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「クルイサキ」#26

さくら 16

「さくらさんに伝えたいことがあったの」
 千絵の目は怯えたように不安定で、まるで千絵自身が抱えている秘密に脅迫されているかのようだった。
 
 さくらと千絵はそこから近くの児童公園に行き、二人してベンチに座る。夕方になり、子供たちがサッカーポールを蹴り合っていた。公園の長閑な空間で、このベンチだけが、異質で重苦しい。

「亮太を自殺に追い込んだのは私なの」そして千絵は一つ息を吐いたあと「亮太を虐待していた」と言った。 

「十年前、私は亮太に暴行を加えていた。亮太の体にはいつも痣があったわ。亮太はなにも悪いことはしていないのに、私は亮太を蹴り、叩き、自分の鬱憤を亮太に理不尽にぶつけた」
 
 千絵の口調ははっきりとしていた。まるで用意された台詞を話すように、淀みがない。

「小学校六年生のとき、虐待はエスカレートしていき、とうとう、卒業式の日に亮太は自殺を計った」
 
 亮太が千絵から遺書を見せられたことを思い出す。あのときの亮太の表情は驚きと共に意趣も含まれていて、あのときの亮太の表情がさくらの脳裏を巡り、心がざわめく。

「私が仕事を終え、自宅に戻るとテーブルの上に遺書があったわ。その側にあった鞄のなかには卒業証書や卒業アルバム、そしてあなたの小説もあった。卒業アルバムにはもちろん落書きなんてされていなかった。亮太はいじめられてなんかいなかったから」
 
 小説もそのときすでに亮太に渡っていた。それは織田が殺される前だろうか。ただ千絵の告白を邪魔したくなかったので、さくらは口をはさまずにいた。

「亮太は自分の部屋のベッドで気を失っていた。首には紐がくくってあり、その紐で自殺を計ったのだと思う。亮太は息をしていて、すぐに救急車を手配した。私は救急車のなかで、亮太に取り返しのつかないことをしていたのだと猛省した。亮太を自殺に追い込ませるほどに危害を加えていたことに、やっと気づいた」
 
 千絵は小さく頭を振った。「遅すぎたけど」と呟き、自虐気味に薄く笑った。

「幸い、命に危険はないと医者に言われたけれど、亮太はなかなか目を覚まさなかった。そのあいだ、私は亮太にこれまでしてきたことを思い返し悔いた。目の覚まさない亮太の横で、これまでの自分の行いを亮太に謝罪した。亮太が目を覚まさないのは私を許していないからだとも思った」

「目を覚ましたときは亮太は記憶を失っていて、私のことも誰だかわからない様子だった。医者からはそのうち記憶は戻ると言われていたけれど、亮太の記憶はそれ以降も回復する気配はなかった。記憶を失った亮太と接しているうちに、私は過去をなくせないかと考えるようになっていた。私が虐待をしていたことや、亮太がそれを苦に自殺を計ったことを亮太に知られないようにできないか。最初のころはその邪な考えを振り払っていたが、芽生えてしまったその考えはなかなか頭から離れず、私は亮太のためでもあると、その考えを正当化していった。そして退院のタイミングと同時に引っ越し、私たちのことが知れていない土地に移った。私は亮太の過去を隠すことを決意し、私がしてきた過ちをなかったことにしようとした」
 
 過去をなかったことにする。その考えをさくらは否定した。そんなの間違っている。たとえ大きな痛みを伴っていたとしても、過去を排除してはならない。自分の都合にいいように記憶をなくしても、そのとき過ごした時間を、その相手を、その思いをもすべて否定してしまうことになってしまうのだから。

「これは神様がくれたチャンスだと思った。亮太の記憶をなくしてあげるから、もう一度やり直せばいいと、そう言ってくれているように思えた。私はもう虐待はしないと心に決めた。それからはしばらく亮太に手を上げることはなく二人で生活をしていた。最初は記憶を失った亮太は私によそよそしかったが、しばらくするとまた母親のように慕ってくれるようになった。そのうち亮太は私に記憶を失う前のことを聞くようになった。最初は適当にごまかしたのだが、このままごまかしきれることはできないと思った。虐待のことを隠して過去のことを話したら、亮太の記憶を刺激し、記憶がよみがえるかもしれない。それだけはどうしても避けたかった。亮太に私が虐待をしていたことは知られてはいけない。神様がくれたチャンスを手放すわけにはいけないと思った」
 
 さくらは千絵の表情の変化に気づいた。感情を表さず、淡々と話しをつづけていた千絵の表情がわずかに緩んだのだった。さくらはその表情の変化に違和感を抱いた。ただ違和感の実態がわからない。さくらはなにか煮えきれない気持ちで胸がもやもやする。

「私は亮太を過去から遠ざけるために、卒業アルバムに細工をした。亮太はいじめられていたということにし、亮太に過去と向き合わすことを躊躇させた。いま思えば亮太は過去を失ったばかりか、私が用意した偽りの過去で、亮太には二重に痛みを背負わせてしまっていた」
 
 さくらは亮太から見せられた卒業アルバムを思い出した。あれほどの嫌悪感は千絵がもたらしたものだった。ただ千絵と接していたこれまでの時間で、彼女からあれほどの悪意は感じ取れなかった。十年という月日はこんなに人を変えさせられるのか。さくらは千絵から滲み出る雰囲気が嫌いではなかった。

「だから初めてあなたに会ったときに話したことは、嘘よ。自分の保身のために、亮太が記憶を失ったことをいいことに、私が考えた作り話」
 
 千絵は軽い口調で言った。無理をしていることは千絵の表情を見ればわかる。彼女は嘘をついていたことに、これまでのあいだ、自分を痛めつけていたかのように、苦痛な表情を浮かべている。

「亮太は私が思う以上に強かった。過去にこだわった。自分を取り戻すために、行動を起こした。私は十年前に亮太自身が書いた遺書をいまの亮太に見せて、なんとか思い留まらせようとした。私はそれほどまでに亮太に自分が虐待をしていた事実を隠したかった」
 
 千絵は呪縛から逃れようとするように頭を振った。

「私は亮太のために過去を隠そうとした。だけどそれは亮太を苦しめていただけだった。結局、私は亮太の時間に介入し過去を偽り、自分が犯してしまった過ちをも偽りにしたかっただけだった」
 
 千絵はようやく視線をさくらに向けた。彼女はなにかやりきったかのような充足感に溢れていた。そして少し微笑み、さくらに言う。

「だけど、もう限界だね。私はもう母親失格で亮太と会う資格はない。さくらさん、これからも亮太のことを気にしてあげて」
 
 その笑顔と言葉があまりにも相反していたものだから、さくらは戸惑うしかなかった。


#27へつづく

「クルイサキ」#1 序章 花便り
「クルイサキ」#2 一章 花嵐
「クルイサキ」#16 二章 休眠打破


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