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暇つぶしみたいだった日々が、今さら愛おしい

12月26日みたいな、特に記録してもいない記憶とか、高校時代の毎日、大学1年生の秋から大学2年生の夏くらいまでの間のような、ただの暇つぶしみたいな日々が、いまさら愛おしく感じられたりする。


気づけば、暇つぶしさえまともにできなくなってしまっていた。

何の予定も目的もなく家で過ごしたり、絶えず再生される動画コンテンツをただ受動的に消費したりしてみても、どこかかつての暇つぶしとは異なる。

昔は、そんな1日を過ごしても罪悪感も危機感もなく心の底から暇つぶしができていたけれど、いつしか、「もったいない過ごし方をしてしまった」、「この間にもあの人は頑張っているのだ」なんて考えてしまうようになった。

昔と比べて「休日」や「フリーな1日」に対する重みや価値が違うから、という理由もあるだろうけれど、暇を潰すことくらい肩の力を抜いてやりたいものだ、と思わずにはいられない。

12月24日・25日の非日常感も良いけれど、クリスマスを待ち遠しく感じる期間の方が随分と長いわけで、その間の焦らされている感覚や高揚感もまた非日常的だ。

「12月26日」なんてきっと人目を引かないだろうけれど、きっと誰もが余韻に浸る日で、それなのに街はすっかりお正月の装いで、僕らを余韻に浸らせようとしない。そんな狭間で湧き上がる寂しさや充実感を、イルミネーションの残像に重ね合わせたりする。

いつかの未来で今を振り返れば、そのほとんどが取るに足りない、12月26日のような暇つぶしの日々なのかもしれない。

「1日1日を無駄にせず過ごす」

成功者の多くがそう語るけれど、僕らのような天邪鬼な人間からしたら、何て窮屈な考え方なのだろう、と思えてならない。「そもそも無駄な日なんてない」と思えた方が、よっぽど幸せで生きやすいだろうから。

実際、無駄な日なんてなかった、と僕らは過去の経験から学び取っているはずだし、そりゃ何でもかんでも「もっと早く始めていたら」とか「あの時やっていれば」という後悔は尽きないけれど、その経験があったから今こうして選択や決断ができるわけで、やはり無駄な日々なんてないのだろう。

思わず食い気味の早口になってしまったけれど、クリスマスや年末年始、そんな非日常に触れるたびに、日常と非日常の境界線、何が特別で何が特別でないか、なんて無駄なことを考えてしまう。

ただ、いつも明確に一つ結論づけられるのは、無目的に、無思考でただ過ごしていた、暇つぶしのようなあの日々がどこか愛おしい、ということだ。


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おがたのよはく
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