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「リュッケンハルトの魔導書工房」Avant 2

暗い。
目を開けているのか、閉じているのかさえわからないような暗闇。

私が覚えているのは、全身を激しく舐め回すような濁流と、腕に抱えた箱のような何か、そしてその暗闇だけだった。
だから、私が私の記憶として語ることができるのは、二度めに目を覚ましたところからの出来事だけ。
それ以前のことは、まるで底なしの大穴を見下ろしているようで、そもそもそこには何も無かったように、思い出すという行為自体がバカバカしくなるように思えた。
そこにあったはずの記憶は結局、最後まで思い出すことは叶わなかった。


あれからどれほどの時間が経ったのだろう。
長いようで短い、まるで夢でも見ていたかのような泡沫の感覚。

「ぅあ…」

私を揺らす小気味良い振動と、魚が焼ける美味しそうな匂い、そしてチラチラとまぶたの裏側を覗き込んでくるような失礼な光に、錆びついて重くなった扉をこじあけるようにして目を開いた。
今の状態を知ろうと、完全に開ききっていない半目の状態であたりの景色を探る。
そう試みたところで瞼以外の身体は全く動かないし、私の目の前の殆どは黒い布のような何かに覆われて、充分な情報を得ることなどできなかった。

どうやら私は、何者かに背負われて、どこかに運ばれている最中らしい。黒い背中の外に見えるオレンジ色に乱反射する光は、暗闇に慣れてしまった私の目にはとても耐えられなかった。
今はただ、私を背負っている名前も知らない誰かの黒い背中を見つめることしかできない。
ただ、その黒はさっきまで見ていた暗闇とはまったく違った。太陽のようにぽかぽかと暖かくて、自然と身体を預けたくなった。

そうして私は再び、意識が水に溶けていくように眠りについたのだった。


最初に聞こえたのは、近くで鳥がさえずる声。次に聞こえたのは、遠くの鐘が空気を揺らす音だった。

目が覚めたとき、目に映ったのは柔らかい光が差し込む天井だった。視界に映る白いカーテンがひらひらと風に揺れて、頬を優しい風が撫でている。ぼやけた頭を動かして辺りを見ると、いろんな色の植物を束ねたものや、ガラスでできた筒、よくわからない動物のしっぽのようなもの、とにかくそこら中に物が散乱していて、そしてなにやら不思議な匂いが部屋のあちこちから漂っていた。
魔女の棲むちいさな家のような、そんな小部屋に私は寝かされていた。
ここがどこなのか、誰がここへ連れてきたのか、
そして、自分は誰なのか…
その全てが、思い出そうとするたびに潮汐の音に流されて消えていった。

この身に襲いかかろうとしている不安と焦燥感に無理やり体を起こすと、そのわずかな動きを数百倍にして跳ね返すような痛みに襲われた。
痛みが連鎖して、身体全身を覆う。

「うぅっ…」
「ちょっと!そんな急に動いたらダメ!」

痛みに声が漏れるよりも早く、そのふわっと弾けるような声が部屋の中に響いた。ふと声の方に目を向けると、赤い髪の、そして私と同じ一対の黒い角が生えた女性が驚いた顔で、パタパタと駆け寄ってきていた。

「いやぁ、急に運び込まれてビックリしたよ。もうすごい怪我だったんだから!しばらくは安静にしてないとダメ。しっかし、角の方は少し傷とかあるしちょっと欠けちゃってるかもだけど、折れてなくて本当に良かった!不幸中の幸いってヤツね〜。」

なんだか今の私とは正反対に、元気いっぱいのお姉さんといった感じの女性だった。
自分の身体は、元の肌の色が何色なのかわからなくなるくらい白い布でぐるぐる巻きにされていて、そのあちこちには血が滲み、否が応でも自分の身体の負った怪我を自覚させた。
もしかしたら、この女性が手当をしてくれたのだろうか。私自身が上体を起こし、怪我した全身を観察し終わるよりも先に、彼女は忙しない感じで話を続けた。

「あ、それでね、キミのことについていくつか質問したいんだけど、いいかな。あ、そうだ!リンゴとか食べる?剥いてあげるよ。
えーと、それはそれとしてペンはどこに置いてたんだっけ…」
「…。」

私の印象はあっけなく瓦解した。元気いっぱいのお姉さんというか、むしろ好奇心旺盛で忙しない、子どもみたな人だった。
彼女の言う通り、私の枕元の机には蝋が半分ほど溶けた燭台とリンゴが3つ、そして一冊のボロボロの本がぽつりと置かれている。

まもなくして、問診のようなものが始まった。

「自分がどこに住んでたかとか、周りに何があったかとか、覚えてるかな。」
首を横に振る。
「それじゃあ、家族とか、知り合いとかは…」
首を横に振る。
そのあと一呼吸おいて、彼女は質問を続けた。
「どうやら、キミは東の海岸にうち上げられていたみたいなんだけど、それまでのことで何か心当たりはある?」
首を横に振る。
それからもういくつかの質問をされたけれど、私が縦に首を振れるようなことは一度も無かった。

わからなかった。
そう、私のことが私はわからなかった。どうしてここにいるのか。いつからここにいるのか。そのそもここはどこなのか。私は誰なのか。何もかもを、深い深い井戸の中に落としてしまったみたいで、この手のひらに残されたものは何もない。

そんな、空気を掴むような私の手に、目の前の彼女は一冊の本を手渡した。それは枕元に置かれていたボロボロの本で、この手のひらよりも何倍も大きかった。ところどころほつれて、欠けて、破れて、その傷口からはほのかに潮の香りを漂わせている。

「…この本はね、キミをここに運んでくれた人曰く、どうやらキミを拾い上げたときに、そりゃあ大事そうに抱えていたものらしいんだ。
本は忘れっぽい人間の代わりに記憶してくれるものだ。見ての通り、もう表紙も中身も読めないほどにボロボロになってしまっているけど、もしかしたら何かを思い出すきっかけになるかもしれない。だからキミに返しておくよ。」

彼女はそう言うと、今度は何かを探すようにまた忙しなく動いた。そうして、手に一枚の紙とボードを手にしてピタリと止まると、思い出したように本当なら最初にするような質問を投げかける。


「そうだ、キミ、名前は?」


なぜだろう。無くしてしまった記憶に順番なんてものは無いはずだ。だけど、私の名前という記憶だけは違った。本の次のページの文字を、紙を透かして読もうとするように、忘れてしまったけれど、だけどたしかにそこにあるという感覚が、確かに私の中に残っている。

全ての記憶を奈落へ落としてしまった少女にとって、ただそこにあったかもしれないという感覚は、目に涙を浮かばせるのには充分すぎるほどに嬉しかったのだ。
結局私は、この質問にだけは首を横に振ることはできなかった。

「そっか…でもきっと大丈夫。大丈夫さ。」
彼女は私の横になっているベッドに腰掛けると、私の頭に手を回し、ふわりと覆った。甘いリンゴのような香りと、太陽のような暖かさがすべてを包み込んでいく。その暖かさと途方もない安心感に、私は目から溢れる感情を止めることはできなかった。
視界がゆらぎ、暖かい雫がぽたりと落ちて包帯を濡らした。

「何てったってここはリュッケンハルト。グラナイのキミになら、どんな奇跡が起きたって不思議じゃあないからね!」

リュッケンハルト、竜に抱かれた国。
そう豪語する彼女の表情は慈愛に満ちているようで、しかし目に沁みるような、眩しく光る笑顔をしていた。



それからしばらくの間、やわらかな沈黙が続いた。長いようで一瞬だったような感じもするが、外がなんだか騒がしかったから、自然と嫌な感じはしなかった。
広い中庭から入り込んでくる光は、私と彼女に流れる時間を止めてしまったかのように暖かく包み込んでいる。

一方、彼女にはその静寂が我慢できなかったのか、沈黙を喰い破るように口を開いた。

「あっそうだ!もし行く宛が無いなら、もうしばらくここで過ごしなよ!手続きなら私が代わりにやるし、グラナイのキミならきっと誰も反対しないだろうし…ね、どうかな!」

私にはそのお誘いを断れるほどの目的も、そして行く宛もない。だから、答えは1つだ。
自分のことも、この場所のことも、これまでのことも、そしてこれからのことも。押し寄せる不安と孤独が私を支配しようと暗く渦巻いている。だけど、この目の前にいる彼女はそれを打ち払うことはできなくても、私の周りをずっと照らしてくれる光なんだと、そのとき私はそう感じた。
恥ずかしさに少し顔を赤らめながら、本当はいちばん最初に言わなければならなかった言葉と共に、明るく返事を返した。

「…私を助けてくれて…ありがとうございました。それと、お世話になります。」

彼女は私が言い終わるのを待たずに、「よかった!」と子どもみたいな声を上げながら、私に勢いよく抱きついてきた。その反動で私の体はギシギシと痛んでか、目からはもう一度、涙が溢れたのだった。


ほどなくして、彼女は「ごめんごめん」と茶目っ気を滲ませながら体を離した。そして病人に抱きついてしまったお詫びとでも言うように、彼女に似た真っ赤なリンゴをひとつ手に取り、先ほどから彼女に抱いていた印象とはかけ離れた、妙に鮮やかなナイフ捌きで皮を剥いていった。

そうしてリンゴが剥かれていくのを見ているうちに、一つの忘れていた疑問を思い出す。

「あの、ところであなたは…」

すると彼女はハッとした顔をした後、待ってましたと言わんばかりに自信満々な表情で、ナイフを手先でくるくると回し、力こぶを見せるような無邪気なポーズで自己紹介を始めた。

「私はアプフェル、このカセドラルの中でも右に出るものはいない最高のお医者様なんだ!」

中庭から、暖かくも清々しい潮風が吹き抜けていく。
少女の腕には1冊の本が抱えられていた。






~数時間前~


「頼む、助けてくれ。」

夕焼け前、空全体がオレンジ色と緑色を帯びた膜で覆われるこの時間、いつもは穏やかな時間が流れるこの場所で、少し場違いな声が響いた。
「カセドラル」と呼ばれるこの場所は、教会でもあり、国家でもあり、学校でもあり、病院でもある。いずれにしても、平穏や秩序といった言葉を形にしたような場所だ。
その穏やかさをかき混ぜるように、黒い制服を身に纏い、背中にぐったりとした少女を背負った大柄のグラナイの男が訪れた。

そうして急遽呼ばれた彼女は、その男と少女に対して疑問を抱かなかったわけでは無い。むしろ好奇心旺盛な子どものような人物だと、彼女を知るものなら皆が口を揃えて言うだろう。
ただその瞬間だけは違う。疑問を抱くより先に自らがしなければならない、”命を救う”という仕事が彼女を駆り立てたのだった。

病室までは距離があったし、背負っている彼女の容態は芳しくない。何より、まだ正体の掴めていないグラナイの少女を、他の患者もいる病室に寝かせるのは危険だと判断した彼女は、ひとまず自室のベットに運ぶよう指示をする。
ふだんあまり使わないので物置のように積み上げられている荷物を雑に避難させたあと、その少女をゆっくりと寝かせ、全身の傷を調べていった。この手際の良さは、彼女がこれまで救った命の多さを説明するのに充分だった。

そうして順番に適切な処置をしていき、最後に診たのは人間とは明らかに異なるモノ。
一対に生えた純黒の角。グラナイという種族にのみ現れる特異な器官。希少なこの角は、不慮の事故や人身売買での取引などで折れたり欠損してしまっていることも少なくない。まして成人する前の子どもの角は大人に比べて折れやすいのだが、不幸中の幸いか、角自体には傷のようなものといくつかの小さな欠損があるだけだった。欠損部分をきっかけに折れてしまうという例も多いため、ひとまず包帯を固く巻いて補強することにした。

そうして一通りの傷の処置を終えると、その少女は穏やかな寝息を立てはじめた。辺り一帯に張り詰めていた緊張の糸が解け、それと同時に彼女には無意識のうちに我慢していたいくつもの疑問がこみ上げていた。

「ちょっとアンタ、一体何があったのか説明しなさいよ。」
「東の海岸を巡回してたら見つけた。まだ息があったから運んできただけだ。」

男はまるで他人事のような冷静さでぶっきらぼうに話す。その声は海のように深く、蒼く、冷たかった。

「それで、どうしてここへ連れてきたの。」
「アンタなら、まだ助けられると思ったからだ。」

彼女はその男の無責任さに腹を立てたが、それ以上怒ることは決してなかった。その男の目はひどく枯れているようで、それでも確かに安堵の色をにじませていたからだ。

グラナイという種族は本能的に縛られているかの如く、ここリュッケンハルトから出ようとしない。ほとんどのグラナイはここで生まれ、ここで死ぬ。ところがあの少女は、海岸に打ち上げられている形で見つかった。それはつまり、本能を捻じ曲げ、それを乗り越えてまでこの国を出ようとしたということだろうか。もしそうだとしたら、この娘の過去には一体、どれほどの出来事があったのだろう。そう思うと悲しくて胸がいっぱいになったが、同時にこの男のように、無責任な安堵の気持ちを抱かずにはいられなかった。

グラナイの男はそんな私なんてつゆ知らず、言いかけていた言葉を続けた。

「…この娘を見つけたとき、これを大事そうに抱えていた。私が持っていても意味はない。あの娘が目を覚ましたら返してやれ。」

そう言って、私に一冊の本を手渡した。
表紙はところどころが剥げ、中を構成する紙に至っては崩れて滲んで、読むことさえ難しかった。渡されたそれは、運び込まれた少女のからだ以上にボロボロだった。


だが、私の口を介して発せられた言葉は、全くこれらの感想などではなかった。

「グリモワール…。…まさかね。」

その本はまぎれもなく、魔術師が各々の目的のために作らせるという魔導書だった。
静かに寝息を立てる少女の呼吸に合わせるかのように、その本は静かに揺れていた。


続く

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