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鉛筆が好きという話

 鉛筆が好きだ。

 書いているときにふと感じる木の匂いに、黒鉛の削れる匂い。使えば使った分だけ短くなるところもいい。それまでの過程が可視化されたようで。

 とかくせわしない職場ではついついボールペンやシャープペンシルに頼りがちだが、家で文字を書くとき―――たとえばモーニングページを書くときや、noteの記事の内容を考えるときには特に重用している。


 鉛筆関連の品も、気づけば少しずつ増えていた。補助軸に関しては昔から持っているものとデザインに惹かれて買ったもの実用性で選んだものとで3本あるし、削る道具に至っては手回し削り器携帯用削り器鉛筆用ナイフの3種類だ。とにかく限界まで削って使い、補助軸も使えないくらい短くなったら、ちびた鉛筆同士をホッチキスで連結させて使い切る始末である。ホッチキスで連結させる方法はドラえもんの「出てくる出てくるお年玉」という話で知ったが、その後だいぶ後になってかのジブリも同じような方法で鉛筆を延命させて使っているツイート(現在は削除済み)を見て「鉛筆をホッチキス留めできるって本当だったんだ」と謎の感動をした覚えがある。

愛用の鉛筆関連用品たち

 子どもの頃ははそうでもなかったのに、今はどうしてここまで鉛筆に愛着があるのだろうか。考えてみれば、ひとつ思い出される話がある。


 たしか、道徳の教科書に載っていた話だったと思う。物書きを目指す主人公は、書いたものが認められない日々を過ごす中で自分の才能に行き詰まりを感じていた。父親(演奏者か作曲家だったかと思う)に悩みを打ち明けると、父は幼い頃トランペットの奏者に選ばれた理由が、演奏の腕が優れていたからではなく、単に肺活量が多いからという理由だけであったことを知って衝撃を受けた過去を話す。そして、主人公に木箱にぎっしり詰まったちびた鉛筆を見せてこう諭すのだ。才能がないなら、こうして才能をつくりなさい、と。載っていた教科書が手元にないので細部が確認できずに記憶頼りになるが、たしかこんな内容だったと思う。最後、主人公が箱に少しだけあるちびた鉛筆を見ながら、まだまだだと自分を鼓舞する場面が印象に残っている。この記事を書くにあたって調べてみたら、「ちびた鉛筆の教え」という話であるらしい。

 当時はいい話だなぁ、で終わっていたが、近年になってこの話を思い出したとき、どうにも心に響くものがあったのだろうか。とにかく、気がつけば優先的に鉛筆を使うようになっていたし、実家で使われていない鉛筆を見つけてはそっと机のストックに加えていた。それらは私が実家を出るときに一緒に持ち出されて、今はこの部屋でひっそりといつかの出番を待っている。いつになるかはわからないが、これらの鉛筆を使い切ったあとには文房具屋でいろんな鉛筆を買ってみて、好みの一本を探すのも楽しそうだなぁと思う。


 実は私も、使い終わった鉛筆を捨てずに小さな缶に保管している。いまはまだ数えるほどしかないけれど、いつかこの鉛筆たちが山となるくらい文章を書くことを重ねられたら、そしてそれがなんらかの形で実を結べば良いなと思う。

ここまで使うのはちょっとやりすぎだと自覚してはいる



 “「やめなければいつかなんとかなる」の法則”とは、いしかわゆきさんの著書「ポンコツなわたしで、生きていく。」に登場する言葉である。これは、努力も継続も苦手だという著者がたどり着いた真理。努力も継続も苦手だけど、“でも、「やめなければいつかなんとかなる」と思っているのであえてやめることはしません”と文中で彼女は言っている。今、ライターになれているのは、努力をしたというよりも「文章を書くことをやめなかった」結果だと。いしかわゆきさんは私と同じくADHD持ちであり、「会社で普通に働く」ことにずっと生きづらさを感じていて、そしてフリーランスの道を選んだ人である。いつかの彼女のように、今の私も「普通に働く」ことへの限界を感じていて、唯一の特技である「文章を書くこと」を活かして生きていく術はないかと模索している最中である。noteの更新を再開したのも、連日更新を試みているのも、その一環である。

 「努力をすれば必ず実る」と気負うのは心が苦しい。「やめなければいつかなんとかなる」と捉えなおして、のんびりと今やっていることを続けてみるといいんじゃないかな。

 彼女の言葉と、ちびた鉛筆たちをお守りに、今日も私はキーボードを叩く。


参考図書
「ポンコツなわたしで、生きていく。 ゆるふわ思考で、ほどよく働きほどよく暮らす」(いしかわゆき/技術評論社)

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