社会においては、既存の物語の特性や構造を把握するだけではなく、その物語の根本的な歪みを発見し、それを是正していく力、端的には物語を再構築していくことのできる力が求められていると言えるかもしれない。
個別具体的な形のあるような脳力や知性を求める風潮というは、「能力・知性のフラットランド化」あるいは「人間要件のフラットランド化」とでも呼べるのではないだろうか。こうしたフラットランド化現象に抗う意味でも、そしてそれを改善していく上でも、あえて上述のような形のない能力の涵養に向けた取り組みをしていく必要があるように思える。
繰り返しになるが、このような現代社会において、その能力が求められる前提条件や社会コンテクストに関する議論なしに、具体的にある個別具体的な能力だけを伸ばそうとするのはとても危険である。
一流の研究者が行った発達研究の成果や精密に設計されたアセスメントがある特定の能力の重要性を説いていたとしても、その能力だけを社会全体が躍起に伸ばそうとするのは、知性という生態系の観点からも危険であり、そもそもそうした発達研究やアセスメントがある特定の前提条件に立脚した上で生み出されたものなのだから、そうした研究成果やアセスメントが指示する能力だけを伸ばすことが随分と馬鹿げた試みであることもわかる。
優れたアセスメントや教育手法があったとしても、それを大規模な形で導入していくことは、人間存在を画一化させ、矮小化させる。もう現代人は随分と画一化され、矮小化された存在に成り下がっていることに気づく必要があるのではないだろうか。フローニンゲン:2020/5/25(月)19:42