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奥田無鉄砲斎の原本

(奥田無鉄砲斎の至芸の数々)

牧伸二と並んだ無鉄砲斎の素顔(右)
口の力一つで観客をジャイアントスイング
腹の上に米俵を乗せて上で八木節を踊らせる


先日、SNSを見ていたら「奥田無鉄砲斎のポスターが出ている」とちょっと話題になっていた。以下はそのツイートである。

それに対し、有識者が「池内紀『地球の上に朝がくる 懐かしの演芸館』にその記載が出ている」と紹介していた。

筆者はこの記事を見た時、「ちょっと待てよ……」となった。奥田無鉄砲斎……どこかで聞いた事のある名前だ、としばしの間頭の中を整理した。

そして、本棚の奥にある池内紀『地球の上に朝がくる 懐かしの演芸館』を引きずり出して読んだ。確かにその中には上記の通り、「奥田無鉄砲斎」のことが記されていた。

池内は「怪力術なる芸を見た」という幼い頃の情景を以下のように綴っている。

 黒ずんだ天井にいくつもの裸電球がともっていた。当時、村にはまだ辛うじて戦前からの共同体の風習が残っていた。秋祭りには旅廻りの一座がきて、公会堂で股旅物の芝居をした。 漫才がきた。 浪花節語りがきた。それは紙芝居とラジオの連続番組「白鳥の騎士」がせいぜいの娯楽であった私たちには途方もないたのしみだった。
 怪力日本一は、針でのどに糸を通して水の入ったバケツをぶら下げた。ローブを口にくわえ 何人もの力自慢と綱引きをした。抜身の刀を握り、その手を縛りあげ、掛け声とともに刀を 引き抜かせたりした。最後の大一番が腹の上での餅つきだった。米俵がのせられるたびに男は 吹えるような声を出した。日が運び上げられるあいだ、ヒョットコのように唇を突き出してい ゆきが終わって取りのけられ、起き上がったとき、背中いちめんにの破片が喰い込んでいた。 
 私たちは息をつめ、かたずをのんで見つめていた。 つきたての餅をもらったが、とてものどを通らないのだった。公会堂を出て暗い夜道を帰りながら、胸の動悸がやまなかった。こんなことを興がる大人たちが憎らしくてならなかった。
 あくる日の朝、学校へ行きしな神社のわきから駆け出したとたん、私は怪力日本一と出くわした。 怪力日本一は重そうに風呂敷包みをしょっていた。中には昨夜もらった米や酒などが入っていたにちがいない。足をとめて無表情な顔でこちらを見た。何かもの言いたげなようすだ ったが何も言わなかった。やおらひと揺り包みを背負いなおすと、バス停のある高校前への白 い道を、うつむきかげんに歩いていった。

これだけならば普通の思い出であるが、この後に続く文章が非常に引っかかった。曰く――

あるとき雑誌をながめていたら、奥田無鉄砲斎という男のことが記事になっていた。

池内はある雑誌から奥田の情報を仕入れ、「幼い頃に見た奥田の人となりを知った」と言わんばかりにその経歴を記している。

奥田無鉄砲斎という男のことが記事になっていた。十九のときに修行を始め、以来芸能生活五十年になり、七十歳に手がとどく今もまだ現役で、テレビ のビックリショーなどにも出ているという。その雑誌の記事によると、無鉄砲斎は上州高崎の生まれで、昭和十一年ごろ、横浜に来たフランス人ション・ケンテルが腹の上に自動車を走ら せるのを写真でみて発奮し、師匠というものをもたずに自分ひとりで次々と新しい芸をひらい ていったのだそうだ。「歯で貨車を引く奥田さん」と説明がついた古い写真がのっていた。

 この文章を見て筆者は「なんかどこかで読んだことがあるような」と違和感を覚えた。それは池内の文章であって、池内の文章ではないような錯覚であった――というべきだろうか。

 そして、ふと頭の中をよぎったのが、学生時代――群馬県立図書館に通って時折読んでいた『上州路』という雑誌の存在である。その雑誌の中に『上州の旅芸人』という特集があり、太神楽や八木節が取り上げられていてキャッキャ喜んだ記憶がある――そんな事を思い出したのである。

 思い立ったが吉日――と久方ぶりに群馬県立図書館を訪ね、『上州路』を読み漁った。大体のタイトルのめどがついているだけにモノの十分で記事は見つかった。

『月刊上州路 No.46』(1978年3月号)の特集「上州旅芸人」の中に「奥田無鉄砲斎のこと」と題した短文が紹介されていた。

 これを読み進めていると「池内紀はこれを元資料にしたのではないか」と一種の勘が働いた。余りにも情報や内容が一致しているからである。もっとも、池内紀は盗用したわけではないので、法的に問題があるわけではない。むしろ、こうした地方雑誌にまで目を通していることに驚いた次第である。

『地球の上に朝がくる 懐かしの演芸館』に関しては今なお古本屋やネットショップで買えるだろうから、興味のある人は各自買ってくれ――という感じであるが、『上州路』を買おうとなるとなかなか大変だと思うので、ここに池内紀が参考にしたと思しき原文をきっちり記しておこう。

奥田無鉄砲斎のこと 編集部
 日本一の怪力と称する奥田無鉄砲斎は、十九歳の時から修業を始め、ことし芸能生活五十周年と言うから、もうわずかで七十歳に手が届こうとしている。未だ現役である。
 テレビのビックリショーなどへ三十数回出演しているというから、若い人たちも知っている人は多いと思う。高崎市出身。私達が幼い頃、「三夜さま」や「お不動さま」「成田さん」などの縁日に必ず出て、ナマの「ビックリショー」を見せてくれていた。
 ビールビンを粉々にくだいてその上で裸で寝、お腹の上に米俵を六俵ぐらい積みあげてゆく。カタズをのんで見ていると、更にその上に臼を乗せて五人の男に餅をつかせたり、喉に針を突き通し、この針に水の入ったバケツをぶらさげてふり廻わす。ヤンヤのカッサイであった。
 奥田さんは、昭和十一年頃、横浜へ来たフランス人ション・ケンテルが腹の上に自転車を通すのを写真で見て発奮、この道に入ったという。師匠を持たず、ひとりで冒険にいどみ、次々に新しいアイデアをとりくんで来たという。
 この人の耳たぶは、片方には風穴があき、片方はちぎれていてない。耳たぶに糸を通して貨車を引っ張ったり、綱引きをしたり、無茶なことを長年して来たからだ。前歯も欠けている。
 いっぺん、矢張り縁日で、腹の上に大根を置き、千本切りにするのを見たことがある。赤い血が、いまもナマナマしく眼の底に残っている。文字通り種も仕掛けもなく、新しいことに次々と挑むものだから、奥田さんの体はキズだらけである。
「神技」「成せば成る」「信念の人」という称賛の言葉は、当時の風潮にピッタリで、軍隊や警察・学校などからの感謝状が四千枚もたまり、奥田さんの生き方を雄弁に物語る。そもそも充分にギャラを払っていれば、感謝状など出しはしないだろう。奥田さんは、小さい家でひとりぐらし、七輪を一つ土間に置いた貧しい生活だったように覚えている。かつて幼い友達同志でのぞきに行ったことがあった。そのとき、彼のそんな貧しさに、かえって子供心に、ある清々しさを感じたものだった。
 奥田さんは、めったにこの家で過ごすことはなく、日本全国旅から旅へ、芸を売物にして渡り歩き、気がついたら半世紀が過ぎていたのであった。
 いまは、日当りのよい家で「奥田芸能社」の社主として、全国から芸人を呼んでは、温泉などで興業をしている。

 上の出版年から逆算すると、奥田無鉄砲斎は、1908年頃群馬県高崎の生まれ。1927年頃に芸能界へ入り、1936年頃より今の芸風に落ちついた――ということとなる。池内の文章をそのまま鵜呑みにすると齟齬が生じるので、そこは注意すべきではなかろうか。

 最後に「奥田無鉄砲斎」に関する二、三のことを書き留めておこう。

 出身地に関してだが、『上州路』の取材で「高崎出身」とあるように群馬県出身が正しいようである。埼玉の展示では「埼玉県出身」とポスターの内容をそのまま鵜呑みにしたようだが、ポスターの内容は案外信頼できないことがあるので注意である。

 当時、県をまたいで活躍している人は、その県の仕事の融通をよくするために「○○出身」というベンジャラを言っている場合があるからである。

 同郷だと思われる証拠に、群馬県出身の歌人吉野秀雄の歌がある。1964年の作に――

「故里の小新聞記事お会式に奇術無鉄砲斎の掛かるを伝ふ」

 という一首がある。これだけでは証拠不足と言われても仕方ないが、群馬県に強い郷土愛を覚え、何度も「群馬に戻りたい」(病気でずっと療養していた)と思っていた吉野がわざわざこんな無名の芸人を取り上げるには「郷土愛」的な理由があったのではなかろうか。

 また、奥田は晩年「群馬県安中市板鼻」にいたらしい。どういうわけか長い間住所は更新されておらず、ネットに転がっている住所録にも「奥田無鉄砲斎」という記載をそのまま確認できるのである。どうしたものか。

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