流れに身を任せて、人生を漂う
僕らは人間だから「何も感じない」なんてことはないのだけれど、自分の感情や感覚を一々記憶してはいられない。
だから、こうして文章を書いて、嫌でも自分が「日々何を感じて生きているか」を思い起こす機会を作っているのかもしれない。
言葉が全く出てこなくて「どうして書き始めちゃったんだろう」と後悔することも少なくないし、感覚をうまく言葉にできなくて都合の良い言葉に逃げてしまうことだってある。
そんな苦悩を経てまでして書くことが果たして本当に楽しいと言えるのか、いまだに疑問は消えないけれど、結局こうして書いている。流れに身を任せて。
都会の真ん中ですれ違った人の服装、髪型、アクセサリー、靴のブランド、一瞬覚えてはその刹那記憶からは消えている、そんな日々をただ積み重ねている。
「これは自分の望んだ日々だったのだろうか」、そんなことを考える余白のない日々はどこか新鮮で、「忙しい」や「持て余している」ともまた違う感覚。
自分の人生の主導権を自分が握っていたとしても、自分の中にブレない軸があったとしても、実際のところ、僕らは時間や人生という流れの中を漂っているだけだ。
それなのに、流れに身を任せておけば良いところで、変に逆らってみたりしてうまく身を任せられなかったり、逆らってでも掴みにいくべきタイミングで、怠惰に飲み込まれてしまったりする。
おとなしく「普通」に収まっておけば良かったのにはみ出そうとしてみたり、忙しさにかまけてやりたいことや理想に蓋をしてしまったり。
どうせ、これからも流れに身を任せるのだと思う。いや、どんな行き当たりばったりも、怠惰な生活も、流れに身を任せている“ことにする”のだろうし、やりたいことや理想に蓋もするのだと思う。
僕は、僕らは、そういう流れにこれまでもこれからも身を任せるのだ。
せいぜい、流れの中で見つけた自分らしさにしがみ付けば良いし、そんな自分のあり方・生き方をありのまま語れば良いし、ふと振り返った時に思い出せた感情だけを大切にすれば良い。
間違っても流れに逆らうべきじゃないし、明確な意思を持って流れに身を任せておけば良い。
人生を漂うクラゲのような僕らに、溢れんばかりの幸あれ。