親子で紡ぐ服の物語
心の底から「欲しい」と思えるモノに出会ったら、なんとかしてそれを手に入れたいと思う。
値段はどうであれ、買える前提で考える。手に届かない価格だったら、どうやったら工面できるのかで頭がいっぱいになる。
これはどうやら父親譲りの性格だと、昔から母に言われ続けていた。僕がずっともらっていた、父が若いころに着ていた洋服も、もしかしたら当時は頑張って買った愛着のある品なのかもしれない。
あまりに父が簡単にくれるもんだから、昔はそのことに気がつかなかった。
「もう着(き)ーひんから」と言って渡されていたデニムたちは、そういえば捨てられずにタンスにしまわれていたんだなあ。
思えば、適当に買った服なんて、自分の子どもに着させたいとは考えないだろう。思い入れがあったからこそ手放せずに持っていて、でも着られなくて。
子どもの僕が大きくなるのを、服の方がずっと待ってくれていたんだ。
体型の近い親子が服をシェアするのとはまた違うこの感覚。長い年月が必要で、持ち主の愛着が必要で、服の品質と品格がそれを支える。
小さいころは高い買い物なんてできないから、親から譲り受ける服だけが良いモノを知る手がかりになる。
作り手の想いと使い手の想いが一つの物語になって、目の前に現れる。そしてまた自分の想いで、その物語を紡いでいく。
せっかくくれるなら、買った時の話とか、大事に着ていた思い出とか、色々話してくれたらもっと大切に思えるのに。
ぶっきらぼうに「覚えてへん」と言う父のせいで僕は、いつも豊かな想像力を掻き立てられる。
山脇、毎日。