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イスラエル政府における閣僚の罷免

2019年8月 オフェル・ケニッグ教授(比較政治学)の記事を元に作成

 イスラエルにおいて、首相の閣僚罷免権は「暫定法11条7項」に以下のように定められている。
(1) 政府の閣僚は、議会(以下:クネセット)本会議における投票およびクネセット本会議における、自分が所属する派閥(政党等)の投票について、政府に対して責任を負う。
(2)政府の事前同意なしに、クネセット本会議で政府の提案に反対票を投じたり投票を棄権した閣僚は、政府がクネセットに通知した日から合法的に政府からの罷免を宣告される。これは投票から2週間以内に通知が行われたことを条件とする。
(3)以下の事項に関して、閣僚が所属する派閥が、政府に対する不信任動議に賛成票を投じたり、そのような動議の投票を棄権した場合、または政府の事前同意なしに、政府の本会議で政府の提案に反対票を投じたり投票を棄権した場合、
 (ア) 国家予算案、その一部あるいは詳細の一部;
 (イ) 直接的あるいは間接的に、国家の歳入を削減したり、その歳出を増加    する法案並びに法的規定;
 (ウ) 安全保障、政治、その他に関する法案及び法的規定並びにその他の提案で、本項に基づく責任が適用されることを政府があらかじめ決定したもの;
そして、その投票から7日以内に、本項に従って閣僚責任に対する違反があったと政府が決定した場合、その閣僚は政府がクネセットにその旨を通知する日より辞任するものとする。この通知は、政府決定から2週間以内に行うものとする。
(4) (2)および(3)の規定は、すべて決定において政府が定めた制限内で、政府が投票の自由または棄権の自由に関して決定した事項に適用されない。


 この条項は1962年に暫定法で改正されたが、その経緯は以下の本文で詳しく述べる。
 イスラエルは連立政権が常態化しており、首相は政権の安定を維持し連立政権の基盤が弱体化しないよう努力している。そのため、たとえ閣僚が政府から逸脱した意見を述べたとしても、首相の罷免権を行使しない傾向にある。
 このレビューでは、過去に大臣が罷免された理由を挙げ、ほとんどの場合は閣僚責任の原則に違反したことが原因であったことを明らかにした。

閣僚罷免の理由

 1.閣僚責任の原則に違反する行動や発言。政府本会議で首相が提起した法案や政策に対しては意見を表明し反対票を投じることができる。しかし政府が決定を下した後は、閣僚はそれに同意しなければならない。言い換えれば、法案や政策が政府本会議において過半数で可決され、クネセットの採決にかけられた後は、閣僚は反対であってもそれを支持しなければならない。
 2.その他の理由。閣僚が関与した個人的なスキャンダル。首相と大きな意見の相違があった場合。首相との対立でお互いの信頼関係が危機に陥った場合など。

首相の罷免権

 1962年まで、首相には閣僚を罷免する正式な権限がなかった。そのため閣僚は政府の一員としての全員一致の原則を破ることができた。首相は対策として、首相が辞任し閣僚責任を放棄した議員を除いて新しい政府を組閣するという、あまりエレガントとは言えない解決策を採った。1955年、「一般シオニスト党」の4人の閣僚が、政府に対する不信任投票で棄権したため、モシェ・シャレット首相は辞任を提出し、24時間以内にこの4人を除いて同じ構成の新政府を樹立した。4年後、閣僚責任に違反したのはマパム党の大臣らだった。ダヴィッド・ベングリオン首相は躊躇なく辞任を提出し、その大臣らを抜きに新政府を樹立した。初期に起こったこれらの出来事では、大臣は確かに処罰され政府から排除されたが、全員一致を強制するためには政府全体の辞任が必要であったことは、歪んで非効率な仕組みであると見なされた。その結果、1962年に国会は「暫定法」を改正し、議会で政府の決定に反対票を投じ、または棄権した大臣を罷免する権限を明示的に首相に与えた(暫定法11条7項(2))。現在の「基本法:政府」はその6年後に制定され、暫定法のほとんどは廃止されたが、11条はそのまま残された。

暫定法11条に基づいて罷免権が行使された事例

 前述の条項に基づいて初めて閣僚が罷免されたのは、1976年イツハク・ラビン政権のときだった。マフダル党の閣僚のうちゼヴルン・ハメルとイツハク・ラファエルの2人が不信任投票で棄権したため、ラビン首相は彼らとヨセフ・ブルグ(不信任投票で反対票を投じたにも関わらず所属政党議員多数が棄権したため)を加えて罷免した。
 同じ理由で2002年にアリエル・シャロン首相は、政府が承認した経済非常事態計画案にクネセットにおける投票で反対票を投じたシャス党のシュロモー・ベニズリー、ニスィム・ダハン・ニリ・イシャイ、エリ・スイッサら4人の閣僚を罷免した。しかし彼らは約2週間後に復職した。2年後、シャロン首相はシヌイ党の5人の閣僚を、予算案に反対票を投じたため罷免した。またシャロン首相は、政府が承認したガザからの撤退計画に国会で反対票を投じたウズィ・ランドー大臣を罷免した。

閣僚責任以外の理由で罷免権が行使された事例

 最初のケースは1990年、いわゆる「臭いトリック」と呼ばれた事例だった。イツハク・シャミル首相が、シモン・ペレス財務大臣の代替政府樹立の動きを知り、忠誠の欠如を理由に財務大臣を罷免し、他のマアラフ党の閣僚は辞任した。
 約10年後、ネタニヤフ首相は同様の理由で、イツハク・モルデハイ防衛大臣を罷免した。罷免までの数週間、モルデハイ大臣は首相に対して批判的な態度をとり、リクード党内での自分の将来を検討し、さらには新興の中道政党への参加の考えを公にしていた。ネタニヤフ首相はこの行為を容認できないものと考えた。
 罷免権を最も広範囲に利用した首相はアリエル・シャロン氏だった。上述のケース以外に、2004年にさらに3人の閣僚を罷免している。1つは、関与した政党スキャンダルが理由でヨセフ・パリツキー(シヌイ)が彼の派閥メンバーの要請により罷免された。2つ目は、アビグドール・リーベルマン氏とベニー・エロン氏の2人の大臣が罷免されたケースである。この罷免はガザからの撤退計画に関する政府本会議における投票の数日前に行われたため、多くの論争を引き起こした。シャロン首相は、当政府構成では自分の提案が過半数を獲得できないと推定し、過半数を確保するため2人の大臣を罷免した。この動きは厳しい批判を受け、罷免の無効を求める申し立てが最高裁行政関連裁判所(バガッツ)に提出された。裁判所は申し立てを却下し、政治的見解理由による首相の罷免権を認めた。首相が大臣を罷免しようとする時は、政治低配慮は無効でないと裁判所が判断した。このように、裁判所は政府の閣僚を罷免する首相の権限をさらに拡大した。




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