だんだんと曖昧になる東京と故郷の境界線
目を覚ましたのは、今日が仕事だからでも朝に何か楽しみな予定があるからでもない、いつも通りの時間に時計が鳴ったから、ただそれだけだ。
東京は、あえて「東京は」と言わせてもらうけれど、密度が高くて余白がなくて、ただそこに居るだけで窮屈な気持ちになる場所だ。
「俺の地元は何にもないよ」なんて半分冗談、半分本気で言っていたけれど、今思えば、何にもないのが良くてそれで十分だった。
やけに広い道路、空間を持て余した公園、高さのない建物群。
生まれ育った場所が東京ではないからこそ、東京から地元へ帰るたびに、余白の多さに安心する。決まり文句のように、「やっぱり、こういう街で暮らすのが自分の性に合っているな」と心の中で呟く。
けれど、数日後には東京へ帰るし、東京へ向かう電車に1時間も揺られてしまえば、慣れ親しんだ景色になぜか安心する。
自分の行く場所はどこで、自分の帰る場所はどこだったっけ。
渋谷駅の地下で、すれ違いざまに見知らぬ人に声をかけられた。きっと、どこかへ行きたくて道を尋ねてくれたのだと思う。
あいにく、本当によりによってその日に限って、ひどく疲れていて一刻も早く家に帰りたくて、おそらく自分に向けられたであろう視線と言葉を、人混みの中にしまい込んだ。
罪悪感とともに、「どうしてあの時自分に話しかけたのか」と考えてみたけれど、別に理由を知ったところで意味がないし、理由なんて無かったのかもしれない。
おそらく、誰だって良かったのだろう。そう思うと、途端に虚しさに襲われる。東京という街で、渋谷駅という混沌の中で、これといった意味もなく「大勢の中の一人」として消費される自分を、はっきりと自覚してしまった。
東京に余白がなくて、地元に余白があるのではない。
ただ自分自身に余白がなくて、地元に帰るたび、地元の街並みや風景に触れるたび、余白のない自分自身に気づくだけだ。
東京にいると、余白があれば埋めたくなる衝動に駆られて、東京から離れると、余白を作りたくなる。そんな、ないものねだりが尽きない。
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「すみません、この階段を登った先って何があるんですか?」
実家近くの、近所の公園に通じる階段を下っているときに、見知らぬ人に話しかけられた。目の前に立っているのは自分だけで、明らかに自分に尋ねている。
「マンションがあるだけで、何にもないですよ」
「登ると疲れそうなんでそれなら良かったっす(笑)」
取るに足りない、なんてことない日常のワンシーンが、東京に戻ってきた今もなぜだか忘れられない。