「お金を払う」というお願いについて
ぼくたちが普段、お金を払って受けているサービスも一種のお願いだと言えるのではという話です。
ただ「お金と交換になにかをしてもらう」のは、多くの場合ほとんど無意識のうちに行われていて、そこに「お願い」という意識はあまりない。
当たり前ですが、一般的なお願いは、受けるか断るかは相手に委ねられます。オッケーされて当然ではありません。
でも、お金を介したお願いは、お金に信頼がある分、基本的には受け入れられます。お願いした側はほとんど断られるということを経験しない。
だから、断られた時に、「あっ、これは当たり前じゃなくて、お願いだったんだ」と気づきます。
昔からある「お客様は神様か問題」では、この「当たり前か、お願いか」に対する個人の価値観で意見が分かれているのだと思います。
これは白黒のつけられない本当に難しい問いなので、覚悟の上での意見なのですが、ぼくとしては、たとえお金を通じたやりとりであっても、基本的には「お願い」であると思っています。
お金を払うからにはそれ相応のサービスを受ける資格がある。その代わり、サービスを提供する側にも、お金を受け取るか決める資格がある。この辺が無難な落としどころなのでしょう。
でも、だからこそ、お願いをされる側は、そのお願いに「聞く耳」を持ってほしい。する側の理不尽な要求はもちろんいけないけど、される側の理不尽な拒否も、あまり気持ちよくないと思うのです。
時には、お客さんをシャットアウトした方がいいのかもしれない。でも、その1度してしまったシャットアウトからは、もう2度と気持ちの良いやり取りを取り戻すことはできません。
「理不尽な拒否をされたからには、されるだけの過ちを犯したのだろう」と想像する方もいるでしょう。でも、そんなことはなくて、例えば「ルールだから」とか、「規則だから」という断り方は、たくさんあります。
「ルールは理不尽じゃない」と思われる方もいるかもしれません。でもそのルールの説明自体がなされない場合も、たくさんあります。
(値段もそうなのですが)規則やルールを設けることは、気楽さと表裏一体なので、それを基準に判断すればとても楽です。
でもその楽な判断の力が強すぎると、「それを満たせばなんでもいい」ということになってしまう。だから、「お金を払えば当然」という発想が出てくる。
クッションというか、そういう役割での「聞く耳」は残しておいてほしいと思うのです。
逆に、お金を払う側は、それはあくまでもお願いであって、当然ではないと意識してほしい。もちろん払った後は、しかるべきサービスを受けて当たり前だと思います。
でも払う前からそんな風に当然だと思ってしまった瞬間、もう、気持ちの良いやり取りの芽は潰れてしまいます。
ぼくは「お金を落とす」という言い回しが本当に好きじゃありません。上から下に落とすお金なんてどこにもないと思っています。
出先、旅先での消費について使われるならまだしも、お金を払った相手に言う言葉では絶対にないです。
日常生活では、どちらかといえば、お金をもらう側よりもお金を払う側に回る回数の方が多いでしょう。なので、まずは払う側として、お願いする立場であるという意識を忘れずにいたい。
その結果、温かいお金を払ってもらえる人間になりたいです。
山脇、毎日。