チョコレートクロワッサンと占い
チューリッヒでの宿は中央駅から正面に見える1泊約6500円の古い石造りのホテル。受付の白人の50歳代くらいの男性は「開業して135年になるよ」と言って、その後に付け足した。「でも、建物は500年以上だよ」と。 この左側にはStarbucks、右側には小さなカフェがあった。この小さなカフェで驚喜!チョコレートクロワッサンが最高に美味しかったからだ。 中のチョコレートはたっぷり入っていて、ケチケチしてない。オマケに渦状に周りにチョコレートが付けてあって見かけも可愛らしい。コーヒーと両方で9スイスフラン(約1,100円くらい)だったと思う。朝9時に行くともう売り切れているから、食べるためには朝寝坊は出来ない。
私が初めて美味しいクロワッサンを食べて魅せられたのは10年住んでいたLAの郊外のパサデナ市での事。市内にあったウッディで、デニッシュとサンドイッチが有名なカフェだった。90年代の終わりにはアメリカのコーヒーは「アメリカン」と揶揄された薄い味のないコーヒーは影を潜め、シアトルから流れて来た濃いめの味わい深いコーヒーとエスプレッソが主流になっていたのだ。パンもフランス風やベーグルも種々あって、日本ではパン好きでなかった私も白米は食べず、パンとパスタだけで過ごす毎日になっていた。 そして、今では日本のチョコレートは人気と共にバラエティーに富んでいるが、その頃のアメリカのチョコレートの種類の豊富さには驚かされていた。 なお、私のチョコレート好きは母親譲り。明治生まれの母だったが音楽好きで、Jazzやロックやヒュージョンを好み、また、苦みのあるチョコレートも大好き。いつも「チョコレートだ~い好き!」と言いながら嬉しそうに食べていたのが印象的な、ちょっと飛んでいる母だった。
LAの郊外のパサデナ市に住み始めて5年ほど、日本人の友達も出来て来ていた。ある日、その女性の友達に頼み事をされた。それはパサデナ市から南に30分ほど走ったところに住むメキシコ系の女性の占い師のところに連れて行ってくれ、というものだった。彼女は運転が不得手で、地図も読めないという。でも、アメリカでは住所さえ分かれば地図を見てどこでも行ける。「Thomas Guide」という索引のついた地図が頼り。Googleなんてない時代。アメリカの凄いところの1つに、すべての道路に名前を付けているところ。どんなに細くて短い道路にも名前が付いていて、道路の両側に番地の奇数と偶数で同じ側に位置させている。よって、道の名前と番地さえ分かれば「Thomas Guide」で探すと必ず場所が見つかる仕組み。さらに彼女の頼み事がもう1つ。この占いの料金が1時間60ドルと結構高いため、依頼は30分ずつにして料金も折半にして欲しい、という事だった。 私も占いは決して嫌いではないし、良く当たる気がしている。そのため、快諾して、ある日の午後、決行。フリーウェイを南に走って着いたところは普通の感じの家。でも、やはり飾り付けが白人の家とは違って派手でカラフルな内装だ。肌が浅黒く、艶やかでニコニコしている30歳代くらいの少し太めのメキシコ人の女性が占い師。 先ず、私から見てもらう事となった。 日本の占いのように生年月日など一切聞かない。ただただ、私の顔をジーっと眺めるだけ。で、30秒後の最初の言葉。 「貴女のお母さんはチョコレートが大好きだったでしょ」だ! 「Yes」と答える私。 「お母さんの写真の前にチョコレートを飾ってあげなさい。喜ぶから」と言うと、 「それで何が聞きたいの?」と重ねて言ってくる。驚く私はようやく気を取り直し、 「今、ある男性を紹介されているのだけれど、その人との相性を聞きたい」と答える。 「まあ、悪くはないけれど、その人には他に女性が沢山いるわよ」と教えてくれた。その結果でその後、どうなったかはいつの日か。まあ、 所詮、英語でのやり取りなので深堀は出来ないし。そして、最後に、 「貴女は気管支が弱いから気を付けてね」と言われた。その通り、日本に戻ってから喘息の検査を2回。ハウスダストとの結果だったが、ゼーゼー、結構、辛かった。でも、薬もなしにいつのまにか治ってしまった。 それにしても何で最初にチョコレートが最初に出て来たのか?いまだに不思議でならない。 勿論、その時は家に戻ってチョコレートを母の写真の前に飾ったのを思い出す。占いの料金は 30分で、日本円で3,600円くらい。内容的には薄かったし、私としては少し高かった気がしないでもないが、友達は英語が堪能のせいか満足気だった。 その後、帰国前にLAで目つきの鋭いスリランカのお坊さんに占ってもらい、仰天した話はその内に・・・ 以上、チョコレートにまつわる話でした!