「クルイサキ」#30
三章 淀桜
亮太 1
運ばれてきたアイスティーにミルクを注ぐと、グラスのなかの氷がバランスを崩して音を立てた。ストローで混ぜると氷がぶつかってさらに音が増す。本多亮太はその音が耳に心地よく、必要以上にアイスティーを混ぜた。
さくらはどのような報告を亮太にしてくれるのだろうか。さくらから当時のクラスメイトと会えることになったと連絡があった。今日、そのクラスメイトの話を聞いたあとに亮太にこれまでの経過を報告しにくる手筈となっている。
この十年間、亮太は記憶を失ったという過去に何度も苦しめられてきた。過去を知らないという事実は人生を途中参加させられたかのような気分がする。自分の人生に遅刻し、その罪悪感がずっと心に残っている感覚だ。それを払拭するには記憶を戻さなくてはならない。もしそれができなくても最低限は自分の過去は知っておきたい。このまま過去が損なわれたままでは、成長という感覚が乏しく、いま生きている時間さえも怪しく思えてくる。
それなのに亮太がこれまで積極的に過去に向き合ってこなかったのは、身近な人間で唯一亮太のことを知っていると思われる千絵が、亮太の過去を話したがらなかったからだ。それは暗に亮太の過去が悪いことを示唆していた。そう思うと過去を知るのが怖かった。記憶を戻したいのに、過去を知るのが怖いというジレンマを抱えたまま、十年の月日が経過していた。
ただ過去を完全に忘れる決心をしたわけではなかった。
十年前にさくらの小説を読んだとき、ある約束が記されていた。亮太はその約束に勇気づけられ、約束のときを待っていた。十年後の再会が約束されていたからこそ、亮太は過去を放棄することはなかった。
田畑さくらという人物を想像して、何度も約束の瞬間を夢想した。はたして亮太の過去にどんな繋がりがある人物なのだろう。その人物が亮太の記憶をよみがえらせるきっかけになるのかもしれない。亮太はこの約束があったからこそ、その約束の日まで記憶を取り戻したい欲求を抑えてこられたのだ。
退院してから、亮太は千絵と二人で暮らしはじめた。新しい生活はそれまでの記憶がまったくなかったから、逆に新鮮味がなかった。まるで途中から見はじめた映画をずっと眺めているかのように、淡々と日々は過ぎていった。
千絵に自分の過去を何度も訊くのだが、彼女はいつも亮太をはぐらかし、話をしたがらなかった。それでも一度亮太は強い口調で千絵に尋ねたことがある。
「十年前になにかあったの。なんでなにも教えてくれないの」
「亮太を傷つけたくないの」
「僕の過去に自分が傷つくようなことがあったってこと」
千絵は逡巡するように目を瞬かせた。それから「わかった。ちょっと待っていて」と言って、部屋から出ていった。
しばらくして千絵はダンボールを持って戻ってきた「あなたの小学校時代のものよ」と、言ったあと千絵は部屋を出ていった。いま思えばこれから過去を知ろうとする亮太を慮ったのだろう。
ダンボールのなかには小学校時代に使ったと思われるノートやプリント類、工作物があった。それらを手当たり次第に確認していくと、卒業アルバムが入っていた。ようやく自分の幼きころの顔が見られると思い、心が疼きだした。
ページを開いた瞬間、息が詰まる感覚がした。罵詈雑言で落書きされている写真を見て、それらを消し去ろうとでもするかのように、頭はまっしろになり、自分の過去を受け入れられたくない拒否反応からか、これらの意味することがすぐには理解できなかった。唐突に突きつけられた悪意に亮太はただ愕然とするばかりだった。
自分の顔写真と思われるところは目線が週刊誌の少年Aのように黒く線が引かれていて、名前も線が引かれている。耐え切れず、亮太は必要以上に強くページを閉じた。
背後にはいつの間にか千絵がいた。後ろから抱き締められ「なにも過去にこだわることなんてない。これからを大事にしていけばいいの」と耳元で亮太に呟いた。
母は出しっぱなしだった物をダンボールに片づけていた。その途中で亮太はまだすべて確認していないことを思い出し、千絵を呼び止め、もう一度ダンボールの中身を探った。
先ほど確認したものを脇にどけながら、ダンボールの奥を探った。A3サイズの茶封筒があった。持つと相当な厚みが感じられた。
茶封筒を覗くと百枚ほどの紙束があった。一番上の紙にはその紙束のタイトルと思わせる言葉が記されており、その下に田畑さくらと表記されていた。おそらく小説だと亮太は理解した。隣で片付けが終わった千絵は亮太に手を出し、その小説を受け取ろうとしていたが、亮太はそれを無視して自分の部屋へその小説を持っていった。千絵はなにも言わなかった。
一体これはだれが書いたのだろうか。そしてなぜ自分の荷物のなかに入っていたのか。自分の記憶に聞いてももちろん反応はなく、とりあえず読んでみることにした。
読み進めていくうちに、いつの間にかこの小説の世界に引き込まれていた。ただ純粋に生きていくこの主人公に好感を抱き、亮太はこの小説の世界にいるかのように錯覚した。一気にこの小説を読み上げ、その時間さっきまで抱えていた悩みを忘れていた。
そして最後のページに約束はあった。
『20××年三月十日。戸板橋から七本目の桜の木の前。田畑さくらと待ち合わせ』と、記されてあった。
この作者に会えるかもしれない。亮太は興奮した。きっとこの作者は亮太の過去に関係しているかもしれない。亮太がこの小説を持っているのが、その証拠だ。
十年は長いかもしれない。だけどこの約束があれば生きていける。亮太は過去を詮索することを止め、その日まで過去にこだわらずに生きていこうと誓った。
亮太はその日がくるまで何度も妄想を抱いた。
きっとこの作者は自分のことを知っている。なにしろ小説を亮太が持っている。その人物と深い関係だった可能性は高い。感動的な再会を頭のなかでイメージしていた。
顔は思い出せないが、再会のイメージはなぜか良い方向に向かう。運命めいた予感が亮太に十年後の約束の日の期待を大きく膨らませていた。
そして日々が過ぎていき、いつの間にか亮太は自分の過去を知るよりも、ただ単純にこの作者に会いたい期待の方が上回るようになっていた。
そうして亮太の『約束の日』を迎えた。
「クルイサキ」#1 序章 花便り
「クルイサキ」#2 一章 花嵐
「クルイサキ」#16 二章 休眠打破
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