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リュッケンハルトの魔導書工房#6

その日、天気は煙るような雨だった。そこに立ち尽くすひとりの男は大きな荷物と、ある一冊の本を手にしている。

「父さん、もう行くの?濡れちゃうから雨が上がってからにしようよ。」

まだ自分の腰の高さにも満たない体で駆け寄る。

「こんな雨の日ほど、旅立つのにうってつけの天気は他に無いんだぞ。お母さんの言うことを聞いて、ちゃんと待ってていられるね?」
「……うん、そうしたら、また本を買ってきてくれるんでしょ?」
「ああ、約束だ。帰るまで時間がかかってしまったら、その分もっとたくさんのお土産を持って帰ってきてやろう。」

息子の頭を撫でる。お土産の約束には目もくれぬように、その顔は直視しずらいほどに寂しさを伺わせていた。帰ってくる頃には、こうして屈まなくても撫でられるような高さまで成長しているだろうか。
我々大人と子供とでは、その身体に流れる時間が大きく異なる。寄り道をしていては、屈むどころかもう身長を越されているかもしれない。
そして、波が静かに引いていくように雨が止んだ。

「そろそろ行きましょう。日が南天に昇りきる前にダバハーラまで行きたいですから。」
二匹のラクダを連れた運び屋が荷物を積みながら催促する。私はその運び屋に手を引かれるように、ラクダの背中へ飛び乗った。

「じゃあな。できるだけ早く用事を済ませて帰ってくるから。」

高く手を振りながら、その街を後にする。瞬く間に、小さな2つの影は遠く大きな泡の蜃気楼に消えた。
街の境界を超え、太陽の照りつける砂塵の中を往く。揺れる太陽と流れるような熱砂に囲まれたここは愛すべき私の故郷であり、あの人の見せた神話の残る街である。


「そういえばお客さん、ダバハーラについたあとは何処へ?さらに進むとなるともう海を渡る道しかありませんが。」
運び屋の男は旅の退屈を紛らわそうと尋ねた。

「はは、私はしがない商人でしてね。おっしゃる通り海を渡るつもりです。」
くたくたの羊皮紙に書かれた地図を見る。

「…ですが商人であると同じように、私は魔術師でもあるんですよ。」

運び屋の男は軽いジョークでも聞いたように乾いた笑いを見せた。

その地図は砂に埋れていたのか、あるいは潮風に当てられたのか。端のほうはボロボロに崩れ、いくつもの折り目は皺枯れた老人のようだった。
街道を少し外れて、砂丘の高いところに登る。背中越しにサーっと涼しげな陸風が走ると、これまで砂一色だった景色とはうってかわり、眼下には大きなバザールがあるダバハーラ港が、そしてその奥にはラピスラズリ色に煌めく海が広がっていた。

「私の目的地はあの海の向こう。商人と魔術の国、リュッケンハルトです。」






ときに魔術とは、ものを燃やしたり、筋力を引き上げたり、呪いをかけたり、そのような数多ある現象を、炎や水、風などの力を用いることなく引き起こす技術のことである。
そして、無数にある魔術を記憶し、そこに刻まれた魔術を術者の力量に関わらず発動させる魔導具を、”魔導書グリモワール”という。

そして、魔導書を使う魔術師がいるのなら、それを作る魔術師もいる。ここアインブレーベンは、魔術師、人間、グラナイ問わず多くの依頼が舞い込む、リュッケンハルト橋国で最後の魔導書工房である。


その日、フロプト大橋には橋を湿らせるような穏やかな雨が降っていた。個人的に雨はあまり好きでは無い。それはただ、雨がもたらす湿気は本を歪ませるからという面白みもエピソードもない理由なのだけれど。
工房の扉が開き、雨の音が鮮明になる。扉の両脇に据えられた植木の花が静かに揺れた。

その男は、雲と同じ灰色の目をしていた。長身で痩せこけていながら、なかなか高級そうな衣服を身に纏っている。痩せた頬とその瞳を無視すれば、まるで貴族のようだ。とにかく、一見して奇妙な男だった。
ただし、元よりこの工房を訪れるような人間はみな異質だったり異端だったり奇妙だったりする。むしろ普通であればあるほどに不可解だ。だから、その男を見て“異質”だと形容したのは、この工房に訪れたことを除けば、彼が至って普通の人間だったからだった。

「魔導書というのを使えば、このような雨を降らすこともできるのですか。」

しとしとと降る雨音よりも静かな声だった。焦げた茶色の髪と、黒い服の肩を濡らす彼の声を知って、僕は渋々その依頼を受諾したのだった。


依頼を受けた翌日。他に急がなければならない依頼も無かったので、どのようにして『雨を降らす』という難題を乗り越えようかと頭を悩ませていた。

魔術の世界において、不可能だと証明されたことが3つある。

ひとつは『時間を遡る』こと。どんなに高度な魔術や術者でも、過去にタイムスリップすることはできない。物についた傷を、傷がつく前の状態に戻すことなんかも、もちろん不可能だ。
二つ目は『死者の蘇生』。言葉通りであり、そしてそれは魔導書でも同じである。一度機能を失った魔導書は、そのコピーを作る形でしか蘇らせることはできない。
そして三つ目は、『天候を操る』こと。
太陽、雨、雲、嵐、雷、津波、噴火、地震。
それら超常的な自然のサイクルに、魔術は干渉できない。
これら「研究できない魔術」のことを魔術師はまとめて『デッドマギカ』と呼ぶ。
つまり、『天気を雨にする』という魔術を秘めた魔導書を作ることは、ほぼ不可能に近い依頼だった。


「雨を降らせたい…か。」

黒鉛の筆記具を机に置き、ぐぐっと伸びをする。これまで遮断されていた外の音が、窓越しに再び耳に入ってきた。
午前のうちに数案、擬似的に雨を再現できるような仕組みを考えついたものの、そのうちのほとんどが水を生成したり吹き出したりするようなもので、どれも依頼の“雨を降らせる”という現象には程遠いものだった。窓の外を覗くと、厚い鈍色の雲が空を覆い、いよいよ本気を出そうかというような威圧感を募らせている。工房の中に何箇所かある、古くなって歪んだ、建て付きの悪い窓をぐっと力を入れて閉めいった。そのまま、カウンター隣の壁に張り付けられた依頼書に再び目を通す。

依頼人の名前はサミール・シャーディ。依頼書に書かれた文字と、ここを訪れたときの服装を考えれば、彼がリュッケンハルトの住民でないことはすぐにわかった。
依頼の詳細はこうだった。

”私の国アガデでは、長いこと雨が降っていない。作物は実らず、食糧も目減りしている。どうか、雨を降らせる魔導書を見繕ってほしい。”


この世界には想像もつかないような国が数多ある。例えば、あのアンドラハンズに匹敵するほど高い樹木に囲まれた街。真っ赤な海に浮かぶ水晶の島。最も武を極めた人間が王となり治世する山村。
その中に、『アガデ村』という見渡す限りの砂原に残る集落があると、ある旅人の手記で読んだことがあった。リュッケンハルトにはない言葉の響きで読むのにかなり苦労したから、案外あっさりとその記憶に思い当たった。その地域は雨が降ることが滅多に無く、雨から開放された乾いた風が長い時間かけて岩を削り、山を削り、生き物を遠ざけたのだという。そんな砂漠地帯に雨を降らせたいという彼の願いを、天候に干渉することはできないという理由で無下にはできなかった。
広大な砂漠を潤すのは水しぶきや水たまりなどではなく、正真正銘の雨でなくてはならないということだ。

「ふっ、何やら、また難儀な注文でも受けたとお見受けするぜ、ダンナ。」

工房の隅に置かれた少し高価なソファに、一人の口の悪い魔術師がどっかりと腰掛けていた。

「何だ、メナロス。来ていたなら一声掛けてくれればよかったのに。」
「だからこうして今、声を掛けただろ。まあなに、仕事で巡回中にひと雨振りそうだったもんで、雨宿りついでに顔を拝みに来ただけさ。グラナイは雨が苦手なんだ、お前も知ってるだろ?」

そう言いながらメナロスは深く背をもたげて、一本の瓶に入ったビールを雑に流し込む。この様子だけ見れば、仕事中とは思えないようなひどい有様だった。

「僕は今、ちょうどこんな雨を切望してるんだよ。なんなら、誰がこんなふうに雨を降らせてるのか、神様にでも問いただしたい気分だ。」

例の依頼書をひらつかせながら、自分が直面している問題について少し話した。


「『雨を降らす魔導書』ねぇ。それが今日、工房の奥から出てこなかった理由か?」
少々不満げに、馬鹿馬鹿しいとでも言いたげな表情だった。もしかしたら既に、そう口に出していたかもしれない。

「そりゃあ、『雨』が欲しいだなんて傲岸不遜にも程があるってもんだぜ。なにせ雨は”神様の涙だ”って言うしな、神様を泣かせた見返りに天罰を受けるなんて馬鹿馬鹿しすぎると思わないか?そんな仕事なんざ、仮にテールのお偉いサンにいくら大金を積まれたとしても願い下げだね。」

メナロスは僕をバカにするような大仰な身振り手振りで言い放つと、細い足を無造作に組み直して、手に持ったビールをぐいっと飲み干した。ソファーに備え付けられた木のテーブルには、それと同じラベルの貼られたビールがもう一本置かれている。

「天罰ね…。この国におわします神様とやらは僕らの足元にいるっていうのに、一体何に怯えなきゃならないんだ?」
「それは聞く人が違けりゃ、雨を降らすよりも重罪になりそうなセリフだな。」

そう言いながら、メナロスはテーブルに置かれたもう一本のビールを手にとって、こちらに渡してきた。

「……それは遠慮しておくよ、僕はグルートビールが苦手なんだ。それに一応業務中だからね。」

工房の扉に掲げられた看板を指差す。
グルートビールは、いくつものハーブが調合された飲み物だ。独特の風味づけに加えて、防腐処理や殺菌の効果もあるから、下層に住む労働者や一部の物好きな貴族に飲まれ続けた、ある意味でメジャーな飲料だ。僕は言ってしまえば、その薬みたいな独特の風味が苦手だった。

「…ああそう、まったくサルカはお固いねぇ。まったく、実に魔術師らしいというかなんというか…」
「そういうアンタだって、僕と同じ魔術師だろう。」
「俺はもう魔術師なんかじゃないさ。魔術側から愛想を尽かされたようなもんだ。」

メナロスは、僕がそれを受け取らなかったことを残念がりながら、皮肉たっぷりに話した。

「それに、このビールが合法で飲めるのもあと数日だって話だ。今や貴重な品だ、ここで飲まなかったことをきっとお前は後悔するぞ。」

一週間も経たないうちにこの飲み物は製造を禁止され、結果として徐々に純粋なビールのみが出回るようになるだろう。
飲むかどうかはさておき、このビールの価値はどんどん上がっていくのは明白だ。結局、そのビールは行き場を失って、未開封のままテーブルに安置された。


閑話休題。少しして、先程の魔道書の話に戻った。

「にしても、『雨を降らす魔導書』なんてまた難儀な依頼を引き受けたな。出来ないとわかってるのに引き受けるのはもう、お人好しを超えてむしろ依頼者が可哀想だと思うぜ、俺は。」
彼の言うことも一理ある。できると言われて無闇に期待してしまうより、いっそ出来ないと突っぱねられたほうが幸せだったかもしれない。ただ、それを加味してでも引き受けたかった。僕はお人好しとか、親切心とかで動いたのではない。恐らく、単に口実が欲しかったのだろう。

「依頼者は『雨を降らす魔導書』と僕に依頼したけど、その目的はあくまで”雨を降らす”ことじゃなく、”土地を潤す”ことだったんだ。それならまだ、なにか抜け道みたいなものがあるんじゃないかと思ってね。僕だって一応、魔術師の端くれだ。無理だと言われるものなら挑戦したくなるのさ。」

「魔術師の端くれ、ね。魔術に関してアンタの右に出るヤツはこのリュッケンハルトにはいないってのに。まぁ、その依頼についてこれ以上とやかく言うつもりはないさ。他の魔術師にできなくても、それはお前にできない理由にはならないし、逆にお前に出来ないのなら、そんなの他の誰にも出来ないんだろうよ。」
「…皮肉かい?メナロス。」
「まさか、本心だよ。俺はお前の能力を高く買ってるんだぜ。」

まるで命乞いをするように、へらりと両手を上げる。上げられた左手には空のビール瓶が、右手には鞘に納められた両手剣が握られていた。その剣の鞘には、見慣れた紋章が彫られている。
そうして両手を傾げたまま窓の外を見ると、大きなため息をつきながら腕を下ろした。

「……こりゃまたすごい雨だ。はーあ、せっかくの喪服が台無しになりそうだねぇ。」

黒いコートに黒いブーツ、そこに黄金の刺繍と黄金の装飾を輝かせた、ある意味この国で最も名高い制服。それをひらつかせながら、メナロスと呼ばれた長身の男は席を立つと、工房の扉の方へ向かった。扉を開けた軒先にあるちょっとしたスペースには子供たちが雨宿りのために集まっていて、メナロスの制服を見て目を輝かせている。

「子供から羨望の眼差しを向けられてる前で、その制服を喪服なんて呼ぶのはお前くらいだよ。」
「生憎、俺は生まれつき長えモンに巻かれるのが苦手でね。そう、例えば尻尾テールの連中とかな。ま、そんなことはどうだっていい。……なにか俺にできそうなことがあったら言ってくれよ、礼は…そうだな、今度はそのビールをもう一本俺に奢るってことで。」

多分その頃には、このビールは既に今とは比べ物にならないほどの高級品になっていることだろう。
あいつはああ見えて、えらく狡猾な男だ。

メナロスはドアノブに手をかけて扉を開けた。子共たちがわっと興奮する声と一緒に聞こえてきた雨音は、まるでガードに向けられた歓声のようだった。

「ここから雨が強くなりそうだからなガキンチョ。雨が上がるまでこの工房のオジサンにもてなしてもらうといい。」

軒先にいた子供を工房の中へ誘導する。そしてメナロスは意地の悪そうな顔をこちらに向けると、その子供たちと入れ替わるようにリュッケンハルトに煙る雨の中へと去っていった。
メナロスが去り、そこには僕と5人の子供、そしてグルートビールの瓶が二本ある不思議な空間がだけが残った。


「あいつ…まさかゴミを残しに来ただけじゃないだろうな…」

そんな愚痴をこぼしながら残された空き瓶を拾い上げていると、背中越しにひとりのグラナイの少年が興味津々に問いかけた。

「ねぇおじさん、ここって何の店なの?」

おじさんと呼ばれたことに若干の難色を浮かべ、最初に言い出したメナロスに若干の恨みを抱えながら、それでも、工房に置かれた数々の本に目を輝かせていた彼らに快く答えた。

「ここはアインブレーベン、君たちが手にしてるような魔道書工房を作る工房さ。」


以降、彼らはこの工房に出入りするようになるのだが、それはまた別の話であり、そして僕の語る話ではない。




メナロスが工房を訪れてから数日。『雨を降らす魔道書』の作成は難航していた。具体的には、どのようにして水を作るか、そしてそれをどのようにして上空へと持ち上げるか、という部分が高い壁として立ちはだかった。

実際、水を生成するという魔術や魔導書の依頼は初めてではない。リュッケンハルト橋国は人工に作られた島である以上、雨を蓄える技術はインフラの一部であり、必要不可欠なものだ。ではこういうとき、如何にして水を生成するのかといえば、それは『持ち越し』である。
水のある場所からない場所へ動かす。それがこれまで僕の出してきた回答であり、魔術の総本山であるカセドラルの回答でもあった。
大気中にある水を集めたり、貯水槽から水路の通ってない場所へ強引に移動させるような”空間の持ち越し”はもちろん、雨の降った日を翌日に繰り越すような”時間の持ち越し”をすることもある。

この魔術を使うときに重要なことは、もともと何処かに水がなければならないということだ。いくら魔術が非現実なものに見えたとしても、無から有を作り出すことは不可能だ。雨の降った日を翌日に繰り越すことができたとしても、明日降るかもしれない雨を今日に持ち越すことはできない。

何処からも水を持ち越すことができない場合、この魔術や魔導書は一切機能しない。例えば純粋な水のない海中や、砂漠地帯のような極限まで水を失った場所などである。
つまり、今回の依頼者サミールの故郷であるアカド村ではこの”持ち越し”の手法が使えないということであり、水を集めるのではなく作り出す必要があるかもしれないということだ。

ひとつ希望があるとすれば、僕がまだ無知であるということだ。
実際に魔術を発動させるアカド村の周囲には何があり、どのような植生が存在するのか、雨は何日に一度降るのか。そういった情報を得ることができれば、それが魔導書作りの糸口になるかもしれない。比較的近い地中かどこかに、まとまった水源がある可能性も一概には否定できないということだ。

とにかくまずは情報収集をすべきだろう。実際の依頼者であるサミールに聞き込みをすればいい話だが、彼が次にこの工房を訪問するのはもう少し後だ。
一番の情報源であるサミールを除いて、この国で最も情報の多い場所は言わずもがな、この国の中枢を担うカセドラルである。幸い、カセドラルにはちょっとした縁があったから、この国で最大のカセドラル中央図書館の中から、アカド村の情報を探ることができそうだ。


カセドラルはリュッケンハルト橋国の中央に位置している中枢機関である。簡単に言えば、車輪の輪に当たる部分に街があり、車輪の軸になる部分にカセドラルがあるといったイメージがわかりやすいだろうか。下層の中央に位置するカセドラルは国のどこからもアクセスが良く、身分に関わらず教会や役場を訪れることができるため、日夜多くの人間やグラナイが訪れている。

カセドラル大図書館は100年以上も前に建てられた、カセドラルでも最古の建物のひとつだ。とはいえその年月を思わせるのは建てられた場所と老朽化した蔵書ぐらいで、見た目はその歴史を否定しているような精巧さと美しさを誇っている。僕自身、この大図書館に来たのは今回が初めてではなかった。ここに最初に訪れたときの記憶は曖昧だが、どれほどの年月が経とうとも変わらない佇まいに僕はなんだか、かしこまった気持ちでその大図書館の扉を開いた。


カセドラル大図書館の中は気が遠くなるほどに広大だった。閉じた空間なのにひらけていて、どの方向を向いても本の背がずらりと並んでいる。少し歩いて言った先、図書館の中心部には、職員のいるカウンターと遥か上まで開いた吹き抜けがあった。ひとつのフロアでもかなりの広さを誇っているのに、それが何重にも重なっている。
流石リュッケンハルト最大の図書館というか、本棚の高さは人間の身長の5倍以上もありそうで、そしていたるところに高所の本を手に取る目的のハシゴが置かれている。ここまで蔵書が増えたのも、恐らく活版印刷技術の賜物だろう。手作業でしか作れない魔導書では、ここまでの蔵書数を確保するのは難しい。

幸い、基本的に誰にでも開放されている場所の割に外の教会に比べて人はそれほど多くなく、ある程度の静寂は守られていた。誰にでも入ることができるというのにどうしてこんなにも人が少ないのか、その理由は至って単純なもので、ほとんどの国民が文字を読むことができないからだ。おまけにカセドラルの最高戦力であるガードの方々が警備しているのだから、盗賊や窃盗がそう安々と足を踏み入れるには些かハードルの高い場所だといえる。

木でできた床を踏みしめて歩く。無数にある本棚で構成された迷路を進んでいくと、世界各国のことについて書かれた手記や本が並ぶエリアに到着した。見渡す限りの本の山の中には、巻物形式で保存された筒状の書物や、見たことのない紙で構成されたものもある。異国のものにまつわる書物が集まるこのエリアは、古い本独特の甘い土のような香り以外にもさまざまな香りを漂わせいた。そのうち、魔術学会に集まる貴族の、あの強い香水が混じり合った空間を思い出して少し気分が悪くなった。

ここの一帯でリュッケンハルトから南東に進んでいった先、アフダーラの暖海を超えて見える砂漠地帯に関する記述を探す。その地域の書物に多いウェーバ紙(繊維を編んで作られた紙)でできた書物や巻物という条件で絞った結果、5つの巻物と2冊の手記を見つけた。冊数は少ないが、どれもかなりの文量がある。
そのうちのいくつかを開いてみた。ジメジメしていて不快だとか、水分の確保が一番の問題だとか、硬貨の質が低いだとか、泉で素晴らしい美女を見かけただとか…。どうやら探していた地域に関する記述のようだ。どれも主観に満ちているけれど、僕にはない貴重な情報源なことに変わりない。

大事なのはそれが、”誰によって書かれたものなのか”ということ。できるのならその国出身の人物が書く書物だけではなく、そこを訪れた旅人が書く手記も参考にしたい。なぜなら、当たり前の出来事は語られないからである。

例えば、リュッケンハルトの人間には日常のひとつでしかない『雨』も、それが全く降らない地域の人間の目に映ればひとつの特筆すべき現象になる。
どんなに不可思議なものがあったとしても、それがその国に長く住む人間にとっての”当たり前”だったとき、それはわざわざ当人の口からは語られない。
”主観を多く集めることが、客観を知る最初の一歩である。”
これは私がかつて在学していた魔術大学の友人の言葉だ。


アカド村のある地域のことを調べるのと平行して、砂漠、雨などについても同じように情報が無いか探した。これらはまた図書館の異なるエリアを探す必要がある。見上げるような本棚をいくつも通り過ぎて、らせん状に伸びる階段を登っていった。そうして見つけた『雨』に関する情報のほとんどが、言い伝えや地域に伝わる伝承の類だったけれど、それはむしろ僕の求めていた情報だった。
なぜなら言い伝えや伝承には、目に見えない魔術の痕跡が隠れているからだ。

”竜なき場所に骸なし”

これも私がかつて在学していた魔術大学の友人の言葉で、意味は「竜のいないところにその死骸はない。死骸があるということは、竜がいた証である。」だ。
早い話、この国にはもっとわかりやすいことわざがある。彼女はこんな感じで、なにか名言っぽいことを言うのにハマっていただけで、つまり意味は
”火のない所に煙は立たぬ”
だった。

神話、おとぎ話、伝説。たとえそれが誇張された子供だましのような物語だったとしても、その全てが空想だと決めつけるのは早計だ。
無から生まれる神話や伝説は無い。それらが語り継がれる根底には、それに近い現象や奇跡が実際に起きている。そしてその多くが、魔術の仕業だと言われていた。
そう言われるようになった原因として、魔術世界にはあるひとつの事実がある。

「リュッケンハルト以外の国において、未だ魔術は非現実的な概念である。」

リュッケンハルト以外の国で魔術を行使したとき、反応が不十分だったり、そもそも発動すらままならなかったり、そもそもその片鱗すら見せなかったり、まるで魔術がひとつの幻であったかのような反応を見せることが確認されている。つまり魔術は、リュッケンハルトという土地の上でのみ成り立っている奇跡なのだ。
リュッケンハルト以外に魔術が存在しなかったというわけではないが、『魔術的に不安定な環境』は、魔術を研究したり開発するという行為自体を衰退させていった。
この不可解な問題に好奇心を掻き立てられたリュッケンハルトの魔術師は少なくない。現在でもリュッケンハルトの魔術とは何なのか研究されているが、今のところ成果は芳しくなかった。
その結果、今では魔術が確立されてない多くの国や地域にとって、魔術師という存在は物語のキャラクターのように、魔術という存在は神話や宗教のように扱われている。

しかし同時に裏を返せば、本来であれば魔術の存在しない・・・・・・・・・・・・・・国や地域の宗教や伝承、伝説、言い伝えの根本部分に、失われる前の「本物の魔術」を見つけることができるかもしれないということだ。


それからいくつか使えそうな本を腕に抱えて、数か所の本棚を迷路を進んでいくように巡った。そうしてかれこれ1時間かからないくらい図書館を巡って、大小合わせて10冊満たないくらいの本と巻物を選出した。1時間かけてもまだ全体の半分も回れていなかったから、リュッケンハルト最大の図書館というのも侮れない。

「とりあえずこんなものか。しかし…」

と、抱きかかえるように持った数冊の本や巻物見て少しため息をつく。これほどの書物を同時に抱えるとなると、普段から力仕事をしていない僕にとっては十分に重労働だ。

大抵の本に使われている紙は羊皮紙と言って、ヒツジの皮を薄く削って張ったものだ。ヒツジの皮でできたものは羊皮紙の中で最も多く使われている素材だが、少しでも湿気を帯びれば、すぐにクルッと丸みを帯びてしまうという弱点を抱えている。いちばん厄介なのは、これを防ぐのはほぼ不可能だということ。ここにある多くの本の表紙が木や厚い素材で作られ、さらにベルトの留め具で固定までされているのは、この羊皮紙がカーブして、本の形を歪めてしまうのを矯正するためでもある。本は紙を束ねているだけの軽いものだと思いがちだが、実際はその中身を守るための工夫や加工でかなりの重量を誇るのだ。

じわじわと筋力を消耗するような重さの本を抱えて、どこか落ち着いて読める場所を探す。結局、初めに通った大図書館の入り口辺りに、適度に明るく開けた場所にちょうどいい長椅子を見つけた。これらの本があった場所からそこそこ離れてしまったが、返却が重労働になることは既に確定しているので気にするのをやめた。

本を運んでいるさなか、ちょっとした違和感に気付いた。本は重いと自分で言ったばかりだが、これがまるで、本当にレンガでも持っているのかと思うくらいに重い。
本を作るという仕事柄、常人よりは本に詳しいという自負がある僕が見るに、本を作る素材を鑑みても、このような重さをしているのは不可解だ。つまり、この本にはなにか”仕掛け”が施されていると思っていいだろう。だというのに、これは「魔導書」カテゴリーに分類されていない。
この大図書館に蔵書されている本は数多あるが、その中に魔導書は一冊もない。魔導書は厳密に言ってしまえば本ではなく道具に分類できる。それを誰でも手が届く場所に保管してしまっては多くの被害者を生みかねないため、魔導書はまた別の場所で厳重に保管されているはずだった。
だから、自分が抱えてるこの本が魔導書なのは勘違いだということになる。

「そんなに僕の体って貧弱だったのか…」
腕がぷるぷると震える。そう言っている間にも徐々に重くなっていく本をやっとの思いで長椅子に置こうとした、その時だった。
その中の最も大きな一冊、ちょうど僕が最初に選んだ一冊がゆらめくような金色の微光を帯びて一瞬、見逃してしまいそうな小さな光を放った。

バチッ!

痺れるような衝撃が手のひらと両足を襲う。声を出すこともなくグラッと体勢を崩し、本ともども床の上に転がり落ちた。しんとした空気の中、一大事のような豪快な音が図書館に響いた。
その電撃のような衝撃は一瞬で、その後はもう痺れなどはなかった。まるでただ単につまずいて転んでしまったかのように、むくりと起き上がる。
「なんだ…これは…傷跡?」
手の甲には丸い円と、その中心に縦に伸びる一本の傷跡が現れていた。それは見れば見るほど、傷跡というより奴隷や罪人に刻まれる焼印のようで、そう思えば縦に伸びる傷跡も、数字の『1』のように見えなくもない。
ジリジリとする手の甲をさすりながら床に散乱した本を集めていると、奥から軽いコツコツとした足音と共に、罵詈雑言を言うのにこれほど適した声があるだろうかという可愛らしい女性の声が近寄ってきた。

残念ながらその声に、僕は確信的な心当たりがあった。

「―――まさか魔導書工房の店主ともあろう男が、そんな簡単なトラップに引っかかるなんて…呆れるのを通り越して惨めね。」

そこには、どちらかといえば見たくなかった同級生の顔があった。



床に散乱した本を回収して人気ひとけの少ないテーブルにそれを置く。最後の一冊は彼女が片手でポンと積み上げた。それは僕がレンガのように重いと形容したものだった。

「久しいね、カイヤナ。見た感じ変わらない様子で何よりだよ。というかそんなことより、どうしてここに?君も調べ物かな?」
恥ずかしさを紛らわそうとしているのか、口数がかさむ。
「はぁ…あんた、まだわかってないの?それとも私の気を逸らそうとしてるの?」
「気を逸らす?何からさ。僕は別にやましいことなんてしてないだろ。それとも、ひょっとして僕が本を盗もうとしてるように見えたのか?」
カイヤナはもう言葉を交わすことすら無駄に感じているのか、傷がついた僕の左手の甲と、それから彼女自身が身につけているバッジを交互に指差した。
「その通り。泥棒はどちらか二種類しかいない。やましいことはしてないとホラを吹くヤツか、黙って剣を抜くヤツ。あんたはどっちなの。」
カツッと一歩間合いを詰めて、彼女は僕の眼前に迫った。

「まさか、あの君がカセドラルに所属してるとはね…想像すらしてなかったよ。つまりこれは、君の仕事ってわけか。」

カセドラルの内部にはグラナイしか所属することができない。これはカセドラルが作られたときに定められた絶対のルールだ。

「それを踏まえて改めて言うけど、僕はただ本を読みに来ただけだよ。盗み?カイヤナだって僕がアインブレーベンを継いだのを知っているだろ。何で魔導書工房の店主がカセドラルの本を盗むと思ったんだ。」
「その調子じゃ、もしかして本当に何も知らないみたいね。」
カイヤナはその小さな手で僕の左手首を掴むと、さっきまでとは違って静かな声で言った。
「…あんたの左手のそれ、それは本を本棚から遠いところに持ち出そうとすると刻まれる刻印なの。今はあの重い鎖に代わって、この刻印が本のセキュリティを守ってる。」

活版印刷が普及し出した今、本自体の価値は下がりつつある。それに対応して、手作業で作られた写本やオリジナルの価値はむしろ上がっていた。
この大図書館に貯蔵された『知』という財産を守るため、つい最近までは本と本棚を直接結ぶように、金属の重い鎖が繋げられていた。それが今では、魔術を使ったものに代替されたということらしい。僕が図書館の奥まった場所にある本を出入り口近くの長椅子に持ってきたことが、その防犯魔術を発動させたトリガーとなった。
なるほど確かに、あの金属の鎖は重くて読む邪魔になっていたし、管理自体も万全だとは言えない。魔術について詳しい人間が減った今だからこそできる防犯機構だ。

「私がこうしてあんたを咎めたワケ、これでわかったでしょ。全く…あんたが”あの”アインブレーベンのオーナーだってこと、本当なのか確かめた方が良さそうね。」

カイヤナは残念なものを見るような目をこちらに向ける。身長はあちらのほうが頭一つ、いや二つ分ほど小さいというのに、そこから向けられる視線はなんとも痛い。どうやらその魔術によるセキュリティも大図書館全ての膨大な書物全てに対応出来ているわけではないようで、ちょうど背にある本棚には未だ金属の重々しい鎖が吊るされている。

「確かに、この重くて忌々しい鎖に比べたらその魔術による仕掛けを施したほうが何倍も良い。本は読むものなのに鎖が邪魔になってしまうのは本末転倒だからね。なるほど、カセドラルもまだまだ魔術を見捨てたわけじゃなさそうだ、少し見直したよ。…それはともかくとしてこの刻印、早く消してくれないか?今でも時々じりじりして痛いんだ。」

「感動してるとこ悪いけど、別にあんたの疑いはひとつも晴れてないから。それと、その防犯機構を考えて導入したのはこの私。もしあんたの口から出たのが悪口だったら、今頃問答無用で本物の烙印を押してるところだったし。」

「それは勘弁願いたいね………って、な…なんだって?」
この魔術を彼女が発明した?会うことがなかったこの数年の間に、一体何がカイヤナをそうさせたのだろう。
僕の記憶の中にいるカイヤナは魔術に関してかなり否定的だった。カイヤナは知的で頭も良く、知識も多い。それに運動神経だって僕の何倍も良い。
そんな彼女が魔術にだけ否定的だったのは、グラナイという種族が魔術において絶対的なアドバンテージを持っているからだった。あの魔術に対して否定的だった思想も恐らくグラナイ嫌いからくるものだったのだろう。その上、カイヤナが抱える高いプライドに追い打ちをかけるように、彼女には魔術の素質が無かったのだ。
だから、そのカイヤナが魔術の総本山であるカセドラルに所属している時点で僕としては相当驚きだった。さらには実用的な魔術の研究を行っているとなると、もはや別人のように思えてしまう。

「あんた、バカにしてるようだから教えてあげるけど、大学に在籍してたとき最終試験であんたの魔術の成績を30点も上回ったの、もう忘れたのかしら。」
「いやいや、バカになんてできるわけがないだろ?君の言う通り、僕が唯一勝ち目のあった応用魔術理論でさえ、最終的には追い越されてしまったんだから。それより、もう新しいことわざを言ったりはしないんだな。」
「う、うるさい!!!!!」

本棚がガタリと揺れる。中央吹き抜けにあるカウンターが、彼女の異音を聞いてこちらの様子を伺っている。カイヤナはわかりやすく赤くなっていた。僕が少し前に引用したいくつかのことわざは、ここにいる彼女が口癖のように言っていたものだ。大学在籍時、なぜか彼女は自己流のことわざを発明するのにハマっていた。黒歴史である。

カイヤナは依然として赤い顔と鋭い眼光で僕を睨んでいたが。一度大きく深呼吸すると、すぐさま先程までの冷静さを取り戻した。
軽く頭を振って、咳払いをしてから言う。

「……それで?この本は何に使う予定だったの?」
「それは…もちろん読むためさ。」
「チッ…」
ジャラッ…と、背後にある本棚の鎖が揺れる。カイヤナが腕を軽く掲げると、本棚から一冊の本が飛び出した。飛び出した本の背には重々しい金属でできた鎖が括られていて、その鎖は一瞬のうちに僕の両手に巻き付くと、そのまま僕の両腕を本棚に縛り付けた。その衝撃で本棚がガタリと音を立てて揺れる。
鎖がジャラッと音を立てたのを聞いて、それを無意識に回避しようとしたものの、僅か2秒にも満たない一瞬の間にその本は僕の体の自由を奪い去った。その本は僕の腕を縛ったあとカイヤナの手に綺麗に収まると、そのまま彼女の手で優しく本棚に戻された。

「ぐっ…」
カイヤナの目はいつになく真剣で、そこには一滴の油断も冗談もない。ギチギチと鎖がキツく巻き上げられ、体が上方向に牽引されていく。気づけば僕は地面から2,30cmほど高い位置に磔にされていた。

「じ、冗談だ…!!お前の知りたいことはちゃんと話すから、ってい、痛い痛い!!」

段々とキツく縛り上げられていく腕の痛みに額から嫌な汗が滲んで、目の横をぬらりと這うように通過した。この場所は既に、言い逃れのできない尋問部屋と化している。カイヤナはそれから、鎖に繋がれた僕の左手を軽く指差しながら言った。

「もし私をからかってるつもりなら、このまま何日も磔にしたままにだってできる。言ったでしょ?この図書館の魔術機構は私が担当してるの。いくら魔導書工房の人間だからって、この場所では私に主導権があることを忘れないで。」

とんだ誤算だ。たかだか図書館に訪問しただけだというのに、今この瞬間、元同級生に窃盗と誤解され、挙げ句本棚に磔にされている。

「こっ…工房で依頼された魔導書を作るうえで…ここじゃない国の情報が必要になったんだ…そんな本はカセドラルの図書館くらいにしか置いてないだろ?本当にそれだけだ…」

ボディランゲージも満足にできない。ここにあるのはただただ信用してもらえない虚しい言葉と、もがいて鎖がジャラジャラと揺れる音だけ。
カイヤナは僕の言葉に耳だけ向けて、積まれた本の中身を調べ始めた。文字もここリュッケンハルトのものとはだいぶ異なるうえ、タイトルの無い本まである。だというのに彼女は、紙を太陽に透かすように次々とその本の本質を見抜いていく。なるほど、”何を持ち出したのか”は僕の言葉を聞くよりも信憑性のある情報だ。

「中東地域の植生と雨乞いの儀式の記録…それから極東の神話?…確かに金銭的価値のある本ならもっと他にあるけど…」
「そもそもだな、なにか盗みを働こうとしてる人間がこんな真っ昼間に、鞄の一つも持たずにやってくると思うのか?」
「…。」

カイヤナは何かを考えるように沈黙する。ここは畳み掛けるチャンスかもしれない。
「もし仮に僕が金に困ってるなら、他にもっと手段を考えているさ。たかだか数冊の本なら僕の工房の中にだって―――――――――」

「それで、あんたほどの魔術の腕が合って、この国で有数の魔導書工房のオーナーに当たる人物でもヒントを求めるような依頼って、一体なんなの。」

必死の抵抗も虚しく、カイヤナは僕の言葉をまるで聞いてすらいないように、目線をキッ、と戻して一直線に質問を投げかけた。

「それは…」

言葉を濁す。その答えはきっと、窃盗に勘違いされたほうがまだマシだと思えるような、そんな危険を纏っている。
なぜなら、僕は魔術…言い換えれば人の手で、不遜にも雨を降らそうとしているのだから。

雨を降らす魔術、もっと大きな括りで見れば『天候を操る魔術』は、魔術の世界では『デッドマギカ』というものに分類されている。
デッドマギカ。直訳で”死んだ魔術”という意味のそれは、実現不可能と判断された魔術を指す言葉だ。何がデッドマギカに分類されるかはカセドラルが毎年開く魔女会で決められるが、今日までのおよそ300年間でデッドマギカは3つしか登録されていない。

”出来ない”と公言していたものが”出来てしまった”という事実は、ときに平穏に牙を剥くものだ。

カセドラルは多分、それを最も警戒しているのだろう。デッドマギカの研究自体が禁止されているわけではないが、誰かが雨を降らす魔術デッドマギカを研究していると知れば、きっとカセドラルは干渉してくる。場合によっては、魔術の成果か研究者のどちらかを抹消することだって厭わないだろう。
ここはカセドラルの中心地、彼女は元学友とはいえカセドラルの職員だ。だから慎重に言葉を選んで、なんとかこの事態を切り抜けられないかと口を開いたその時だった。

上着の内側に仕舞われた一枚の依頼書が、今なお鎖に繋がれた腕を動かした拍子にひらりと抜け、足をなぞるように僕の足元へと落ちていく。
最初に限界を迎えたのは僕の腕ではなく、僕の運のほうだったようだ。カイヤナはそれをそっと拾い上げると、冷ややかな声で言った。

「これは?」

まるで図られたかのようなタイミングの出来事に、思わず諦めに似た変な笑みがこみ上げる。仮にここで嘘をついたとて、中身を確認されてしまえば一瞬で嘘だとバレてしまうし、この状況でさらに嘘を重ねてしまえば、僕にかけらている窃盗容疑を肯定してしまうようなものだ。真実を話す以外、他に手はない。

「それは、工房に持ち込まれた依頼書だ…僕も一応工房のオーナーなんでね。その依頼書の中身を外部の人間に晒すのはすごく不本意だけど、それが君の求めてたものだ。」

カイヤナはゆっくりと畳まれた紙を広げ、そして中を見た。目線が紙の下の方に移っていくにつれて、カイヤナの表情がわかりやすく曇っていく。そして、全てを読んだあとの彼女の怪訝な眼差しが僕の瞳の奥に突き刺さった。

「……これ、本気なの?」
「…もし本気だったら、君はどうするんだ?」
僕は半ば自虐するように、不慣れで不細工な笑みを浮かべた。

それから5秒くらい経っただろうか。一瞬にしては長い間をあけて、カイヤナは突然、なにかを喉につまらせたかのように吹き出した。そして、笑い声を混ぜた声色で目元を拭いながら言う。

「こんな、いつ死刑にされてもおかしくないようなことを計画してるあんたが、そもそも本を盗むなんて低俗な罪を隠すわけないか!」

カイヤナが手に持っていた依頼書を机の上に置くと、僕の腕に巻き付いていた鎖がジャラっと解けて消えた。床から50cmほど浮いていた足がようやく地面に落ちて、そのまま前傾姿勢に膝をついてガクッと倒れ、さっきまで縛り上げられていた腕に血液が戻り、手の先に熱湯が流れていくように痺れる。

「全く、酷いことをする…」
「あんたが魔導書を作るのと同じで、これが私の仕事なの。疑わしきは罰せよ、この世界で、ここにしかない貴重な一冊が盗まれてからじゃ遅いのよ。」

ごもっともなセリフを横耳に、よろりと痛む腕をいたわりながら起き上がった。そしてテーブルに置かれた依頼書を、未だに感覚の鈍い手でポケットの中に仕舞おうとしたタイミングで、互いの視線が無自覚に交差する。僕とカイヤナの間には、いろんな思考を巡らせるのには充分なくらいの時間の、妙な””が生まれていた。

「…あんた、もしかして本気なの?」
「さっきも同じ質問してたぞ。」
カイヤナは僕の胸ぐらを掴んで引き寄せると、一変して囁くような声で言った。
「さっきのは紙に書いてあった依頼が正気なのかを聞いたの。今は、それを引き受けたあんたが正気なのか聞いてる。」
「僕は正気さ。それに、この依頼をした人もね。」

カイヤナは何も言わないまま胸ぐらを掴んでいた手を離すと、図書館の中央吹き抜けが見える位置まで数歩歩いて、木でできたフェンスに手を掛けた。

「……ひょっとして、僕の仕事を上に報告する気か?」
中央カウンターを見つめている小さな背中越しに、恐る恐る尋ねた。

「…そうね。」
カイヤナがくるっと振り返る。

「私が昇進とか、出世なんかを夢に持ってたら、そうしてたかもね。」

カイヤナが手をひらりと上げると、奥の中央カウンターに駐在しているもう一人の職員も鏡合わせみたいに手を挙げた。
その挙げられた手が窃盗容疑が晴れたというサインなのか、はたまたこれから僕が手を出そうとしている大罪をカセドラルに知らせるサインなのかはわからない。だけれど、彼女が振り返ったときに見せたあの表情を、僕は信用したいと思った。


「助かるよ、まだ跡継ぎすら見つかってないんだ。」
「別に、あんたを助けようとか、あんたの工房を憂いてるとか、そういうことじゃないから。私はこの図書館の本が守られればそれでいいの。あんたが他にどんな大罪を犯そうと、この”知の聖域”が静かであるうちは興味ないのよ。」
カイヤナは胸を張りながら、彼女にとって正義よりも価値のある大図書館を見渡して言った。このときの彼女の背中は、その小さな背丈から発せられるとは思えないほど逞しく、そして遠く感じた。
そこから少しだけ肩の力を抜いて、僕のよく知るフランクな言葉使いで続けた。

「というかむしろ、そんな大事件を起こそうとしてる悪党を上に向かって告発なんてしたら、大量の書類仕事が私を待つはめになるし、私にとってそれはあんたの安否とかよりも需要なことなんだから。というかそもそも…」
「そもそも…?」
「…いや、いい。なんでもない。」

カイヤナは多くの言葉を並べたのにも関わらず、最後の最後で言葉を濁らせた。歯切れの悪い彼女を見たのは今回が初めてだ。ただ、彼女が私の知る大学時代とはもう違うということは、先程までのやり取りで概ねわかっていたから、そこから特に追求することはしなかった。

「そうかい、とにかくまあ、騒がせちゃったみたいで悪かったね。僕はここでこのまま作業してるから、何かあったらまた声を掛けてくれ。」

これで一件落着といったところか、一息ついて、机に置かれた書籍を手にする。と、そこで本を掴む手の甲が視界に入って、まだ僕の体に残されていたひとつの懸案事項のことを思い出した。

「あいや、それよりこの手の”アザ”。もうそろそろとってくれてもいいんじゃないか?まだ少し痛むし、なによりこれがあるとまた誰かに誤解されそうで、落ち着いて本を読めないんだけど…」

声は静かな図書館のなかにこだますることなく、本と本の隙間に吸い込まれていった。僕の声かけに、全く返事がない。視界にあるのは本ばかりで、彼女の姿を見ていない今、僕はまるでこの図書館と会話しているような感覚に陥った。

「カイヤナ?」

顔をあげ、様子のおかしいカイヤナのほうを確認する。そこには、さっきまでとなんら変わらない彼女の姿があった。ただ一点、何故か沈黙を貫くその表情を伺うことは出来なかった。

「ねえ、もし――――」

目元は髪に隠れて暗く、彼女の表情は口元と声色でしか伺うことができない。


「―――もし、あんたが冗談じゃなくて…、もし、本当にそんな大馬鹿を成そうとしてるなら…。もし、私もほんの少しだけ”協力”できるかもしれないって言ったら、どうする?」


本のページに書かれた文字のように、言葉だけを見ることができたならどれほど良かっただろうか。
そう口にした彼女の声色は、そのように単純に喜べるようなものではないということを物語っていた。どちらかといえばそれは、重い病に罹った患者に医者が言葉をかけるような、そんな空虚さを孕んでいたように思う。

「協力って…?」
「あんたの想像するような”協力”…ではないかもしれない。でも、きっと参考にはなると思う。申し訳ないけど、これ以上のことはこの場所じゃあ言えない。」
カイヤナはいつになく静かな声で言った。ここに並ぶ数多の本棚ですら、聞き取れないような声の大きさだった。
僕は開いていた本を一旦閉じて、背もたれにより掛かるようにして考える。

「うーん…それじゃあ何か、ヒントみたいなものは頂けたりしないのか?友人を信用してないわけじゃないけど…カセドラル所属という君の肩書を無視できるわけじゃない。君って昔から、仕事熱心だろ?」
カイヤナはその軽口に少しだけ表情の温度を下げると、くるりと背を向け、後ろの本棚の本を一冊手にとってつぶやいた。
「…そうね、じゃあひとつだけ…」

もともと、この図書館はこれ以上無いほど静かな場所だったが、その一言が出てくるまでのほんの3秒ほどは、宙を舞うホコリの音が聞こえてきそうなほどの静寂に包まれた。それと相反するように、僕の胸中は嵐に舞う潮騒のようなざわめきに支配された。
カイヤナの唇が動く。

「―――人の身で雨を降らせた先駆者がいる…と言ったら?」



続く

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