(奥田無鉄砲斎の至芸の数々)
先日、SNSを見ていたら「奥田無鉄砲斎のポスターが出ている」とちょっと話題になっていた。以下はそのツイートである。
それに対し、有識者が「池内紀『地球の上に朝がくる 懐かしの演芸館』にその記載が出ている」と紹介していた。
筆者はこの記事を見た時、「ちょっと待てよ……」となった。奥田無鉄砲斎……どこかで聞いた事のある名前だ、としばしの間頭の中を整理した。
そして、本棚の奥にある池内紀『地球の上に朝がくる 懐かしの演芸館』を引きずり出して読んだ。確かにその中には上記の通り、「奥田無鉄砲斎」のことが記されていた。
池内は「怪力術なる芸を見た」という幼い頃の情景を以下のように綴っている。
これだけならば普通の思い出であるが、この後に続く文章が非常に引っかかった。曰く――
あるとき雑誌をながめていたら、奥田無鉄砲斎という男のことが記事になっていた。
池内はある雑誌から奥田の情報を仕入れ、「幼い頃に見た奥田の人となりを知った」と言わんばかりにその経歴を記している。
この文章を見て筆者は「なんかどこかで読んだことがあるような」と違和感を覚えた。それは池内の文章であって、池内の文章ではないような錯覚であった――というべきだろうか。
そして、ふと頭の中をよぎったのが、学生時代――群馬県立図書館に通って時折読んでいた『上州路』という雑誌の存在である。その雑誌の中に『上州の旅芸人』という特集があり、太神楽や八木節が取り上げられていてキャッキャ喜んだ記憶がある――そんな事を思い出したのである。
思い立ったが吉日――と久方ぶりに群馬県立図書館を訪ね、『上州路』を読み漁った。大体のタイトルのめどがついているだけにモノの十分で記事は見つかった。
『月刊上州路 No.46』(1978年3月号)の特集「上州旅芸人」の中に「奥田無鉄砲斎のこと」と題した短文が紹介されていた。
これを読み進めていると「池内紀はこれを元資料にしたのではないか」と一種の勘が働いた。余りにも情報や内容が一致しているからである。もっとも、池内紀は盗用したわけではないので、法的に問題があるわけではない。むしろ、こうした地方雑誌にまで目を通していることに驚いた次第である。
『地球の上に朝がくる 懐かしの演芸館』に関しては今なお古本屋やネットショップで買えるだろうから、興味のある人は各自買ってくれ――という感じであるが、『上州路』を買おうとなるとなかなか大変だと思うので、ここに池内紀が参考にしたと思しき原文をきっちり記しておこう。
上の出版年から逆算すると、奥田無鉄砲斎は、1908年頃群馬県高崎の生まれ。1927年頃に芸能界へ入り、1936年頃より今の芸風に落ちついた――ということとなる。池内の文章をそのまま鵜呑みにすると齟齬が生じるので、そこは注意すべきではなかろうか。
最後に「奥田無鉄砲斎」に関する二、三のことを書き留めておこう。
出身地に関してだが、『上州路』の取材で「高崎出身」とあるように群馬県出身が正しいようである。埼玉の展示では「埼玉県出身」とポスターの内容をそのまま鵜呑みにしたようだが、ポスターの内容は案外信頼できないことがあるので注意である。
当時、県をまたいで活躍している人は、その県の仕事の融通をよくするために「○○出身」というベンジャラを言っている場合があるからである。
同郷だと思われる証拠に、群馬県出身の歌人吉野秀雄の歌がある。1964年の作に――
「故里の小新聞記事お会式に奇術無鉄砲斎の掛かるを伝ふ」
という一首がある。これだけでは証拠不足と言われても仕方ないが、群馬県に強い郷土愛を覚え、何度も「群馬に戻りたい」(病気でずっと療養していた)と思っていた吉野がわざわざこんな無名の芸人を取り上げるには「郷土愛」的な理由があったのではなかろうか。
また、奥田は晩年「群馬県安中市板鼻」にいたらしい。どういうわけか長い間住所は更新されておらず、ネットに転がっている住所録にも「奥田無鉄砲斎」という記載をそのまま確認できるのである。どうしたものか。