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【長編小説】クルイサキ 三章 淀桜

一章 花嵐 
二章 休眠打破

10年前にそれまでの記憶を失った亮太の過去を調査することになったさくら。その途中で亮太の母である千絵に襲われる。さくらは亮太に救われて難を逃れたが、亮太の過去を知る千絵はそのときに意識をなくしてしまう。10年後の再会の場所で出会ったさくらと亮太のつながりが明らかになる。

三章あらすじ

亮太1 

 運ばれてきたアイスティーにミルクを注ぐと、グラスのなかの氷がバランスを崩して音を立てた。ストローで混ぜると氷がぶつかってさらに音が増す。本多亮太はその音が耳に心地よく、必要以上にグラスのなかを混ぜた。
さくらと待ち合わせた時間より二十分が過ぎていた。前にさくらと千絵と三人で話をしたファミリーレストランだ。夕暮れの時間、店内はオレンジの光が射し込んでいる。外を見ると夕日に染まった街並みが美しくて少し優しい気持ちになる。亮太が入店したときから騒いでいた学生たちにも、すっかり気を許して、なにかご馳走でもしてあげようかと、お金がたくさんあったらしてあげてもいいのにと思う。
 このファミリーレストランを約束の場所にしたのはさくらの提案だった。この土地を覚えていない亮太が知っている場所で気を回してくれたのだろう。ただ亮太の本音を言えば、もっと雰囲気のあるレストランでさくらと待ち合わせをして、食事を楽しみたかった。
 さくらはどのような報告を亮太にしてくれるのだろうか。さくらから当時のクラスメイトと会えることになったと連絡があった。今日、そのクラスメイトの話を聞いたあとに亮太にこれまでの経過を報告しにくる手筈となっている。
 この十年間、亮太は記憶を失ったという過去に何度も苦しめられてきた。過去を知らないという事実は人生を途中参加させられたかのような気分がする。自分の人生に遅刻し、その罪悪感がずっと心に残っている感覚だ。それを払拭するには記憶を戻さなくてはならない。もしそれができなくても最低限は自分の過去は知っておきたい。このまま過去が損なわれたままでは、成長という感覚が乏しく、いま生きている時間さえも怪しく思えてくる。
 それなのに亮太がこれまで積極的に過去に向き合ってこなかったのは、身近な人間で唯一亮太のことを知っていると思われる千絵が、亮太の過去を話したがらなかったからだ。それは暗に亮太の過去が悪いことを示唆していた。そう思うと過去を知るのが怖かった。記憶を戻したいのに、過去を知るのが怖いというジレンマを抱えたまま、十年の月日が経過していた。
ただ過去を完全に忘れる決心をしたわけではなかった。
 十年前にさくらの小説を読んだとき、ある約束が記されていた。亮太はその約束に勇気づけられ、約束のときを待っていた。十年後の再会が約束されていたからこそ、亮太は過去を放棄することはなかった。
田畑さくらという人物を想像して、何度も約束の瞬間を夢想した。はたして亮太の過去にどんな繋がりがある人物なのだろう。その人物が亮太の記憶をよみがえらせるきっかけになるのかもしれない。亮太はこの約束があったからこそ、その日まで記憶を取り戻したい欲求を抑えてこられたのだ。

 退院してから、亮太は千絵と二人で暮らしはじめた。新しい生活はそれまでの記憶がまったくなかったから、逆に新鮮味がなかった。まるで途中から見はじめた映画をずっと眺めているかのように、淡々と日々は過ぎていった。
 与えられた自分の部屋は、学習机と本棚が寄り添うように隅に置かれ、パイプベッドが中央にあるだけだった。本棚には使われた形跡のない中学校の教科書と数冊の辞書が並べられているだけで、まるで自分の頭のなかを映し出しているかのような軽微な部屋だった。
 学習机の引き出しには筆記用具やノートが入っていた。どれも新品で千絵が用意したのだと察せられた。クローゼットには何枚か着た形跡のある服は掛けられていたのだが、それ以外に記憶がなくなる前の写真や、小学校時代のテストやノート類もなく、亮太の過去に関するものは見当たらなかった。
何度か千絵に自分の過去について尋ねたことがある。
 そのたびに千絵は一瞬ぎくりと見せたあと「べつにいいじゃない」と亮太をいなし、忙しいと言って逃げるようにどこかへ行ってしまうのだった。もちろん納得できるわけがない。亮太は覚悟を決めて一度千絵に激しい口調で問い詰めたことがある。
 千絵が洗いものが終わって一息ついたときに亮太は切り出した。
「話があるんだ」亮太は畳にあぐらをかきながら千絵に言った。すぐに話の内容を察したのだろう、いつものように千絵は立ち上がり部屋を出ていこうとする。
「ちょっと待ってよ。ここに座って」怒気を含ませ、亮太も立ち上がった。千絵の肩を掴み無理やりに座らせた。
亮太の迫力に千絵は目を見張らせた。それから悲しい表情をした。その表情はいまでも亮太の記憶に刻まれていて、いまでも亮太は思い出すといたまれない気分にさせる。
 亮太はさらに強い口調で千絵に詰め寄った。「十年前になにかあったの。なんでなにも教えてくれないの」
「亮太を傷つけたくないの」
「僕の過去に自分が傷つくようなことがあったってこと」
 千絵は逡巡するように目を瞬かせた。それから「わかった。ちょっと待っていて」と言って、部屋から出ていった。
 しばらくして千絵はダンボールを持って戻ってきた「あなたの小学校時代のものよ」と、言ったあと千絵は部屋を出ていった。いま思えばこれから過去を知ろうとする亮太を慮ったのだろう。
 ダンボールのなかには小学校時代に使ったと思われるノートやプリント類、工作物があった。それらを手当たり次第に確認していくと、卒業アルバムが入っていた。ようやく自分の幼きころの顔が見られると思い、心が疼きだした。
 ページを開いた瞬間、息が詰まる感覚がした。罵詈雑言で落書きされている写真を見て、それらを消し去ろうとでもするかのように、頭はまっしろになり、自分の過去を受け入れられたくない拒否反応からか、これらの意味することがすぐには理解できなかった。唐突に突きつけられた悪意に亮太はただ愕然とするばかりだった。
 自分の顔写真と思われるところは目線が週刊誌の少年Aのように黒く線が引かれていて、名前も線が引かれている。耐え切れず、亮太は必要以上に強くページを閉じた。
 背後にはいつの間にか千絵がいた。後ろから抱き締められ「なにも過去にこだわることなんてない。これからを大事にしていけばいいの」と耳元で亮太に呟いた。
 母は出しっぱなしだった物をダンボールに片づけていた。その途中で亮太はまだすべて確認していないことを思い出し、千絵を呼び止め、もう一度ダンボールの中身を探った。
 先ほど確認したものを脇にどけながら、ダンボールの奥を探った。A3サイズの茶封筒があった。持つと相当な厚みが感じられた。
茶封筒を覗くと百枚ほどの紙束があった。一番上の紙にはその紙束のタイトルと思わせる言葉が記されており、その下に田畑さくらと表記されていた。おそらく小説だと亮太は理解した。隣で片付けが終わった千絵は亮太に手を出し、その小説を受け取ろうとしていたが、亮太はそれを無視して自分の部屋へその小説を持っていった。千絵はなにも言わなかった。
 一体これはだれが書いたのだろうか。そしてなぜ自分の荷物のなかに入っていたのか。自分の記憶に聞いてももちろん反応はなく、とりあえず読んでみることにした。
 読み進めていくうちに、いつの間にかこの小説の世界に引き込まれていた。ただ純粋に生きていくこの主人公に好感を抱き、亮太はこの小説の世界にいるかのように錯覚した。一気にこの小説を読み上げ、その時間さっきまで抱えていた悩みを忘れていた。
 そして最後のページに約束はあった。
『20××年三月十日。戸板橋から七本目の桜の木の前。田畑さくらと待ち合わせ』と、記されてあった。
 この作者に会えるかもしれない。亮太は興奮した。きっとこの作者は亮太の過去に関係しているかもしれない。亮太がこの小説を持っているのが、その証拠だ。
 十年は長いかもしれない。だけどこの約束があれば生きていける。亮太は過去を詮索することを止め、その日まで過去にこだわらずに生きていこうと誓った。
 亮太はその日がくるまで何度も妄想を抱いた。
きっとこの作者は自分のことを知っている。なにしろ小説を亮太が持っている。その人物と深い関係だった可能性は高い。感動的な再会を頭のなかでイメージしていた。
 顔は思い出せないが、再会のイメージはなぜか良い方向に向かう。運命めいた予感が亮太に十年後の約束の日の期待を大きく膨らませていた。
 そして日々が過ぎていき、いつの間にか亮太は自分の過去を知るよりも、ただ単純にこの作者に会いたい期待の方が上回るようになっていた。
 そうして亮太の『約束の日』を迎えた。

亮太2

 店内は食事に来た人たちで賑わいを見せはじめている。先ほどまでいた学生たちはいなくなり、外の景色はすっかり陽が落ちて空は暗い。その空に抵抗するかのように人工的に作り出された白色の光がいたるところの建物から点在していて、人が住むところと区別をしている。その光景が亮太を人恋しくさせ、さくらに会いたいと思った。その感情はどうやっても抗えることはできず、胸に動悸を覚えるほどだった。
 約束の時間から二時間が経過している。
 湧き上がってくる感情は徐々に焦りを伴い、落ち着かなくなる。込み上げてくる思いは、もはやさくらに会うことでしか解消できそうもなかった。亮太は襲ってくる動悸から逃れるようにして店を出た。
 十年後の約束の日、彼女を遠くから見た。亮太は約束の木のある遊歩道の川を挟んだ反対側でさくらが来るのを待っていた。戸板橋から数えて七本目の桜の木の前に女性が来たことを認めると亮太は彼女の元へ向かった。
待ちわびていた瞬間が直前まで迫り、亮太は身震いを感じていた。橋を渡りきり、女性がいる遊歩道に足を踏み入れる。まだ彼女の姿は遠いが、同じ道の先にさくらがいる。十年近く待っていたけれど、いま彼女の姿がまっすぐな道に存在している。これまで過ごした時間はこの場面に繋がっていた。
 一本目の桜の木の前を通り過ぎる。鼓動はさらに不規則になり、手足の感覚が麻痺していると疑うくらいに鈍くなっている。二本目の桜の木の前を過ぎる。彼女はなにやら筒から賞状らしきものを取り出す。三本目の桜の木を過ぎる。彼女がその賞状らしきものをずっと見ている。四本目の桜の木の前を過ぎる。乱れる呼吸が聞こえる。亮太は歩く速度を落とし、平静を保とうとする。五本目の桜の木の前で亮太は立ち止まった。彼女の顔がはっきりと見えた。賞状らしきものを手にしたまま、空を見上げていた。彼女を知っている。その彼女との記憶は思い出せなかったけれど、充実した既視感が込み上げてきた。それが再会というべき出会いであるかは、亮太にはまだはっきりとわからなかった。ただ、彼女に運命めいたものを感じ、二人はこれから出会うべきして出会うのだと亮太は信じた。そして記憶がなくなる以前にすでに愛していたのだろうとしか思えないくらいに一目で彼女を愛した。心臓の高鳴りはすぐに沸点を越え、急激に押し寄せてきた感情は自分の体の容量では抑えきれないほどで、体内を巡る血液の躍動さえも体を破れんばかりに感じられた。
 それまでの時間はこの瞬間のためだったのか。彼女を見つけた亮太は十年間の重みが一瞬にして吹き飛び、彼女の元に駆け出した。六本目の桜の木の前で彼女が空に向かって声をあげた。反射的に亮太は立ち止まり返事をした。
 そして、彼女に近づき七本目の桜の木の前で再会した。彼女は必ず自分を覚えてくれているはずだと確信があった。
 しかし、彼女は自分のことを覚えていなかった。亮太は混乱する。もしかして彼女も記憶をなくしてしまったのではないかと疑った。
なんで彼女の小説を持っていたのか?そしてなぜ彼女に運命を感じたのだろうか。亮太は逡巡した。
 彼女との会話のなかでも、自分と彼女の繋がりは小説しか見い出せなかった。だけどその小説もなぜ亮太が持っているか彼女もわからないと言った。   彼女は自分ではなく違う人に渡したのだと言った。
 あの小説は自分のために書かれた小説ではなかったのか。ましてや、他の誰かのために書かれたものだった。
 そのとき、亮太の心のなかで急激に湧きあがってくる感情があった。それは嫌悪感に満ちていた。吐き気がするほど醜い感情で自己嫌悪を覚えた。
 十年間眠っていた感情が彼女と出会ったことで、次々と起き出した。もう大人になったと思っていたが、まだいろんな感情が眠っていた。彼女への気持ち、そして彼女を独占できていない現状に対する苛立ちが複雑にこんがらがって心を乱した。
 まだ眠っている記憶と共に、もしかしたら自分にはもっと危険な感情が眠っているのかもしれないと亮太は思った。

 外の空気は自分の体が火照っていたことを知らせるには充分過ぎるほど冷たく、まるではやる気持ちの亮太を諭すかのように冷静な態度で亮太を迎えた。
 さくらはいま何処にいるのだろうか。何の手がかりもなく、亮太は周囲を見渡す。当てなどなかったが、足を踏み出した。
 街灯の光が乏しい通りを亮太は周囲を窺いながら小走りしていると、歩道に設えてある植え込みに眠ったように横たわっている猫がいた。興味本位で近づき、注意して見てみるとその猫は死んでいた。まったく外傷はなく、少しくすみかかった白色の毛並みをしたその猫は、わずかな光に照らされ、まるで魂だけを奪い取られたかのように、神々しい。
 そのとき激しい頭痛が亮太を襲った。
 頭が割れんばかりに響いている。強い握力で頭を握り締められているかのようだ。たまらず亮太はその場でうずくまった。
 痛みのある部分はもはや自分の体の一部ではなく、新たに生み出された意思のある生物のようだ。その生物の鼓動が亮太の頭のなかで反響している。決して共存してはいけないという本能が働いて、なんとか自分にしがみついている。気を許すとすぐにでも意識を奪われそうになり、亮太は頭を強く何度も叩いて、抵抗する。
 そのあいだに映像が見えた。途切れ途切れで正体がつかない映像が三段跳びをするかのように、距離を急激に縮めながら脳裏に迫ってくる。
猫の死体だ。先ほど見た猫ではなく、記憶に映し出されたその猫は黒色の毛をしている。
 その猫の顔がこちらを向いている。絶命の瞬間に目を疑うようなことがあったのか、猫は目を大きく開き、彼を見ていた。
 彼は赤い首輪を持っていた。引きちぎられすでに輪の形状は成していないが、それは横たわる猫から引きちぎられた首輪だと彼は知っていた。
猫の死体を見つけ、亮太の過去の記憶がよみがえってきたのだろうか。亮太は頭に手を当てながら痛みが引くのを待っていると、女性の声が聞こえた。亮太は直感的にさくらが呼んでいると思った。亮太は立ち上がり声のする方向へ駆け出した。
 街灯の真下、白色の空間に探していた人はいた。さくらは座り込んでしまっていて、腰が抜けているかのようだった。さくらの向かいには亮太に背を向けた女性が立っていた。スポットが当たっているかのように、二人の空間は別次元にあった。異変を感じた亮太は走る力を強めた。
 二人まで5メートルほどに近寄ったとき、さくらと対峙していた女性の顔が見えた。目は焦点が定まっておらず、顔が青白かったが、その女性は千絵だった。街灯の明かりのなかで彼女は魂を奪われたかのように、とても生きている人間に見えなかった。
 千絵にはナイフが握り締められていた。それを確認したとき、再び頭が割れるほど響きはじめた。フラッシュバックが襲ってくる。頭のなかに映像がよぎった。亮太は反射的にその映像は恐怖が宿っていると感じた。だから亮太はその映像から逃れるかのように千絵の体に体当たりした。千絵がさくらから遠ざかり、もつれるようにして亮太と千絵は倒れた。千絵の手からナイフが離れた。ナイフの先の光がひどく禍々しく感じられた。亮太はそれを見ていることができず、立ち上がると反射的にナイフを蹴って遠ざけた。
 千絵は糸が切れた操り人形のように、その場で仰向けに倒れ、動かなかった。
 亮太はさくらの様子を窺った。さくらはナイフを手にしていた。体を震わせその場に座り込んでいた。亮太が近づきさくらの手からナイフを慎重に奪い、彼女の震えた手を握り締めた。視線が合うと、彼女は身をこちらへ寄せてきた。
 目の前にさくらがいた。亮太はナイフを地面に置き、彼女を抱き締めた。

さくら18

 さくらが病室に入ると千絵はただ眠っているように見えた。呼吸器はつけておらず自発呼吸はしているようだ。ベッドの横に置かれてある心電図のモニターのグラフが規則正しく波打っていて、一見したところ命に危険はなさそうだ。
「意識がまだ戻らないんだ」
 千絵の傍に座っていた亮太が振り向いてさくらを迎えた。その顔は寝ていないのだろう、ひどく疲れている様子だった。
亮太は立ち上がり、さくらに千絵の横に座らせるように促した。
「自分で呼吸もしているし、脳にも特に異常はないらしい。ただ目を覚まさない」
 亮太はさくらの背後に位置を変え「十年前の僕もこんな感じだったのかな」と、小さな声で言った。
 千絵の呼吸が聞こえてくる。顔色は少し蒼白に見えるくらいだ。静かに目を閉じて眠る千絵を目の前にしたさくらは、昨夜の彼女との著しい差に戸惑いを感じずにはいられない。
 昨夜、千絵はさくらを襲い亮太に止められたあと、彼女は突然に意識を失った。亮太が呼び掛けても反応がなく、さくらは救急車を呼び、この病院に向かった。
 さくらは亮太と共に救急車に乗って病院まで行ったが、慌しく手術室に運ばれた千絵を見送ったあと、特になにもできず、亮太に促されて帰宅した。亮太はそのまま千絵に付き添い、彼女の無事を祈っていたはずだ。
 家に帰ってもさくらは眠ることができなかった。千絵に突きつけられたナイフの本気さ、そのときの彼女の異常な眼光を何度も思い出し、昂ぶる感情はどうしても抑えることができなかった。ただ目を閉じて、つい先ほどまでの出来事をベッドの上で何度も思い返した。
 やはり自分が襲われたのは千絵の過去の過ちを知ってしまったからなのだろうか。だけど千絵は自らさくらに告白してきたのだ。十年前、亮太を虐待し自殺に追い込んだこと、そして記憶を失ったことで亮太の過去を隠蔽したことを。それがあとになって千絵はさくらに告白したことが亮太に知られることを恐れたのだろうか。思い直した千絵はそれを知ってしまったさくらの口を力ずくで封じようとした。
 いま目の前にいる千絵は目を閉じ、なにも語ろうとはしない。しばらく無音の時間がつづく。振り向くと亮太と視線が合った。悲しそうな顔をしていた。彼はまだ知らない。千絵が彼を虐待していたことを。十年前、目の前にいる彼女に理不尽な暴行を受け、命を絶とうとまでしたことを。さくらは亮太の不遇に心を痛めた。千絵の行いは決して正しくはなかったが、虐待の過去を亮太に知らさなかったことだけは、もしかしたら正しかったのかもしれないとも思った。
 しばらくのあいだそのまま亮太の瞳を見つめていた。昨夜、彼と同じように視線を合わせたときに抱いた既視感がよみがえってくる。やっぱりこの目の感じ、どこかで見たことがある。
無言のまま亮太の目をずっと見ているさくらに、亮太は千絵の前ではできない話があると思ったのか「外で話そう」とさくらを誘った。
 二人で病院の中庭に入っていくと、芝生の生きた匂いがした。昨夜、眠れず倦怠感を覚えていた体が回復していく気がした。ベンチに腰を掛け、上半身を伸ばした。亮太はそれを見守りさくらのストレッチが終わると、隣に座った。
 亮太の横顔を覗くと彼に抱き締められたことを思い出す。あのとき、亮太と間近で視線が合い、おもわず亮太の胸のなかに身を埋めると、震えが止まり、支配していた恐怖が一気に消え失せた。代わって自分を見失いそうになるほどの、高揚感が体全身を駆け抜けていった。
 そのときの感情がいまになって急に恥ずかしくなってきて、亮太の横顔から視線を逸らし、前方に視線を向ける。車椅子に乗った三十代半ばほどに見える男性が、その奥さんなのだろうか、男性と同じくらいの年をした女性と会話をしていた。男性の片足がギブスで固定されているが、二人は幸せそうな笑顔をしていた。さくらはいつの日か亮太とあんな風に笑い合えるときがくるのだろうかと思った。いまの亮太は憔悴している様子だ「昨日、当時のクラスメイトに会うって言っていたよね。なにかわかったの」と、さくらに尋ねる亮太の声はかすれていて、覇気もない。
「そんな大した収穫はなかった。だけど、井口先生やクラスメイトから当時の学校での様子を聞いてきたから、千絵さんが回復したらまた伝えるわ。いまは千絵さんが良くなることだけを考えましょう」
 さくらは千絵からの話をまだ亮太に伝えていいのか決めかねていた。千絵はいまだに意識不明の状態であるし、亮太に千絵からの告白のことをそのまま彼に伝えたとこで亮太が救われるとは思えない。いまはまだ亮太に伝えられることは、クラスメイトから聞いた当時の亮太の様子くらいだろう。亮太が自殺をしようとした動機まで彼に伝えることはまだできない。
 答えを出すことは正解であろうと不正解であろうと、責任を伴うことをさくらは過去に身を持って経験していた。まだ自分にはその責任を果たせるだけの確固なる正義を持ち合わせてはいない。臆病だけど正直に言えば、千絵から伝えられた亮太の過去を、彼に伝えることが怖い。さくらの心にはまだ癒えない傷が残っていて、その傷が亮太に伝えることを嫌がっている。
 大学を卒業し、さくらは新聞社に就職した。この地方ではそれなりに名の通った新聞社だ。高校時代に夢見ていた小説は織田の事件があってからは書いていない。何度か書こうと試みたが、どうしても織田を思い出し、思考が織田に支配されてしまう。だから、事実を調べなんの想像も含まず、ただただ記事にする新聞記者になろうと思った。
 入社して三年目に市内で殺人事件が起き、さくらはその事件を担当することになった。
 被害者は三十歳の女性で、すでに犯人は自首をしていた。事件はその犯人が自白をし、不自然な事柄もなく収束に向かっていた。
被害者の女性には小学二年生になる女の子がいることを知り、さくらはその女の子と接触した。女の子には父親がいなくて、家族は被害者の母親だけだった。
 初めて担当する殺人事件だった。地方の新聞社ではなかなかこんな機会は訪れない。さくらは残された女の子の話を記事にすることで、他社よりも優越した記事にしようと意気込んでいた。
 さくらはその女の子に話を聞くことができた。一度ではなく何度か話を聞くことができ、女の子との関係も良好だと思っていた。なんなら母親を失ったショックを自分が慰めてあげているとまで感じていた。良い記事が書ける。さくらは手ごたえを感じていた。
 さくらの記事が掲載されたあと、女の子に会いに行った。感謝を伝えるためだった。
 女の子はさくらを見つけると足早に駆け寄って来た。さくらは女の子の視線の高さになるよう腰を屈めて彼女を迎えた。
「お母さんは殺されるほど悪い人だったの」純朴な声で女の子は言った。
 突然の女の子の問い掛けにさくらは言葉をすぐに返すことができなかった。女の子はさくらにはかまわず独り言を呟くように、言葉をさらに並べていった。
「なんで死んじゃったの」「私の代わりに死んじゃったの」「もう会えないの」「死んだらどうなるの?」
 さくらは女の子の言っている意味がすぐには理解できなかった。女の子の声がまるで楽器のように胸に鳴っただけ。その振動が全身に響いて、現実の世界から遠ざかっていくような感覚を抱いていた。
いつの間にかさくらは自分の両親の死を思い出していた。それから彼女が言っていることが徐々に理解できてきた。女の子はまだ母親の死を受け止められていないのだ。
 少し考えれば当たり前のことだ。こんな小さな女の子に死を理解できるわけがない。自分もそうだったではないか。それなのにさくらは自分のことを優先し、女の子の心情など深くも考えないで、事件のことを女の子に無神経に伝えていた。そして女の子のことを記事にした。
 なんて愚かなことをしていたのだろう。さくらは自責の念に駆られた。さくらは女の子に対してなにも答えることができず、立ち尽くすことしかできなかった。女の子はもう一度同じ質問をした。
「お母さんはなんで死んじゃったの」
 さくらは女の子と対峙したまま、質問の答えを模索した。両親を亡くした経験がさくらにもある。
 母はさくらを出産するときに命を落とした。母は自分の命が危険だと知りながら、さくらに生を与えるために、出産を決意した。
 父はさくらが交通事故に遭った際に、病院に向かう途中に命を落とした。
 女の子が呟いた問いは、そのままさくらの疑問になり、女の子の声から幼きさくらの声と変わり体内で反響する。
「なんで死んじゃった?」「さくらの代わりだったの?」「なんで自分じゃなかったの?」
 さくらは目の前の女の子が幼き自分の姿と重なった。
 まだ死をよく理解できていなかったころ、身近の人の死がこれからの人生においても、ずっと重みを与えてくることをまだ知らなかった。
 そのときの自分に対しても、いまのさくらはなにも言葉が見つからず、幼きさくらとの間に答えがない問題を前にして、二人して絶望に暮れている。
 気がつくと女の子はすでにさくらの前から姿を消していた。さくらは女の子に、そして過去の自分に答えを導くことはできなかった。
 たださくらの都合だけのために、女の子に母親の死とその犯人の背景をも知らせ、深い心の傷を負わせたのは確かで、その行いは間違っていることだけはわかった。
 さくらは新聞社を辞め、いまは小さな会社の編集ライターとしてなんの責任のない記事を書いている。
 きっと誰もさくらの記事に感動もせず、暇つぶしに眺めているだけなのだろう。十年前に織田に言った夢は、一体どこへ消えてしまったのだろう。
「作家になる」
 強がりに口にした言葉だったけれど、あのときは織田に肩を並べたくて、さくらの心のなかで芽生えた願いだった。いまは水を遣るのをせず、すっかり枯れてしまった。織田が死んでしまって、どこを探しても織田の存在が不確かで、夢見ていたことは空に隠されたかのように、空白だ。
 この十年間、自分は何をしてきたのだろう。
 思えば亮太の過去を手伝ったのも、もしかしたら過去の自分を正当化したかっただけなのかもしれない。織田が死んでからなにも成し遂げなかった自分に、免罪符を得るための行動だったのだろうか。
 あの約束の日に亮太と出会ったことが偶然ではなく、亮太がさくらの小説を持っていたから、亮太と出会った。約束の人に会えなくなってしまったとしても、十年前に交わした約束は破られてはいなかった。
 約束を破ったりしない。織田は十年前に誓ったではないか。
 さくらは空を眺めた。今日の空はあの日よりも、白みを帯び、陽光を蓄え、空全体が活気づいている。所々に散在する綿雲がプカプカと浮かび、春の陽気を際立たせている。そう同じ空はひとつとしてない。
 さくらは横を向き、亮太と顔を見合った。
 何度も見た亮太の目はなぜか心が安らぐ。さくらのことを理解していると勝手に思っているからだろうかと考えていると、亮太は視線を逸らし、さくらの目の前に紙束を出してきた。それは過去にさくらが織田に渡した自作の小説だった。
「もう小説は書かないの」と、亮太は言った。

さくら19

 きっと心のどこかでいつも思っていた。こうして言葉として聞くと、これまで小説を書くという行為に近づかないようにしていたことに気づいた。その行為は織田も近くにいて、どうしても織田も共に想起し、さくらの心をかき乱せると知っていたから。
 織田が死んでから『約束の日』までの十年間、心のなかに存在する織田は十年前の姿のまま、さくらの記憶に居つづけ、しかもその記憶の織田はさくらの下らない冗談に付き合って笑ったり、絵を描く真剣な横顔だったり、さくらを抱き締めたときの恥ずかしそうな表情だったり、いろんな姿を見せるものだから、織田を思い出すと、まだ生きているような錯覚を感じていた。
もう会えなくしまったとわかっているのに、あの日交わした約束で彼と再会し、その後を共に歩んでいく夢想を描いてしまう。そんなこともう叶わないことはとっくに知っているはずなのに。
 だから織田の記憶を呼び起こすような行為は極力避けてきた。作家になると織田に宣言した手前、小説イコール織田に結びつき、小説のことを考えると織田が脳裏を駆け回る。そしてさくらの思考を麻痺させるのだった。
 ただ亮太にこうして声にして言われると、自分がいかに脆弱な心だったことを知らされる。織田の死を受け入れられないために、小説を書こうとはしなかった。織田を言い訳にして、これまで逃げてきたのだ。彼に話した作家になるという願望は、織田がいなくても目指すことはできたはずだった。もう会うことができなくなった織田に伝えた夢を、本人がいなくなったといって放置していた。
 目の前にいる亮太は織田ではない。亮太は生きているし、織田は死んでしまってもう会えない。亮太に顔を向ける。こうして向かい合うことができるのはお互いに命を燃やしているからで、それは決して当たり前のことではない。どちらかの命が尽きればそれはもう永遠に来ない。いま目の前にいる亮太の言葉は貴重で、小さな声でもさくらにしっかりと届く魂の込められた言葉を亮太は紡ぐ。
「僕はこの十年間、その小説に励まされてきた。過去の記憶を失ったことに絶望したときにその小説を読み、そして十年後にその作者に会えるかもとずっと期待をしていた。さくらさんが書いてくれた小説があったから、そんなに苦しい十年間でもなかった」
 なんで自分が勇気づけられているのだろう。いま千絵が意識不明だというのに。本当はさくらが彼を励まさなくてはいけないのにと思いながらも、亮太の言葉が心に染みてくる。放置していた夢がかまってもらえることで、喜びを感じているかのようだ。
「さくらさんの小説をまた読んでみたい」
 亮太の表情が真剣で、心から言ってくれているように思った。
「こんな下手くそな小説なのに。また読んでみたいの」
自分が十年前夢見たことの始まりは織田に感化されてのことだった。彼の描いた空の絵に感動し、自分も自らの手でなにか作り上げたいと思った。そして彼と夢を共有したかった。織田と共に夢を追い掛けることで、彼と同じ空にいたかったのだ。
 織田がいなくなって、織田の理想としていた空はなくなってしまった。見上げてもさくらが追い求めていた空はなくなってしまい、そこに夢は置き忘れてしまったと思っていた。だけど隣で頷いている亮太を見ていると、また書いてみたいという欲求が沸きあがってくる。空は完成をしない。だけど完成を目指し、何度も失敗作を作りつづける。織田と共に見た空はすでに闇になってしまったかもしれないけれど、織田と見たひとつひとつの空は完成するために必要な空だったと思えてくる。
「だけどこの十年、まったく書いてこなかった。また書けると思う?」
 さくらが尋ねると、亮太はなにかを思い出そうとするように、視線を空に向けた。そして空で捜し物を見つけたかのような表情を見せ、さらに得意顔になってさくらに言う。
「さくらさん、桜の木は冬の寒い時期があるから、花を咲かせることができるんだよ」
 勿体つけた亮太の言葉にさくらは悔しいけれどはっとした。ただ亮太の言葉に感動したのではなく、過去に同じようなことを織田に言われたことがあったからだ。
 さくらの記憶は十年前の冬の川辺の遊歩道を呼び出していた。あの日少し気まずかった織田と偶然出会い、さくらがうまく小説が書けないことを伝えると、織田はその言葉を用いてさくらを励ました。
「十年もの長い間、眠っていた花はどんなきれいな花を咲かせるのだろう。十年ものあいだ咲くのを我慢してきたのだから、ここぞとばかりに綺麗な花を咲かせると思うんだ」
 亮太はさらに得意げになって言う。その姿が織田と重なった。
 十年前の寒い冬の日の記憶がよみがえり、体内が妙に活気出した。織田と気まずかった時期、たしか飼っていた猫を追って、その場所に行くと偶然織田と出会った。あの日を思い出すと、また創作をしようという気になってくる。この十年間は良い小説を書くための期間だったと思いたい。
 さくらは持っていた小説を膝に置き、両の手のひらを見た。十年前の冬の日、綿雪がこの手のひらで溶け、さくらの体内に浸みた。そのときの感触がずっと体内を巡回していて、亮太の言葉で呼び戻され、いまさくらを感懐させる。胸に押し寄せてくる強烈な熱は、きっとあの日の冷たかった感触が、体内を巡り、熱を帯びて熱情となり押し戻ってきたからだろう。
「その瞬間に立ち会いたいな」
 亮太がふいに呟いた一言が妙にすっきり心に落ちた。枯れていた芽に待ち焦がれていた水が注がれたように。
 作家を目指した理由は織田が描く空の絵がきっかけだった。彼の絵に触れると、感動の波が押し寄せ、自分も人に感動を与えたいと思った。そしていま目の前にいる亮太はさくらの小説をまた読みたいと言ってくれている。
「母さんもそれを望んでいる。その小説は僕が持っているもののコピーなんだ。母さんの鞄に入っていた。コピーをしてまで、さくらさんの小説を持っておきたかったんだろう」
 さくらは手にした小説をめくった。なぜコピーまでしてさくらの小説を持っていたかったのだろうかと、疑問を抱きながらページを進めていく。そして最後のページになり、閉じたときに最後のページの裏側にそれはあった。
『さくらさんの言葉に勇気をもらいました。亮太をこれからよろしくお願いします』
 小さく丁寧な文字で、申し訳なさそうに左端に配置されたその言葉は、さくらがこうやって見ることを前提に書かれたものだと思われた。
 まるでもう亮太との関わりを断つような言葉だ。虐待をさくらに伝えた千絵は亮太にそのことが知られ親子の関係が消滅してしまうと予測したのだろう。
 そしてこの小説のコピーはさくらに手渡そうとしていたのだろう、最後のページの言葉はさくらに向けて書かれている。
 千絵はいつのタイミングでさくらに渡そうとしたのか。千絵は意識不明になり、おそらくは千絵の望んだ形でなく、千絵が倒れてしまって亮太の手に渡った。
 もしも、千絵からさくらにこの小説のコピーを渡されたとしたら、千絵がさくらを襲う理由がますます理解しかねる。この言葉の意味をそのまま受け止めると、亮太に虐待をしていたことを後悔し、亮太の母親の資格はないとまで思いつめ、さくらに亮太のことを頼もうとしたと考えられる。
 それなのに、なぜ千絵はさくらを襲ったのだろう。千絵の告白を聞いたさくらが亮太に伝えることを封じるために、千絵はさくらを殺そうとしたと思っていた。そう、彼女はさくらにナイフを向け、あの瞬間確かな殺意をさくらに向けていた。
 だとしたらなぜさくらに亮太の過去のことを話したのだろうか。そもそも千絵の方からさくらに話をしてきたのだ。それならばわざわざさくらに告白をする前に、さくらの口を封じればいいのだ。千絵の過去の虐待のことをさくらに話す前に。それとも千絵の告白を聞いたあと、心変わりをしたとでもいうのか。
 さくらが千絵の文字に目を落としながら、その意味について考えていると「母さんからなにか聞いているよね」と、亮太は言った。
 はっとして亮太に顔を向ける。さくらは言葉に詰まり、二人のあいだに沈黙がつづく。
 見つめる先の亮太の表情がにわかに不安げな表情に変わっていく。さくらが亮太にすぐに返事ができないのは、千絵から聞いた過去を亮太に伝えるべきか判断に迷っているわけでなく、亮太の放った言葉で、頭に浮かんだことがあったからだ。
 千絵は本当に真実をさくらに伝えたのだろうか。
 この十年間、千絵は亮太の過去の虐待を隠したいから、引っ越しまでして見知らぬ場所に移った。亮太が自殺を企て、記憶を失い、過去を亮太に知られないようにしてきた。それなのにさくらが亮太の過去を探るものだから、さくらを殺害して、亮太を虐待させていた過去を露見されないようにしようとした。
 そこまでして亮太に虐待していたことを隠したかったのか。
 だったらなぜさくらにそれを伝えた?
 やはり疑問は堂々巡りし、さくらに納得できる答えが見つからない。それで亮太に千絵の告白のことを伝えてもいいはずもない。
「千絵さんは君のことを本当に大事に思っている。だからもう少し待ってくれない。千絵さんの意識が回復したら、私が千絵さんを説得するから、千絵さんから話してもらおうよ」
「そうだね。いまは母さんが元気になるのを待とう」
 亮太の声に覇気はなかった。さくらは千絵さんの容態を引き合いにし、時間稼ぎをしてしまったことに後悔が込み上げてきた。
 亮太は「母さんのところに戻るね」と言い、院内に戻っていく。さくらは追い掛けることもできず、亮太の背中を見送ることしかできなかった。

亮太3

 さくらと別れ、亮太は千絵がいる病室に戻った。ベッドで眠る彼女の表情は先ほどと変化はない。亮太が持っている記憶の一番古いときからいる千絵は、十年前よりもすっかり痩せてしまった。目を閉じて眠る彼女の姿を見ていると、自分には千絵のためにできることがなにもないという絶望が込み上げてくる。
 衰弱した千絵の顔は亮太と全然違っている。自分にはない精錬された美しさが備わっている「亮太はお父さん似だから」と、千絵は鏡を見ながら肩を落としている亮太を、背中からよく慰めていた。
 亮太には家族と言える存在が千絵しかいない。例え顔が似ていなくても、性格も違っていても、亮太にはたった一人の家族なのだ。
 だから昨日のさくらへの愚行を目の当たりにしても亮太に千絵を憎む感情はいっさい湧いてこなかった。倒れたままでいる千絵に駆け寄り、目を覚まさないでいる千絵がこのまま眠ってしまうことを想像すると、亮太の記憶に存在する千絵がすべて消滅するような気がして、恐怖が押し寄せてきた。ただただ目の前の千絵が心配で、自分の無力さに愕然とし、自分の感情など何も役に立たないという現実から目を背けたくもなる。
 覚悟はしていたはずなのに。
 亮太は過去を知るためにこの場所を訪れた。失った記憶を取り戻し、自分自身と真摯に向き合えるように。そのために伴う痛みを受け入れる準備はできているはずだった。
 ただ亮太が過去を知ろうとする行為は亮太以外の人も傷つけてしまっている。それは亮太の予想外のことであった。さくらは千絵に刃物を向けられ、千絵は意識を失い、いまだに目を覚まさないでいる。
 自分が過去を知ろうとしたことで千絵を追い込んでしまったのだろうか。さくらに協力してもらったことで、さくらを危険にさらしてしまったのか。亮太の過去には露見されてはならない秘密が隠されていて、それは触れてはならないパンドラの箱のように、決して手を出してはいけなかったのだろうか。
 それを確かめたくても目の前の千絵はまだ眠ったままで亮太の疑問に答えてくれる気配は一切見せない。

 たしかに自分の過去は明るいものではないと亮太は思っていた。記憶を失う前の時間を知る人は周囲には千絵しか存在せず、こうした環境は千絵が作為的にもたらしたものだと感じていた。つまり亮太の消えた過去は辛い時間だったと想像できた。落書きだらけの卒業アルバムの存在も、亮太の心に暗澹なる影を落としていた。
 それでも亮太は過去を知りたかった。失われた時間は永久に長い時間だったとなぜか感覚的に亮太は思っていたのが理由の一つでもある。
根拠はない。だが、目を覚ます以前の時間が、それこそ比べようにもない時間を失ってしまった感覚が、頭の一部分で疼いていた。そして千絵がナイフをさくらに向けている瞬間を見たとき、亮太の頭に激しい頭痛が襲った。長く疼いていた頭のその部分を中心にしてドクドクと波を打つように、亮太の頭を締めつけた。
 つづいて痛みと共に映像が襲ってきた。それはいままでに記憶のない映像だった。亮太は記憶を失う以前の記憶だということを本能的に理解した。ただその映像には恐怖が宿っていた。
 そのときさくらには奇禍が迫っていた。ようやくすべて思い出せる予感はあったが、さくらの救出に急いだ。頭の痛みにも耐えきれそうでなかった。そして恐怖からも逃げたかった。
 千絵を突き飛ばした瞬間、激しい頭痛は治まっていった。目の前にさくらがいて、引き寄せられるように、彼女に触れた。
 よみがえった映像ははっきりとせず、いまだに現実感がない。だから、あのとき瞬間よぎった映像が、本当に亮太の記憶がもたらせてきたものとは断言はできない。ただ少し時間が経ったいまでは本当の自身の記憶のように思い出すことができる。
暗い靄に囲まれ、ナイフの刃先の光が自分に向かってきている。対する相手の体は女性のようだ。自分の目線にナイフがあり、その奥に少し膨らんだ胸が見える。
 恐怖が襲う。危機が迫っている。その感覚がする。
「死んでくれない?」
 女性の声が響いた。その言葉は亮太の頭のなかで反響し、恐怖が増幅する。亮太はそれに耐え切れず、頭を振り集中を解放し、現実に戻った。求めていた過去の記憶をこれ以上知ることを体全体で拒否している。そして想起された映像は脳裏にまで纏わりつき、亮太を煩悶させる。
 千絵と二人で過ごした十年間、亮太にとってその時間は亮太のすべてだ。失われた時間が例えどれほどにまで長かったとしても、千絵と過ごした十年間はかけがえのない貴重な思い出として心に刻み込まれている。
 千絵を見る。
 記憶のなかの女性はなぜ亮太を殺害しようとしたのか。ようやく思い出した記憶の一端は悪意に満ちていて亮太を怯えさせ、亮太はこれ以上過去を知ることに恐怖を感じた。
 亮太は両手で千絵の手を握った。
 おそらく十年前に亮太に向けられた悪意が、亮太に恐怖を与えている。その恐怖の正体を千絵は知っている。
千絵に尋ねたいことがたくさんある。だけど込み上げてくる自分の過去についての疑問は言葉にするのは憚れた。目を閉じている千絵の顔が悲しく見えたからだ。
 亮太は願いを唱えるように、千絵の手を介した両の手のひらに思いを込める。
 母さん、なんで僕を育ててくれたの?
 千絵を非難するでもなく、十年間ものあいだ無償の愛情を注いでくれた千絵に、素直な疑問を千絵に問い掛ける。ずっと胸に秘めていた亮太の思いだ。
 記憶を失ってもこれまで育ててくれた。感謝を両手で千絵の手に注いでも、目を覚まさない千絵に、亮太は言葉以外に千絵と会話できる手段が見つからないことにつかの間嘆くが、二人しかいない部屋で、無音の空間だからこそ、いましか伝えられない気持ちを伝えられるのではないかと気づく。
 母さん、ありがとう。
 普段は恥ずかしくて言葉になんかできやしない言葉を、亮太はこの際、千絵の手のひらに伝えた。

さくら20

 待ち合わせをしたファミリーレストランに井口は時間通りに現れた。この前のランニングウェアとは違い、ベージュのスラックスに、黒のポロシャツを着ている。神妙な面持ちでさくらの前に座った。これから井口が話す内容には、決して穏やかではない事柄が含まれているのだろうと予感が漂い、さくらの気も引き締まる。
 さくらの携帯電話に井口から連絡があったのは、昨日の夜だった。千絵が入院してから一週間は経っていた。
 千絵の入院を知ってさくらの携帯電話に連絡を寄越したらしい。千絵の容態を心配している様子で、この前に会って話をしたときよりも慌しい声をしていた。荒い呼吸も聞こえた。それから井口はさくらに伝えることがあるといい、さくらを呼び出した。
「あれからなにかわかりましたか」井口は注文をする前にさくらに訊いた。ほどなく来たウェイターにメニューを見ないで、井口はオレンジジュースを頼んだ。
 井口はさくらが亮太の過去を調査していることを知っている。さくらは以前、井口に学校でいじめがあったのではないかと問い詰めていたことを思い出す。
「先生の言う通りいじめはなかったと思います」
井口はやっとわかってくれたのかと首肯をする。さくらは子供のころに戻って教師に注意をされたかのような気分になった。井口に教師時代の貫禄が戻り、さくらに対して発動されたかのようだ。
「ただ、当時亮太さんは学校以外のことで悩みがあったと思います」さくらが言うと、井口の眼光が鋭くなった。「それは何ですか」と、さらにさくらを威圧してくる。
 さくらが井口に千絵の虐待のことを伝えていいものか考えていると、井口が口を開いた。
「学校以外のことだというと、親による虐待がありましたか」
まさに井口が千絵に告白されたことを言い当て、さくらは動転した。井口はすでに亮太の虐待の事実を知っていたのだろうか。知っていてあえてさくらの口から言わせようとしているのか。
 千絵から虐待の事実を聞いたとき、予感はあったがやはり戸惑った。彼女の雰囲気から亮太を虐待していたということがいまだに信じられない。彼女の口から虐待という言葉が不釣り合いで、彼女の立ち振る舞いから、そんな愚行をしていたとは想像ができない。
 だけど実際は、彼女は自分から虐待をしていたことを告白した。
 さくらは千絵に襲われた場面を思い出した。あの姿が千絵の本性だったのだろうか。彼女は実は二重人格で、さくらを襲った人格が表に出たときに、亮太に虐待をしていたのだろうか。
 それでも亮太は記憶を回復させてからは虐待を受けていない。千絵は亮太が自殺を計ってから、心を入れ替えたというのか。それをさくらが十年前のことを探るから、ずっと眠っていた千絵の凶暴な姿が目を覚ましたとでもいうのか。
 さくらが井口の質問に答えないで口を閉ざしたままでいると「あなたはそれを千絵さんの仕業だと考えている」と、井口はさくらの目を見て言った。それから井口は持参していた鞄を開け、なにやら取り出した。
「これは私が持っている亮太が卒業したときのアルバムです」
 落書きもされていない卒業アルバムだ。そういえば亮太がいじめられていたという考えは、亮太が持ってきた落書きされた卒業アルバムから推測された考えであった。この落書きをしたのは千絵だと彼女は自ら告白した。
「亮太の持っていたあの卒業アルバムはいじめがあったことを偽造するものだけではない。もう一つ落書きがされた理由があった」
 井口はそういってクラス全員の顔写真があるページを広げ、千絵の前に差し出した。亮太の顔がはっきりとわかる。それから名前を見る。
「亮太は千絵さんの本当の子供ではない」
 笑顔で写る亮太の下に記されている名前は『辛島亮太』と記されていた。

「この前持ってきた卒業アルバムをさくらさんから見せてもらったとき、正直ショックでした。私の大切なクラスの卒業アルバムが悪意に満ちたものになってしまっていた。罵詈雑言が並び、見ているだけで嫌悪感を抱いた。だけどよく見るとあの卒業アルバムには亮太の顔写真に落書きがされていて、名前がわからなくなっていた」井口は教師のころに戻ったみたいに、抑揚をつけ、生徒に指導するかのような口調だった。さくらは出来の悪い子供みたいに、なんとか頭を回転させ理解しようと努める。
 さくらは亮太から卒業アルバムを見せられたときを思い出した。いたるところに落書きがされていて、亮太の名前がわからないのも、特別気にはならなかった。あれは千絵が細工し、亮太に渡していたというのだろうか。
「千絵さんはいじめがあったように仕向けながら、亮太が自分の子供でないことを知られないように細工をしたのでしょう」
「なんでそんなことを」千絵と初めて会った日を思い出す。
 亮太を追い掛けて彼女は川辺の遊歩道に現れた。あのあと、彼女と亮太と三人で話をした。そのときの彼女は亮太に記憶なんて取り戻さなくていいと言っていた。彼女は亮太を本当に心配した様子で、亮太に過去を探ることを思い直してほしいと一心に伝えていた。そこには亮太への愛情が感じられ、それはきっと親子の絆からくるものだとさくらは感じていた。
 それなのに井口は千絵が亮太の本当の親ではないという。本多千絵、本多亮太、だけど卒業アルバムには『辛島亮太』と記されている。
 千絵は卒業アルバムの亮太の顔写真を見つめ『辛島亮太』という文字を目に留める。そうしていると、思考が混乱しはじめる。井口に助けを求めるように、彼に視線を移した。
「千絵さんには亮太が虐待を受けていることをどうしても隠したい事情があったんです」
 井口はさくらの視線から逃げるように俯いた。さくらはおそらく井口が亮太の担任だったころには虐待の事情を知っていたのではないかと思った。俯いた姿勢の井口は後悔しているように歯をくいしばっている。井口にはこれまでの十年間の時間を費やしても、いまだにきちんと向き合えないくらい、深く悲痛な後悔があるのだろう。瞳の奥に宿る記憶が彼を苦しめ、視線が震えている。そして彼は呼吸を整えるように息を深く吐いた。さくらは間を取るように何度も頷く。井口の呼吸に合わせるようにして彼のタイミングを待った。そして井口の視線が再びさくらに定まった。
「私は亮太が五年生のとき、彼の担任になりました。その年の夏休みのときに、亮太の両親は離婚をし、亮太は当時の母親が引き取ることになった。夏休みが終わって亮太が離婚してから始めて学校に来た日、私は亮太に声を掛けました。そのときは両親が離婚したことにも、落ち込んだ素振りはありませんでした」
 話し出すと井口の視線はしっかりとし、口調も落ち着いていた。それで彼の話を気が散ることなく耳を傾けられた。
「六年生の冬に学校でスキー合宿がありました。そのとき、ある生徒が私に亮太がいじめられているかもしれないと言ってきました。その生徒はお風呂で亮太の背中に何個も痣になっているのを見たそうだ。後日、私は亮太に直接そのことについて尋ねました。保健室で二人きりになり、背中を見せてもらった。背中やお腹回りに紫色でひどく痛々しい痣が何個もあった。新しくできたように見える傷もあり、私は一瞬言葉を失った。亮太にクラスでいじめられているのかと訊くと、亮太は首を激しく横に振り否定した。ではこの痣は何かとさらに亮太を問い詰めると、亮太は小さな声で母親から虐待を受けていると告白しました」
 井口は間を取るように、飲み物に口をつける。グラスから口を離すと、頭を振った。頭に浮かんだ嫌な映像を振り払うかのようだった。そして、再びさくらに向かう。
「私は亮太の母親に伝えた。もちろんあなたが亮太を虐待しているのだとは、はっきりとは言わなかったが、それに近い形、亮太の母親には自分は虐待を知っているのだとわかるように伝えてしまった。結果的にそれが彼女を追い詰めてしまった。ますます虐待はひどくなっていった。それで私は亮太の父親に相談することにした。もう離婚していたとはいえ、亮太の父は彼一人なのだから。結局、それがあの事件を引き起こしてしまった」
 井口はそこまで言うと口を結んだ。さくらが「あの事件というと」と訊くと、彼は悲痛な表情になった。
「亮太の父親がその母親を殺害してしまった」井口の声が震えていた。

千絵6

「僕は知っていたよ。母さんが本当の母親ではないということ」
 手のひらから伝わってくる熱は、千絵の意識の底に伝わっていた。ただ千絵はなにも反応はできず、亮太の言葉もすべては理解できていない。
「だから、そんなに僕を守る必要なんかなかったのに」
 亮太の声が聞こえる。
「あのときも僕を守ってくれたのは、母さんだね」
 千絵は無意識に過去を見ていた。千絵が命に代えてでも亮太を守る覚悟ができたときのことを。

「僕と一緒に亮太を育ててくれ」
 強く握り締められた手から彼の切迫感が伝わってくる。真正面にいる洋介の視線が千絵の瞳を通り、胸のなかにまで届いた。彼の言葉は神聖な誓いのように、彼女の胸を痺れさせ、心臓を躍動させる。彼が心に入ってくることで自分は生きていられるのではないかという錯覚までした。
 洋介には一人の息子がいる。前妻との間にできた子供で、いまはその前妻が引き取り育てているらしい。名前は亮太で今年小学校を卒業すると洋介から聞かされていた。
 千絵と洋介の二人はすでに結婚を決めていた。昨年末に洋介からプロポーズを受け、彼のマンションに住み、すでに二人で生活を始めていた。
 亮太を引き取りたいと聞いたのは二月の上旬頃だった。亮太が前妻から虐待を受けていると洋介の口から伝えられた。
 亮太の担任から洋介に連絡があったらしい。亮太が母親から虐待を受けているという連絡だった。亮太の担任は洋介が離婚したことは知っており、母親が亮太を育てていることも知っている。実際に母親の元にもその担任は話し合いに行ったのだが、ますます虐待がひどくなってしまった。そして洋介のところに相談したのだという。
 洋介は担任の話を聞き、前妻のところに向かった。前妻は面会に応じず、亮太とも会わせてもらえなかった。洋介はそれで彼女が本当に虐待しているのだと確信したという。そして亮太を引き取ることを決意した。
 洋介から亮太を一緒に育ててほしいと言われても、千絵は不思議と戸惑いを感じなかった。愛した彼の子供を、まだ会ってもいないのに愛しいと思えた。千絵は使命感に身を震わせた。これから家族三人で暮らしていく、そんな想像をすると幸福感が心で潤っているのが実感できた。なにも問題はない、自分が亮太の傷を癒し、彼の母親として立派に勤めあげる、そんな決意が自然と胸に込み上げてきた。
 亮太の卒業式の日、洋介と二人で亮太の元に訪れた。すでに先方には千絵と洋介の二人が行くことを伝えてある。千絵は亮太と会うのは初めてで、緊張をしていた。
 今日は洋介が千絵を亮太と前妻に紹介するくらいで終わるだろう。それでも亮太を引き取る決意を表明しておく必要があった。虐待の事実を亮太の母親にぶつけ、あなたに亮太を育てられないと、母親失格だと批難し、強硬な態度を示さなければいけない。
 なのに、自分は母親失格だと言える権利はあるのだろうか、という考えは心の片隅にあった。子供を産んだことがない、育てたこともない千絵が実の親子関係を破壊してもいいのだろうか。亮太たちに会う直前になって千絵は不安を覚えた。洋介に亮太の母親になってくれと望まれたときに生まれた使命感がその不安によってぐらついてきた。血の繋がりのない自分に亮太の母親が務まるのだろうか。
 千絵は心に葛藤を抱えたまま、亮太が暮らすアパートに来た。二階の一番奥の部屋が亮太たちの住まいだと洋介から聞かされた。
 洋介の後を追い階段を上りきると、千絵は立ち止まってそこから景色を眺めた。まだ会ってもいない亮太はいつもこの景色を見ている。そう思うと、まだ見ぬ亮太が愛しく感じられ、千絵の背中をひと押しした。大丈夫、自分は愛した洋介の子供も同じように愛することができる。
 洋介はすでにドアの前で呼び鈴を鳴らしていた。遅れて千絵がドアの前に行く。彼が数回呼び鈴を鳴らしても返事はなかった。電気メーターを見ると、留守なのか判断が難しいほど、ゆっくりと回っていた。洋介が痺れをきらしたようにドアを強くノックした。それでも返事がないので、彼は携帯電話を取り出して、前妻に電話した。
 着信音がドアの向こうでした。洋介が再びドアをノックすると、そのドアが開いた。
 扉の向こうに男の子がいた。洋介が亮太と呼んだ。その男の子、亮太は彼に視線を送り「お父さん、ごめんなさい」と呟くように言った。千絵が「どうかしたの?」と訊くと、亮太は千絵に視線を移した。
 その瞳の光は純粋たるもので、彼がこれから言う言葉が千絵にはすぐには理解できなかった。その「お母さんを殺してしまった」と、千絵に言った言葉が、まるで迷子になってしまった少年が口にしたように思えて、千絵の力でもすぐに解決できるだろうとその瞬間は思った。
 だから千絵は「大丈夫だよ」と答えていた。
 亮太の目線になるように腰を屈めた。すると亮太の手にナイフが握り締められているのが目に入った。
 千絵はそのときにようやく亮太の言葉を理解した「お母さんを殺した」という亮太の声は、本当に少し前に耳にした言葉なのに、一度耳を通り過ぎていき、また帰ってきたかのような感覚がした。一度千絵の元を離れ、亮太が発した力よりも巨大化して戻ってきた。すでに千絵に手に終えない現実を伴って目の前に出現した。実際に目の前にいるナイフを持った少年が、脅威となって迫ってくる。千絵の身を怯えさせ、頭を正常に働かせることができなかった。洋介に手を取られるまで、ただその場で亮太と対峙していた。
 洋介に手首を掴まれ引っ張られるようにして部屋に入った。足を動かしたことで、ようやく呆然を脱することができた。
 リビングには床にうつぶせになっている女性がいた。首には紐状のものが巻かれていた。
 洋介が女性の頭上で屈み、彼女の顔を覗いた。それから千絵に向かって絶命していることを伝えるように首を振った。
 千絵は事の重大さに言葉を失った。洋介が死体の首に巻かれていた紐状のものを外し、目の前で掲げた「この縄跳びでお母さんを締めたのか」と亮太に言った。亮太は無言で頷いた。手にしているナイフではなく、いま洋介が手に持っている縄跳びで殺害をしたらしい。
 それから洋介は部屋をぐるりと見渡した。そして死体の足元にあるテーブルに視線を止める。テーブルの上には手紙が置いてあった。よく見るとその手紙には『い書』と書かれていた。
 洋介が縄跳びを床に置き、その手紙を手に取った。亮太に向き直る「亮太が書いたのか」その洋介の表情は無念さが滲み出ていた。
亮太が言い訳をするように涙声で洋介になにか伝えようとするが、うまく言葉が出てこない様子で過呼吸になっていた。洋介は亮太の両肩に手を乗せる。千絵は膝立ちになり亮太の背中をさすった。そしてようやく、亮太は千絵たちに伝えた。
「お母さんにナイフを向けられて、遺書を書けと脅されたんだ。そして遺書を書かされたあと、卒業アルバムを持ってこいと言われて、そのまま目の前で今日僕がもらった卒業アルバムにマジックで落書きしていった。嫌な言葉ばかり、そのアルバムに……お母さんは狂っていた。そしてこのナイフを僕に向けて死んでくれないと、お願いされた」
 亮太は泣くのを堪えるようにして、何度も息を詰まらせながら、千絵たちに語った。
 そしてまた卒業アルバムに落書きをしはじめたときに、後ろから首を絞めたと亮太は言った。亮太が手にしているナイフはやはり使用していないらしい。
「僕、どうすればいい?」
 亮太は千絵を見ていた。洋介ではなく、初対面である千絵に助けを求めていた。
 亮太と視線を合わせると亮太の目の純粋さがどんどんと汚れていくように思えた。救出することのできない千絵をその瞳で映すことで、亮太の心が汚れていくかのようだった。
それは千絵の錯覚だろうが、その瞬間、自分の過去の行いが一気によみがえり、醜い感情が亮太に盗み見られたような感覚を千絵は味わっていた。千絵は耐え切れず、首を横に振って亮太の視線を外した。それは彼の救いの手を払ったのと同じであった。
 亮太は背中を見せ、部屋を飛び出していった。千絵はすぐに自分のしたことの残酷さを知り、亮太の後を追おうとした。
 そのとき洋介に呼び止められた。
 部屋には女の死体があって、洋介は息子の書いた遺書を手にしている。そんな状況でも洋介が千絵を呼ぶ声は、いつも通り千絵にとって優しい声だった。
「僕はこれから自首をするよ」洋介は床に落ちていた縄跳びを拾いながら言った。千絵はこれから洋介がすることを悟った。
「千絵、君と出会えてよかったよ」洋介が笑顔になっていた。それは失敗した料理を食べながら、千絵を慰めてくれるときと同じ笑顔だった。
 出会ってから三年ほど経った。彼は世間知らずの千絵の失敗をいつも笑って慰めてくれた。そんな彼と一緒にいることで、自分が自分でいられる喜びを感じることができた。その笑顔で千絵は幸福感を味わっていた。
「亮太をこれから育ててほしい。この前の約束を僕の分まで亮太に注いでほしい」
 プロポーズのときと同じように、洋介は千絵の手を握っていた。真正面の彼の笑顔がさらに弾けたと思うと、彼の目から涙が零れていた。嗚咽が漏れ、洋介はその場で膝をつき「亮太をよろしく頼む」と、頭を下げた。
「わかりました」千絵が了解すると、洋介は亮太のところへ行ってくれと、千絵の背中を押した。
 アパートから出て階段を下りた。一度、部屋を振り返り千絵は亮太を探して駆け出した。

さくら21

「私が亮太の父親に伝えたことが、すべての原因だったのかもしれない」
 抑揚がある井口の言葉が弱くなり、彼の後悔の念がその声に含まれていた。言葉が発しられた瞬間、まるで周りの空気に緊張が走り、彼をこれ以上刺激しないように熱を下げたかのようだ。
「亮太が母親から虐待を受けていることを私は亮太の父親に知らせてしまった。そのことが間違っていたことだと当時の私には気づかなかった。そればかりか正しいことをしたのだと思っていた。すべてうまくいくはずだ。良い方向に向かっていると信じていた」
 井口は言い終えると。懺悔をするかのように歯を食いしばり、口を閉ざした。無音の時間がしばらくつづき、そのあいだ、当時の過ちを思い返し、痛みを伴う後悔をじっと受け入れているかのようだった。
「十年前の三月十日、亮太の実の母親は当時亮太と暮らしていたアパートで亮太の父親に殺害された」
 その日にちを聞いたさくらは一瞬耳を疑った。
 さくらにとって忘れることはない、三月十日。そして十年前。
 さくらが高校を卒業した日。織田と十年後を約束した日。そして彼が命を亡くした日。
 同じ日、亮太の実の母親は亮太の父親に殺害された。
 頭のなかが混沌とし、視界が急速に暗くなっていく。さくらは努めて乱した思考を正常にするように意識する。井口が話のつづきをしようとするので「ちょっと待って」と、さくらは井口を制し、考える時間をもらう。混乱した頭のままでは井口の話をこれ以上聞くことができなかった。
 亮太は十年前に事故に遭い記憶をなくしたということであった。亮太は父親が起こした事件を覚えていないはずだ。十年前、亮太は目を覚ましてから記憶喪失になり、引っ越しをして千絵と共に違う土地に移り住んだ。もしも亮太がその事件を知っていた、覚えていたのならば、きっと自分の過去を知りたいとはしなかっただろう。
 十年前、亮太の父親が母親を殺害した。亮太はその事件がきっかけで記憶をなくしてしまったのだろうか。実の母親が父親に殺害されたショックで亮太は記憶を消滅させてしまったのではないのか。
 その日、織田も殺害された。ナイフで刺されて、通り魔の犯行とされている。まだ犯人は捕まっていない。
 そして亮太は織田に渡したさくらの小説を持っていた。
 そこまで考えると、さくらは頭に痛みを感じた。まるでその先には行ってはいけないかという警告のようだ。さくらは水を飲もうとしてグラスを手にすると、指先が震えているのがわかった。小刻みに震えるグラス、氷が音を立て、なかの水が恐怖で慄いていているかのように、波打っている。
 さくらは恐怖を遠ざけるように、グラスを必要以上に自分から離して置いた。乱れた息を整えるため、意識して深い呼吸を何度も繰り返す。
 少しは落ち着きを取り戻し、井口に視線を戻す。井口は話をつづける合図と受けたようだ。井口が口を開く。
「父親が実の母親を殺害したショックで亮太は気を失い病院に運ばれました。私は亮太が入院する病院へ行ったが、亮太に会うことはできませんでした。意識は回復したということでしたが、まだ面会ができる状態ではないということで千絵さんから断られました。私は何度も面会に訪れたのですが、いつも千絵さんに断れていました。そのときは千絵さんと亮太の関係は知りませんでした。そして数週間ほどしたころでしょうか、病院に行くと千絵さんに引き留められました」
 井口の声の調子が戻り、落ち着きをなくしていたさくらの心を静めさせた。いまは彼の話に集中し、織田の事件はひとまず切り離して考えることにし、これ以上頭が混乱しないよう努めた。
「彼女は亮太の父親が犯した事件のことを亮太にまだ知らせていないと言い、亮太は記憶喪失になっていることをその場で伝えられました」
 やはりその事件がきっかけで亮太は記憶を損失したのだ。十年前の亮太を思い、さくらは心を痛めた。
「千絵さんはこのまま亮太の記憶が戻らなければ、事件のことは知らせないつもりだと私に言いました。それから千絵さんが亮太の母親となり、引き取るつもりだということも聞きました。千絵さんはきっと亮太の母親になることで、記憶を失ってしまった亮太を守りたかったのでしょう。亮太は実の母親から虐待を受け、父親が実の母親を殺害した、その事実を亮太に知られないためには、千絵さんが亮太の母親になり、家族となって亮太を見守っていく必要があった。彼女はそのとき、すでに覚悟を決めていた。そう言う彼女の目には揺るがない決意が込められていて、その目のままで私に協力してほしいと私に言いました」
 さくらは千絵の瞳を思い出した。たしかに迷いのない目だった。躊躇いのないその瞳の力が思い出された。亮太の過去について話していたとき、彼女は凛と強い存在に感じた。それなのにこの前、さくらに狂気を向けたときは、彼女の存在がこの世のものとは思えないほどの異質な力を感じた。そのときの目はいままでの千絵にない、空虚な目をしていた。
「千絵さんはもしかしたら亮太が将来、過去のことを調べに私の元を訪ねることになるかもしれない、そのときに、亮太に事件のことを知らせずにうまく納得させてほしいと彼女に頼まれました。私は亮太に対して負い目を感じていたので、千絵さんに協力をすることを約束しました」
 そして実際に、十年後、さくらが亮太の過去を調査しはじめたので、千絵は井口を紹介した。
「千絵さんは辛島亮太のままだったら、事件のことが露見しやすいと思ったのでしょう。引っ越してから亮太の姓を変えていました。あなたと亮太が私に会いたいと千絵さんから聞いたとき、そのことを知りました。だから亮太のことを辛島と呼ばないでほしいと言われました。クラスメイトにあなたを紹介するときにも、彼らにはそのことを伝えました」
 たしかに井口もクラスメイトたちも亮太の苗字を口にしなかった。
「事件のことを聞いたとき私は亮太の父親に虐待のことを知らせたことにいまでも後悔を感じています。虐待を知りながら、私は自分の力では解決せず、亮太の父親に知らせることでその問題を棚上げしてしまった。それなのに私はクラスの卒業の日、すがすがしい気持ちでした。良いクラスだった、良い担任だったと自惚れてまでいた。亮太が思い悩み、彼の父親が母親を殺害した日に」
 井口は頭を数度振った。自責の念に駆られているのだろう、彼が記憶をよみがえらせている姿が痛々しく思えた。
 うつむきがちに話していた井口がさくらに向き直った。さくらと視線が合う。
「ただ、あなたに会って亮太のことを話しているとき、これでいいのだろうかずっと心に思っていました。あなたの純粋な気持ちに、真実を隠しているのがつらかった」
 真正面から受けた井口の眼光は、教育者のころの井口に戻ったようであった。彼の道義心がさくらに真実を伝えるべきと判断した。しかし、それを汚れなく受け止めるための正義がいまの自分に持ち合わせているのかさくらは不安になった。
「千絵さんが倒れたと聞き、私は決心しました。さくらさんに私の知っているすべてを伝えようと。それを亮太に伝えるかはさくらさんに任せます」
井口がさくらに伝えたかった真実は、予想以上にさくらの背中に重くのしかかってきた。すでに覚悟を決めていたつもりだったが、この重みに耐えられるかどうかさくらは迷いを感じはじめていた。

亮太4

 千絵が意識をなくしてから十日が経過していた。そのあいだ亮太はウィークリーマンションから千絵の入院する病院まで毎日通っていた。
 亮太は自分に眠っているはずの記憶をよみがえさせる理由でこの町へ来た。始めは二週間の予定でウィークリーマンションを借りた。それが、千絵が入院することになってしまい、これからどれくらいの滞在期間が必要なのか目途がつかなくなってしまった。とりあえず亮太はウィークリーマンションの延長を申請し、千絵の回復を待つことにした。
 千絵の病室に行くと、昨日と変化はなく、千絵は眠ったままだった。千絵の表情からは深刻さを感じられない。胸を上下させ、呼吸を自発的にしている。いますぐにでも目を覚ましそうで、とても十日間ものあいだ、一度も目を覚ましていないことが信じられないほどだ。
 十年前とは逆の立場で今度は亮太が千絵の目を覚ますのを待っている。そう思うと亮太は胸が苦しくなった。
 十年前、昏睡状態にいた亮太は暗闇を彷徨っていた。
視界は闇、無意識の状態にいて、生死の判別もできず、自分という存在さえも不確かで、人という感覚なんてさえもまったく感じていなかった。
 そんななか、光より先に訪れたのは、声だった。
「私が亮太君を引き取るからいいじゃないですか」
「血の繋がりもないあなたに任せるわけにはいかない。親になるのはそんなに簡単なことではない。児童養護所に預ければいいじゃないか」
「だけど亮太君は私の子供なんですよ」
「どうしてそうなるんだ。あなたは赤の他人じゃないか。この子の父親とはまだ籍も入れてないのだろう」
「これから籍を入れます。そうしたら亮太は私の子供です」
 その声は、亮太の意識に刻まれていた。
 それから千絵は実の子供ではない亮太をどんな気持ちで見守っていたのだろう。このまま目を覚まさないでいてくれた方が気楽だと思っていたのかもしれない。心に痛みを抱えた他人をこれから育てる責任から逃げだしたいと思うのが普通ではないだろうか。
だけど思い出す。亮太が目を覚ましたとき、迎えてくれたのは、千絵のなきじゃくった笑顔だった。
 亮太の手を握り「よかった、本当によかった」と何度も言っていた。亮太はあのとき、ぼんやりとした頭のなかで、感謝の気持ちが湧いていた。まだ自分が誰かも、目の前の人が誰なのかも完全に理解できていなかったのに。ただ、喜んでくれている人の笑顔を目の前にして、亮太は心が充実していく感覚を味わっていた。
 いま、亮太は心から千絵の回復を願っている。血が繋がっていなくても、亮太のことを心配してくれる人は千絵しかいないのだ。亮太は千絵の片手を両手で握る。
 千絵の手から熱が伝わってくる。それは命を燃やしている熱だ。眠ってはいるが千絵はたしかに生きている。
 千絵の寝顔を見てもやはり自分には似ていないと亮太は思った。過去に千絵にそのことを言うと彼女は目が奥二重で一緒だね、と言って目を見開き、無理に二重瞼を作った。十秒も経たないうちに一重に戻ってしまっても「ねっ似てるでしょ」と、千絵は亮太に同意を求めてきた。その仕草に亮太は本当の血の繋がりなんて関係ないのだと思った。例えこの血に千絵の名残がなくても心のなかは千絵との繋がりで溢れている。千絵との二人で紡いだ記憶が、体中に巡っているから、自分の肉体は千絵によって生かされていると胸を張って言えるのだ。
 だから、千絵が目を覚ましたとき、もしも記憶を失っていたとしても、亮太は迷わず自分は千絵の子供だと言うだろう。
 そうしたら、血の繋がりなんて飛び越えた、誰もが羨む家族の再結成だ。

 亮太は病室の窓を開けた。春の風が入ってくる。春の温かい風は生まれたばかりのように、新鮮で躍動し生命力を感じさせる。その風を千絵にも感じてもらいたかった。
 窓際の机の上には薄いピンク色のトルコキキョウの花が、風で揺れている。昨日さくらが千絵の見舞いに持ってきた花だ。まだ亮太の過去は調べてくれていて、その進捗の報告も兼ね、さくらは千絵の病室を何度か訪れている。
 昨日はもう一度井口と会って話をしたと言っていた。ただそのときのさくらの様子が普段と違ってよそよそしく感じられた。同じ話を何度もしたり、亮太と会話をしている最中に、不自然に千絵の顔を一瞥したり、なにか自分の過去について、さくらはわかったことがあるのかもしれないと、亮太は直感的に感じた。しかもそれは喜ばしい方面ではないのだろう、さくらの様子は亮太に気を使っているようにも感じられた。
 亮太はこれまでに何度か記憶の断片がよみがえることがあった。猫の死体を見下ろしている映像、女性にナイフを向けられている映像、それらは激しい頭痛が伴って、亮太の頭に襲ってきた。
 その映像からは自分の過去には不吉なことしか予測できない。やはりさくらの態度がおかしく感じられたのは、亮太には打ち明けられにくいような過去を彼女は知ってしまったからなのだろうか。
 さくらにもう過去を調べることは止めようと、提案してみることも何度か考えた。自分の過去には、もはや悪い想像しかできず、わざわざその悪い記憶を思い出す必要はないのではないか。どこかで放棄した重い荷物を再び背負うことはない。それに彼女に自分の良くない過去を知ってほしくなかった。
『約束の日』から、さくらは亮太の過去の調査を受け持ってくれた。本来ならば、もちろん自分が過去を調査しなくてはならない。それなのに彼女は亮太の感情を慮ってくれ、亮太の過去の調査をいまもつづけてくれている。
 そして、そのことが亮太とさくらを繋いでいることは確かだ。自分勝手にさくらを巻き込み、都合のいいようにさくらとの関係を持続している。
 そう考えると、胸が苦しくなる。こんな自分にさくらを使役させてもいいのだろうか。
 ただ、自分の過去の調査を止めてしまうと、もう彼女と会う理由を失くしてしまう。そう思い至ると、さらに胸が締めつけられる。
『約束の日』に彼女と出会ったとき、彼女は否定したが、どこかで出会っている感覚がした。記憶を失う以前に、必ず出会っている。あのときに抱いた既視感は、自分の体内から発せられた信号なのだと思う。そして、自分は過去に彼女に対して特別な感情を抱いていたであろう、体内から発せられた信号はすぐに体中に巡り、すべての細胞が色めき立った。
 彼女に再び恋した瞬間だった。
 十年前のまだ子供だった自分に、それほどにまで強い恋心があったのかどうか疑問は残るが、さくらと会ったときに抱いた感情は、たしかに過去に経験したことのある感情だった。
 だけどまださくらの記憶は取り戻せない。彼女が過去にどうやって自分と関わり合っていたのかがわからない。
 まだ知れない過去は、自分の体内でどんな姿をしているのだろうか。
亮太はどんな過去でも受け入れなければいけない。自分にある心情を克服するためにはまずその正体を知らなくてはならない。記憶を失ったとしても、過去は亮太の体のなかでずっと居つづけているはずだから。
 自分を育ててくれた千絵には感謝している。彼女は亮太の過去を知りながら、亮太を育ててくれた。そして、きっとそれを守るために、これまで行動してくれた。亮太につらい過去を知られないように。
 だけど、自分はその行為を否定した。千絵の意志を裏切ってしまったのだ。
 そして、千絵はさくらを襲った。千絵は記憶を取り戻そうとしている亮太に協力していたさくらを標的にし、狂気を振った。
 過去を知ろうとする行為は間違っているのか。亮太は自問した。自分の過去を知ることは、誰かを傷つけ、痛みを与えている。さくらは命の危険に迫られ、千絵はこうして意識不明になってしまっている。
 もはや、がんじがらめに過去に縛られている。しかもその過去は正体を見せることなく、寄生虫のように亮太の記憶に居座りつづけ、いつでも亮太を操られる状態でいるのだ。時に頭のなかを支配し、亮太を苦しめる。
 千絵がさくらにナイフを向けていた場面を目撃した瞬間に、頭の痛みと共に亮太の記憶の一部がよみがえった。
知らない女から言われた「死んでくれない」という無機質な声と共に、向けられたナイフに震え慄いていた自分。千絵がさくらに向けたナイフの光は、暗闇でたしかに亮太にも向かっていた。あの瞬間、ナイフの矛先は亮太に定められていて、過去の記憶のなかで恐怖感を覚えていた。
頭のなかに出現した映像を振り払うように、千絵にぶつかりナイフを蹴り飛ばしたとき、頭痛は沈静していった。恐怖で身が震えていたとき、さくらが亮太に触れ、恐怖心が和らいだ。
 ナイフの存在は亮太の記憶に創傷を残し、いまだに亮太を兢々とさせる。だからナイフを回収もせずにその場から去ってしまった。
 今日、千絵の見舞いに来る前にナイフを置き去りにしたことが気になり、あの場所へ戻ったのだが、ナイフは見つからなかった。
 ないならないで、今度は不安が込み上げてくる。
 一体、あのナイフはどこに行ってしまったのだろうか。

さくら22

 さくらは井口と会った次の日、市民図書館へ足を向けた。井口から訊いた事件のことを調べるためだ。織田が殺害された同じ日に、そこから遠くない場所でも殺害事件があったことなど、さくらは覚えていなかった。
 十年前、織田が殺害されたとき、さくらはその事実を受け入れることができず、大学に入学するまでの休みの期間なにも手につかなかった。食事をし、睡眠をとり、織田のことを意識して考えないようにして、ただ生活をこなすだけの日々を過ごしていた。
 大学に入学してから新しい生活を慌ただしく過ごすようになって、やがて意識せずにも織田の死を忘れる時間もできるようになった。
それでもふとしたときに、織田を思い出した。彼の顔とか、声とか、彼からもらった絵とか、抱き締められた感触や、初めてのキスの緊張感や、笑顔の安心感とか、いろんな記憶が堰を切って流れてきて、どうしようもなく悲しくなるときもいまだにある。
 なんで死んでしまったの?
 さくらがこんなに悲しくならなくてはいけない理由は彼が殺害されたからで、その事件は未解決である。もしも、あの日織田が殺されたりしなかったら、いまごろは、織田と再会できて、さくらの理想としていた日々を過ごしていたのかもしれない。
 いままで織田の死をまだ心のどこかで受け止めることができないでいた『約束の日』までの十年ものあいだ会うことができなかったのは、約束通り彼はパリで絵の修行をしているからだと、都合のいい妄想も抱いていた。
 当然、織田はその日約束の場所に現れるはずもなく、妄想は砕かれた。
織田は死んでしまった。知ってはいた。覚悟はしていた。もう会うことはできず、声を聞くこともできず、触れることもできない。彼は同じ世界に、もういない。
 考えることもなく、理解していたはずなのに、それでも『約束の日』はこの十年で一番、織田の死を実感した。
 それから彼に会える時間が限りなく貴重だったことに思い至った。十年前、彼と出会ってから彼が死ぬまでのおよそ一年間は織田が生きていることが当たり前だったし、彼と会えない時間でさえも、織田を思い、自分都合の妄想も抱いた。それは彼が生きていることが前提にあった。それが彼の死がすべてを否定する理由となる現実になった。
 織田のことを思い出すと、必ず最後に行き着くのは、彼は死んでしまったという現実だった。十年前の彼と交わした約束でさえも、その現実によって否応なく否定され、現実から目を背けるためには、彼の死を忘れさせてくれる妄想を抱くしかなかった。
 その妄想も約束の日に無残にも砕かれて現実に直視せざるを得なくなると、織田が殺された理由を知りたい気持ちが強くなった。なぜ、織田と会えなくなってしまったのだ。なぜ、殺されなくてはならなかったのか。
 同じ日に、もう一つ殺人事件が起きていた。織田が殺された近くの場所で、しかも、その関係者が織田の持ち物を持っていた。この二つの事件にはなにか繋がりめいたものを感じずにはいられない。
 図書館に入りさくらは資料室から当時の新聞の縮小版を借りた。すぐに探していた記事は見つかった。

『20××年三月十日、○○市内に住む辛島藤子さんが死亡しているのを、通報を受けて、駆けつけた警官が辛島さんの自宅にて発見した。現場にいた男が首を絞めたことを認めたためその場で男を殺人容疑で逮捕した。居合わせた男は被害者の元夫で名前は□□洋介容疑者。犯行後自ら通報し事件は発覚した。□□洋介容疑者の供述によると。子供の親権のことで口論となり、近くにあった縄跳びで首を絞めたと語っている』

 井口の言った通り、織田が殺された日にその周辺で殺人事件が起きていた。さくらが住む地域の殺人事件なのに、これまでまったく知らなかった。当時はそれほどまでに自分を見失っていたのだろう。
 この記事には亮太の存在は書かれていない。だが被害者の辛島という苗字は卒業アルバムに記されていた亮太の苗字と同じだ。井口の話に間違いはないだろう。
 おそらくは、この事件がきっかけで両親がいなくなってしまった亮太は千絵に育てられることになり、いまに至っている。
 千絵がなぜ亮太を育てることになったか理由はわからない。ただ千絵は記憶喪失になってしまった亮太にその事件のことを知らせようとせず、さらには亮太がいじめを苦に自殺しようとしていたと偽装し、そのことが露見されそうになると亮太の本当の母親に虐待されていたことも千絵がしたと嘘をついてさくらに伝えた。
 千絵は亮太が記憶喪失と知ったとき、おそらく亮太の父親が母親を殺害したことを隠そうとしたのだろう。記憶が回復しないように千絵はあらゆる細工や虚偽を行い、本当の両親の存在を亮太から遠ざけようとしていた。
自殺の原因をまずは学校のいじめということにした。それが破綻しそうになると、虐待を自分が行ったということにした。千絵は自分が悪者になってでも、亮太の母親の立場にこだわった。
 井口の話を聞き、さくらは亮太の両親の事件のことを知った。そして千絵は亮太の本当の母親ではないことを知った。
 井口の話を鵜呑みにすれば、実の母親に虐待された亮太は自殺を決意した。では一体どのタイミングで亮太は記憶をなくしてしまったのだろうか。自殺を図ったときか、それとも父親が母親を殺害した瞬間を目撃したときなのだろうか。
 ただなにかのきっかけで記憶を失ってしまった亮太は、いまだに両親の事件のことを知らされず、偽りの過去に振り回されている。真実を知ろうとしている亮太にさくらはなんとかしてその希望を叶えてあげたい。
 だがその前に、例え井口からの話が真実だったとしても、まだ謎は残っている。なぜ織田に渡した小説を亮太が持っているのだろうか。
 亮太が記憶をなくした日にさくらは織田に小説を渡している。つまりその日にしか織田と亮太は交わることはない。
織田が殺された理由に亮太が関わっているのかもしれない。
 十年前、織田が殺された日に亮太は織田と接していた。それとも千絵と織田に関わりがあったのか。どちらにしても織田から第三者にさくらの小説が手に渡るとしたらあの日しかない。
 一体、あの日さくらが織田と別れたあとに何があったのだろうか。
 もしも、亮太の記憶が回復すればその謎が解けるかもしれない。そのために井口から聞いた話をすぐにでも亮太に伝えようとも思ったが、すぐにその考えを打ち消した。千絵の眠っている表情が頭に浮かんだからだ。
 亮太に両親の事件を知られないように千絵はこれまで嘘をつきつづけてきた。それは正しいことか、間違っているのかをさくらは判断することはできない。千絵の正義は亮太が中心にいるからこその思考であり、その正義を千絵の意識が戻らないあいだに悪に変えてしまうのは違う気がする。
 やはりいまは千絵の回復を待ち、彼女の言葉で亮太に伝えてもらうのがいいだろう。千絵を説得するのが自分の役目ではないかと思った。
市立図書館を出て、千絵が入院している病室に向かう。いまさくらにできることは千絵の回復を願うことだ。
 千絵の入院する病院へ行く途中、背後から気配を感じた。いつだったか同じ感覚を抱いたことがあった気がする。
 振り返ると、猫がいた。黒い毛並みのやせ細った猫だ。黄金色の眼光がさくらの視線と交わった。さくらはなぜかその視線からなかなか目を離すことができなかった。身動きを許されず、数秒間のあいだ、その猫と対峙していた。
 しばらくしてその猫は去っていった。まるでさくらの前に見えない不吉なものが届けられたかのような異様な感覚が残された。 

亮太5

 千絵の病室のドアがノックされたとき、亮太は眠りのなかにいた。病室の窓から入ってくる風が温かく、椅子に座りながら、うとうととしていた。だから、そのノックの音はまどろみを遮る雑音にしか聞こえなかった。
反射的に音のする方を向くと、背広姿の男が入ってきた。黒ぶちの眼鏡をかけた、痩せ型で背が高い男だ。その後からもう一人入ってきた。こちらは重心が低くどっしりとした印象だ。白髪交じりで、顔は皺が多く、とっつきにくい印象を受けた。眼鏡の男が背広の内ポケットからなにやら取り出して、亮太に向ける。それがなにか目覚めたばかりの亮太にはすぐに判断ができなかった。
「警察です。本多千絵さんだね」と、亮太に向かって眼鏡の男が言った「いや、彼は違うよ」と、白髪交じりの男が口を挟み、眼鏡の男をどけるようにして、亮太の前に立った。亮太は警察という言葉を耳にしても、しばらくは状況が理解できず、目の前の男たちをただ眺めていた。
「君は彼女とどういう関係かね、見た感じ息子さんかな?」白髪の男はそう言いながら、勝手にイスを滑らせてきて腰を下ろす。亮太がうなずくと、彼は満足そうな表情を浮かべた。そのあと、眼鏡をかけた男が霧島、白髪の男は神崎とそれぞれ手帳を翳しながら名乗った。そのしばらくの時間で亮太は警察だとようやく理解した。
「まだ千絵さんには話をうかがえる状態ではありませんね」霧島は神崎に向けて言った。千絵が動物のように観察されていると感じ、苛立ちを覚えた。
「母が何かしたのですか?」亮太が訊くと、神崎は後方を向き、ドアの方を向く。ドアは開いたままで、神崎は目で霧島に合図をした。霧島がドアを閉めるのを合図にしたように、神崎は鞄から何かを取り出した。亮太の目の前で掲げて見せる。
「ある場所でナイフが見つかった。そのナイフは調べてみると血液反応があった。それがそのナイフだ」
 透明な袋に入れられたナイフは禍々しく、亮太の目に刺さった。
 それを見た瞬間に頭が痛くなった。以前、千絵がさくらを襲っていたときに似た激しい痛みだった。
「このナイフが見つかった場所というのが彼女に関係があってね。彼女が前に救急車に乗せられた場所がこのナイフが見つかった場所と同じなんだ」
 亮太の視界が色をなくしていった。目に映る映像が力尽きていくように、明るさを失っていき、反比例するように頭痛は強くなっていく。和らげようと頭を押さえるが、まったく効果はない。
「君もそのとき現場にいたそうだね。息子さんと一緒に救急車で病院に来たことは調べがついている。このナイフに見覚えはあるかい?」神崎はもっと見ろと脅迫するように亮太の近くにそのナイフを掲げた。亮太はそれを奪い取った。すぐに霧島が亮太に手を出して取り返そうとする。だが、霧島の腕を神崎が抑えた「どうだい?なにか思い出したかい?」と神崎は言った。
 痛む頭のなかで、亮太はこの男は自分が記憶をなくしたことを知っているのだと思った。暗い視界のなかで神崎の視線が鋭く光って見える。野生動物が闇のなかで獲物を狙っているかのような視線が亮太に向けられていた。
 その光で亮太の記憶が照らされたのか、ある光景が頭を支配し、体中に流れた。ナイフを持っている自分の姿だった。ナイフを手にし、獲物を捉えていた。
 その獲物の顔はよく見えない。まるでその正体を知ってしまうと、もう取返しのつかないことになってしまうのを察し、寸前のところで記憶がその顔を思い出さぬようにしているのかもしれない。
 目を瞬かせると、視界がいまの状況の情報を知らせてきた。目の前の刑事たちは亮太に疑いの視線を向けている。横にいる千絵は依然目を覚まさないままだ。まったく状況は改善されていない。手足が震え、動悸が激しくなり、発狂しそうになる。視界が次元を失ったかのように、歪み出した。目の前にいた男たちの顔も原型を失っていく。なんとか気持ちを切らさぬよう耐えるが、もう途切れる気配がそこまで迫っている。
 そのとき、ベッドで物音がした。千絵が動いたのだった。はっきりしなかった視界が定まりだし、千絵の表情を捉えた。神崎も、霧島も千絵に注意が向いた。
 千絵は目を開けていた。そして口が動いた。言葉を発しようとしている。
亮太の感情が爆発した。亮太は何か叫んでいた。両肩を押さえられた。触れられたところから嫌悪感が体中に走り、咄嗟に振り払う。千絵とのあいだに、何者も邪魔されたくなかった。
目の前の男たちの表情が醜くひん曲がっている。赤鬼のように激昂し、怒気を含んだ言葉を浴びせられた。恐怖が襲ってきた。目の前の男たちに自分と千絵の関係を破壊されようとしている。そう感じた。
 目の前の男を突き飛ばし、亮太は駆け出した。手には袋に包まれたナイフを持っていた。

千絵7

 亮太の顔を最後に見たかった。
 全身の神経をまぶたに集中させ、力の限り、目を開けた。
 亮太は戸惑いの表情を浮かべていた。刑事たちに追及され、どうしていいのかわからずにいるのかもしれない。それとも、記憶がよみがえり、自責の念に駆られているのだろうか。
 亮太はあのとき心に深い傷を負い、正しい判断などできやしなかった。亮太が犯した罪は決して本人がもたらしてきたものではない。
「亮太は悪くない」
 声になって、亮太に伝わっただろうか。もしも本当のことを知っても自分を責めないでほしい。
 亮太は千絵に視線を合わせると、言葉にならない悲鳴を発した。刑事が亮太を抑えようとしたが、亮太は刑事の手を振り払う。限界がある千絵の視界の片隅でその様子は捉えていた。
 亮太は悪くない。刑事たちにもそう言いたかった。だけどもう彼らに届くような声は発することができない。
亮太が視界から消えた。刑事もつづけて千絵の視界から消えた。
逃げなくていい。いまは自分の傍にいてほしい。
 その願いをもはや千絵は声に乗せることができない。やがて刑事の怒声が遠ざかっていき、いま病室には千絵だけが残された。
 千絵は目を閉じる。もう開けることはないだろう。千絵は亮太との記憶を巡らせた。そうすると亮太が傍にいるような気がする。そして亮太を命の限り守るという覚悟を決めたときのことを思い出す。

 あのとき、亮太の表情は正気を失っていた。
 亮太の顔が鮮血に染められ、瞳孔は悪魔に乗り移られたかのように、不自然に彷徨っていた。
 千絵はその瞬間、自分がしでかした行為の代償で、亮太は狂ってしまったのだと思った。目の前の惨劇はすべて自分が引き起こしたものだと。
 亮太の前に人が倒れている。おびただしい出血があり、周りの地面を赤く染めていた。
 亮太は定まらない目の動きをし、千絵に向いている。持っているナイフの刃は赤く染まり、刃先から行き場を失くした血が滴となり、地面に落ちていく。亮太の体に流れる血さえもが、もう耐えられないとばかりに、体内から逃げているのではないかと千絵は感じた。虐待を与えた母親の遺伝子が体内に存在していることが許せなくなり、自ら傷を作り、放出しているかのように。千絵にはそう見えた。
 亮太をこんなふうにしてしまったのは、実の母親ではなく自分なのだ。自分が洋介に好意を抱かなければ、こんなことにはならなかった。
亮太を探している最中、千絵はずっと自分を責めていた。あの家庭を千絵が崩壊させ、亮太を孤独にさせてしまったのだから。
 千絵から洋介を好きになり、家庭を持っていることを知りながら彼に近寄り、洋介の家庭を崩壊させた。洋介は離婚し、亮太は母親に引き取られることになった。千絵は洋介と一緒になれることで一人だけ幸福感に浮かれていた。母親に引き取られた亮太は虐待を受けるようになり、洋介はそのことを知り、思い悩むようになった。千絵が洋介を好きにならなければこんなことにはならなかったはずだ。
 罪を犯しているのだ。その罪が亮太を苦しめてしまった。
亮太を救えるのは自分しかいない。出産の経験がない千絵だけれど、洋介との約束は千絵に母性を与え、目の前で震えている亮太がたまらなく愛しく感じられた。行き場を失い、ナイフの刃先さえも宙を彷徨い、亮太の不安が強烈に千絵に伝わってくる。
 目の前の亮太を千絵は抱き締めた。亮太はそのまま気を失ってしまったようだ。いまにも折れてしまいそうな細い体をしていた。それでも千絵は強く彼を抱き締める。これからは一緒に生きていく。亮太の体のなかに、少しでも自分の遺伝子を侵入させようとでもするように力の限り。数奇の運命を背負わせてしまった亮太をこれからは自分が守っていくのだ。
受けるべき愛情を千絵が奪ってしまった。その償いを千絵は命の限り尽くしていくことを誓った。自分が亮太に愛情を与えていく。亮太を全力で守る。
 洋介との約束は私たち家族の約束になった。千絵は埋めた亮太の背中を擦りながら、この子と二人で生きていく決意を固めた。

 いま思えば、あのときの覚悟は間違っていたのかもしれない。命を賭けて守ると誓ったものの、命をなくしてしまえば、亮太をもう守ることもできない。
 自分が罪を被らなければいけなかったのだ。あのとき、洋介がしたように。
 亮太と出会ってから、亮太を一番に思っていたはずだった。だけど、いま思い起こすと後悔ばかりが頭をよぎっていく。
 洋介にも謝らなければいけない。彼は再会のときを待っているはずだ。立派に成長した亮太と、その分、年を取ってしまった千絵と、再会のときは三人で家族になるはずだった。それが千絵の夢だった。亮太に洋介を紹介したかった。亮太にもちゃんと血の繋がった人がいることを千絵から知らせたかった。
 明かりを失った視界のなかで、千絵が見ているのは亮太と洋介が再会し、笑い合う姿だ。もうそのなかに千絵がいることはないと思うと、どうしようもなく悲しくなる。だけど、もしも天国というものがあるのならば、必ずその場に立ち会って、二人がもっと笑えるように、温かい風を吹かせて、祝福の花びらを舞わせてあげたいと、千絵は願った。

さくら23

 さくらが病室に行くと、千絵の周囲に医者と看護師がいた。彼らは無念そうにベッドで眠る千絵を見ている。その厳しい表情に、さくらは千絵の身を案じた。
 看護師がさくらを認めると「千絵さんが先ほど亡くなられました」と、やっと聞こえる位の声量でさくらに伝えた。前に病室に訪れたときにも、その看護師は千絵の看病をしていて、さくらのことを覚えてくれていたらしい。
 看護師がさくらに礼をし、医者と共に千絵から離れる。さくらは千絵の前に歩み寄り千絵の顔を見た。前に訪れたときよりも、穏やかな表情に見え、息をしていないことが信じられなかった。千絵と出会ってからまだひと月も経っていない。彼女が意識を失って病院に運ばれても彼女が死ぬことなど、予測もしていなかった。必ず意識を取り戻し、さくらに真実を伝えてくれるものだと信じていた。
 もう彼女の口から真実を語られることはない。彼女が生前にさくらに話してくれた内容は正しかったのかどうか確かめることができなくなってしまった。
「亮太さんには連絡したんですか?」千絵は背後にいた看護師に顔を向けて訊いた。
 すると看護師の表情がさらに険しくなった。それから看護師がさくらに伝えたことに衝撃を受けた。千絵の病室に警察が来て、亮太が逃げてしまった。逃げる亮太の手には刃物らしいものが握られていた。そのまま亮太とは連絡が取れないでいる。さくらにとって予想もしていなかった事態がいくつも看護師の口から聞かされた。さくらはそれらの情報を一度に処理することができず、混乱した。
 警察が千絵の病室に来た。どの事件の調査なのだろうか。そして亮太は逃げてしまったらしい。そして亮太の手には刃物が握られていた。
 看護師から聞いた内容はさくらの脳には受け入れられたが、そこから考えようとすると、これ以上考えてはいけないという警告が発せられ、思考を惑わせる。体に影響を与えるほど、体内の血が速度を増し、落ち着きを失っていく。たまらずさくらは病室を飛び出した。そしていますぐに亮太に会わなければいけないと、ただそのことだけを思った。それはさくらの使命であり、責任なのだと思った。
 病院を出ると、青い空が天を支配していた。さくらは導かれるようにして、あの場所へと急いだ。

亮太(死神)6

 空の青さに導かれるように、亮太が行く場所に躊躇いはなかった。ふらつくような足取りで、逃げるようにその場所へ向かっている。
 先ほどまでの割れるような頭の痛みは、いまは心拍と同じような感覚で、鈍い痛みがある程度に治まっている。
 千絵の病室に来た刑事たちはおそらく亮太を探しているだろう。刑事から渡されたナイフはいま亮太が持っている。刑事たちにしてみればナイフを奪い取られたとなると大変な失態だろう。いまごろは血眼になって亮太を追っている最中のはずだ。
 ただ刑事よりも、亮太は頭痛と共にもたらしてきた過去の記憶から逃げている。
 刑事からナイフを渡されたとき、激しい頭痛と共に、亮太は十年前の記憶の一片が思い出されていた。その記憶が映し出した映像は、亮太の頭のなかをすべて埋め尽くした。その映像に頭を戦略されたような感覚に陥り、煩悶しながら、その映像を振り落とすようにして、足を進める。
 記憶の回復は亮太がずっと待ち望んでいたことだった。だが、亮太は巡らせていた悪い想像が、いま頭のなかを支配している過去の映像と相違がなかったことに、絶望と恐怖が襲ってきた。
 自分は人を殺めていた。いま手に持っているナイフを触った瞬間によみがえった記憶は、亮太の体では許容できないほどの衝撃で、体がずっと震えている。
 ナイフを持った自分は、青年の胸にそれを刺していた。ナイフの柄が赤く染まっていく。手のひらにぬるっとした感覚がある。自分はそれでも青年の肉体にナイフを押し込める。そのときの殺意がよみがえってくる。自分は青年に抱いていた感情を刃先に込め、青年の体内で発散していた。殺意が青年に受け渡されたことを確認しナイフを引くと、青年は崩れ、倒れた。そのときの殺意にそれほどまでに悪意を抱いていないのを感じている。人の死を何度も見てきていたかのように、人の死に対して、特別な意識はなかったような気がする。その行為が自分の使命であったとさえ思えるほどだった。
 その場で倒れている青年を見下ろしている。少し離れたところに紙束を発見した。汚してはいけないと思いから、返り血を浴びていない服の袖を介して、それを拾う。
 さくらが書いた小説だった。さくらの好きだった人、織田を殺害したのは自分だった。
 そして自分の犯した罪をようやく認識したのか、手が震え出す。跪き、それでもさくらの小説を汚さないように、頭上に掲げていると、その小説を取り上げられた。すかさず、背後から抱き締められた。そのときの記憶では存在していない千絵だった。
 千絵の瞳にはすでに涙が溜められていて、彼女が笑うとその涙は盛大に流れ出した。彼女の泣き笑いはそのときの亮太に逃げ場を作った。亮太の記憶はそこで一旦暗転する。
 亮太は気づく。自分はそのときからいままでずっと逃げつづけていたのだと。
 千絵は殺人を犯した亮太に逃げ場をずっと与えてくれていたのだ。あの瞬間からこれまでの十年間、千絵は亮太の犯した罪を知りながら亮太を守ってくれていた。記憶を失った亮太に、亮太自身が犯した罪を思い出させないように、千絵はずっと亮太の傍にいて、導いてくれていたのだ。
 亮太は千絵に自分の過去を尋ねていた。口調を荒げたこともあった。それでも口を閉ざす千絵にむかついたことは何度もある。それでも彼女は亮太を見捨てなかった。本当の子供でもないのに、人を殺していることを彼女は知っているのに。自分はなんて愚かだったのだろう。
 なぜ千絵は亮太を引き取り、育ててくれたのだろうか。亮太と過ごした十年間、千絵はたくさんの愛情を注いでくれた。本当の母親ではないことを知っていた亮太は、安らぎの場を常に提供していてくれた千絵に感謝の言葉しか思い浮かばない。千絵は亮太を救ってくれた。
 十年前の記憶を亮太は取り戻しつつあった。これまでの記憶の断片を繋ぎ合わせると千絵が亮太に隠していた過去が想像できる。
「死んでくれない?」と、ナイフを向けられていた映像を亮太は思い出す。目の前の見知らぬ女は亮太の本当の母親だろう。その女から様々な虐待を受け、なお、死ねといわれ、遺書まで書かされた。女は持っていた卒業アルバムを奪い、その卒業アルバムになにやら手を加えていた。亮太はそのとき目にした縄跳びでその女の首を絞めた。織田を殺害したことを思い出すと、そのことも亮太は思い出していた。
 そのあとに女から渡されたナイフを持ったままその場から逃げ、そのナイフで織田を殺害した。
 自分は二人の人間を殺めていた。その事実が亮太の心に深い絶望を落とす。
 ただ違和感がある。女を絞殺した場面と織田を刺殺した場面との感情がどうも一致しない。織田を刺した瞬間の感触や感情は残っているが、女を殺める場面はただの映像として記憶に残っている。なにか自分ではない何者かが自分の体を使って女を殺しているかのように思える。まるで映画でも見ている感覚だ。
 それでも自分は二人の人間を殺めていたことは事実だ。そしてこの十年間贖罪もせず、記憶を失ったと悲劇の主人公を気取り、千絵のしてくれていたことに感謝もせずに呑気に生きていた。そして記憶が回復した、いまでもまだこうして逃げている。
 取り戻したかった記憶は、取り戻してみると、亮太には抱えきれない重さであった。
 千絵はこの十年間、その思いを一人で支えていたのだ。本来ならば亮太が請け負わなければならない罪を。
 空に導かれるように足を進め辿り着いた場所は、そんな亮太を嘲笑するかのように、花を咲かせた桜の木だった。
 遊歩道に下りると、桜の木は花びらを纏い、薄紅色のトンネルを形成している。前にさくらに会ったときは、まだつぼみだった桜の木は、いまは花びらを数え切れないほど咲かせている。それまでの月日はまだ過去を知らなかった亮太が、大罪を抱えるほどの過去を思い出したほどの時間であり、桜も花を咲かせるほどの時間でもあったけれど、思い返してみればあっという間だった。その時間はさくらが心にいた同じ時間で、彼女の顔が記憶に存在していたことで、短い時間だったと感じたのかもしれないと思った。
 足を進め、桜の木の列を横切っていく。風が吹き、桜の花びらが舞い落ちる。頭が疼き出し、桜の花びらが舞い踊るように、亮太の頭のなかも撹乱し、過去の記憶が圧迫して、二つの殺人を犯した場面が脳裏を何度も巡る。
 この十年間ずっと取り戻したかった記憶だ。それがいざ手にいれてみると、過去の映像が、自分の体では支えきれないほどの感情を押し寄せてくる。
 その抱えきれない感情にどうしようもなかったとき、実際にその体を捨て、別の生物に逃避したことも思い出した。
 視線は限りなく地面に近い。自分の名前は『タロウ』だ。自分の任務はさくらの生を奪うこと。さくらに対しての感情がいまの肉体では支えきれなくなっていた。
いますぐこの肉体を放棄しなくてはならない。
 雪が降る公園で寒そうに身を震わせている人間が視線の先にいた。みすぼらしい恰好をし、野良猫のように住むところがないのか、体が汚れている。その人間に憑依を試みた。タロウを捨てるときだ。タロウの肉体は血が沸騰し、急激な速度で体を駆け巡っていた。このままでは任務を遂行するどころか、肉体が滅び、死んでしまうと思った。だからタロウを捨てるしかなかった。 
 新しい体を手にしたとき、血の温度は和らいだ。目下には横たわった猫がいる。名前も知らないその人間の手で猫の死体を抱え、タロウを葬った。
 過去の記憶が芋づる式に思い出される。七本目の桜の木まであと数歩だ。依然、頭のなかは混沌とし、理性が失いそうになる。それでも亮太はその場所へ行かなくてはいかない。なにかに導かれるようにしてその場所へ足を進める。頭のなかの映像は巡り巡ってナイフを映し出していた。いま手にしているナイフではなく過去の映像のナイフだ。
 小さな男に不釣り合いに、ナイフが握られていた。そのナイフは震え、刃先の行き場を探っているように見えた。
 そのナイフに注いだ視線が切り開いたかのように殺意が芽生えていた。任務とは違う種類の殺意だった。
さくらと男が抱き合い唇を重ねていた。さくらの恍惚した表情が脳裏を巡る。その映像が、頭にこびりつき、心が鷲掴みにされ、殺意がわき起こってきた。掴まれた心が悲鳴をあげ、それから逃げるためには殺意を解消することしかない。目の前の小さな男の持つナイフが必要だった。
 ナイフを持つ小さな男に憑依を試みる。その小さな男は容易に侵入ができるほど、心が弱っていた。まさに殺意を達成するために用意されていたかのようで、躊躇うことはなく、その少年の心に入り込んだ。そしてついさっき女を殺めた場面が見えた。そうか、女を殺したときの妙な感覚は、この体に憑依する前の記憶だったからか。
 小さな男の体だった。軟弱な心の持ち主だった。頼りない手足であった。体は震え、立っているのがやっとの状況だった。だけどその手にはナイフを持っていた。まるで手と一体になっているかのようにナイフは強く握り締められていた。新しく手に入れた小さな体で殺意の相手を追った。
 新たなターゲットに追いつくと、手を差し出すように、その対象にナイフを刺した。亮太が織田を殺した。掟を思い出す。ターゲット以外の人間を殺した場合、もうあの世界へは戻れない。死が存在する世界で、死を待つこととなる。
 思い出した過去は、過去というよりも次元の違う世界で、もはや現実味はない。だけど思い出した過去は実際に体験した偽りない過去だ。
 その過去を清算しなくてはいけない。
 亮太は細々とした枝にいまはきれいな花びらを纏い、見事におめかしをした桜の木の列を通る。川を挟んで向かい側にも同じように桜の木は花を咲かせ並んでいる。風が運んできた桜の花びらが亮太の頭上に降り、足下には落下した花びらが水玉模様のの絨毯となる。
桜の花びらが舞うこの季節は、束の間しか生きられないことを嘆くように咲く桜の木のように死があることを諭す。
 七本目の桜の木の前に亮太は立ち止まる。さくらと出会った『約束の場所』に、亮太は再び来た。
 その七本目の桜の木は亮太の特別な感情も絡んでいるのか、列をなす桜の木のどれよりも異質に見えた。他の桜の花びらよりも赤が濃い。まるで死体が埋められていて、その血を養分にしているかのように。
 加えて、この一本だけ他の桜の木より小さい。競い合って花びらを咲かす桜の木のなかで、この場所にいることに劣等感を抱いているかのようだ。死の世界に来てしまった自分と重ねる。
 なぜこの世界に来てしまったのか。織田に殺意が芽生えたとき、死の世界で生きていくことに恐怖がよぎった。なぜ自分は死を迎えるために生きなくてはいけないのか。
 その恐怖を超えたものが彼女への感情だった。
 ターゲットに抱いてしまった感情は、小さな体では支えきれなかった。タロウの肉体を借りたまま、彼女の声に癒やされ、彼女の笑顔に励まされ、彼女に触れると、心地よかった。ときに涙を流した彼女を助けたいと思った。
 彼女に生きてほしいとずっと思っていた。
 死はとてつもなく怖い。死に送る仕事をし、そして永遠の存在を知っている分、死ぬという時間は想像すれば、たどり着くのは絶望以外にはない。そんな死を彼女に与えることはできなかった。たとえ永遠の命の約束を放棄したとしても。
 七本目の桜の木の前にいると、風が肌を突き刺した。まるでこの場所だけ強風が落ちてきたかのように花びらが乱舞する。それは過去の自らの決断を叱責しているかのようだ。薄紅色の花びらが宙に舞うと、血しぶきのように赤くなり、視界を鮮赤に染める。それは織田を殺害した記憶が乗り移ったかのように。そして狂い咲く桜の木の前で、まるで約束していたのか、猫が姿を現した。
 所々骨の形がわかるほどやせ細った黒猫だった。黄金色の目をしたその猫の視線が向けられた瞬間、亮太は自分の体が浮遊する感覚がし、頭のなかに何者かの意思が侵入をしてきたのを感じた。

さくら24

 十年前は裸だった桜の木は、いまは薄紅色の花びらを蓄え、穏やかな春の陽気に合わせ、この瞬間に最高のパフォーマンスをしている。それは雲のない今日の青い空に見せつけるようにも思える。
 川を挟んで両端にある遊歩道が、桜の花びらの屋根に覆われ、橋の上からはよく見えなかった。それでもさくらは彼がこの場所にいると確信があった。よく見ると、桜の花びらに覆われて、見えないと思っていた遊歩道の一部だけ凹んだ部分があり、そこから遊歩道の一部分が覗けた。さくらから右手側の桜の列で、そこに人影も見えた。あの場所は七本目の桜の木だ。やはり亮太は『約束の場所』に来ていた。
 戸板橋から遊歩道に下りる。すると桜の花びらのトンネルに入ったかのように、圧倒されるほどの桜の木に迎えられた。陽光が桜の花びらの薄紅色をより鮮明にし、見上げれば、桜の花びらを身につけた枝たちから、青い空が覗ける。織田と見たかった光景がさくらの目の前で拡がっていた。だが、いまのさくらに感動するような余裕はない。前方にいる亮太の様子が明らかにおかしかったからだ。
 まるで地球の引力に引き込まれるのではないかと思えるくらい、体が前方に傾き、頭は垂れ、両手もだらんと垂れ下がっていた。そして片手に持つナイフの刃先が妖気に輝き、桜の木に囲まれた亮太は妖艶に演技でもしているかのように体を左右にふらつかせながら、その場所に存在していた。さくらに気づいて、顔だけをこちらを向ける。
 さくらはゆっくりと亮太に近づいた。手を伸ばせば触れられる距離だ。
「千絵さんが亡くなったわ」
 亮太はなにも言わずゆったりとした動作で体もさくらに向けた。神経が愚鈍になり、脳の命令がうまく体に伝わらないのか、ぎこちない動きだった。亮太の目がなにも映し出さないのか空虚で、その瞳の奥には永遠の闇に繋がっているのか、深い穴ぼこのようで、潤いが感じられない。光を遮断し、この世界を拒絶しているかのようだ。さくらは以前に同じような目をした人物と出会っていた。千絵がそうだった。同じようにナイフを持ち、刃をさくらに向けたとき、こんな眼力をしていた。
 だが、そのときと違ってさくらは恐怖を感じなかった。逃げ出したいとも思わない。目の前の異常な様子の亮太を助けなければいけないと思った。それが自分の使命とさえ感じていたからだ。
 亮太の横の桜の木の下に、黒猫が横たわっているのが見えた。顔がこちらを向いていて、前に見たことのある黒猫だと直感的に思った。もう命はないのだろう、黄金色に光っていた目が白く濁っている。
 さくらは再び亮太に視線を向ける。呼び掛けても反応を示さず、さくらをただ見ている。興味もなく、ただそこにさくらがいることも理解できていないのだろうか。彼の瞳は無そのものだ。 
「千絵さんが死んでしまったの」さくらはナイフを持つ亮太に再び話し掛ける。風が吹き、桜の花びらがいっせいに舞う。亮太は反応しないが、さくらの言葉に見えない何かの力が応じているかのようだ。励まされた気分になった。
「千絵さんは君の実の母親ではなかった」それからさくらは井口の話を亮太に伝えた。聞こえてもいないかもしれないが、構わずにさくらは声を出し、抑揚をつけ、彼に言葉を浴びせる。そうすることで、彼にこの世界に戻ってきてほしかった。生きている言葉を掛け、生きている表情を見せ、いま生きる世界に興味を持ってほしかった。それでも亮太はさくらを直視したまま立ち尽くしたままだ。井口の話を伝え終わっても彼は身じろぎひとつせず、空虚な目でさくらを見ている。
「織田を殺したのはあなたなの?」体から漏れたように、小さな声でさくらは言っていた。なんでそう呟いたか、さくらにもわからなかった。気がつけば根拠もなく声に出していた。もしかしてなにも反応を示さない亮太に腹が立ったのかもしれない。だけど、いざ言葉にしてみると、その可能性があることに気づいた。十年前、織田が殺された日に亮太の両親の事件が起きている。そして亮太はさくらが織田に渡した小説を持っていた。そして織田はナイフで胸を刺されて死んでしまった。亮太がいま持っているナイフはもしかして、十年前に使われたナイフではないのか。
 亮太の実の母親は絞殺であった。ナイフは使用されていない。だけど織田の殺害にはナイフが使用されている。犯人はまだ捕まっていない。
「織田を殺したのはあなた?」今度ははっきりと言葉にした。
 亮太の口からうねり声が漏れた。さくらの言葉にようやく亮太は反応らしいものを見せた。
「だから私の小説を持っていた」
 亮太の瞳孔に光が宿ったように見えた。厚い雲に隠れて光が届かなかった月光が、雲が晴れて、月夜の空にするかのように。さくらに光が届けられ、心のなかに隠れていた勇気を見つけ出す。
「私の小説おもしろかった」さくらが言うと、亮太は反応を示した。瞳にわずかだけど光が点在した。そしてしばらくして「うん」と、呟いた。
 亮太が正気を戻したかのように思えたが、しばらくして眼光が怪しくなっていく。亮太はいま何者かと戦っているのかもしれない。さくらを見る彼の両目の光が定まらず、彼の瞳の奥の世界が激しく移り変わっているようにわずかな光が揺れ動いている。 
「私も殺してみる?」
 その言葉はさくらが知っている亮太ではなく、他の何者かに向けてさくらは言った。いま亮太の体なかにいるもう一つの人格に挑発をする。きっと亮太の体をその人格が乗っ取ろうとしているのだ。そしてさくらをいま手にしているナイフで殺害しようとしているのかもしれない。十年前もそうして織田を殺害したのだろう。
 さらにさくらは手を広げ亮太のなかにいるもう一つの人格にけしかける。なにか悪魔払い場面でこういうのを見たことがあったからの行動だったが、考えてみるともう一つの人格を表に出しては逆効果なのではないかと頭によぎった瞬間、案の定彼が向かって来た。もしかして本気にしてしまったの?さくらは大いに後悔した。
 まず首に亮太の熱を感じ、それからさくらの背中に手が回された。ナイフの持っていない方の手だ。さくらは身動きがとれない。力が強い。亮太の体を操っている人格の力が強いのか、それとも、劇的に亮太は正気を取り戻し、もう一つの人格に反抗するために力が強くなっているのか。いま亮太の体を動かしているのはどっちなのだ?
 亮太は強引にさくらの口をふさいだ。さくらは彼にされるままで顔を上にされる。空が見えた。桜の花びら越しに青い空が見える。もしかして七本目の桜の木が小さいのは織田の導きで、この瞬間を空から見ようとしていたのもしれないと思った。
 しばらくのあいだそのまま時間は過ぎた。さくらは抵抗をしなかった。彼はさくらが知っている亮太であることを確信したからだ。伝わる熱に温かみを感じ、春の訪れのような、生命の息吹が注ぎ込まれる感覚が、全身を駆け巡る。比べてはいけないのかもしれないけれど、織田との口づけの感覚がよみがえってきて、さくらは高揚感に支配された。
 まるで永遠にこの七本目の桜が花びらを咲かすことも不可能ではないと思えてくるから不思議だ。きっといまの光景はずっとさくらの記憶にありつづけ、これからもさくらに命を燃やすための燃料になっていくのだろう。さくらの心のなかでこの桜の木はずっと花を咲かせ、いつでも思い出すことができる。そしてここから見えるいまの空も、きっと、ずっと、さくらのなかに居つづける。この青い空は限りなく完成に近くない?そうさくらは織田に問い掛けた。亮太に抱かれながら、そう思うのは不謹慎なのかもしれないけれど、悪いのは約束の日に来なかった織田だから。しょうがないよね。
 亮太はさくらから離れるとごめんと呟いた。目が合うと照れて彼は目を逸らした。逃げた彼の瞳にはまばゆい光が点在し、命が感じられた。亮太は体を支配していた何者から自分を取り戻し、生還したのだ。
「君が生きていくためのおまじないだ」と、柄になく亮太は言った。視線もしっかりとさくらに合っていた。
「きっとこれでうまくいく」
 なにか覚悟を決めたような精悍な顔つきで亮太は言った。
 そして彼はさくらから後ずさりし離れていく。ナイフを自分の体に向けた。さくらが叫ぶと、彼は崩れ落ちた。強い風が吹いたのか、桜の花びらが一斉に宙を舞った。まるで桜の木から逃げるように。この世界から逃げようとするように。その花びらは赤く、青い空の中で踊っていた。

亮太(死神)7

 黒猫が死んでいる。魂が抜かれ、肉体だけとなった黒猫が花びらを咲かせた桜の木の下で死んでいる。まるで死んでしまった猫の血を養分にしているかのように、この桜の木の花びらは赤が濃い。
 手に持つナイフを前に差し出す。自分の意志ではない。自分の体はすでに乗っ取られている。
 遊歩道にさくらが現れた。心配そうな表情でこちらを見ている。そして歩き出し、こちらへ向かってくる。
 怖くはないのだろうか。ナイフを持った男になぜ近寄って来る。しかもさくらは知らないかもしれないが、二人の殺人を犯しているのに。それに加えて自分はいま死神に乗っ取られた体を持つ、元死神なんだ。知らせて逃げるように伝えたくても、その術は持ち合わせておらず、彼女に思いは届けられない。
 顔だけががさくらの方へ向く。さくらが近づいて来るのを待っている。ターゲットはさくらだ。なぜさくらをこの世界から消さなければならない理由も知っている。彼女はこの世界では特殊の能力を持つ人間だ。だから死神のターゲットになっている。
 十年前同じ指令を与えられた死神は過ちを犯してしまった。さくらに好意を持ち、彼女の命を奪うことができなかった。与えられた任務を放棄した。その報いは死の運命を定められた世界に行くこと。たどり着くところは死という永遠の無の世界だ。
 存在したときは永遠を知っていたはずだ。それが一時、記憶は失われ、いまの世界で生きることとなり、心のどこかで死を意識しながら、最終終着点の永遠の死に向かい時間に身を任せている。
 死ぬのは怖い。意識しないようにしても、意識せざるを得ないほど強烈な恐怖の力を持っている。
 それをさくらにも向けるのか。
 体は支配され、歯向かうことはできない。意志は無視され、視界でさえも思いのままにならない。さくらが向かって来る。逃げてくれと叫ぼうとするが、もちろん声も出ない。そして体もさくらに向かう。彼女に狙いを定めた。
 手を差し出せば触れられる距離まで彼女は来た。それはナイフが届く場所だ。それでも、勿体つけるように、手を下そうとしない。さくらに視線を向けたまま微動だにしない。ただそのおかげで彼女を瞳にずっと映すことができている。
 花を満開に咲かせた桜の木の前に立つ彼女はとても綺麗だった。まるで永遠に咲きつづける桜の木のように、刹那的に美しい。花びらが舞い踊るなかで、彼女は憂いたまなざしを向けている。自分を心配してくれているのだろうか。ただ、いまこの視界に彼女は存在していることによって、彼女が危うい状況に置かれているのならば、彼女をこの視界から逃れさせなくてはいけない。死神の手の掛かる範囲から離れさせなくてはならない。それは自分の視界から、世界から、彼女を解き放つことである。さもなければ彼女をこの手で殺めてしまうのだ。彼女の存在しない世界はもう想像できない。だから彼女より先に自分の世界を終わらさなくてはいけない。だけど体は思うように動かない。自分の世界はすでに侵略されてしまった。
 彼女の声が聞こえる。彼女は視界に存在したままだ。彼女の潤んだ唇が開く「千絵さんが亡くなったわ」
 様々な感情が押し寄せてきた。だけど体は動かず、涙も込み上げず、発散することができない。千絵の優しい表情、声、手の温もり、千絵と触れた多様な記憶が受動する感覚を手一杯にするが、それにしても致命的に発散できる感覚が愚鈍すぎる。もはやなにも抵抗はできないのか。
 さらにさくらは言葉をつづける。そのひとつひとつに心が震える。さくらの声が身に染みる。冬の寒さで眠りから覚める桜の木のように、彼女の声が、動かせられない体に再び力を呼び覚ます。まだできる。まだ冬眠状態なだけなんだ。再び体を動かせるはずだ。なによりもさくらの声に反応したい。
 織田を殺害した。さくらが夢見ていたことを台無しにしてしまった。どれだけ謝罪しても言葉は足りない。それなのにまだなにひとつ彼女に言葉を届けていないではないか。生きているあいだに、彼女と触れ合えているあとわずかな時間で、彼女に思いを伝えなくてはいけない。
 十年前、さくらを初めて見たとき、任務の最中だった。思い返せばあのときは恋心なんてもの知りもしなかった。それが彼女が自分の世界に存在したとたんに、世界が変わった。
 世界に光が射し込み、いままで殺伐としていた感情が豊かになり、その光に感情のベクトルが向かう。その光源はさくらだった。だからさくらが悲しい表情を見せると、世界は侘しくなり、さくらが違う世界に行こうとするとそれを阻止した。自分がいる世界は彼女が中心に回っていた。
 視界のなかで彼女は生きている。生命の力を訴えている。ただいまは死神に狙われている。彼女を救うために、死神の手から解き放つために、なにができるのだろうか。
 自分の世界を取り戻すんだ。死神に体を操らせないようにすればいい。心を強く持とう。死神になんて心を支配されない。気持ちが彼女に伝えようと気力を探し、絞り出す。
「織田を殺したのはあなた?」彼女の言葉が突き刺さる。
 さくらから織田を奪ったのは自分だ。自分を見てほしかったから、自分を知ってほしかったから、同じ世界にずっといたかったから、彼女をずっと見たかった。彼女が手の届かないところに行ってほしくなかった。例え永遠を捨ててでもあの瞬間、彼女が自分の世界にいてくれればそれでいいと思った。だから織田がさくらを手に入れる前に、織田を殺した。
 さくらに謝らなくてはいけない。さくらに言葉を出して。そう願うと視界が鮮明になっていく。希望の光が射し込まれたかのようだ。気持ちを強くし、光をもっと大きく取り込むのだ。わずかな時間でいいから、自分の体を操れる時間がほしい。彼女に集中していると、ようやく彼女の問い掛けに反応ができた「小説おもしろかった?」彼女の声に時間をたくさん使ってしまったけれど「うん」と口を動かせた。勇気が一斉に湧いた。
 それでも自分の体の状況はまだ掌握しきれていないのがわかる。神経が朦朧とし、どの意志に従えばいいのか迷っている感じだ。
「殺してみる?」
 彼女の一言で死神が反応をしたかのように、体を震えさした。視線がナイフの刃先を見る。そして再び彼女に向いた。
 さくらが手を広げている。彼女に触れたい欲求に支配された。
 彼女に近づく。どの意志に従って体が動いているかはまだわからなかった。自らの意志は彼女に向かっていたが、死神の意志もそう体を動かしている可能性はあった。そして彼女に触れた瞬間、自らの意志が勝ったことを知った。触れた感触が熱を帯び、全身に伝わっていく。体中の細胞が覚醒していくのを感じる。十年間慣れ親しんできた体に再び吹き込まれた熱は、全身に喜びを満ちさせて、さらに高くなっていく。
 だけど喜びにいつまでも浸ってるわけにはいかない。自分にはわずかな時間しか残されてはいない。
 力づく彼女の唇をふうじた。それからの時間は永遠だった。彼女と唇を合わせているあいだ彼女から永遠を知れた。
 強い風を感じた。視界は閉ざしていたけれど、急に強く吹いた風は、きっと桜の木から飛び出したばかりの桜の花びらを舞い踊らせているのだろう。永遠にしがみついていた花びらは、桜の木から離れてしまえばもう戻ることはできない。そのことを受け入れられず狂い、あとは散ることしかできない。
 目を開けた。かろうじてまだ体をコントロールしていた。光がよみがえった視界が映し出した空は美しく、青だった。その空の下、青い空間に赤い花びらはやはり舞い踊っていた。
 彼女から離れると、束の間知れた永遠がするりと遠ざかっていった。この体に他の者が宿っているうちに永遠を終わらさなくてはならない。持っていたナイフの刃先を自分の方へ向け、強く押しつけようと、体に命令をした。だけど想像よりも愚鈍な動作になった。もしかして、体を再び乗っ取られてしまったのかと思った。最後のときはまだどちらの意志が体を動かしたかはわからなかった。ただ望み通りにこの体にナイフを突き刺すことはできた。痛みは感じなかった。
 この肉体から勢いよく飛び出していった赤い血は狂った血が混ざっていたのだろう、重力を無視し、空へ昇って行くようにして飛んでいく。この命が尽きてしまえばどこにこの体や意思は向かっていくだろう。身軽になった自身はたどりついたその場所からも彼女を知ることができるのだろうか。
 もうすぐに死が訪れようとしている。あれだけ死に怯えていたのに、いまはそんなに恐怖を感じない。死ぬのはただ産まれる前に戻るだけなんだ。これからは永遠に咲くさくらの下で、この魂は眠り、ずっとさくらに力を与えていけるのなら、死もそんなに悪くない。


エピローグ 残桜

「鳥がいるよ」
 少し前を歩いていた息子が振り返り、駆け寄って来た。私の元に戻った息子と共に空を見る。二羽の鳥がさえずりながら、空を飛んでいた。
今日は小学一年生になる息子の診察日で息子を学校まで迎えに行き、これから病院へ行く途中だ。少し診察時間まで時間があったので、天気もいいことだし、少し寄り道をして川辺の遊歩道を歩くことにした。
 今日の空は透明度が高い青だ。そのなかを白くモクモクとした雲がいくつもの大群を成して闊歩している。それらは一応に同じ方向に向かい、二羽の鳥を追っているようにも見えた。まるで広い空を遊び場として鬼ごっこをしているようだ。
 息子は私の手を掴みだっこをせがんだ。息子を抱き上げる。息子の顔がすぐそこにあるが、彼は空を見たまま私の方を向いてはくれない。息子の名を呼ぶと、振り向いてくれ、その愛しさに思わずキスをしてしまう。鳥のさえずりが盛大に聞こえた。冷やかされているように感じて、息子相手のキスでも恥ずかしくなってしまった。
 よくだっこをせがむ息子に「だっこが好きだね」と訊く。息子は「だって空に近づけるんだもん」と空を見ながら言った。
「じゃあ早く大人にならなきゃね。ママよりも大きくなるまで、ママがだっこしなくちゃいけないんでしょ」
 息子の両脇を抱え、空に近づくように高い高いの要領で息子を頭上に上げた。すると息子が「怖いよ、降ろしてよ」と、叫ぶもんだから、息子をすぐに地上へ生還させる。
 本当に怖かったのか息子は私にしがみつき「僕、ちゃんと大人になれるの」と、私のお腹に顔を埋めながら呟いた。
 息子を見ると、髪の毛はなく、頭皮が顕わになっている。皮膚は皺が多くて、見た目は老人のようだ。体は同年齢の子に比べると明らかに小さいが、体に対して頭は大きく、病状が顕著に息子の体に影響を与えている。だから息子の問いに「なに言ってるの、怒るよ」と、はぐらかすことしかできない。子供をきちんと大人に成長させるのが、母親の義務だとわかっていても、息子の顔を見て、そのことを約束できないことがもどかしくてならない。
 小学校に入学したばかりの息子はまだ人生を始めたばかりだ。彼にはもっともっと人生を謳歌してほしい。そのためには私はなんだってしてあげられる。
 息子は私のお腹から顔を出し、私を見上げる。なんかカンガルーの親子みたいだなと、思っていると「やっばりママのお腹って気持ちいい」と言って、私の手を握る。さっき怒るよと言ったことを本気にしてしまったのだろうか、少し甘えた表情をしている。息子といるときはできるだけ笑顔でいようと誓っていたはずなのに。反省して息子に笑顔を見せると息子も笑顔を見せてくれる。だから笑顔になるのはすごく簡単なことなのだ。
「ママの手はつやつやして好きい」「友達のママと比べて若いからうれしい」「黒い髪の毛もいっぱいあってうらやましい」と、次々と私を褒める。ここまでくると何か思惑が潜んでいると、疑ってしまう。ただ、たしかに息子が生まれてから、体に張りがあるように自分でも感じる。年を重ねていくほど、若返っているように思えるくらいだ。 
「そんなに褒めてくれて、ありがとう」
「いいよ、ママのこと好きだから。好きな人には褒めるのが一番って先生が言っていたから。おまえひゃくまで、わしゃくじゅくまで、だよ」
「なにそれ、今日のことわざ?」息子のクラスでは朝礼で一つずつことわざを教わるらしい。
「そうだよ。今日はおの日で、おまえひゃくまでわしゃくじゅくまで」と、頼りない言葉使いで彼は言う「どういう意味?」私がこう聞くのもいつもの流れだ。すると息子は得意げな顔をして、いつも私に教わったばかりのことわざの意味を教えてくれる。
「好きな人と一緒に長生きして、好きな人がいなくなるより先に自分がいなくなったほうが幸せだよって。だから先生はいつも奥さんを褒めて、いなくならないようにしてるんだって」
 そして息子は私の体から離れ、遊歩道を歩き出した。私も後を追う。数歩先に息子がいる。後を追う形になり、先ほどの鳥と雲の鬼ごっこを思い出した。もしも、鳥は雲に捕まってしまったら、もう鬼ごっこはできなくなってしまうのだろうか。そう頭によぎると、息子に追いつくことを躊躇ってしまう。そのまま少しの距離を空けながら、遊歩道を歩いていると、息子は立ち止まり振り返った。そして私の顔を見ながら言う。
「だから、ママは僕より先に死んだらだめだよ」我慢ができず、笑顔が崩れた。


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