シンデレラの残り香
アルフレッド・ヒッチコックが"マクガフィン"についてこう言及している。
「私たちがスタジオで「マクガフィン」と呼ぶものがある。それはどんな物語にも現れる機械的な要素だ。それは泥棒ものではたいていネックレスで、スパイものではたいてい書類だ」
つまり、マクガフィンとは単なる「入れ物」のようなものであり、別のものに置き換えても構わないようなものである。
得てして、彼女にとってこの夜と僕はその「マクガフィン」だったのだろうか。
一人残された部屋で、考えていた。
大学の飲み会の帰り道に「煙草、持ってる?」と僕に声をかけてきた彼女は既にひどく酔っていた。
彼女は強引に腕を組み、大学には通っているか、それはどこか、映画は好きか、メロンパンの気持ちになったことはあるか、くだらないことばかりだ、マクガフィンはわかるか、人生とはマクガフィンなのだ、幸せになりたいだろう、私も、などとくだらない話から理解の及ばない話をつらつらと話した。そして、僕の家まで着いてきた。
目が覚めると、ショートカットの女が隣に寝ていた。寝起きとは思えない整った髪をしていた。彼女は、スマホから鳴るアラームを止め「昨日のこと覚えてる?」と僕に聞いた。
「覚えてるよ」
「そう、私の名前、わかる?」
「イオリ」
「正解、よくできました」
彼女は深く息を吐き、そして微笑んだ。
もう二度と会わないだろう僕らは、昨日と同じように意味の無い自己紹介をする。
ぼんやりとした視界で見る彼女は、綺麗だった。
「あなたの名前を教えて」
「セト」
「それ、昨日も聞いたかしら」
「そうかもね」
そして僕らは話をした。主に彼女が、最近読んだ本の感想とか、生まれ変わったらアリになりたいとか、無意識とは何かとか、宇宙旅行に行ったらしたいこととか、あまりためにならそうな話を丁寧な口調で語るのを聞いていた。
一通り話し終えた彼女は「セトくん、また私に会いたくなるよ」と僕の髪を優しく撫で、服を拾い集め始める。
僕は、眠ってしまった。
夢を見た。
不思議な感覚だった。
ああ、彼女の中にいる、と思った。
彼女は泣いていた。
僕はできるだけ優しく背中をさすり、髪を撫でた。
彼女は僕の首に手を回し、無言でキスをし、そして胸に顔を埋めて、やはり泣いていた。
扉が閉まる音で目が覚める。
体感にして数十分たっていた、いつもと変わらない自室の風景にイオリと名乗る女はいなくなっていた。
財布と煙草、それ以外何も入っていない鞄も一緒に消えていることに気づくまで、長い時間はかからなかった。
部屋全体に微かに残る彼女の残り香に、すこしだけ、やるせなさを感じた。
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