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「クルイサキ」#29

千絵 5

 黒い空が見える。
 
 いつの間にか陽は沈んで、空は暗い。僅かに点滅する星で、まだ目を開けていられることをやっと理解する。
 体に張り巡らされていた糸が切れてしまったかのように、自分の体はいうことを利かなくなってしまった。いま、できそうなことは、目を閉じることだけだ。
 おそらく目を閉じてしまえば、再び開けることはできないだろう。確信に近い予感が、千絵に諦念を抱かせる。
 目の前に闇が迫っているのに恐怖が襲ってこないのは、ついさっきまで自分の体が操られた現実がそれを超えないからだ。理解のしようがない経験が恐怖を超越した。
 
 体が乗っ取られた。意識はあるのだが、自分の意思を無視し、違う生き物が体内に入ってきたかのように、千絵の体を動かした。
 
 猫の死体があった。気味悪く視線を逸らそうとしても、体は動かなかった。しばらくのあいだ、猫の死体を見下ろしていたあと、意に反して足が進んでいった。千絵の意志は無視され、自分の体が何者かに操られ、千絵の体は行動していた。そして歩く先にさくらを視界に捉えると、鞄からナイフを取り出し、彼女を襲った。
 
 さくらを刺してしまうと思ったとき、背中に衝撃を覚えた。自由が利かなくても、感触は感じられた。目の前に亮太の顔があった。だけど仰向けに倒れると、亮太はすぐに視界から消えてしまった。さきほどまで操られていた体は、それ以上動き出す気配はなく、千絵が起き上がろうと体に命じても、なにも反応を示さなかった。もう千絵の体は果ててしまい、意識だけが辛うじて生きている状態なのだろう。あとは死を待つのみか。
 
 まだ亮太は近くにいるのだろうか。命果てるとき、亮太が傍にいてほしい。亮太を裏切ってしまい、その資格はすでに千絵は失っているのかもしれないけれど、亮太は千絵が人生で唯一築き上げた家族なのだから。視界が遮られる前に、この目で亮太の顔を見たい。
 
 だけど体はいうことが利かないでいる。近くにいるだろう亮太に呼び掛けることもできない。首を回して見ることもできない。手を取って亮太を感じることもできない。
 
 千絵の意思はなにも動かせず、ただ暗くなった空を眺め、迫りくる完全なる闇を待つだけだ。意識が逃げていく感覚がし、それを掴もうと記憶を辿る。
 
 あのとき交わした彼との約束をこの10年守ってきた。記憶をめくると意識が白濁していく。現実と過去との境が判別できなくなっていく。

「俺の代わりに亮太を守ってくれ」
  
 愛して信じた人の切実な頼みだった。だから千絵は人生を賭けて、それを守ろうと誓った。それが使命だと思った。
 
 そうして亮太は千絵の子供になった。千絵は母となった。
 
 亮太が初めて千絵のことを「母さん」と呼んだ日の感動はいまも忘れない。
 
 亮太が記憶を失ってから、半年ほど過ぎたころだった。夕飯の支度をしているとき、背中から亮太の声がした。

「今日のご飯なに?母さん」少し亮太の声の調子がぎこちなかった。
 
 千絵はそのときすぐに返事ができなかった。亮太の言葉が頭のなかでリフレインして、しばらくのあいだ言葉が出ず、二人のあいだに妙な時間があった。

「亮太はなにが食べたい?」
 
 すでに夕飯のメニューは決まっていたのに、つい訊いてしまった。そのとき、亮太が「ハンバーグ」と答えるものだから、千絵はそのあと亮太の目を盗んで、その日二度目のスーパーに出掛けた。
 
 記憶を失っても、千絵のことを母親だと認めてくれた。過去を知らなくても、亮太は千絵を母親として接してくれた。
 
 千絵にとってもたった一人の子供で、自分の命を賭けてでも守りたい存在で、本当に愛していた。
 
 視界がぼやけはじめて星がかすんで見える。永遠の闇が訪れようとしている。目を閉じてしまおうと千絵が覚悟を決めたとき、視界に亮太が入ってきた。
 
 うっすらと白みがかかった映像は、幻想のように不確かだ。手を伸ばして存在を確かめたくても、手が動かない。
 
 声も出ず、かすかに瞳が濡れている感覚だけがする。体は動かなくなっても涙は出るのだと思った。
 
 幻覚でもいい。亮太を感じられるだけでいい。亮太が見守ってくれていると信じるだけで、永遠の闇の訪れに不安は感じない。意識が遠のいていく。まぶたが落ちていき、暗闇が訪れた瞬間、手にぬくもりが伝わってきた。 

「母さん」
 
 暗闇で響いた声は、紛れもなく、千絵が愛した亮太の声だった。


三章へつづく

「クルイサキ」#1 序章 花便り

「クルイサキ」#2 一章 花嵐 

「クルイサキ」#16 二章 休眠打破

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