好きだからこそ信者にならない
「信者気質」のこと
この間こんなnoteを書いた。
著名人やインフルエンサーなんかの有名人を信奉して「〇〇信者だから」のように言うことに違和感を感じている。
素晴らしい!と感じることと、「信者」になることは違う。
尊敬する友人がいるとして。
その友人に「わたしは信者だから」と言うと、突然距離ができてしまう気がする。
好きだからこそ対等でいたい
わたしは(ときどき友人には話すけれど)大好きなアーティストが何人かいて、でも決して彼らのチェキ会や握手会には参加しない、と決めている。
なぜなら、いつか対等な立場で一緒に仕事することを目標のひとつにしているから。
「ファン」と「アイドル」は対等になれないけれど、「仕事仲間」は同じ目線で話すことができる。向かい合うのではなく、一緒に同じ方向を向くイメージ。だから『いつか同じステージに立てる』かもしれない日のために、握手会を見ては心の火をじわじわ燃やしている。
(そもそも好きすぎて、気持ちを全部伝えられない、というのもあるけど。あと、好きすぎて入り待ちしてしまったり、はある。)
彼らの曲でわたしは何度も救われたから、その気持ちをじっくり話す場を自分で手にするまで、ずーっと持っておくことにしている。
対等になりません、というのは淋しい
「信者」という言葉を使うと、その影に盲目的な『信奉』を感じることもあるし、信奉する対象が発する言葉が降りかかる、少し下のステージにいるような気がする。
「わたしはあなたとは違うんです」という意志の表明を賛辞だと思っている人もいるかもしれない。だけど、一方的に距離を作られることって、実は結構淋しいんじゃないかなあ。
◇ ◇ ◇
最近毎日出かけるというちょっと大変なことを自分に強いてしまっているので、今週末は瀬戸内で少しゆっくり景色でも見たいと思います。
最近毎月帰ってるから、今年に入って3回目。
前回の母の誕生日にはにしきやのカレー詰め合わせ。
今回は両親にIKEUCHI ORGANICのタオルを。
twitterで知って買って使って、いろいろオススメして喜んでもらえるのはとても嬉しい。