音とか背景とか効果とか
コロナで自宅に引きこもっている今日この頃。
元々趣味が雑多な私はなんとなくやりたいことを家でやっているだけで時間は過ぎていく。
そんな折、自宅にある音響機材で音の聴き比べをしていてふと思ったことを書き留めておこうと思う。
世の中には実に様々な音を出す機械がある。
広義には楽器やアンプなどもそれに含まれるだろうが、今回はとりわけ音を再生することを主軸とした機材にについてのお話。
イヤホン、ヘッドホン、スピーカーetc...
これらは音を再生することで音源のメディウムとなる。
雑な言い方をすれば基本原理は皆”スピーカー”である。
そういった”スピーカー”の良し悪しを判断、あるいは良いものを求めようとした時まず現れる問題は音の精度である。
どれだけ音源の音を再現するか、繊細な音まで聞こえるか、周波数はどこまで聞こえるのかなど端的に表現するなら解像度の高さの問題だ。
ではそれらがある程度クリアされるとどこに良し悪しが現れるかというと、それらの音がどのように表現されるかといういわば各メーカーの”味付け”だと感じる。
私が持つ音響機材の中で最も高価なものはイヤホンで、20万円前後するものもある。ハイエンドモデルの同価格帯の音を比べた時、どちらも音源の魅力は遺憾無く表現され聞き取れない音などはほぼ存在しない。そこに差があるとすればやはり”味付け”なのである。
そう考えた時、音響機器の特性はある種、作品じみたものがあるなと思った。
最低限音の解像度を担保した上で、ロックのために・クラシックのために・DTMのために、デザインされたチューニングを持った音響機器。
音ならば再生するという汎用的なメディウムとしての機能を持ちながら、情報の取捨選択や恣意性を持ち、視聴者の好みに影響する。
これは作品といって差し支えないのではないか。
私は映像制作の中で音に関わることが比較的多い。
実写映画でもアニメーションでも、録った音がそのまま使われることはほとんどない。必ずといっていいほど空間や背景・演出といった意図を表現するために音の加減が施される。
これは作品の中に込められたメッセージや意図にフォーカスするための情報の取捨選択であり、ある意味ではそういった”メッセージの明瞭度”を高める行為だ。
現在我々が音楽を鑑賞するという行為は、音楽作品のコンテンツの他にそれを媒介する”スピーカー”のデザイナーの思いも内包している。
スピーカーだけでなく音を再生するために経過する多くの機材の作り手の思いが反映された複合的な作品価値を持つのではないだろうか。
まとまりのない思考の吐露だが、これでこのnoteの締めとする。
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