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日本のシルクロード、養蚕痕跡が伝える、嘗て境川、町田街道沿いは夥しいほどの桑畑だった
前回、八王子市鑓水に残るたった30年間の兵どもが夢の跡を、生糸輸出世界一の痕跡を、ご紹介しました。
今回は、八王子市鑓水から浜見場の尾根を越えた先、境川、あるいは町田街道沿いの養蚕痕跡を辿っていきたいと思います。
恐らく皆さんの予想以上にたくさんの痕跡が残ってます。だから長いですがお付き合いお願いします。
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さて、下記地図を見て下さい。
これが八王子宿から横浜港へのシルクロードの地図になります。左上の八王子市と書いてある所がスタート地点、八王子宿です。右下の青ポイントが横浜港になります。黒が言わば本道で浜見場を越えた先は町田街道と重なります。他は支道ですね。で、赤ポイントが養蚕痕跡が残る寺社、青ポイントが寺社ではない養蚕痕跡となります。
どうですか?, 八王子宿を頂点とした赤線と黒線の直角三角形、そこに養蚕痕跡が集中してるように思いませんか?
更にその中でも、八王子市鑓水から浜見場の尾根を越えた先、境川、あるいは町田街道沿いに集中していますね。
今回はここを行きます。
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まずはこちら。
これは一体何なんだとお思いかもしれません。蚕種石と言います。
養蚕守護神として信仰されました。八十八夜近くになると石の表面の苔の色が緑色に変化し、それが蚕を孵化させる時期と合うことから、豊繭を司る神として信仰されました。八十八夜の日には幟が立ち参詣人で賑わい、石の傍にある桑の大木の葉を摘んで蚕に与え、豊繭を願うならわしがあったといいます。
訪れた日は偶然にも八十八夜の日。緑色になってますか・・・ね、、、。
それと、この蚕種石がある地区はナント!!!, 字名が、蚕種石なんです。
これも立派な痕跡ですね。
まだまだあります。先を行きましょう。
また石です。はい、こちらも蚕種石です。町田市小山ヶ丘の札次神社にあります。
この蚕種石は、当初、瓦尾根(今の尾根緑道)の路傍に祀って、武運長久と子孫繁栄を祈願したといいます。
このようなことから、"子"種石と呼ばれるようになったとのことでした。
養蚕が盛んになってくると、"蚕(やはり、"こ" と読む)"種石として、信仰篤く祀られたそうです。
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先を行きましょう。蚕種石の次は蚕影神社です。まずは蚕影神社の写真を一気に。
※町田市相原町の園林寺、神社と言いながらいきなりお寺ですが、ここには蚕影尊が祀られています。
※相模原市緑区元橋本町の瑞光寺、またしてもお寺ですが、風土記によればここにも、蚕影神社がありました。
※相模原市中央区宮下本町の蚕影神社
※相模原市中央区上矢部の御嶽神社の境内社、蚕影神社。向かって左がそう。
※町田市常盤町の日枝神社・常盤不動尊の境内社、蚕影神社
※町田市矢部町の箭幹八幡宮の境内社、御子守神社、子は蚕で、蚕守神社(蚕影神社)だったと思われる。
※相模原市南区の幸延寺の境内社、金色大明神、つまり、蚕影神社
※大和市下鶴間の下鶴間不動尊の境内社、蚕神
はい。まだ、あんのかよ、と、思いながらここまでお付き合い頂きましてありがとうございます。それが狙いでした。それ程、多く痕跡が残っているということなんです。
さて、蚕影神社、あまり、聞かないですよね。
神社境内掲示では成務天皇の御代(131~190年)、金色姫伝説では欽明天皇の御代(539~571年), 筑波郡案内記では延長4年(926), 常山総水では崇神天皇の御代(BC97~BC30年)に創建という古社中の古社で、今の茨城県、嘗ての常陸国に鎮座、元は蚕影山大権現を祀ってました。その別当が蚕影山桑林寺という寺で、廃仏毀釈によりその全体が蚕影神社となったのです。
蚕影山大権現とは、金色姫を中心に、左右に筑波神、富士神を配していて、つまり、金色姫とは蚕影神社の神様だということになります。
蚕影神社と金色姫の関係は分かりましたが、金色姫が何故、養蚕守護神なのか。蚕影山大権現の縁起を見ると分かります。
―――インドにリンイ大王という王がいて、后との間に金色姫という娘がいたが、その后が亡くなり、後后をもらった。
その後后は、金色姫を憎み疎んじて四度も秘かに殺そうとした。
後后の悪意を知った王は、姫の身を案じて、桑の木で造ったうつぼ舟に姫を乗せて大海に流した。
この舟は日本の常陸国の豊浦湊に流れ着き、浦人に助けられ、浦人は、助けた姫を掌中の玉と愛したが、程なく、姫は亡くなってしまい、その霊魂は蚕になったという。これが養蚕の始まり。
そこで豊浦湊の浦人たちは、金色姫と、左右に筑波神、富士神を配し蚕影山大権現としてお祀りした。―――
と、いうことで、蚕になり養蚕の始まりを伝えた金色姫は養蚕守護神で、金色姫を祀る蚕影神社も勿論養蚕守護神だということです。
その蚕影神社が、これ程までにこのエリアに祀られているんです。どれだけ養蚕が盛んだったか、否が応でも分かりますね。
さて、蚕種石2つ、蚕影神社8つをご紹介しましたが、まだ終わりではありません。
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先を行きましょう、養蚕守護神としての伝承が明らかな稲荷神社です。
※その名も、蚕守稲荷神社。相模原市南区相模大野に鎮座。
※相模原市南区上鶴間の茨山稲荷神社
※相模原市南区東大沼の大沼稲荷神社
養蚕守護神にも色々ありますが、先の蚕影神も含め。他にも、中国の捜神記(東晋時代、317~420年), 上記捜神記が東北地方を中心に入ってきて若干変化したものと思われるオシラ様伝説、馬鳴菩薩があり、この3つは全て馬に縁があります。
稲荷神社は言わずと知れた稲荷神初午降臨ですからやはり馬(午)に縁がありますので、養蚕が盛んな地域では稲荷神社も養蚕守護神化して行きました。ここに紹介した3つのお稲荷さんもそうだったんです。
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まだあるんです。先を行きましょう。その他の養蚕痕跡です。
※町田市小山町の中村不動尊参道入り口に立つ馬鳴菩薩の文字塔
※相模原市中央区渕野辺本町の皇武神社、元は境川沿いにあった。つまり、水神→蛇→養蚕守護神。ここはかなり篤く信仰されたようで、それを説明する碑があったり、キレイに整備されている。タップして選択しピンチアウトしてズームアップしてご確認下さい。
※横浜市緑区長津田町の飯綱神社、横浜の高尾山山頂に鎮座。あの高尾山の飯綱権現を勧請、あの高尾山は八王子にあるということもあって、養蚕守護神として篤く信仰された。こちらも。
はい。ようやく終わりです。これで全部。まだあんのかよ、と思いながらもお付き合い頂きましてありがとうございました。
どうですか?, 嫌という程、痕跡がありますよね。16ありました。明らかな伝承があるものだけでこれだけあるんですから。
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何故、この地に、これ程までに養蚕痕跡があるのか。
この推理が醍醐味なんですが、
小さ過ぎるのでタップして選択後、ピンチアウトしてズームアップして確認して下さい。
この地図は、シルクロードが町田街道に接続する小山の辺りを真ん中に、西は橋本、東は上矢部辺りまでをカバーした1896〜1909年の古地図です。
アルファベットのYとLを組み合わせたような記号が桑畑なんですが、どうでした?, スゴくないですか?
もうホントに一面の桑畑、夥しい程の桑畑ですよね。これが横浜の高尾山の辺りまで続いてるんです。
だから、こんなにも、養蚕痕跡が残ってるんです。シルクロード沿いだっただけでなく、養蚕そのものも盛んだったんですね。
最後に、当時の横浜に暮らす外国人向けの案内地図です。彼らは居留区から出られたんですね。下の方の地図をタップして選択しピンチアウトしてズームアップしてご確認下さい。
右下が本牧岬、横浜港ですね。左上の方に、Haramachida (原町田), Kiso (木曽), Ashimoto (橋本)なんかの地名が確認できます。これらと横浜とを接続している薄青線がシルクロードです。地名の他に、Mulberryという表記も確認できますね。桑です。districtと合わせて表記されてますから、どうやらこの辺り一帯は、外国人に、行政によって管理された桑畑エリア、と、捉えられていた、それ程までに一面の桑畑だった、ということが分かります。
※まずは全体図
※ズームアップ