リュッケンハルトの魔導書工房#7
リュッケンハルト橋国の中心に鎮座する国家機関、カセドラル。そのカセドラルのさらに中心に佇む大図書館の中で今、階段を降りる2つの足音が交互に響いていた。
2人の間の距離は2メートルほどで、その差は階段を降りている間縮まることも離れることもない。
背筋にたったひとすじだけ、寒気が走った。
それがここの気温によるものなのか、これから自分を待ち受ける何かによるものなのか、僕はまだわからなかった。
少し前。
「もし、人の身で雨を降らせた先駆者がいる…と言ったら?」
カイヤナの唇が動いた。僕にはその言葉の意味を理解できるはずなのに、頭でそれを想像することができなかった。
「……えっ」
呼吸と区別つかないくらい自然な感じで、思わず驚きの声が漏れる。
「それは…本当のことなのか…?本当に、そんな…」
これから自分がしようとしてることがいかに馬鹿げているか、自分が一番良く知っている。むしろその無謀さに気付いているからこそ、自分以外の誰かがそれを成そうとしていた事実に驚きを隠せなかった。
「ヒントはここまで。それで、どうするのよ。」
カイヤナが腕を組んで催促する。僕の中にある答えはただひとつだった。
「…知識はインスタントな力だ。それを手に入れるデメリットもないのに、僕が断る理由はないよ。」
カイヤナはそれを聞いて、誰にも気づかれないくらい微かな笑みを浮かべた。
カモの子のようにカイヤナの後をついていく。数分もしないうちに、ある本棚の一角でカイヤナはおもむろに立ち止まった。
「ここよ。」
見たところ、彼女が立ち止まった場所はこれまで見てきた景色となんの違いもない本棚の前だった。
「ここ…って、何がさ。」
「入り口。」
カイヤナはその見慣れた本棚の中にある何の変哲もない一冊の本の背をなぞると、本の背に指をかけ、引き抜くように取り出した。その至って普通の動作と光景に、はじめは何の関心ももっていなかった。
だから、その違和感に気がつくのに少しだけタイムラグが生じた。
カイヤナは確かに一冊の本を取り出したはずだった。というか、しっかりと彼女の手には今さっき取り出した一冊の本がある。だというのに、何故かそれと全く同じ本が、まるで本を取り出されたことに気がついていないかのように、未だ本棚に収められている。
カイヤナがその本を一瞬で複製したか、あるいは2冊の本が全く同じ場所に存在していたとしか思えないような光景だった。
「木を隠すなら森の中に、って言うでしょ?だから、本を隠すなら本の中に。そして、入り口はこの本の中。」
入り口だと言ったその魔導書のページには、らせん状の階段を真上から見たかのような図式が描かれていた。そしてそれは、カイヤナが持っていた魔導具から魔力を通すことで本の中で音もなく回転し始めると、本の中に広がる螺旋階段は複雑な挙動で、パズルのように何かの形に組み替えられていった。その都度、石がこすれるようにサラサラと砂埃が床へ落ちていくのを、僕ら二人はじっと見つめていた。
そうして、本の中に入り口が出来上がる。と言っても、それは依然としてただの本の1ページであり、ひとつの図像に過ぎなかった。
カイヤナは僕の手首を掴むと、その出来上がった図像の中心に手を置いた。
「それじゃあ、ひとつだけ注意事項。絶対に目をつむらないで。」
「えっ…」
僕が再び情けない声を漏らしたのが先か、それとも目の前の空間がガラスが割れるように崩れ落ちていくのが先か、そんなタイミングだった。
これまで眼の前にあった景色や空間が、実はステンドグラスに描かれていたフィクションだった、とでも言うようにあっけなく崩れ去っていく。崩れ去った景色の向こう側には、夜空を圧縮したかのような深く透明な闇が広がっていた。自分の体はその闇にとてつもない速度で吸い込まれているようでもあったし、逆に遠ざかっているようにも、あるいはどれも幻覚で静止しているようにすら思えた。
目の前に広がった夜空は、次第に夜明けと共に白けていくように透明になって消えていく。足を一歩踏み出すと、今までの体験は何をしていたか思い出せない夢のように曖昧なものになっていった。そして気づけば、目の前には石のレンガに包まれた薄暗い空間と、どこか懐かしく感じるカイヤナの後ろ姿があった。
どれほどの時間をかけたのか感覚ではわからないけれど、僕は無事、どこか見当もつかない謎の場所にたどり着いた。
さっきの景色は初めて目にしたものだったけれど、どこか遠いものとは思えず、落ち着くような気持ちさせた。その理由も、一昨日の夢のことのように、二度と思い出すことはできない。
「無事みたいね。気分はどう?」
カイヤナは手に持ったランタンを目の前にちらつかせて、体調を気遣っているのか、単なる興味からくるものなのかわからない聞き方をする。
「…気分は悪くないけど、なんというか…今さっきベッドから起きたみたいな感じだ。妙な景色を見たせいか、頭がぼやっとしてる。」
「景色?景色って…何?そんなの見てるような時間なんて無かったと思うけど…。まあいいわ。」
残念な人間を見る目でこちらを見ると、僕の言ったことが戯言か幻覚だとでも言うように振り返って石の階段を進んでいった。
「いや、あれは確かに…」
とカイヤナの遠ざかる背中に手を伸ばしたところで、自分でも、さっきの出来事が本当に体験したことなのか既に確信を持てなくなっている。
それよりも、どこかわからないこの場所で彼女の姿を見失うことのほうが重大に思えて、僕はカイヤナを追いかけたのだった。
2人の間の距離は2メートルほど、その差は階段を降りている間縮まることも離れることもない。
背筋にたったひとすじだけ、寒気が走った。
それがここの気温によるものなのか、これから自分を待ち受ける何かによるものなのか、僕はまだわからなかった。
白い大理石にも似た素材で作られた螺旋階段を降りていく。帰るときはここを登らなきゃならないのかと思うと、これ以上階段を下っていくのが億劫に感じた。
明るいとは言えない道に、ただ階段を踏む足音だけが淡々と響く。会話のない道中に、僕は少しばかりの不安と気まずさを感じずにはいられなかった。
「……?」
そんな不安を裏付けるように、ひとつ奇妙な現象が起きていることに気付いた。胸につけた白いペンダント型の魔道具が、これまで見たことのないような淀んだ黒色に変化していたのだ。
この魔導具はこれといって特別な機能があるわけではなく、魔術をよく通す媒体の”アンドラ結晶”をきれいに磨いただけのアクセサリーに過ぎない。
アンドラ結晶とは、アンドラの表面で変質し結晶化した塩のことだ。これには、魔術の痕跡に触れると結晶の中に等高線のような黒い模様が現れるといった特性がある。仕事柄、この模様が浮かび上がる現象を何度も目にしてきたが、この白い結晶がこんなにも黒く変色しているのは初めてのことだった。
白い石の螺旋階段、地下、黒く変色したアンドラ結晶…
考えれば考えるほどに違和感と嫌な予感がする。
知っての通り、ここリュッケンハルトは海の上に浮かぶ島国である。ただし、一般的な島とは違い、地殻変動でせり上がるように生まれた陸地ではない。仮にこの国の地面をシャベルなんかで掘り進めたとしても、そこにあるのは土や石や岩盤などではなく、せいぜい海水や、あるいは白い骸骨が顔を見せるのみである。だから、今のように階段で地下へ降りるという体験自体が不可解なのだ。
それにこのアンドラ結晶。どのような反応を起こすにしても、この結晶が反応を見せるのは魔術のみである。だから、黒く淀むという反応もきっと、なにか僕の知らない魔術に対して起きた反応なのだろう。
今では世間にすっかり浸透した魔術だが、その多くはまだ謎という大海に沈んだままである。
ただ、ひとつ確かなのは、竜の死体であるアンドラが魔術の源だということだ。なら、このアンドラ結晶を黒くできるのはおそらく…
「はは、まさかな…」
自分のいる場所の見当が、無意識のうちに脳内に浮かび上がってくる。
階段を降りきったそこには、妙に広い空間と、奥にはなにやら幾何学的でやけに平らな扉がずっしりと佇んでいた。
どうやら、ここが終点のようだ。
「…着いたのか?」
「そう、ここが目的地。―――ふぅ…」
カイヤナはひとつ息を整えると、手に持ったランタンを地面に置き、家の玄関をノックするみたいな感じで二回、そのランタンを軽く叩いた。カイヤナの指輪とランタンの金属がぶつかって、甲高いキーンという金属音が周囲に伝播していく。まるで金属のサビが剥げて風化した景色に色が差し込まれていくように、扉の前の広い空間に一気に光が灯っていった。金属音の余響が収まる頃には、周囲の細かな装飾がはっきり見えるほど周囲が明るくなった。
扉の前の空間は柱や壁、天井には石を削ってできた装飾が所々に施されていて、どこか教会に似ていたように思う。廃墟のような雰囲気がしているのに、地下室とは思えないほど美しく整えられていた。
白い石で出来た空間は大理石のように、僕らの話し声を何度も何度も響かせている。
「なあカイヤナ、見たところ僕ら以外に人はいないし、そろそろここが何処なのかとか、何か教えてくれてもいいんじゃ…?」
「……少し下がってて。」
僕の言葉を軽くあしらうような、低いトーンの声だった。その1秒か2秒後、両開きの扉は僕たちが訪れたのを見ていたかのように、ゆっくりと開いていく。
扉が轟音を響かせる中、カイヤナは静かに話し始めた。
「ここはカセドラルの地下。地下って言ってもまだ、海の中なんだけどね。…ここはリュッケンハルトの土台として太古から存在する遺骸の内側、あの大きなアンドラハンズが竜の肋骨だとするなら、ここは頭蓋骨にあたる場所よ。」
僕は今、ちょうど数日前にメナロスと交わした他愛もない会話を思い出していた。
「そりゃあ、『雨』が欲しいだなんて傲岸不遜にも程があるってもんだぜ。なにせ雨は”神様の涙だ”って言うしな、神様を泣かせた見返りに天罰を受けるなんて馬鹿馬鹿しすぎると思わないか?そんな仕事なんざ、仮にテールのお偉いサンにいくら大金を積まれたとしても願い下げだね。」
「天罰ね…。この国におわします神様とやらは僕らの足元にいるっていうのに、一体何に怯えなきゃならないんだ?」
「アンドラの中…。はは、信じたくないものほど当たるっていうのは本当みたいだね…」
首に巻き付くような緊張感と息苦しさに、それ以上の言葉を発することはできなかった。
「あの部屋には、魔導書の中でも”禁書”になってしまったものを保管してるの。ここへ来る前に私が言った『先駆者』についての記述が残されてる唯一の場所よ。…ちなみに、この場所のことを知っているのは、カセドラルの最高司祭であるグレンツェ教皇様と、それを補佐する枢機卿のメンバー8人。それと、いまここにいるあんただけ。」
轟音は消え、目の間の扉が完全に開ききった。カイヤナは足元のランタンを再び手に持つと、こちらを軽く一瞥して前へ歩く。
僕は彼女の一歩より数歩遅れて、彼女の後ろを歩いた。
一歩一歩進んでいくたびカイヤナの持つランタンに灯った橙色が、足元に点在する純粋な水たまりにゆらゆらと反射していく。水たまりに水滴が落ちる音と、カイヤナと僕の鳴らすブーツの音が冷たくあたりに響いていた。
無骨で重く、子供ひとりくらい軽く埋め込めてしまうかのような厚みの扉を通過する。
そうして到着した部屋の中は、何の音も、匂いも、空気も、時間も感じないような、からっぽという言葉が不思議と似合うような気がした。
何も無いということではなく、何の痕跡もないのほうが自然な感じがする。
誰かが通れば風が舞うし、匂いや足跡も残る。何かの物質があれば、それは時間という摩耗に晒されて朽ち、様々な痕跡を残すものだ。実際この部屋だって、中に保存されているものを管理するために、何度か人が訪れていてもおかしくない。だというのに、この場所には一切の痕跡が感じられなかった。まるで、どの時間にも連続していない、切り離された時空に存在しているみたいだと思った。
見上げた天井には、夜空を模した深い色のドームが広がっている。その星々の真下にはカイヤナの言う通り、いくつかの魔導書が保管されていた。
「ここにあるもの、少しでも干渉しようとしたらどうなるか私にもわからないから、変に触ったりしないでね。」
本の中心を細やかな装飾の剣で貫かれたもの、立体魔法陣の中に浮かんでいるもの、鎖に縛られているもの、大半が砕けてなくなっている石板など、見るからに『禁書』だとわかるものが点々と並べられている。どれも見るだけで異質さを感じるものばかりだったが、その中でも最奥にあった魔導書は特にそうだった。
そこにあったのは、禍々しさも、神々しさもない、ただただ本屋に並ぶような古書の一つとしか言えない見た目をした魔導書。
ある意味でそれは、この場所にはあまりにも不釣り合いで異質なものとして僕の目に映った。
「…あれもそうなのか?」
その一冊を指さしながら、カイヤナに尋ねる。
「ふうん、流石の嗅覚ね。あれこそ、この中でも飛び抜けて危険な一冊。そして、あんたの求めてたものよ。」
一度、耳を疑った。カイヤナは、あのありきたりな本がこの中で最も危険な一冊だと言ったのか?
「あれが…?見たところ、ただの本にしか見えないけれど。魔力だって一切感知できないし、どこに危険があるっていうのさ。」
「あれから魔力を感じないのなんて当たり前じゃない。あんた自身がそう言ったように、あれは魔導書なんかじゃないただの”本”なわけだし。……というか、むしろそれがあの本を危険たらしめている理由と言ってもいいくらいね。」
「ますます意味がわからないな。猛毒の紙やインクでも使っているのか?」
カイヤナは頭を抱えて、すごく残念そうなジトッとした目で僕をひと目見たあと、その本のほうに近づいていく。
「この本が危険なんじゃなくて、この本に書かれてる情報のほうが危険なものなのよ。この国や、ひいては世界全体を根本から揺るがすことすら可能なほどのね。そんな情報が書かれてる本が魔導書じゃない、なんの自衛機能も持たないただの紙の束だってコトこそ最も危険だって、あんたにもわかるでしょ?」
彼女の言っていることは、全て正しかった。
この世界で最も価値のあるものは、貴重な素材でもなければ人命でもない。情報だ。
情報には、人を動かし、人を操り、人を破滅させる力がある。何より厄介なのは、情報は消えない力であるということだ。
一度手にしてしまったその力は、”死”以外誰にも取り除くことはできない。
なるほど確かに、どんな魔導書よりも危険だと言えるだろう。魔導書という錠は、中身の秘密を守るためのものであると同時に、本を開いた人間を守るためのものでもある。
ただ…
「カイヤナ……君はこれを読んだこと、あるのか?」
僕は、それが何より気になってしまった。
「当たり前でしょ、私だって枢機卿の一人なんだから。……だから断言できる。あれは正真正銘の禁忌だって。そんでこれが、あんたにいま、一番必要な情報だってことも。」
カイヤナが指輪をなぞって近づけると、その本の周りに展開されていたケースが自ずと崩れるように開いた。
「一応聞くけど、覚悟はできてる?一度知ったら、忘れるのは死ぬことより難しいからね。」
「何度も聞かなくて大丈夫だ。覚悟は多分、魔術師になったときからしてたから。」
なんの変哲もないただの古書が、目の前にある。仕事柄、多くの本や魔導書を見てきたけれど、こんなにもそれが恐ろしく見えたのは初めてだった。
「ほら、あんたも一応魔導書工房の人間なんだし、触れずに本を展開する方法くらい知ってるでしょ?」
「まあね。でも、魔導書以外の本でこれをするのは初めてだよ。」
この部屋に設けられていたあの重い扉よりもゆっくりと表紙が開かれる。中のページがサラサラとめくられて、あの懐かしい甘い土のような本の匂いが訪れた。
文字が目に入り、次に意味が脳内に流れ込む。
「はは、何だよ…これ。」
読み終えて出てきた言葉は、半分笑っていたように思う。
そこに書かれていたのは僕の知らないあるひとつの物語と、その物語の中で禁忌を犯した者が辿った、あまりにも虚しい結末だった。
恐ろしいほどに辻褄の合った、耳を覆いたくなるようなお伽噺だった。
以下、カセドラルに残されている資料より。
下記正本を最上位機密文書として保管。
表題『嵐の魔女モルガンの処刑と、モン・ヴィーヴル王国の滅亡』
どこか、遠くの景色を見ていたような気がした。
夕焼けを溶かしたような海の上には、今にも落ちてきそうな暗雲が立ち込めている。
ぽつりと浮かぶその島はまるでひとつの山のようで、その中央には豪華な城が建っていた。
暗雲はやがて雷を巻き込みながら、ひとつの嵐に生まれ変わり、それは空からゆっくりと落ちて爆ぜた。
僕の目の前には高い高い黒波が静かに押し寄せ、その奥にあったはずの城は潮汐の下に消えてしまった。
辺りには、黒い大粒の雨が海に穴を開ける音だけが響いていた。
「―――――大丈…――ルカ…!―――――――――ねえ!!!」
「……!!」
「―――――ねえってば!!」
「は、何を…」
「私のこと見えてる?声は??」
肩がぐわぐわと揺れている。目の前の視界がこうして揺らいでいるのは、さっきまで見ていた”良くない夢”から覚めたばかりだったから、というのもあったのかもしれない。
気づくと、そこには見たことのない顔をしたカイヤナがいた。
「あ…ああ、平気だ。ちょっとだけ、寝てたのかな。」
「はぁ………」
カイヤナは両手を僕の両肩に置いたまま、がっくりと顔を下げた。僕の肩を掴む小さな両手は、まるでこの肩にしがみつくかのように力強かった。
このとき、どうしてか肩にかかるこの重さは、彼女の手だけのものでは無いように感じたのを覚えている。
カイヤナはそのまま顔を上げすに、どこかに向かって吐き出すように声をあげた。
「…あんたは、他人に何度心配をかけたら気が済むのよ……!!」
彼女の中で言えずに滞っていた言葉が、咳き込むように溢れる。
「ここにあんたを連れてきたのはね…その馬鹿げた魔術から手を引いて欲しかったから。私に未来を見る力なんてないけど、私にはあんたが自殺しようとしてるようにしか見えなかったのよ。あんたがただの一般魔術師なら、私だってこんな危険なことしなかった…。」
一切予想にしていなかった言葉に、僕の足が半歩だけ後ずさりする。目を見開いて硬直する僕とは対照的に、カイヤナは顔をあげて、笑いながら涙をひとつだけ零して言った。
「ねぇ…あんたならさ、本当はヒントなんてなくたって成し遂げられたんじゃない?」
この類のセリフを言われて、ここまで胸が締め付けられたのは初めてだった。
僕は、生まれつき魔術との相性が良かった。僕がグラナイとして産まれたことがそうさせたのか、はたまた別の要因があったのかはわからない。
僕の生まれは至って平凡な家だった。代々魔術師だった家系でも、優秀な人材が排出される家でもない普通の家。ただ、グラナイとして生まれたことはこれ以上ないほど幸運だったと言えるだろう。
この国でグラナイに生まれるということは、最低限の命と仕事を約束されているのと同義だ。身体能力と魔術の両方に秀でた種族であるグラナイと人間との間には、どうしても埋まらない差というものがあるし、それは手につけられる仕事の質にも受けられる教育の質にも関わる。
僕はグラナイに産まれて、そしていつのまにか魔術という分野で天才と言われるようになった。でもその裏にカイヤナのような特別な努力があったわけでも、メナロスのような犠牲があったわけでもなかった。僕にはただ理由のわからない魔術との親和性があっただけ。
だから、「君の右に出る魔術師はいない」「君に不可能なことは無いんじゃないか」と皆が口を揃えて言った言葉を、自分に向けられているものだと素直に受け止めることも、言葉の重さや責任を感じることもできなかった。嬉しく思うこともあったけれど、どこか目線が合っていないような、そんな感じがした。
だから、カイヤナの口から溢れた言葉は、鋭利な爪が食い込むほどに心臓を鷲掴みにした。彼女の言葉は僕の魔術に向けられたものではなく、僕自身に向けられたものだったからだ。
それは確かに嬉しかった。ちょうど心臓の位置にある何かが
「僕のためにここまでしてくれるなんて…ありがとう、カイヤナ。」
「―――ありがとう、か…」
カイヤナは開かれたままだった本を優しく閉じると、この部屋の静まった空気に向けてゆっくりと独白した。まるで、僕の未来や自分の未来を知ってしまったかのような優しい声だった。
「…ほんとはさ、こうしてでもあんたのことを止めたかったの、自分のためでもあったんだ。大学で魔術に対してひたむきになれたのも、メナロスやあんたを追い抜こうとしてたんじゃなくて、ただ隣に並びたかったってだけなの。こうしてカセドラルで枢機卿になった今の自分なら、少しは背が届くと思ってたんだ。
今ならわかるよ。それって魔術で見せられた幻覚みたいなもんでさ、現実は上限の設けられた大学の試験とは違うんだ。」
彼女の表情は見えない。行動や仕草も、何らいつもの彼女のままだった。ただ、聞こえてくる声色だけはこれまで聞いたことのない痛みを抱えているよだった。
「雨を降らす大魔術を完成させて、その果てにあんたは”名落ちの魔術師”になる。多分、それ自体はもう変えようのない未来でさ。そうなれば私はもう、あんたの魔術を追いかけることも、またこうして話をすることも出来なくなる。…はは、私もグラナイで生まれることができてたら、少しは肩に手が届いてたのかなぁ。」
僕は今、巨大な分かれ道に立っている。いや、どちらかといえば一本道で、前へ進むか、来た道を戻るかの選択を迫られているように思う。
本の中で目にしたような、名落ちの魔術師という姿。それから、それらを幻覚だと切り捨てた自分の姿。
その禁じられた魔術を成す意味とやらは、果たしてこの命と釣り合うのだろうかと考える。
仮に、僕に残された約10年の寿命の後に、長い寿命を持つ人間の彼女は、僕の何を追いかけていくのだろうか。
グラナイの内側にある魔力は歳を重ねるごとに少しずつ減っていく。それぞれの種族がもつ寿命という”隔たり”から、いずれ僕やメナロスのようなグラナイは、否応なく彼女の前から姿を消すことになるだろう。寿命は、グラナイと人間の間にある決して消すことの出来ない”隔たり”のひとつだ。
ただ魔術に秀でていただけの同級生で終わるのか、それとも名落ちの魔術師として彼女の見る先にあり続けるのか。
僕には、人間である彼女の速度がわからない。
だけどきっと、そうあることは素敵なことだと思う。初めはなぜ雨を降らせる魔導書に、こんなにも好奇心を刺激されたのか分からなかったけれど、僕は自然とダンクに棲む野生動物のように、還る場所を探していただけなのかもしれない。
彼女の前で出た言葉は、グラナイで生まれたからこそ言えるような、とても贅沢で傲慢な言葉だった。何より、彼女の意志の尽くを裏切るような言葉でもあった。
「ありがとう、でもごめん。僕が人間ほど生きられたなら、君の用意してくれた二択で迷うことも、君をこうして困らせることも無かったんだろうけど、せめて一人の魔術師として、僕は誇れる同級生でいようと思う。」
「隣の瞳は青く見える…。うん。そのほうが、天才で傲慢で謙虚なあんたらしいよ。だからさ、きっと成功させてよね。私があんたの魔術を覚えていられるように。」
久々に聞いたカイヤナの創作ことわざ。このときふと、目の前の彼女があの日から何も変わっていなかったことに気がついたのだった。
『隣の瞳は青く見える』
ヒトはグラナイの一瞬に憧れ、グラナイはヒトの寿命に憧れる。
カイヤナの目に映る僕の瞳が何色だったのかはわからないけれど、僕の目に一瞬だけ映った彼女の瞳は青く輝いていたような気がした。
サルカは既にここを去った。この場所にはカイヤナがただひとり佇んでいる。見上げる天井は高く、地下室とは思えないほどに光が充満していた。
彼女の計画は失敗に終わった。
カイヤナには家族と呼べるものはいなかった。この国でグラナイとして生まれるか人間として生まれるかは、血筋に関係するものではない。このリュッケンハルトという特異な場所で生まれた人間のうちおよそ半分が、グラナイという形で突然生まれる。
期待は裏切りの母体だ。
カイヤナは人間として生まれ、そして捨てられた。確率は半分なのだから、別に特別なことではなかった。人間として生まれることも、そのあと捨てられることも。
もちろん、人間として生まれたからと言って全員がそのような道を辿るわけではない。数字だけで見ればひとつまみ程度の問題だった。
カイヤナにとって他の人間との関わりはどれも、からっぽだった家族という関係性を補完するような存在だったのだ。
カイヤナは、そのことを初めて自分の目の下に流れた涙の温度で自覚した。
カイヤナがひとり佇む部屋の外で、ひとりのグラナイが物陰から腕を組んで様子を伺う。
頭の上に一滴、水滴が垂れた。
ぴちゃりぴちゃりと水滴が天井から水たまりへと落ちている音だけが、無数に響いている。
「やっぱりお前は馬鹿だよ、サルカ…。」
ひとつっだけため息を零して、黒い服の男はその場を音もなく立ち去った。
ひとり工房までの帰路を歩く。見上げた空は晴れて、むき出しの夕焼けは街に火をつけているようだった。空は夕日から遠ざかるほどに、空は緑色を帯びた紺色に透き通りはじめている。なんだか工房に帰るまで考える時間が欲しくなって、いつもとは違う道をゆっくりと歩いた。
辺りに人影はなく、ただ波の音だけがゆっくりと時間を刻んでいる。
いつも夕焼けは一瞬で終わってしまうイベントだと感じていたけれど、今日のそれは永遠に続くような感じがしていた。
多分、もうその時には彼の魔術の内側だったのだろう。
「おう、どこかの帰りみたいだな。」
この国で最も広い石橋の下、誰も寄り付かない瓦礫だらけの広い空間に、聞き慣れた声が鼓膜を揺らした。
夕焼けに赤く濡れた海だけが、この空間を下から照らしている。
目の前には黒い制服を着た男が、橋の瓦礫に腰掛けていた。
「ああ、調べ物をしに行ったんだ。前に言った雨を降らす魔術のね。…ありがたいことにヒントを得たんだ。もう少し詰めれば形にできると思う。」
「そうか…」
「それと、久々にカイヤナに会ったんだ…。何も、変わってなかったよ。」
少しの間、穏やかな風が吹き込んだ。
「…俺たちとは、違うからな。」
黒い制服の男は膝に手を当ててゆっくりと立ち上がった。手には、彼が仕事をするときだけ握る、黒いハルバードが輝いていた。
「…それと、その制服のバッジ、さっきカイヤナに会ったときに気付いたんだ。君も枢機卿のひとりだったんだね、メナロス。」
「ありゃ、言ってなかったか…。ハハ、こういうことがあるから、俺はこの仕事が大嫌いなんだ。相手が誰であれ、渡された命令には従わなきゃいけねえ。…なあ、サルカ。俺がこれからする質問って、意味あると思うか?」
「無いね。ついさっきそう決めたばかりだ。」
サルカは懐から、一冊の小さな本を取り出した。それは淡く光ると、足元に魔法陣を描き始めた。
「ハハ、だと思ったよ。…これは、一筋縄にはいかないかな。」
メナロスは笑ったままハルバードを構えた。黒い刀身に、夕日の赤色が弾かれる。
ふたつの力が衝突する音は、ちょうど今リュッケンハルトの地に響いた鐘の音を、無常にもかき消した。
続く
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