黒人の大男(アメリカ在住時のエピソード)
♪Get your kicks on Route66♪
意訳すると「ルート66でツキを呼ぼう」だ。
この曲「Route66」はペンシルバニア州出身の俳優兼ジャズピアニストだったボビー・トループが1946年に作詞・作曲し、アメリカで大ヒットしたポピュラーソングだ。このルート66をテーマにした映画やTVドラマも多数あり、近年では2006年に公開された長編アニメーション映画「Cars」でもルート66沿いの小さな町が舞台となっていて、このアニメーションは大ヒットし、アメリカ映画界の名誉ある賞の第64回のゴールデングローブ賞を受賞している。この広く知られた国道は、イリノイ州シカゴからカリフォルニア州のサンタモニカまでの全長2,347マイル、キロ数にして3,755キロメートルの延々と続く道。現在は国道の跡地の旧道として整備されているが、今なお、アメリカ人の心の中に愛され、生き続けいる重要な道路だ。そして、最終地点のサンタモニカの手前に位置し、煉瓦の屋根の家が立ち並ぶ上品で穏やかな街、アメリカとは思えないほどしっとりとした雰囲気のある街、そのパサデナ市の中心に私達の店「Opus」があった。
パサデナと言えば、日本では1960年代のポップスで覚えのある「パサデナのおばあちゃん」の曲の印象が強いかもしれないが、パサデナ市はロサンゼルスのダウンタウンの中心から車約15分、所謂、ロサンゼルスの郊外で、アメリカンフットボールの開催場となっているローズ・ボウルやニューイヤーに生花や植物で飾るフロートがルート66の旧道を練り歩くローズ・パレードが有名。椰子の木を除けばまるでヨーロッパにいると錯覚するような街。そこに我々の家族、長男、次男、私の3人で当時、アメリカでも珍しかった音楽CDとカフェのコラボのウッディーな店を1997年にオープンした。名前の由来はクラシック音楽の「作品」という意味から次男が名付けた。
異郷の地でその店を開いた最大の理由はアメリカに合法的に滞在するためのビザの取得。亡くなった夫もアメリカが大好きで、長男、次男ともこちらの大学を卒業し、私も憧れのアメリカに住みたかったのだ。ビザの取得には数人のアメリカ人の雇用が義務付けられていた。しかし、開店して数カ月後に無事ビジネスビザを取得出来たため、アメリカ人の雇用の必要性は消え、経済的な必然性もあり、最終的には経験のない私がカフェを担当する事となっていた。長い間、アメリカのコーヒーは薄くて不味いと言われ続けていたのだが、2000年を前にする頃にはシアトルから来た本格的な濃いコーヒーが巷を席巻していた。まだ、日本ではエスプレッソを売る店はほとんど存在しなかったが、こちらでは濃縮されたエスプレッソコーヒーが大流行。一気に飲み干すアメリカ人の姿を見て私は眼を白黒。こんな飲み方があるなんて本当に知らなかった!
その日も私はいつものようにコーヒーの担当としてカウンターの内側でお客さんを待っていた。昼時の混雑が一段落し、片付けてホッとした夕方、下を向いてカウンターを拭いていたその時、カウンターの前になにか威圧感を覚えて目を上げると、日本では見たことがないような黒人の大男が立っていてこちらを見ている。既に雰囲気が恐い。慌てて
「Hi. What can I help you?」
と、声を掛けても返事をしない。言葉を発しない。そして、私の顔をジッと見つめた後、目を上げてメニューを凝視している。間があって注文を待つ私に彼がやっと何かを言った。
困った。英語が聞き取れず、何を注文されたのか分からない。その間も彼は仁王立ち、恐さで手が震えて来た。発音の後の方の「エスプレッソ」は何とか聞き取れた。でも、その前の単語が「ツゥ、プ」としか聞き取れない。仕方なく
「Excuse me?」
と聞き返す事3回。
すると大男は鋭い目付きで私を見らみつけると、突然、怒鳴った。
「この店には英語の分かるやつは居ないのか~」
と。その声が店内に響き渡った。そのフレーズは何故か理解。怒鳴り声とその形相に私は血の気が引く。彼は日本語的に表現すると「雲を突くような大男」だ。どうみても2メートル近い黒人の大男。155センチの私を見下ろすように立っている。その差、40センチ以上。その怒声を聞いて店の奥に居た次男がすっ飛んで来た。
「どうしたの?」、
と日本語で聞く。
「この方の注文が分からない」
を震え声で答えると次男が直ぐ謝りながら彼に
「注文はなんですか?」
と聞く。シアトルの学校に行っていた次男はすぐに
「ok」
と返事。
「ツゥ、プ」はなんと「トリプル」だった!
その黒人はシングルの3倍入っているメニューにはない「トリプルエスプレッソ」を飲みたかったのだ。「シングルやダブル」なら私だって馴染んでいる。また、日本語英語風に「トリプル」としっかり言ってくれれば私だって分かる。でも、なんたって「ツゥ、プ」なのだから……
彼が何故トリプルを飲みたかったかは次男の説明でやっと分かった。彼の仕事は夜勤。トリプルは眠気を覚ますためで、この店のエスプレッソはとても美味しいとの評判を聞いて来てくれたらしい。息子が
「母は日本から来て英語に慣れていなくて申し訳ない」
と謝り、
「本日のエスプレッソは無料にします」
と言うと、真っ白な歯を見せてニッと笑い、3倍のエスプレッソをグッと一気
に飲み干した。
次の日の夕方、また、威圧感を感じて顔を上げると、目の上の高さには彼の優しい笑顔があった。直ぐにトリプルを作る。そして、彼は週に数回は来てくれる良いお客さんとなり、最初の“恐さ”は暖かな“繋がり”に変化した。
その頃、「Opus」ではエスプレッソは挽いたコーヒー粉に機械で圧力を掛けて抽出していた。全自動でなかったエスプレッソマシーンでは粉の詰め方、圧力をかけるほんの数秒の違いで味が微妙に変わる。そのため淹れる人によって美味しかったり、苦味が強くなってしまったり。毎回、私は気持ちを集中して淹れていた。その甲斐あってか美味しいとの評判を取れていたのだと思う。オープン時には地方紙3紙にも店の紹介記事が掲載され、驚くほどの売上が立ち、ファミリービジネスは大成功。と、思ったのも約2年間弱。店内でコンサートを開いたり、広告を出したり、ファミリーで頑張って来たにも拘わらず「Opus」の経営は日に日に悪化して行った。ついにCDの販売に特化するため、カフェ部門の権利を売り渡し、他の人が切り回すようになった。カフェを担当した女性は、私の眼にはどう見ても、嫌々、コーヒーやエスプレッソを淹れているようで、その様子に私の心が傷んで行った。
ある時、私が店の奥のCD用のレジでJazzのCDを売り、売上を打ち込んでいると、入り口の右側にあったカフェにあの黒人の大きな背中が見えた。いつものようにトリプルを一気に飲み干し、帰ろうとして振り向いた彼と目が合った。日本には「目は口ほどに物を言い」という素晴らしい諺がある。彼の眼の奥にはある種の“悲しさ”が見て取れた。私が“ごめんなさい”との思いを込めて微笑むと、彼は人差し指を1本立てて
「No, No, No」
と言うように指を左右に振って出て行ってしまった。そのから後、彼は2度と「Opus」には現れなかった。築いた“繋がり”は断ち切れてしまった。
90年台の終わりにはアメリカ国内のPCの普及は想定外の勢いで加速していった。それに伴いPCからの音楽の無料ダウンロードが急激に広まり、値段の高いCDを求める人が居なくなった。
その頃の私にはPCが悪魔のように見えていた。
「Opus」だけでなく大手のCDストアの売上も激減し予想外の大型倒産が相次いだ。あの大男の黒人の彼が悲しい眼で出てい行った約半年後、私達が心込めて作ったウッディーで魅力的な「Opus」も借金を抱えて閉店に追い込まれたのだった。
山あり谷ありのアメリカ在住の10年間、今は懐かしい思いいっぱいだ!