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話すほうが楽な分、聞くほうが頑張ってるのでは

千葉雅也さんや読書猿さんが参加した書籍『ライティングの哲学 書けない悩みのための執筆論』では、もっと思うままに文章を書いてみたほうが、書けない症状に悩まされなくてすむのではないか、と言っていた。
ちゃんと書こうとしすぎると出てこなくなる、みたいな話だったと思う。

そもそも私は、話すのと書くのとどっちが楽からと聞かれたら、話す方と即答する。
あくまで楽かどうかの問題であって、どちらがうまいかではない。
実際、自分が話した内容を聞き返すと、順番が前後したりあやふやだったりする。
内容や筋道が整理されていないまま話しているのだな、と思う。
話はライブなので、多少、筋道やら言葉やらがごちゃついても、流れていってしまうことも関係しているかもしれない。

幸運にも、といっていいかどうか分からないが、言葉が出て来なくなることはあまりない。
話し相手によっては人見知りが発動してぜんぜん話さなくなるので、話せる状況で言葉が出てこないことはないという意味だと思ってほしい。
でも、言葉が出てくることと分かりやすさは関係ないと思う。
最初に書いた通り、ちゃんとしてなくていいや、と思ったほうが、おそらく言葉はスムーズに出てくる。

結局、話している時は、情報の整理を相手に押し付けているだけなのだ。
多少、しっちゃかめっちゃかでも、聞く方は整理しながら聞いてくれる。
それは話してる方は楽にきまっている。
それができないほどぐちゃぐちゃなときはきっと途中で聞くのをやめているのだろうとは思うけれど。
書く場合はそうはいかない。
なぜそうはいかないのか分からないけれど、文章では整合性のある話を展開しなくてはいけないと思うし、一般にもそう思われている。
あえてそれを外し、味わいと勢いを出す技法もあるけれど、それはそれで読ませるための技術がいるのではないかと思う。
ともかく、書くときは思考を整理しないといけないので時間がかかるし、書いている時は一人なので孤独だ。
誰も質問してくれないし、相槌を打ってくれないし、間違いを正してくれない。
自分で質を担保しなければいけないので大変だ。

たらればさんが以前、書いて初めて考えたことになるのではないかとツイートしていた。
頭の中に思考以前のもやもやとしたものがあって、文字に出力した時にそれは初めて思考になるという意味だと思う。
(けっこう前のことなので、覚え間違いをしていたらごめんなさい)
「思考」という言葉をきちんと定義しないとこのアイデアが正しのかどうか決着はつかないと思うけれど、少なくとも文章にすると考えはまとまるにちがない。

作業手順を考える脳の領域と、文章を作る能力(統語能力)が重なっていることが最近の研究で分かったらしい。
文明ができる前から、人間は作業を得意としてきた。
「手で持った石をクルミにぶつけて割る」
のように、主体とか対象とか動作とか、概念を適切に組み合わせて効率よく作業していたのだと思う。
ここからは私の想像にすぎないが、言葉や文字が生み出された結果、抽象的な概念を頭の中で組み合わせ、より複雑な概念をも扱えるようになった。
しかし、具体的な作業手順を考えるための能力を拡張して使っているだけなので、どうしてもこんがらがってしまう。
そうした、もやもやしてこんがらがってしまった思考以前のものは、文章にして外部化すればあらためて眺めることができるし、一部だけ取り出して整理することもできる。
すごく複雑な作業も指示書に沿って一つずつこなしていけば最後には終わるように、思考も部分や要素に分解して単純化しないと、人間の頭ではどうにもならないのかもしれない。


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