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非合理と余白、秋めいて。

曲がりなりにも二十数年生きてきて、良くも悪くも、自分のことを客観視できてしまっている。

「いつもの自分なら、きっとこっちを選ぶだろうな」
「あ、また押し負けそうになってこっちを選ぼうとしている」

二十数年生きていると、今まで何となく「大人がすること」だと思っていたことがそうではなくなって、いよいよ自分も向き合わねばならないことに変わっていく。自分は自分のことをまだ「大人」だと認めたわけではないのに。子どもと大人の狭間を、この曖昧な境界線を、いつまでも何となく漂っていたいのに。

自分自身の価値観は「選択」によってつくられ、積み重なり、磨かれていくものなのかもしれない。何を感じ、何を思わず、どんな選択をし、その選択をどう受け止めたのか、これらの結晶が「価値観」なのかもしれない。

価値観に沿った選択をすることはとても合理的なことで、きっとどんな選択も、価値観をもとに選択されたなら高確率で「良い選択」になる。

長く生きれば生きるほど様々な経験をして、様々な選択を迫られてその度に価値観が磨かれていく。だから人は“まるくなる”のかもしれない。「俺たち昔はもっと尖ってたのにな」というアイツの言葉が妙に刺さって抜けない。

自分の人生は、いずれ自分のためだけの人生ではなくなっていく。人生を長く生きれば生きるほど、選択はどんどん合理的になっていく。合理的な選択しかできなくなってしまうかもしれない。

合理的な選択の先にある予定調和、想像できる未来。

自分の価値観なんて、自分にも誰かにも知られてたまるか。「選択」の結晶が価値観なら、非合理な選択をした先にあるいびつで不恰好な結晶を見てみたい。

合理的な選択や「いつも通り」を着実に積み重ねていけば、新しいこととか挑戦的な自分とか、段々と心に余裕ができて、余白が生まれるものだと思っていた。

けれど、実際には、一見自分とは関連のない環境や人間関係、自分らしくない選択、そんな非合理が自分自身の受け皿を拡張していくような気がしていて、それこそが余白なんじゃないか、という感覚がある。

必ずしも、引き算に引き算を重ねて残ったものが余白、というわけではなく、今まで自分の中に無かったものや受け容れてこなかったもの、それらを取り込むことで生まれるものが「余白」なのかもしれない。

今までの自分には全くなかった「書く」という行為が、まさにこうして自分にとっての余白になっているように。

夜風が心地いいと思えるくらいの、ほんの少しの余白を埋めるように書いた文章でしたとさ。

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おがたのよはく
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