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生存可能性は選択圧にならないので

3000年くらい前に人間の脳の重さが減ったらしい。
考古学的な研究のニュース記事にそう書いてあった。

農業の普及とともに大きな社会が成立し分業が行われるようになった結果、何でもかんでも一人の人間がやらなくても良くなったから、知的(認知)能力が高くなくても生き残れるようになったのではないかと理由を考察していた。
ちなみに、個々人の知的能力は脳の重量に依存しないと言われているので、そことどう辻褄を合わせるのかはよく分からない。
脳の重量と認知機能に相関はあるけれど、それより個々人のばらつきが大きいから、集団の平均的な認知機能と重量との関連はあるのかもしれない。

農業が普及してから脳が小さくなったことの裏返しとして、それより前の新石器時代あたりの人間がもっとも知能が高いと考えられているらしい。
小集団で狩猟・採集生活をしていたので、周囲の地形や動植物の分布、道具の制作、狩猟の技術などなど、基本的に一人でサバイバルできる能力がないと生きていけなかった。
私は、生活能力が低くて具体的な作業が苦手だ。
もしその時代に生きていたとしたら、きっと生き残れなかったにちがいないので、「文明化」万歳と言っておこう。
脇道に逸れるが、文明化という言葉は、西洋文明や中華文明など巨大な社会を形成した人間集団が自らを誇るための言葉でもあって、そういった社会がより文明として進歩しているかどうかは定義によると思う。
しかしここでは深く考えず、多くの人が一緒に住んで仕事を分け合っている状態を文明化と呼ぶことにする。

さて、直感的には文明化した人間のほうが頭は良さそうなのに、現実は逆だ。
面白いと同時に実に進化論的だと思う。
環境に適した個体が生き残って、次世代に自分の遺伝子を伝える。
進化論的では、生き残って繁殖することしか考慮しない。
環境が緩くなり、多くの個体が生存できるようになれば、より多彩な形質が伝わるようになる。
認知能力が際立って高くない個体も生き残れるようになり、脳の重量がばらついて、平均値が小さくなった。
これも、多様な形質の遺伝といえる。

分業性の社会では、極端にいえば何か一つでもできれば社会に必要とされるから、全体的な能力が高くなくても構わない。
この傾向は文明が発展するにつれて強まっていると思う。
現代の、少なくとも先進国と呼ばれる国々に住んでいれば、ほとんどの人は食べていけるし、子供を育てられる。
そうだとするとこの先、人間にかかる進化の選択圧はどうなるのだろう。
肉体的な頑健さでもなく高い知的能力でもない。
もちろん現代社会を総じて見れば、知的能力が高いほうが収入が得やすくて、結果、子供を育てやすい面は否めない。
しかし昔より決定的ではないだろう。
医療技術が未熟で四人に一人は成人するまでに死んでしまうとか、抜け目なく立ち回らないと食べ物がなくて死んでしまうこともない。
個々人が子孫を残そうがどうしようが勝手だと思うので、あくまでも生物学的な話として考えると、必要な形質は、生殖能力があるかどうかと子供を残したい欲求が持っているかに絞られてくるのかもしれない。
もし今後も文明が正しく発展して人間の生存環境が改善し続けたら、子供を残したいという嗜好性が人類の間で強まり、少子化が解決するんじゃないかと一瞬思ったけれど、この複雑な社会ではそう単純な話にはならない気もする。

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