敬意を払うとは、相手の可能性を信じる事です(ラージャヨガ)
こんにちは!
土曜日のクラスでは、少し長めの時間を取って授業の理解を深めるワークを行います。
今日は、敬意を払う事についての理解を深めました。
人はそれぞれの基準によって、他人を格付けたりジャッジしたりしています。
地位、名声、財力、肩書などなど。。
それらを持っている人だけに敬意を払い、持っていない人をバカにしたり蔑んだりする人もいます。
ラージャヨガの世界で敬意を払うとは、誰であっても、どのような立場の人に対しても、その人の価値を認め、自動的に敬意を払う事だと教えられます。
ある特定の人には敬意を払い、他の人には敬意を払わないというのは、自分の中で差別を作り出している事と同じで、とても純粋な考え方とは言えないですよね。
また本当に敬意を払うべきなのは、自分と他者の純粋性に対してで、純粋な気持ちから生じる望みや行動に対しては特に最大限の敬意を払うべきだとも。
子どもが小さい頃、突然目をキラキラさせながら、「まま、ぼくは将来〇〇になりたい!」と言う事がよくありました。
「そんな夢みたいな事言ってないで、早く宿題しなさい!」
などと決して言ってはいけません笑。
まずはそのような望みを口にした勇気と情熱に最大限の敬意を払うべきなのです。
全ては、純粋な望みから始まります。
純粋な望みを抱いている人に敬意を払うとは
、相手の可能性を信じると言う事でもあるのです。
勇気を出して望みを口にした子どもに対し、精一杯の敬意を払う事は、子どもの無限の可能性を信じ続けるという姿勢の現れです。
そして敬意を払われ続けた人は、それを必死に返そうと努力を続けるものなのだそうです。
長い事子育てをしてきても気づかなかった事が沢山あります。
今子育てをしている方々は、心の片隅に留めていただけると幸いです。
地位や名声は一時的なものです。
お会いした方の肩書や表面的な美しさだけを見るのではなく、
その方の持つ純粋性や崇高さに気付けるようになれば、人間関係の悩みも自然と消滅してゆきそうですね。
最後に、他人に敬意を払うには、まず自分に敬意を払えている事が前提です。確かに自分が卑屈な気持ちでいては、相手に敬意を持てる訳がないですね。
皆様、良い一日をお過ごしください😊
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