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【サイケデリック学探究記】11933-11940:2024年1月23日(火)

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タイトル一覧

11933. 立ちながらの学術研究の本格的な開始

11934. 今朝方の夢

11935. マーケティング活動化する科学研究への危惧

11936. 大海としての普遍意識と泡沫としての個人の意識に関する閃き

11937. 金融に関する継続学習/今朝方の夢の続き

11938. 比較宗教学的・比較意識哲学的研究テーマ/足ツボを刺激しながらの自宅での活動

11939. 立つことの効能を実感して

11940. 意識探究手段としてのプレイステーション5とVRゲーム

11933. 立ちながらの学術研究の本格的な開始

時刻は午前4時を迎えた。昨日のジムでのトレーニングを受けて、身体の調子がまた良い形で整い、今日も活動的に過ごせるだろう。今日もまた午前中は学術研究に没頭し、午後からは散髪に出かける。散髪の帰りには街の中心部の古書店に久しぶりに足を運んで、そこにインド哲学の何か良い書籍がないかを探してみたい。以前そこでエディンバラ大学出版から出版されたインド哲学の良書を購入することができたので、今回も期待したい。名のある学術系出版社から出版された書籍に限定してインド哲学関係の書籍を探してみる。今日もまた何か良書との出会いがあることを楽しみにしながら、午後に古書店を覗いてみよう。

昨日の日記で書き留めたように、今日からは極力座る時間を減らしたいと思う。確かにこれまでも椅子には座っておらず、バランスボールに座る形で読書やパソコン作業をしていたが、それもやめて、しばらくは完全に立った状態で過ごしてみようと思う。立った方が背筋が伸び、また足の血流が良くなることを通じて全身の血流が良くなり、脳の血流の促進が促されるように思うので、知的作業においては座るよりも立つ方に軍配が上がりそうな気がする。そうしたことから今もこうして立ってこの日記を執筆しているが、それを徹底させて、今日からは基本的にずっと立って読書や研究ノートの執筆、及び日記の執筆を進めていこうと思う。バランスボールに座ることから立つことに変えてみて、また自分の心身にどのような変化がもたらされるか楽しみである。ちなみにスタンディングデスクのようなものはないので、その代用として、積み重ねられた書籍の上にパソコンを置いてこの日記を書いている。分厚い書籍を大量に購入していることの思わぬ恩恵がもたらされた形である。ひょっとしたら単に立つことでは飽き足りず、武術鍛錬のために購入した一本歯の下駄を履きながら読書をする時間を設けてもいいかもしれない。そうなってくると、それは完全に修行的で仰々しいが、一本歯の下駄を履きながらバランス感覚を養い、さらにはインナーマッスルを鍛えることも検討したいと思う。

今日の学術研究は、昨日届けられた2冊の書籍の初読から開始したい。どちらもルートリッジ出版から出版されたもので、1冊は意識に関するインド哲学の書籍、もう1冊はインド哲学の網羅的な解説書である。本来は網羅的な解説書から読み進めるのが定石かもしれないが、気分的に前者の書籍から読み進めたいと思う。没頭して読書を進めていく際の自分なりのコツとしては、とにかくその瞬間の自分が読みたいと思う書籍を手に取ることである。気乗りのしない書籍をいくら読もうとしても集中力が続かず、またその書籍に没頭することは難しい。とにかく自分の心が欲する書籍を手に取って、そこに書かれていることの中で自分に響く事柄をキャッチしながら読み進めていくと、絶えず没入状態で読書が行える。そのような工夫を知らず知らずのうちに行うようになっていて、今日もまたその工夫に基づいて読書を進めていこう。そこで得られた自分の考えや研究アイデアは、逐一研究ノートの方に記録していく。この記録もまた今後の論文執筆の際に大きな役割を果たしてくれるだろう。フローニンゲン:2024/1/23(火)04:19

11934. 今朝方の夢     

昨日はとても暖かく、今日もまた暖かい1日となる。早朝の今の気温は6度もあり、室内も暖かい。ここから基本的に気温の上昇はさほどなく、今日の日中の最高気温は7度なのだが、夜から深夜にかけて11度まで気温が上がるようである。日中の最高気温が7度あるだけで十分な暖かさである。天気予報を見ると、ここから1週間は少なくとも氷点下や雪とは無縁の日々が続くようであり、暖かさを感じながら過ごすことができるだろう。

ここ最近は夢の世界が質的な変容を迎えたようで、夢の内容も依然とは異なっている印象である。それは自分にしかわからないような主観的な変化だと思うが、確かに夢の内容が変わっていることを実感する。夢の内容を生み出す構造が変化したとしか考えられないような日々が続いている。夢日記の執筆と定期的なシロシビン・セッションが相まって、夢の世界が育まれていき、構造的発達がもたさられたかのようである。

今朝方の夢の中では昨日の夢と同じく、見知らぬ外国人の男性とアカデミックな事柄について楽しく会話をしていた。昨日の夢の中ではアニメの登場人物だったが、今朝方の夢の男性はどこかの国の実在する人間のようだった。「実在」という言葉を用いたが、アニメの世界に登場する人物もまたアニメ空間においては実在する存在なのだから、それを非実在のように扱うのは好ましくない。そのようなことを思いながら、男性との会話のやり取りを思い出すと、そこではサイケデリクスではなく、インド哲学について会話をしていたように思う。その男性がインド哲学に詳しく、外見も気持ちインド系かなと思っていたところ、どうやらインド人の血が入っているとのことだった。通りでインド哲学に詳しいわけだと思ったが、インド人だからインド哲学に詳しいわけでは決してないので、自分の偏見を自ら正した。

それ以外に覚えているのは、元サッカー日本代表の選手たちが続々と引退する中、彼らの引退試合を1つのスタジアムで盛大に行うことになり、自分もそれに招待された場面である。その引退試合を観戦することに招待されたのではなく、実際にピッチの上に立って彼らと一緒に試合をすることに招待されたのである。引退する選手たちは自分よりも幾分年が上だが、自分がこれまで応援して来た選手たちでもあるので、引退試合を通じて一緒にプレーできることは喜び以外の何物でもなかった。サッカー選手の引退の決断は何も身体的な衰えだけではなく、むしろそれ以外の要因にあることの方が大きいように思える。というのも、引退を決断した彼らはまだまだ現役としてトップレベルで活躍できる力を持っていたからである。ゆえに引退試合もレベルが高く、和気藹々としながらも白熱した試合が展開され、プレーしている側としてはとても刺激的て面白かったし、きっと観戦している人たちも楽しんでくれているのではないかと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2024/1/23(火)04:37

11935. マーケティング活動化する科学研究への危惧       

時刻は午前5時半を迎えた。早朝の呼吸法とアニマルフローの実践を終え、カカオヘンプドリンクも飲み終え、創作活動もひと段落ついたので、ここから本格的に朝の読書を進めていきたいと思う。今のところ全て立って活動をしているのだが、やはり立った方がすこぶる生産性が上がるように思う。集中力も高い状態で維持されているように思うし、何より腰が曲がったりせず、背筋を伸ばして活動に取り組めるので気持ちがいい。背筋を伸ばすことによって天とつながっている感覚がする。また、立つことによって座ること以上に地に足が着いている感覚がある。また、立っていると、神道の技法である振魂のような動きも行いやすく、身体を振動させることによって脳にも良い刺激を与えることができる。今のところ、立つことはメリットづくしのように思える。

科学の営みもまたマーケティング的なものに堕してしまっているだろうか。ひょっとしたらそれは科学に限らず、学問全般がマーケティング的な営みに堕してしまっているかもしれない。いずれにせよ、一番マネーが集まりやすい科学はマネーを寄せ集めてくるために、どうもマーケティング活動のような形でなされている様子をちらほら見かける。もちろん良心的な科学者はそうした活動には一切手を出さず、粛々と自らの研究を進めていくのだが、実はそうした真っ当な科学者が評価されにくくなってきており、マネーを集められる派手な研究やすぐさま何かしらの成果を世にもたらすような研究を評価するような風潮が社会の中に見られる。それが科学のコミュニティーにも影響を与え、科学の質の低下が進んでしまうことを危惧している。意識科学においては今のところそのような目立った傾向は見えないが、意識研究とAI研究は非常に相性が良いこともあり、昨今のAIの注目を受けて、意識研究がマーケティング活動の波に飲まれないことを祈る。一番危惧するべきはサイケデリック科学だろうか。こちらの分野に関しては既に企業が続々と進出を始めており、サイケデリック研究に従事する科学者たちが企業からマネーを集める目的で彼らに媚を売るような形での科学研究を進めていく可能性があることは注意が必要である。もちろん研究用の潤沢なマネーを得ることによって研究がさらに進展する可能性があることは確かであり、危惧するのは資金提供者が喜ぶ研究ばかりに従事することや、あってはならないが資金提供者を満足させるためにデータを改竄したり、結果を拡大解釈・縮小解釈したりすることである。世の中では様々な不正が跋扈しており、科学者が不正を行うことは完全には防ぎようのないことかもしれないが、高い倫理観を持って取り組む科学者が増え、彼らの相互牽制によって、不正や歪みのない健全な科学研究が進展していってくれることを望む。

また、不正をしようとする意図なしに科学研究が歪められることがある。それは科学のパラダイムや時代精神の影響による。科学者たちが暗に信奉している科学観や方法論の前提を検証するための科学哲学の重要性を思う。意識科学やサイケデリック科学の研究を見ていると、時折方向性として心配になることがあり、今後の人生のどこかできっと科学哲学を深く探究し、科学研究の方向性を健全なものにしていく試みに従事したいという思いがある。学術研究に関しては本当にやりたいことがたくさんあり、1つや2つの博士号では足りないぐらいであり、可能であれば自分の使命感の赴くままに博士号レベルの研究をずっと継続させていきたいと思う。フローニンゲン:2024/1/23(火)05:47

11936. 大海としての普遍意識と泡沫としての個人の意識に関する閃き 

モーニングコーヒーには不思議な力があるかのようである。朝にコーヒーを淹れている時には、そのアロマに誘われて、何か突然アイデアが閃くことがよくある。先ほども、意識とリアリティに関して思わぬアイデアが降ってきた。それはどのようなものかというと、このリアリティはどうやら本当に意識で構築されているようで、意識が遍満し、全ては意識の中のショーのような形で現象が生起しているというものである。もう少し説明を加えると、それは汎心論的な考えではない。生命体に意識のようなものが宿るだけではなく、非生命体の物質にも意識のようなものが宿るとするのが広い意味での汎心論であるが、先ほど降ってきたのは汎心論的なものではなく、全てに意識が宿るというよりも、全ては意識の中にあるという考えだった。この考えは既に唯識派や分析的観念主義でも提唱されているので目新しくはない。しかし、自分の中で腑に落ちたのは、このリアリティ全体が1つの巨大な意識の流れとして存在しているということである。そのありありとした実感を先ほど得ていた。ウィリアム・ジェイムズが述べた意識の流れ(stream of consciousness)は、個人の意識を取り上げたものである。先ほど降ってきたのは、個人の意識が経験する意識の流れは、実は個人を取り巻くリアリティがまるで大海として存在しており、それそのものが意識の流れとして運動を続けており、個人の意識に到来するのはその大海の流れの1つの波であるという考えである。

それではある個人の意識がその個人に固有のものであるのはなぜかという問いに対してはどのように説明が施せるだろうか。おそらく、大海としての意識の流れの中に現れる泡沫として個人の意識が生じ、それを生じさせるのは大海としての意識の流れの経路依存的なものか、あるいは確率的偶然か、さらにはそれら双方によって個人の意識が生じているのかもしれない。いずれにせよ、大海としてのリアリティは常に意識の流れとして運動を続けており、自分の脳内に何か特定の思考や感覚が芽生えるのは、もちろん物理世界との相互作用によるのだが、そもそもその瞬間の自分の意識は大海の中にふと現れる泡沫のような存在であるかのように思えたのである。大海としての意識が絶えず流れているのだから、泡沫としての個人の意識が流れているのは当たり前のことなのだ。

そこからさらに、夢を見ない深い意識状態における意識がまるでないかのような現象について考えていた。そうした状態においても大海としてのリアリティの意識の流れは絶えず存在しているはずである。ではその時の個人の意識を眺めてみると、そこでもやはり個人には泡沫としての意識は存在しており、ただし覚醒状態と違うのはその流れの速度と流れの速度によってもたらされる意識の内容物の有無なのだと思う。つまり、その状態においては流れが凪の状態で、流れに波が立っていない状態ゆえに何か特定の意識の内容物が立ち現れることなく、極めて静かであるために意識がないかのように錯覚されるのだと思う。大変興味深いのは、既にこの仮説を支持するかのように脳科学の研究において、深い睡眠状態においては脳波が極めて緩やかで、まさに凪の状態なのだ。そもそもこうして「脳波」という言葉が当てられているように、脳内の状態を波に喩えることが既にずっと行われており、それに対応する形で意識も波に喩えて捉えることは決しておかしなことではないだろう。いずれにせよ私たちは、普遍意識という巨大な大海の中に生きていて、そこで立ち現れる泡沫としての意識を持ち、それは普遍意識の流れという波動運動に影響を受ける形で固有の波動運動をしているようなのだ。そんな気づきが先ほどコーヒーを淹れている最中に降ってきたい。フローニンゲン:2024/1/23(火)06:16

11937. 金融に関する継続学習/今朝方の夢の続き

先ほど少しばかり日本のステーブルコインに関する調べ物をしていた。読書に優先してそれを行っていたのには色々と訳があり、こうして日々金融に関する学習を細々と続けている。もともと自分は経済・金融に関して大学時代に勉強していたこともあり、その関心の火種は消えず、今も残っており、それが自分の経済活動を支えてくれている。暗号資産技術を介した金融に関しては今後も引き続き学習を行っていく。それを通じて世の中の動きを知りたいと思う。

今朝方の夢について先ほど少しばかり振り返っていたが、夢にはまだ続きがあるのでそれについても振り返っておきたい。それらはとても断片的なものであったが、断片的な夢も無意識の全体の動く絵の中で重要な役割を持つ。大海としての普遍意識の中に存在している自分に固有の意識も無意識もまた独自の流れを持っていて、夢はその独自の流れの現れであり、流れとして立ち現れたものを映像記録的に書き留めておくことに自分は意味を感じている。

夢の中で私は、日本人のある知人の女性に似た人形を眺めていた。その女性は自分と同世代で、価値観がよく似ている。そんな彼女によく似た人形をぼんやりと眺めていると、その人形に意識と魂が乗り移ったかのように思える瞬間がやって来た。それ以降、もはやその人形を人形とは思えないようになり、その人形を意識と魂が宿った人間のような存在として眺めることになった。心の中でその人形と会話をするかのようなコミュニケーションが実現され、しばらく人形と心の交流を行っていた。不思議な体験をしたものだなと思ったところで夢の場面が変わった。

もう1つ覚えていることとしては、見慣れない街の建物の中にいて、その建物の崩壊を防ごうとする場面である。何の理由かわからないが、その建物は崩壊の危機に瀕していて、それを必死に守ろうとしている自分がいた。外見上は何も問題なく、その建物が崩壊するということを懸念している人は周りに一切いなかった。自分だけがその建物がもう崩壊の歩みを歩み始めていることに気付いており、その気づきを共有しても周りは理解してくれないであろうから、とにかく自分が率先してその建物を崩壊から防ぐことに奔走していた。困ったことに、崩壊の危機に瀕しているのはその建物だけではなく、街の建物全てのようだった。それらを全て自分だけで崩壊から守ることは不可能で、どうやって協力者や仲間を増やすかが本当に急務で重要だと思った。そのような夢を見ていた。

この夢は幾分示唆深い。建物は人か社会か、はたまたその双方を象徴しているのだろうか。人間が崩壊し、社会が崩壊しつつあるように知覚されるこの現代社会の中での自らの日々の在り方を象徴するかのような夢だった。崩壊が加速するこの社会の中で自分にできること、自分がなすべきことは何なのか。それを絶えず問いながら、協力者と仲間を増やして一丸になって人と社会の輝きを取り戻すことに従事したい。そのようなことを改めて思わせてくれる夢だった。フローニンゲン:2024/1/23(火)07:01

11938. 比較宗教学的・比較意識哲学的研究テーマ/
足ツボを刺激しながらの自宅での活動

比較宗教学的かつ比較意識哲学的に非常に興味深い研究テーマとして、インド哲学のヴェーダンタ学派における「意識のみ」の思想と、大乗仏教の唯識派の思想を比較してみたいという思いが日増しに強くなる。そこに分析的観念主義も付け加えることができたら、宗教思想に括られるヴェーダンタ学派と唯識派の思想を西洋哲学の枠組みと照らし合わせて議論することができ、両者の対話と交流を促進することができるのではないかと思う。分析的観念主義について理解を深めるためには、そもそも観念主義の歴史とその変遷について知らなければならない。ヴェーダンタ学派、唯識派、分析的観念主義のそれぞれに対する理解を個別に深めていきながら、頭の中では常にそれらを比較し、横断するような試みを意識し、いつか比較研究として論文の形に残したいと思う。それは博士論文のテーマになりそうである。

立っているだけで何かとても心地良さを感じる。この心地良さを感じられるだけでも立つことのメリットがあるように思える。実は人間は立っている間にも身体がバランスを取るために微妙に運動をしていて、それが心地良い振動をもたらしているのかもしれない。せっかく立っているので立つことに加えて、足ツボマッサージもかねて、マッサージボールをコロコロと転がしながら立って読書や文章の執筆をしてみると、さらに心地良さが増して作業が捗ることに気付いた。今はまだ冬の時期なので靴下を履いておかなければならず、バランスボールを転がすことに留めているが、靴下を履く必要がなくなれば、足ツボマットの上で作業に従事することも検討したい。これによって疲れを溜めず、むしろ健康に向かっていく形で自宅での1日の活動に従事できるのではないかと思う。注意点としては、足ツボのマッサージも過剰に行ってはならず、特に食後はそれを控えることが重要なようだ。その点にだけ注意して、日頃酷使しているであろう脳と目を司るツボを中心にしてマッサージボールをうまく活用してこれからの自宅での探究活動に従事したいと思う。

何やら足裏を60分ぐらいマッサージすると、4~5kmほどウォーキングをしたのと同様の血流循環効果があるらしい。これは今日のようにジムでのトレーニング後のアクティブレストの日に最適な運動効果かと思う。また、足裏には感覚センサーが豊富にあることから、足裏を日頃からマッサージしてほぐしておくことで、種々のセンサーが鋭敏なものになり、知的探究活動にも大きな効果を発揮しそうだと実感している。最後に、足裏のツボの数を見てわかるように、それは身体のありとあらゆる器官や部位と対応しており、地上とつながる足裏に身体のミクロコスモスの全てがあることがわかる。そうしたことからも、足裏を労わり、足裏を刺激しながら鍛えることは非常に重要なのではないかと思う。フローニンゲン:2024/1/23(火)08:14

11939. 立つことの効能を実感して        

どうやら立って学習を行うことや、立ってマッサージボールを使って学習を行うことは、それそのものがある種の運動になっているようで、集中力の向上に加えて、記憶力の向上にも役に立っているようだ。激しい運動をしながらでは学習は難しいが、ウォーキングなどの軽い運動をしながらの学習は学習効率と記憶への定着が高まることは科学的にも明らかになっており、その調査結果を思い出してみると、今自分がやっていることは実に理にかなった学習の仕方なのではないかと思う。立つということを小さな運動と捉え、立って足裏をマッサージすることを小さな運動だと捉えてみると、それを行いながらの学習が実に効率の良いものであることはすぐにわかるような気がする。重要なことはこれを継続させていき、実際に自分の学習が本当に深まるのかをここから観察していきたいと思う。いずれにせよ、立つことと足裏をマッサージしながらの学習によって、非常に気持ち良さを感じられていることそのものに価値があり、きっとそれは学習を心地良くすることにもつながっているはずだ。リラックスしながらの学習が最も効果的であることも明らかになっているので、その点との兼ね合いで非常に優れた学習方法を自分は今行っているのではないかと思う。

気がつけばもう午前11時を迎えていた。今朝は午前4時前に起床し、昨日はジムでトレーニングをしていたこともあり、もうかなりお腹が空いているので、早めの昼食を摂ろうと思う。午前中はずっと立って読書や日記の執筆、さらにはリサーチノートの執筆を行っていたことも良い運動になっており、それがお腹を空かせることにつながっていたのではないかと思う。立つことによって精神も立ち上がり、十分に活性化された形で知的活動に取り組めている実感を早速得ている。今から早めの昼食を取ったら、午後に散髪に出かけるまでの時間をまた読書に充てたいと思う。ここからは仏教と量子力学を絡めた書籍の再読を一気に進めていく。再読が終われば、一旦それらの書籍を机ではなく別の場所に移し、空いた場所にインド哲学関係の書籍を積み重ねていつでも参照できるようにしておきたい。フローニンゲン:2024/1/23(火)11:04

11940. 意識探究手段としてのプレイステーション5とVRゲーム  

つい先ほど散髪から戻ってきた。散髪後に街の中心部にある古書店に足を運び、インド哲学や意識哲学に関する書籍を探したところ、良書をいくつか見つけたが、購入に至ることはなかった。すでに手元にかなり充実した量と質の書籍が揃っていることもあり、それを上回る学術書しか購入しないと事前に決めていたので、その基準を上回るものを見つけることができなかったために何も購入することはなかった。古書店で良い書籍との出会いはなかったが、今日は親友かつかかりつけの美容師のメルヴィンからまた大いなる刺激と啓発を受けた。何に関してかというと、ヴァーチャルリアリティゲームについてである。メルヴィンの話を聞きながら直感的に、意識探究においてVRゲームをプレイすることが有益だと思ったのである。以前より学術研究や創作活動だけではなく、何かゲームで良いものがないかと探していた。すると偶然にも、メルヴィンがちょうど今日の夜にオランダ中部の町のズヴォレに行って、友人とカーゲームを楽しむとのことだった。そこはEスポーツ専用の会場らしく、実際の車さながらの機械が40台ほど置かれているらしい。そこからゲームの話となった。

昨年の12月にメルヴィンは、新たな趣味を始めるためと自分への褒美を兼ねて、プレイステーション5とVRヘッドセットを購入したそうだった。何やらゲームをわざわざハードで購入する必要もダウンロードする必要もなく、ストリーミングができるとのことだった。しかも年間100ユーロぐらいのサブスクリプション費用のことで、それで何本ものゲームをストリーミングできるらしいので非常にお得だと思った。メルヴィン曰くそれは、「ゲームのNetflix」と形容できるとのことで、言い得て妙かと思った。そこからのメルヴィンの話がとても興味深かった。プレイステーション5では2つのモードが選べるらしく、VR対応のゲームとそうではないゲームの双方をVRヘッドセットをつけて楽しむことができるらしく、過去の数多くの作品もストリーミングで遊べるとのことだった。非常に興味深い話としては、VR対応のゲームの中で、例えば太陽の光を腕に浴びたら本当に日光を浴びたかのような感じになるとのことだった。まさに何がリアルでヴァーチャルなのかの境目は実際には意味をなさず、デイヴィッド・チャーマーズが“Reality+: Virtual worlds and the problems of philosophy”の書籍の中で述べている時代はもう到来しているのである。VRゲームの進展は人々の意識の在り方やリアリティの認識方法を大きく変えるだろう。そこに自分は注目し、サイケデリクス以外に意識の性質について探究できる方法を見つけたという大きな喜びがあった。後ほど夕食を食べながら、プレイステーション5に関する各種の説明動画を見て理解を深めたいと思う。また明日は時間を取って、”philosophy of virtual reality”というキーワードなどを用いて、ヴァーチャルリアリティに関する哲学書を探したい。

メルヴィンがプレーしたVRゲームの中で、サイケデリックの世界観、特にDMT体験に類するようなゲームがあるとのことで、それは自分もプレーしてみたいと思った。サイケデリック体験の擬似体験として、そしてサイケデリック実践の準備や咀嚼にもVRゲームを活用することができるのではないかと思う。メルヴィンが親切にも家に来てゲームをする誘いをしてくれたので、スケジュール調整をして久しぶりにメルヴィンの家に遊びに行かせてもらおうと思う。実際に自分でプレーしてみて、プレイステーションのVRゲームが意識探究に活用できると思ったら、メルヴィンが購入した店と同じく、街の中心部の電化製品屋に行き、そこでプレイステーション5とVRヘッドセットを購入したいと思う。サイケデリクスと学術書以外にもこうして意識探究手段の有力なものが見つかったことを非常に嬉しく思う。メルヴィンには大感謝である。フローニンゲン:2024/1/23(火)16:53  

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