歴史を新たに味わう:カーの言葉、時代に適応中!?

今回は少し古い話になる。2年ほど前に刊行されたE.H.カー『歴史とは何か(What is History?)』の新訳についてである。

カーは20世紀を生きた世界的に有名な英国の歴史家で、著作の大半は日本語に訳されている。『歴史とは何か』はその中で最も有名なものである。講演をベースとする作品であるため、代表作と言うのは憚られるが、好著であるのは確かだ。「歴史とは現在と過去との対話である」とは人口に膾炙した同著のキャッチフレーズである。

旧訳は社会学者として一世を風靡した清水幾太郎氏が翻訳した。岩波新書のロングセラー(1962年刊行)として今も販売されている。

今さらなぜ新訳なのだろうか。版元も同じ岩波書店であり、いぶかしく思った。新訳の訳者は近藤和彦氏。これまた有名な英国史家である。

岩波の人文・社会科学誌『思想』の小特集「E・H・カーと『歴史とは何か』」に寄せた同氏の一文(ネットで公開されている)や各種メディアの書評によると、旧訳は誤訳や不適切な訳文があるだけでなく、表現が古めかしく現代の若者には分かりにくいらしい。

正直なところ後者の理由には驚いた。大学生だった40年ほど前に旧訳を読んだ際に古めかしいと感じた記憶はない。むしろ読みやすいと感じていたと思う。同著を読んだ知人・友人は周囲にもたくさんいたが、難しいという感想を述べる者はいなかった。

マスコミで喧伝されている大学生の教養の低下は本当だったのか。そういう想念が湧いてきた次の瞬間に、「いや待てよ」と思った。

自分も大学生の頃、戦前に書かれた論文を読んでいて古臭いと感じることがままあった。旧字体が使われなくなった戦後の論文でも、今読み返すと古めかしいという印象を受けることが多い。

言葉は一人ひとりの日々の表現を通して変わっていく。そのスピードは極めて鈍く日々の生活ではほとんど感じられないが、長い時間が経過すると堆積した地層のように変化が鮮明に見えてくる。

思えば、インターネットで日本語を読んでいて最近は表現にときどき違和感を覚えるようになってきた。自らが堆積物に埋もれ化石となって発見される日はそう遠くないのかもしれない。

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