人生は無数の「当たり前」に支配されている
ある晴れた日の朝、身支度を整えて玄関を出る。
鍵をかけながらふと思った。
「来年の誕生日、僕はどこにいるんだろう」
チケットも宿泊先もまだ予約してないけど、
来年1月から海外にいくことは僕の中で確定している。
そして間違いなく来年の誕生日は海外にいるだろう。
今年の誕生日は生まれて初めて海外で迎えた。
インドネシアのバリ島だった。
正直、誕生日に思い入れはそこまでないけど、
「とうとう、俺も誕生日を海外で迎えるようになったか」
なんて思っていた。
そして今、来年の誕生日も海外で迎えることがすでに確定している。
海外で誕生日を迎えるということが「特別なこと」ではなくなりつつあるのを感じた。
先日タキシードを着た。
妻が主催する講座の卒業パーティで、
ロングドレスを着て、自分の美しさの最高値を体験するという試みだ。
毎年、松濤のシェ・松尾さんで行わせていただいている。
クローゼットから引っ張り出してきたタキシードを眺めながら
「なんだかんだ毎年着る機会を作って着ているな」
「初めてタキシードを着てからもう7年経ったな」
もちろん、タキシードに袖を通すと
シャンとするというか、気合が入る
そういう意味では特別な衣装だ。
だけど、僕の人生においてはタキシードを着ることそのものは当たり前になっている。
来年から1年以上海外にいると、
自分にとって世界中を移動して回ることや
知らない言語の国にいくこと
南極や北極に挑戦すること
オンラインで仕事を構築すること
は、きっと「当たり前」になっていると思う。
逆に、
日本にずっといること
オフィスに通勤して働くこと
日本を拠点にした海外旅行
などは、
「当たり前」ではなくなっていると思う。
どちらが良い悪いというのはきっとないんだと思う。
どちらが正しいとか正しくないとかも多分違う。
ただただ、
「お前はどういう「当たり前」を選ぶ人間なのか?」
ということを問われている。
一体誰から?
自分自身かもしれないし、自分の人生かもしれない。
一つはっきりしていることは、
新しい「当たり前」に挑戦するときはワクワクするということ
自分に未知の経験をぶつけたらどんな風に変化するのか
今から楽しみだし、
このnoteでも発信していきたいと思う。