「クルイサキ」#13
死神(タロウ)6
さくらと織田が楽しそうに雪上を駆けまわるのを眺めていても、タロウは思い描いていた達成感は抱けず、反対に苦い感情が心に残った。青空の色を作ろうとパレットに青色と白色の絵の具を落としたのに、なぜか灰色になったかのように、気味の悪さだけが全身に流れていた。
真っ白な雪だったのに、二人の足跡が汚している。泥が混じってみるみると醜くなる。
ただ、さくらの笑顔が見たかった。そう思っていたはずなのに。
織田と仲直りをさせよう。さくらが喜んでくれると思って彼女に織田を引き合わせた。彼女に恩返しをする気持ちもあった。
上の世界にはキューピットという仕事がある。死神と同じ世界で、死を逃れようと地上で働く魂だ。タロウはそのキューピットとなって、さくらに織田を会わせることにした。
織田を追跡し、催眠を掛けた。三ヶ月の時間を要してやっと成功した。それから織田をここまで歩いて来させた。電車も使えなかったので、ずいぶんと長い距離を歩いた。それでもさくらの笑顔が早く見たいという一心で我慢できた。前にさくらと来た川辺に織田を置いて、さくらの家に向かった。自分の姿を見たら、追ってくる確信があった。彼女が外に出てくるのを待ち、彼女が自分の姿を見たのを確かめて川辺まで走った。川辺に着くと織田の催眠を解いてから、木に登り彼女が来るのを隠れて待った。
さくらの声が聞こえてきて、彼女が着いたことがわかった。織田にも声が届いたのだろう、二人は導かれるまま出会った。
二人を引き合わせることに成功した。タロウは木から降りて、織田とさくらを見守った。
どうやら仲直りができたらしい。そしていま彼女は笑顔を見せている。いつかタロウに見せた涙は、すでに雪が隠してしまったのか、タロウにはもう見つけられない。
思い描いていた結果になった。彼女と出会ったときの姿が復活した。
それなのに、一切満足しない。ガムを呑みこんだような不快感がずっと腹に残っている。
それでも、終わった。もう終わりにして、自分の任務を行わなければならない。
雪を踏む音に気をつけながら、さくらに近づいた。もう彼女に存在を知られてはならない。もう彼女の視界に入ってはならない。すでに彼女との関係は死の運命を司る死神と死の運命にある者、それ以上交わることはない。
未熟な彼女の肩から背中のあたりに、邪悪な影が映ったように見えた。
突然、彼女は踊るようにこちらに向いた。タロウの視線を払うかのように、紺色のコートの裾が翻った。目の前が白い画面となる。光を反射させた雪の粒子がタロウの目をくらませる。
こちらに気づいたのだろうかと危ぶんだが、彼女は気づかない様子で織田と戯れている。
雪が舞うなかさくらは踊っている。ずっと彼女を喜ぶ顔が見たかった。その願いは果たしたはずなのに。彼女の笑顔からどうしても顔を背けてしまう自分がいた。
雪の上に散在する足跡はまだまだ増えている。彼らはどれほどの足跡をこれから残そうとするのか。二人は踊り、雪上にはっきりと体の重みを乗せる。彼らはこの世界に生きていることを証明していた。タロウは振り返り、自分が残した足跡を見た。
小さくて弱々しい足跡であった。なんてむなしく、なんてよそよそしいのだ。太陽の光に反射してしまうと、目を凝らしてみないと見ることができない。この光のなかでは見つけるのも難しいほどに存在感が薄い。
突然、この肉体から飛び出したい衝動に駆られた。こんな小さな体では、次々と生まれてくる多様な感情を収めることはできない。猫の小さい肉体では限界がきていると察した。これ以上感情を抑えることができない。動悸が激しくなる。体が燃えるように熱い。
どこへでもいい、飛び出してしまいたい。
彼女の肌の感触が残る肉体のままでは、彼女を殺すことはできないことを悟った。複雑に乱れた感情はもうタロウという猫の肉体の容量では納まらないことを察した。
手足の感覚がなくなってきた。朦朧とする意識はかろうじて目標を見定えた。その場所にいただけのみすぼらしい格好のした男だった。剥離する感覚が抵抗する頭を振り切る。魂が移動する。タロウという名前を捨てた瞬間だった。
再び降りはじめた雪は経帷子を纏わせるように、野垂れ死にした猫を静かに葬っている。そっと抱き寄せ、赤い首輪を外して木の下に埋めた。
肉体を移動し、最初は落ち着きを取り戻した感覚がした。体が大きくなったことで感情の幅が拡がったように感じた。ただ、それでもふつふつと心を揺り動かす感情は湧き上がってくる。それはどれだけ時間が過ぎても消化せず、新しい体に徐々に充満していく。結局、芽生えた感情は肉体を変化させただけでは消えなかった。名前も知らない自身がなぜこんなにも感情を揺り動かされているのだろうか。理解はできず煩悶し、思い悩む。
膝を突き、いま、猫を埋めたばかりの地面を見下ろす。
ただ彼女を見ているだけで苦しかった。そして彼女のことを考えると、いろんなところが痛くなった。
目頭が熱くなった。掘り返したばかりで雪と土が混じった地面になにかが雫となって落ちた。
そういえば、さくらも同じようなものを瞳から出していた。
これが涙か。感情を制御できなくなったときに、こうしてこぼれるのか。気休めかもしれないが少しだけ、気分が晴れた気がする。
手で涙を拭い、立ち上がった。先ほどまで二人がいたところへと歩み寄る。
まだ真新しい足跡を見る。それを辿って進みはじめた。
役目は忘れてはいない。
彼女を死に送ること、そして彼女はまだ死の運命にある。そのことをまだ忘れていない。
死ぬことはどういうことだろうか。すべてがなくなる死というものを考えた場合、思考は麻痺する。まったく先が見えないことに苛立ち、感情が行き場を失って混乱する。だから、永遠という約束が欲しい。そのためにするべきことがある。
切迫感が、焦操感が、殺意を抱かせる「殺してみればいいんだよ」催眠に頼ることなく、手に入れたこの肉体で権力を振りかざしてみるのも手なのかもしれない。
震える手を見た。自分自身の使命が発散を求めているようだった。
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