リュッケンハルトの魔導書工房#1
大通りの喧騒に負けじと、足元の橋を打ち付ける波が香り、オレンジ色の屋根に弾かれた太陽の光が街全体を眩しく照らしている。
’’竜に抱かれた街’’リュッケンハルト橋国。
ここは名前の通り、海の上に無数に建てられた石橋の上に存在する国である。その上には、多くの人とモノが織りなす喧騒が荒波のように行き交い、同時にさざなみのような穏やかな営みもまた続いている。それは同時に、この国に存在する他の国とは決定的に異なる”いぶつ”が、人々の生活に深く溶け込んでしまっていることも表していた。
ずらりと国全域を包み込むように囲み、青空を衝くように整然と並ぶ、不気味なほどに白く、高い『塔』。
だがそれは、この場所へ渡った人間の手によって作られた”人工の島”のなかでただひとつ、まごう事なき自然物だった。
この広大な海の中心にぽつんと浮かぶ、巨大な竜の死骸。
この国は、ひとつの亡骸の上に繁栄した。
そんな街の一角で、波の音に相槌を打つかのようにカン、カンと心地の良い金属音がこだましていた。
喧騒の中央通りを抜け、地図と匂いと音を頼りに、たどり着いたある店のとびらを押し開ける。申し訳程度にがらんとドアベルが鳴るのを合図に、少し古臭さを感じさせるカビの香りと、ドアの前の鉢植えに植えられた白く柔らかい花の香りが、たちまち全身を包んでいく。
正面のカウンターには、大岩のような男と、そこに咲いたばかりの花のような初々しい少女が忙しく動いていた。
こちらを見て、大岩のような男が口を開く。
「いらっしゃい、どんな魔導書をご所望かな?」
ここは魔導書工房アインブレーベン。
リュッケンハルト橋国に数ある製本工房の中でも唯一、魔導書のみを取り扱う工房だ。
私の名前はリリーフォリア・シルバーワトル。皆からはリルと呼ばれている。
私はこの魔導書工房アインブレーベンで見習いとして、昨日から住み込みで魔導書について学びながら働くことになったグラナイだ。
少し前の私は何というか、からっぽだった。
およそ1ヶ月前、私はこの国の海岸に漂着していた。
まだ身体や言語能力などは残ってはいたものの、「私」というものを証明するような過去の「記憶」や「記録」の全てが失われている状態だった。
そんな私の傍らで共に漂流していたのは、ただ一冊の本。
本、と一言に言っても、表紙を開けてみればそれは想像していたものとは全く異なる物体だった。
魔導書。それは、あらゆる魔術を刻んで行使するための道具であり、本来私には触れることすら許されぬ魔術師の力そのものだった。
一冊の本と共に海岸に打ち上げられた記憶喪失の私はその後、「カセドラル」と呼ばれる場所に運ばれ、保護された。
カセドラルはこの国の中核を成す機関で、グラナイのみで構成された組織だ。主に政治、外交、宗教などを司っている。その場所で出会った人たちは皆優しく、何もない、何者でもない私にたくさんの思い出、記憶をくれた。
図書館の彼らは私に知識と最初に踏み出すべき道を、医者の彼女は私に新しい名前と帰るべき場所をくれた。
だから、私が私の記憶、記録として語れるのはあの日より後の話になる。
依然として、海岸に打ち上げられる前の記憶は全て白く塗り尽くされている。でも、もう私はからっぽではなかった。
打ち上げられてからおよそ1ヶ月が過ぎ、今の私の道しるべとなっているのは、共に打ち上げられていた、何もかもがボロボロに風化して解読できなくなっていた魔導書だった。
その魔導書は何もかもを失っていた私にただ一つ、「私の本当の名前」という記録を教えてくれた。他の誰でも、私でさえも知らない私の情報を吐き出したこの魔導書の奥底には、名前の他にも私の失ってしまった記録が刻まれているに違いないと思った。
名前。
それ自体はたった一つの文字列で、情報としては小さなものだったけれど、私を突き動かすのに充分なほどの重みのある情報だったのだ。
このボロボロになった魔導書を読み解き、写本と呼ばれる魔導書のコピーを作り、そこに刻まれた魔術を再現する。
そうすることで、記憶を失う前の自分自身を知ることができる。結局、今の私を突き動かしたのは使命感や罪悪感などではなく、単なる好奇心だったように思う。
そうして私はこの本に導かれるように、この魔導書工房の扉を開けたのだった。
私が工房を尋ねた日、あのあと気づけば、外の景色全体が熟れるように染まっていた。カセドラルの教会から午後5時を告げる鐘が鳴っているのが聞こえると、この工房の店主であるバーレは工房の本日の営業はおしまいだと告げて、店にいた2人の男を押し返すように店の外へ追いやった。片方のひょろりとした口の悪い魔術師は駄々をこねるように居座ろうとしていたが、バーレの巨躯になすすべもなく、割とあっさりと店の外へ追い出されていった。
鐘が4回、しっかり鳴るのを聞き届けたあと、さっきまで少しだけ騒がしかった工房に僅かな静寂が訪れた。
夕焼けに照らされて舞ったホコリが、光を乱反射して部屋の隅をまで光を届けていく様子に、何かを考えたり見惚れたりするなどしなかったが、しばらくその様子を眺めていた。
ため息交じりではあるが、先に口を開いたのはバーレの方だった。
「なにはともあれ、お疲れさん。ここに来るまで大変だったろう。」
「す、少しだけ…でしたけど。」
つかなくていい嘘をつく。あの出来事のことを思い出して話そうとすればするほど、濃くて鮮明な記憶として刻まれていってしまうような恐怖があった。忘れてしまうことを恐れていたはずの私が、今や忘れたいと願うなどひどく身勝手なように思うけれど。
そんな私の表情を見て、バーレは何かを心の内側で咀嚼するような顔をした。それから、もうその件に対して追及することもなく、飾り気のない声色で続けた。
「この工房は中層にある上に、この辺の地形は少々入り組んでてな。お前さんがいくつなのかわからないが、ここまで無事にたどり着けたのは何よりだ。それに、実を言うとお前さんのことはすでに耳にしてたんだ。」
衝撃の発言が飛び出し、思わず泳がせていた目線をバーレに向ける。
私を既に知っている…?一体どこで耳にしたというのだろう。もしかすれば、記憶を失う前の…
「いやなに、”カセドラルの服を来た武器を持たないグラナイが街を走り回ってる”ってな、そこらで少し話題になってたんだ。最近はカセドラルがピリピリしててガードの見回りが多いから、その黒服を着たやつを見かけるのは珍しくなかったが、お前さんの様子はカセドラルのそれには見えなかったそうだ。」
なんだか、急に気温が上がったような気がした。もしかしてこの人もカセドラルの関係者なのだろうかとか、あるいは記憶を失う前の私を知っているのかとか、そのような希望的な予想を無意識に行っていた自分に容赦のないビンタでもお見舞いしたかった。
赤くなった顔を見られたくなかったので、思わず下を向く。
「とりあえず、お前さんがどうゆう経緯でこの場所まで行き着いたのか、その辺の説明を頼んでもいいか。あの時ゃ勢いに気圧されたせいで、実はとんでもない訳あり少女を迎えちまったなんてことがあったら大変だ…」
バーレがちらりと、いたずらを思いついた猫のような笑顔を見せながら、こちらに目線を配る。はい、そうです。私は、自分でも何でこうなってしまったのかと思うくらい訳ありのグラナイです。と、言い逃れできない申し訳無さで、思わずひきつった笑みが出る。
それから私は、私がこの国で目が覚めてからここに至るまでの記録、記憶を、自分の言葉で事細かに、丁寧に紡いでいった。カセドラルでの出来事、持ち合わせた魔導書のこと、名前のこと、再開を約束した先生のこと。こうして、私が持ち合わせている遥か一ヶ月間の記憶を、誰かに語って聞かせたのは初めてのことだった。こうして語れる過去を手に入れたことが、私は心の底から嬉しかった。
気づけば、辺りは暗くなって喧騒も落ち着いたのか、小さくても波の音がはっきり聞こえるような時間帯になっていた。
「ううむ…まあいい。まあわかってはいたことだが、お前さんがとにかく厄介で訳ありな過去を持ってることは充分思い知ったわ…」
と、バーレは手をひらひらとさせながら天を仰いだ。そして一息つくと、おもむろに立ち上がり、背後にあった本棚から一冊の本を取り出してスッと開いた。
次の瞬間、まるで開いた本から滝が流れているかのようにページが本から流れ出て離れていき、何者かに導かれるように次々といろいろな部屋の天井に張り付いていく。その間僅か5秒ほど、私はあまりの光景に目を見開いたまま立ち尽くしていた。突如として、方向感覚を失うほどの紙の濁流に飲まれていく。その光景はまるで、小魚の大群が私の周りを取り囲むように、うねりながら光を纏って泳いでいるようだった。急な静寂の後、バーレが本をぽすっと閉じると、天井に張り付いた数枚の紙が、じわっと光を帯びていく。たちまち、日没とともに暗くなった工房は暖かな光に包まれていった。
バーレは本を再び本棚に戻し、今度はその隣の古そうな木箱から、棒状の何かを取り出した。また何かの魔術用の道具なのだろうか。
「まぁ、魔導書と関わっていけば嫌でも何かを思い出すだろうさ。
それじゃあ、最初の仕事だ。リル。」
バーレは背中越しにそう話しつつ、振り返ってニカっと白い歯を見せて笑った。そのまま持っていたものを、口をぽかんと開けた状態の私の前にぐいっと差し出す。濁流に飲まれ迷子だった目の焦点が、それにスッと引き寄せられた。
私の手に握られていたのは、一本のほうきとバケツ。
私に課された最初の仕事は、これまでと同じ部屋の掃除だった。
「この部屋の掃除が終わったら、カウンター奥の廊下の先にある部屋も頼む!」
バーレは何やら用事があるようで、私にほうきを握らせると、つけていたエプロンを解いてそさくさと慌てるように、裏口から店の外へ出ていった。そうしてまた、突然に静寂が訪れる。
部屋の掃除は数少ない得意分野だった。毎日やらなければならない仕事でありながら、面倒くさいと思ったことはなかった。アプフェル先生のもとにいたときも、日課のように行っていたものだ。
部屋を見渡す。店構えはひっそりとしているが、実際に店の中に入ってみるとそこそこの広さがあった。カウンターのあるこの部屋だけでも、アプフェル先生の部屋の4倍ほどの広さがあるように感じた。
手を動かすと、プルーフの木の木目にそってほうきが擦れる音が心地よく部屋の中に響き始めた。床が比較的きれいだったから、この部屋の掃除は思った以上に早く終わった。ただ一点、店の扉を開けたすぐ両脇にある鉢に何も植えられていなかったことが気がかりだった。
もう一箇所、指示されたカウンターの奥、廊下の最奥の部屋を開けた。そこは数ある部屋の中で、一番東に位置する小部屋だった。
この国の建物に当てはまる特徴として、一番奥の部屋の外側に道や足場などは無く、窓を開けて真下を覗けば海面が見えることが多い。単純に、基本的な建物は橋の方に入り口が向いていて、建物の奥行きは建っている石橋の幅に合わせて作られるためだ。結局のところ、この小部屋はアインブレーベンの中で最も海に近く、最も早く太陽を拝むことができる部屋だということだ。
部屋の中には藁におと木箱が3つ、あとは小さい本棚と、椅子がなければ机とは思わないようなインテリアが体温を失ったように置かれていた。
カウンターのある部屋と同じように掃除をする。ここはしばらく誰にも、何にも使われていないような質素で寂しさを覚える部屋だったが、掃除は行き届いているのか、手がつけられていない部屋だとは思わなかった。
その後雑巾で床や机などを拭き、無事に指示された場所の掃除を終えた。
先程の質素な部屋に戻り、ぼうっと天井に張り付いたまま光る紙のページを眺めながら、窓の外から入ってくる波の音に耳を預けていた。
耳を傾けていても、心がどこか落ち着かない。
その時ふと、ある日々の記憶がフラッシュバックした。
部屋の掃除が日課なら、掃除を終えたあとふけっていた習慣と呼べるもの。読書だ。
掃除の後のモラトリアムで、誰であれ読み手をどこかに連れて行く読書が好きだった。
私は本を探した。
純粋に本が読みたいという感情ももちろん大きかったのだが、それよりもこうしていないと落ち着かなかった。この部屋につながる廊下には、他に5つほど部屋があったから、きっとどこかに書庫のようなものがあるはずだ。
今、おそらくこの工房には私しかいない。そう思って順番に部屋の扉を少し開けては、何の部屋なのか覗いていった。5つある部屋のうち、最もカウンターに近い部屋から、よく知る土と木と甘いバンの実のような匂いがした。
扉の前で少しばかり葛藤する。
出会って1時間足らずの得体の知れないグラナイをその日のうちに1人で店に残していくのはどうなんだろうかとも思ったが、これを何かのチャンスだと無意識のうちに捉えてしまったこと自体が、なんだか信用を裏返しているような気がして申し訳なくなった。それでも、どうしてもこの身で疼く好奇心は抑えられなかった。”好奇心を抑える”と言っても、やるかやらないかではなく、どの程度までなら大丈夫なのかという葛藤をしている自分に嫌気を感じつつ耳を澄ます。
バーレの用事が時間がかかるものだと必死に祈りながら、そっと書庫のドアを開けた。
そこには、4面の壁すべてを覆う勢いで、大量の本が並べられていた。それに飽き足らず、部屋を仕切りのように置かれた本棚が目に入る。その光景に思わず「わお…」と声が漏れ出た。そっと足を運ばせながら、本棚に並べられた本の中で最も大きな、黒い表紙をした一冊に目が止まり手に取って、そのあまりの重さにその場の床に置いてから、本の表紙をそっとめくった。
この際、正しく言えばめくってしまった。
「わっ…!!」
本を開いた瞬間、薄暗い「球体状の影」が本を起点に爆発するように広がっていった。その影に飲み込まれた周囲にあった光源という光源が、一瞬のうちに消え失せる。さっき灯されたばかりの本のページのライトも、その光をどこかに失って周囲の暗さに同化してしまった。
瞬く間に、周囲の明るさが失われた。明るさとはつまるところ光の乱反射だ。それすらも飲み込まれて、周囲はあっという間に暗く、より正確に言えば黒くなっていった。必死に元凶となる本を閉じようと、開いた本の位置をまさぐる。しかし本があった位置に手を伸ばしても、何にも触れることができない。必死に本を探すうち、次第に自分が今どこにいるのかわからなくなってしまった。10秒もかからずに周囲は完全な暗闇になった。
目が開いているのか閉じているのかもわからなくなって、自分が立っているのか座っているのかもわからなくなった。耳も、水中にいるみたいに音を飲み込んでいき、だんだんと平衡感覚が失われていく。とりあえず部屋から出なければと、壁に手を当てようとしても、部屋がどんどん膨張しているかのように、永遠に壁に追いつくことは叶わなかった。
せめて何かに触れようと、必死にあちこちへ手を伸ばす。足は不安で震えて、目からは涙が滲んでいた。
誰か助けてと必死に叫びながら手を伸ばし、そして、ようやく何かに触れた。
「何やってんだ?リル。」
突然夢から醒めたかのように、周囲の光景が一瞬で復元される。
さっきまで感じていた不安は突然にして羞恥心へ変わり、体感で体温が2倍になった気がした。自分を客観視する別の自分が、その情けない姿を見て嘲笑する声も聞こえて来た気がした。なんだかもう、このまま海へ飛び込んでしまいたかった。そうすれば、この思考がオーバーヒートした頭も、熱く火照った顔も冷却されるだろう。ただただ恥ずかしくて、その日はもうバーレの顔を直視できなかった。
リルが部屋の掃除をしていた頃、バーレは夕食の食材を揃えるために買い出しに向かっていた。
大体の買い出しを終えて帰宅すると、部屋からドタンドタンと何かが暴れるような音がして、急いで音のする部屋に向かったバーレは、その光景に目を疑った。部屋にいた少女は涙目になりながら足を震わせ、ひたすらあちこちに手を伸ばしてはぐるぐると部屋の中をのたうち回っていたのだった。リルの肩を掴むと、リルはその体勢のまま耳を真っ赤にして、しばらくそこから動かなかくなった。
ついでにリルのお腹が鳴ったので、そのまま夕食になった。
「いやぁ何事かと思ったぜ…てっきり空き巣が入ってリルが交戦してたのかとも思って急いで見てみりゃ、必死に空気と闘ってたんだから。」
完全に失念していた。冷静に考えれば、カセドラルはまだしも、魔導書工房に置かれた本なんて殆どが魔導書に決まっている。下手に触ってこうなるのは完全に自分の失態だし、そもそも無断で書庫に立ち入ったことも含めて何もかもがしっかり因果応報でぐうの音も出なかった。
バーレはそう言って大笑いしながら羊肉とパンを頬張る。私は目線を迷わせながらも、瓦魚とトマトのスープを口にした。久々のしっかりとした食事で、料理を口に運ぶたびにお腹が空くような気がした。羊肉をたっぷりの香辛料で焼いたものは、疲労と空腹で支配されていた体に溶けていく。その風味は、それこそ無限大に食欲を増大させた。パンはそのままでは食べられないので、スープに浸しながら食べる。瓦魚はこのリュッケンハルトで最も食べられている魚だ。煮ても焼いても揚げても乾燥させても美味しいが、スープにして食べるのは初めてだった。瓦魚のあっさりとした脂がスープに染み出し、体の芯から美味しさを感じる。
バーレは、黙りながらにも自分に負けない食べっぷりを見せる少女に対し、少し驚きながら話を続けた。
「あれは防犯用の魔術を再現する魔導書だな。その中でもページを見たものの視覚と聴覚を奪って行動できなくするやつだ。アレを食らった本人からすれば空間ごと変化させられたような気分になるんだが、効果があるのはあのページを見た本人だけだからな。周りから見たらひとりでにおかしくなったように見えるんだよ。まあなんだ、しっかりその防犯機能にひっかかったってわけだ。」
「…。」
私はいたたまれなくなって肩身を狭くする。食事する手が少しだけ止まった。
「わはは!別にあれを食らったところでダメージとか後遺症は無いから安心しな。ただ、あの本棚にはそういった魔導書がたくさん置かれてる。今回は運が良かったが、下手すりゃあのまま失明するようなものだってあるんだ。だからあの場所に許可なく立ち入るのは禁止だ。いいな?」
「…はい。ごめんなさい…」
「いやまあ、鍵をかけておかなかった俺の落ち度でもあるから気にするな。というか、お前さんの好奇心はいささか危険な香りがするな、ひょっとしたら、記憶喪失なのもそれが原因だったするかもしれねぇな。」
この好奇心で周りが見えなくなる性質は早々になんとかしなくてはと、本当に反省した。好奇心を動力にするのはいい。ただ、私の場合好奇心が舵を取る時がある。そういうときに良いことは決して起きないし、なんなら窮地に立たされることだってしばしばだ。私にはもう一つ、無事に帰らなければならない場所がある。だから何が起きたとしても、今のまま物語に終止符を打つことだけは本当に避けたかった。
食事を終えると、バーレに今日はもう遅いのでもう休むよう言われた。私はちょうどさっき掃除したばかりの、この建物の最奥の小部屋をもらった。解くほどもない荷物をほどき、肌身離さず持っていた魔導書を一冊、本棚に立てかけてみる。中身や表紙などがボロボロになっていても、こうして本棚に収まると、表紙の豪華な装飾の痕跡からか誇らしげに感じた。流石に本棚に一冊だけ置かれていると寂しさは拭えなかったが、ようやくあるべき場所に落ち着いたように思えた。
物が少ない簡素な部屋でまだ嗅ぎ慣れていない木と土と、甘く香ばしい不思議な香りに包まれながら、バーレに話したようなこれまでの記録を回想し、これからの生活を頭の中で思い描く。そうして、藁におにシーツがかけられた簡素なベッドに横になりながら、開けた窓越しにぼやけて映る月を眺めていた。
なんだか今日の夜はやたら長く感じた。もう少ししたら遠くの方から空が赤くなるだろうか、という頃合いで、遠く聞こえる波の音に飲まれるように意識はそっと閉じていった。
翌朝。いや、朝と言うべきか昼というべきか、そんな時間に、背中を蹴り上げられたかのように跳ね起きた。堂にいた頃は朝起きるのなんて難しくともなんともなかったのにと、少しのめまいと、今にも自重で落下してきそうな瞼を必死に持ちこたえながら部屋の扉に手をかける。
それと同時に、どうゆうわけか自分の押した力以上にドアノブが強く引かれ、私はぐいっと掴んでいたドアノブに引っ張られるように前方に倒れ込んだ。
起き上がるだけの気力も無く、私は床に倒れて顔面を床にこすりながら朝の挨拶を交わした。
「ほ、ほはようほはいまふ…」
「…お前、もしかして藁じゃなくて床で寝てたのか?」
何故だろう。昨日から、私が床に突っ伏している惨めな瞬間を狙ってきているかのような最悪なタイミングでバーレに見つかる。逆にバーレからしてみれば、毎回自分のいないタイミングで床に突っ伏している病弱な少女か、床が大好きな変態少女だと思われても仕方がなかった。
「あまりに起きてこないから、昨日また変な魔導書でも触ったんじゃないかと思ってな…ま、まあぐっすり寝れたようで何よりだ。とりあえず昨日と同じで、カウンターの方はもう済ませてあるから、今日は工房の掃除と、工房の中央にあるテーブルの上の掃除を頼む。終わったら声を掛けてくれ。
ああ、あと水はそこの裏口を出て右手に、朝食はダイニングのテーブルの上に置いてあるから。」
「は、はい。ありがとうございます。」
裏口に置かれたバケツに汲まれた水で目を醒ます。そのままダイニングへ向かう途中、カウンターの方で声が聞こえた。バーレはカウンターの方で誰かの対応をしているようで、声を聴くに女性だろうか。女性の魔術師の人もいるのかなと、少しだけ親近感のようなものを覚えながら私はダイニングへ向かった。
朝食はサンドだった。硬いパンの中には薄切りにした昨日の羊肉と香りの強い青物、そしてそこに少しだけ舌がひりっとする美味しいソースがかけられているもだった。硬いパンを強引に引きちぎる。朝食で食べるパンは昨日の夜のものとは少し違う香りがした。どちらかといえば、カセドラルにいたときに食べたことがあるパンと同じ種類のものだろうか。とにかく、こんなに柔らかいパンは久しぶりに食べたような気がした。
朝食を終え、早速工房の掃除を始める。工房の中にあったのは製本作業に使うものなんだろうと思えるものが数点で、それ以外は見ただけではどんな機能があるのか見当がつかない器具や魔術用の素材だらけだった。実際にこの場所以外の製本工房を見たことがない私からすれば、どちらかというとカセドラルの図書館の一角のような、製本より魔術工房の色のほうが強いような場所だった。
鼻の奥のほうを刺激するような薬品から、液体なのか固体なのか気体なのかわからない溶液の入った瓶、膜のなかに薄く発光する線が走る虫の標本、そして、他の花の差された花瓶の隣で、窓から差し込む光に照らされているリリウムの花。
とにかく、見たことも聞いたこともないようなものでこの工房は満たされていた。私は目を輝かせながら、掃除する手が完全に止まらないように辺りの面白そうなものを見て回った。
が、その掃除をする手は、触ると葉を閉じる変な植物のところで完全に止まってしまった。
10時を告げる鐘の音で、本来の仕事を思い出す。私の仕事はこの従順な葉をひたすら撫でることではなく、この工房の片付けだということを思い出した。
それから30分ほどかけて雑巾がけをし、ようやくバーレに報告をしに向かった。その頃には当然ではあるが先程の声の主、女性の魔術師の姿は無く、バーレはちょうど次のオーダーを聞き終えたところだった。バーレは遠い声で軽く返事をすると、何やら様々な本やら紙やらを抱えて工房の中に入ってきた。
「よし、その掃除道具を戻したら、お前さんの魔導書、あれをちょっと持ってきてくれるか?」
「良いですけど、でも急に、どうしてですか…?」
「早速で悪いが、この工房の仕事を覚えてもらおうとおもってな。」
わかりやすく顔が晴れる。この工房で最初に掃除を任されたとき、それこそ一ヶ月ほどはカセドラルにいたときのような雑務をこなすものだと覚悟していた。だから、こうして翌日から魔導書のことについて教えてもらえるのは純粋に嬉しかったし、疑問でもあった。
私は掃除道具を木箱の中に戻し、自室の本棚に一冊だけ安置されている魔導書を工房まで持ってきてテーブルの上に置いた。見た目こそボロボロだが、その持っている威厳のようなものは、バーレが持ってきた他の本に勝るとも劣っていないように思えた。
「でも、こんな早くに教えてもらえるなんて思ってませんでした…てっきり暫くの間、掃除とか雑用とかをさせられると思ってましたし…」
「まぁ何だ、お前さんの魔導書のグリモワールを作るのを工房の仕事と並行していけば、グリモワールづくりとか魔導書づくりについて教えていけるし、そうすればこの工房でできる仕事も増えていくだろうと思ってな。
掃除だけが必要なら使用人を雇うまでさ。リルには早いとここの工房の戦力になって貰わなくちゃならねえ。」
そう笑いながら言うと、バーレは少しだけ目線を逸した。光に照らされていた顔に、少しばかりの陰が落ちる。
「この工房…というよりこの仕事は常に人手不足なのさ。この国でも本造りで活版印刷が主流になってから尚更な。」
事実、このアインブレーベンを最後に魔導書工房はこの国から消滅した。その理由は様々だが、その理由のほとんどは活版印刷技術が持ち込まれたことと、魔術師が減ったことだという。
魔術というものは既に、世間一般に普及している。だが一般的なそれは、ただ魔術を利用するだけのものだ。火を扱うことが当たり前になったからといって、火を使う人間すべてが化学について研究していないのと同じ、日常生活で魔術を利用するだけなら口伝魔術や筆記魔術で充分で、魔導書なんて代物は必要にはならなかった。魔術を利用する人間はこの50年ほどで増えたが、魔術を開発し研究する人間は次第に減っていった。
質は申し分無いけれど、手間とコストと時間のかかる魔導書は時代の速さに追いつけなかった。
魔導書は、魔術を記述するものではなく記憶させるもの。多くの人にとって必要だったのは魔導書ではなく、魔術について書かれた普通の本だったのだ。
「この工房のことはひとまず置いておいて、その魔導書の復元するまでの道のりについてなんだが、その魔導書に残された文字の痕跡を復元する作業は、時間はかかるがそこまで難しくはない。問題はそのあとのグリモワールの方だな。」
そう言ってバーレはボロボロの魔導書のページを開きながら話す。
「グリモワールを作るには、適切な紙と適切なインク選び、紙に中身を転写し、それから、ただの紙束の状態のそれを本としてまとめて形にする必要がある。それらの組み合わせは、その魔導書がどのような魔術を行うものなのかでも大きく異る。だから、当面の目標は、この魔導書が一体なんの魔術を行使するためのものなのかを暴くことになるわけだが…」
バーレはその魔導書のページを慎重にめくりながら、ううむ、とページが進むごとに顔を曇らせていった。
「まあいい、とりあえず最初はわかりやすいものから始めるのがいいだろう。まずは魔導書だろうが普通の本だろうが同じ、本であるなら最も重要な紙についてからだな。」
見ていた魔導書を閉じ、その代わりに自分が持ってきた本を並べていく。薄いもの、分厚いもの、重いもの、小さいものなど様々な本が机の上に一列に並ぶ。ページを開くと、その差のほとんどが紙自体に起因するものだということが私でもわかった。
「紙についてだが、ひとつに紙と言っても様々なものがある。紙の厚さ、色の濃さ、インクの乗りやすさ、作りやすさ、あとはどれくらいの時間美しい状態で保存できるか、こうゆうのは大体、素材と製造方法によって異なる。魔導書と同じで、万能な紙はまだ存在しない。だから目的に応じて素材を選ばなくちゃならない。」
そう言うとバーレは、店のカウンターの後ろにある本棚から持ってきた巻物を5本机の上に広げた。紙が空気を押し、ふわっと甘い土のような匂いと、灰のような、無意識に鼻孔が閉じそうな詰まった香りが、部屋全体にかすかに広がる。その香りの複雑さはまるで香辛料のようだった。
「紙には様々な種類があるが、その製造方法はおおまかにわけて3種類だ。植物などを繊維状に溶かして、編んで固める方法。厚い素材を薄くなるまで削って紙にする方法。動物や植物の素材を溶かして型に流し込む方法だ。」
バーレは順番に並べられた紙を手に取りながら説明を続ける。
確かに紙をよく見ると編み込まれた繊維が見えるもの、ツルツルのもの、表と裏があるものなど、表面を見てわかる程度に差を感じることができたし、触ってみると違いは歴然だった。
「編んで固めて作られた紙を『ウェーバ』、削って作られたものを『ヴェス』、溶かして型に流してできたものを『テレフタラット』と呼ぶ。
ウェーバは安く簡単だが脆く、長期保存には向かない。ヴェスは作るのに手間も素材の入手も他に比べると大変だが、その分強くて長期保存に向いている。最後にテレフタラットだが、魔術の素材の調合しやすさと耐久性は申し分ないんだが、インクは乗りづらいし重くて厚いから本造りには向かない。だから、紙づくりは素材の特徴を殺さず活かすような製造方法を選んでいくのが基本になる。」
バーレはその大岩のような体躯とは程遠い繊細な手付きと、熱い血を身に巡らせているような気炎さを捨て、冷静に、淡々と説明を続けていった。
本に囲まれながら何かを教わるという今の状況がそうさせたのか、その時のバーレの様子は、私がカセドラルの図書館で出会ったシュヴァンという冷えた鉄のような男の姿が無意識に重なるほどだった。
「今の話だと、ヴェスを基本にして作るのがいいってことですか…?」
「いいや、そうとも限らん。」
そう言うと、これまでの真剣な表情を少し崩して、ほんのすこし無邪気さを感じる顔でにやりと笑うと、バーレは奥にある鍵のかかった部屋に入っていった。
ここまでの情報を咀嚼して、私なりに考える。
テレフタラットは紙に向かないとバーレ自身が言っていたし、ウェーバは魔導書のページ数を鑑みれば安くできて良いかもしれないけれど、長い間状態を保つことが難しいというのは、なんとも言い表せないような不安が私の中に募るのを感じた。
この本は決して私自身ではないし、名前が浮かび上がったからと言って、この本が私のことについて書き記されたものだと断定するのも危険だ。
いつ作られたものなのか、どこで作られたのか、何のために作られたのかがわからなくなっていても、ただ形として残っているだけで今の私まで繋がったものがあった。だから、どうしても私は本には長く残り続けるという使命を課してしまいたくなるのだ。
私がそうしてあれこれ考えていると、バーレが両脇にいろいろなものを引き下げながら出てきた。もう数往復かして、さっきまで紙が数枚置かれていた広い机の上には、木枠に張られた動物の皮らしきものと、薄いガーゼのような繊維質の巻物、そして鱗が光る数匹の大きな魚が入った桶、プルーフの木の木片、大きな平たい草、カコイグモの巣など、さまざまなものが大通りの露天のように並んだ。
その好奇心を雑に刺激してくる光景に、さっきまで考えていたことの半分ほどが結論を待たずに消えていった。
「実際の紙作りは、ここにあるような素材を利用したり混ぜたりして作っていくんだが、そういえばお前さん、魔術に関してはどの程度知ってるんだ?」
「言素というエッセンスを足したり引いたりして現象を引き起こすってことまでは…。」
以前カセドラルの図書館でシュヴァンから教わったことを脳内で指折りしながら思い出す。
「ああそうだ、いろいろな素材からエッセンスを引き出して現象を操作するのが魔術だ。例えば、ここにあるカコイグモの巣の糸には粘着とか、捕捉、編む、みたいな要素が含まれている。これの言素が足されたウェーバは…」
そう言うと、バーレは隣にあった同じような繊維質の紙を手に取って両端を掴むと、両手でぐっと持っていた紙を引っ張った。
衝撃や荷重に脆いはずのウェーバ紙のはずだが、流石にきれいな四角形を保ったままではなかったが、バーレの引っ張る力に耐えきってみせたのだった。
「こんな感じで、ただの植物の繊維だけでできた紙にカコイグモの糸の言素を足せばヴェスに負けない耐久性と、さらにインクの乗りやすい紙に仕上がる。他にもこの硝魚のウロコをヴェスの素材にして紙を作れば水に強い紙になるし、テレフタラットを作るときに混ぜれば、落としたら割れるような紙にすることだってできる。まあ最後のはもはや紙とは言えない代物になるが…
とにかく、素材の魔術的な特性と製造方法によって紙の特性は良い方にも悪い方にも変わるんだ。」
これを聞いた私の感想は、この紙探しをしているだけで私の寿命は尽きてしまいそうだなという、ひどく期待されていないものだった。それでも、数々の素材を集めて調合していく作業は私の好奇心を着実に、いたずらに刺激していた。
「そ、そんなに選択肢がある中から最適なものを探すんですか…!?」
「だがまぁ、これだけの種類があるが、もちろん既に紙の研究は多くのスクライブが行ってきているからな。既に用途や目的に応じて適した紙のレシピは多く存在するから、偉大なる先人様のを参考にするのがいいだろう。もちろん開拓するのも構わないが、そのときは生涯紙作りの研究をする覚悟をすることだな!」
そう言ってバーレはニカッと笑った。
「だから、お前さんの持ってるその魔導書が、一体何の機能を持っていたのかを暴くことが当面の最優先事項だ。ただ、さっき軽く見せてもらったときは、そこにかけられている魔術がどんなものなのか一切見当がつかなかった。それくらい高度な魔術がこの魔導書には記録されてる。」
「バーレさんでもわからないのに、魔術に詳しくない私がそれを暴くのは無理です!」
「ああ、それこそ「名落ちの魔術師」レベルなら1分もかけずにこの魔導書からそれを読み解くのは不可能だと思うが、それも半分くらいお伽話だ。」
バーレはそうして、ボロボロの魔導書を再び開きながら続ける。
「だから、とりあえずはこの魔導書と同じ素材、同じ製法でこの本を形だけでも複製する。目で見て、指で触って再現して、そうして最終的にこの魔導書の中身を暴く。それが一番可能性のある方法だ。」
素材を再現し、製法を再現し、最後に魔術を再現する。通常のグリモワール制作とは真逆の過程でグリモワールを作る。それしか方法が無いのなら、時間がかかってもその方法で実現させるまでだった。私は今一度、そのボロボロの魔導書を見て、一度目を閉じ、今度はバーレを見る。その時のバーレの瞳は、昨日のあの時のように私の奥底を見ていた。
「よし、覚悟は決まったみたいだな。」
バーレは清々しく笑った。
「じゃあ手始めに、この紙の基礎素材からだ。リル、触ってみて、これは何の素材が使われてるか予想してみろ。」
言われるがまま、目を瞑って魔導書の紙を指で挟むように触る。親指の方、紙の表面のほうは滑らかで、つるりとしたさわり心地だった。指先に集中すると線のような凹凸もあった。その逆である裏面、人差し指の方は細かい穴のような凹凸が微かに感じられて、人差し指を擦ると、指の油分や水分が吸収されていくような気がした。
この感覚と、他の紙の感覚で似ているものを、触りながら探していく。そうして数分かけて、いくつかあった紙の中で、同じ感覚の紙を3枚まで絞り込んだ。そして、最終的に残った3枚全てがヴェスだった。
「よし、そこまで絞り込めれば上出来だ。まあ十中八九この魔導書の紙はヴェスだろう。それに、この血管の入り方はおそらく大型の動物の毛皮から作られてるものだ。そんで、話で聞いたように海の荒波に揉まれてもまだいくつかページが残っているほどの耐水性なら、使われているのはおそらくカシヤギの革だ。」
「カシヤギ…?」
「ああ、この国特有の動物でな。頭にグラナイのものに似た角を生やしている4本足の大型哺乳類だ。一頭から多くの紙を作れるから、昔からヴェス作りに用いられてきた生物だ。」
そう言って、バーレは工房の壁に掛けられていた地図を外して、中央のテーブルに広げた。
「こいつの生息域は『ダンク』と呼ばれる、骨の根本に存在する森林地帯だ。リュッケンハルトの中でも最も海水に近い部分だから、ここに生息する生き物は水や海水の腐食に対する高い耐性を持ってる。」
地図の中心には蜘蛛の巣のようなリュッケンハルト橋国が描かれていた。それを包囲しているかのように何本もの”骨”が点々と描かれ、それは少なくない面積の天然の土地が私達のまわりに存在していることを示していた。
「それじゃあリル、まず手始めに紙の選別からだ。」
そう言ってバーレは、私に革でできたカバンと簡単なナイフ、そしてそれらを携帯できるベルトを差し出した。
「え、なんですか?これ…」
「何って、原料の調達さ。これから実際にダンクに向かって、カシヤギを仕留めて素材を回収してきてもらう。」
私は思わず目を見開いて、手に持たされたそれらではなくバーレのほうに目を向ける。
私はグラナイだが、野生の動物と戦って勝つほどの力なんて無い。しかもこの小さなナイフ一本で。
私のナイフ一振りより、この人のくしゃみとかのほうが殺傷能力は高そうだ。人間はちょっとグラナイの力を過信しすぎなんじゃないだろうか…
そもそも私はグラナイ特有の力がかなり弱いらしく、私自身のグラナイとしての身体能力は少しだけ走るのが早い人間程度なのだ。
「お前さんの魔導書は出自こそてんでわからないが、とにかく質の高い素材が使われてることは確かだ。だからグリモワールに使うための素材もなるべく新しくて、状態がいいものを使わなくちゃならねえのさ。こうして狩りにいくのも工房の仕事のひとつなんでな、勉強がてら、というヤツさ。
だいいち、この工房の紙は古くてかなわん。」
バーレは工房中が揺れるほどの衝撃波が出ていそうな様子で豪快に笑った。
その気持ちはとても嬉しかったけれど、それにしても第一関門にして早々に無理難題を押し付けられてしまったと、私は思わず引きつった苦笑いのような顔を浮かべる。
その様子を見たバーレは落ち着くと、不思議そうな様子で続けて話した。
「ん?流石に一頭丸々狩ってこいなんて言わないさ。俺がそんな鬼畜に見えるのか?大丈夫だ、お前さんはどれを仕留めるか選別する目の役割で、実際に相手にするのは別のやつの仕事だからな。」
この場所に初めて来たときから、この人の大きさからくる威圧感に気圧されていたのは事実だ。同時に、いきなり押しかけた得体の知れない私の我儘を正面から受け入れてくれたのもこの人だった。見た目は大きな岩に手足が生えたような風貌で、そしてその目は優しさの色をしているようで、その実いろいろなものを見透かしているような太さと強さを宿していた。だから鬼畜とは思わないけれど、この人なら、必要ならきっとそういう難題も課してくるし、そのときはきっと私が乗り越える可能性も見ているのだろうと思った。実際、その言葉を聞いた私に生まれた感情はほとんどが安心だったけれど、一本の糸くらいの悔しさも同時にあったかもしれない。
安心と同時に、今度は別の不安が思い出されるように頭をよぎった。
「べ、別のやつ…?」
「そういえば、まだ紹介していなかったな。そろそろ帰ってくるはずなんだが…」
そう言って頭をポリポリとかきながら、バーレはカウンターの方を覗きに向かった。
誰だろう、こうゆうときに狩人を雇うことも珍しくないと聞いたことがあったが、やはり誰かを雇っているのだろうか。どちらにせよ、こういった戦闘や護衛といった仕事は身体機能でみても、ほとんどグラナイが請け負っている。もちろんそれは承知していることだが、武器を持ったグラナイには少しばかり本能的に恐怖を感じてしまう。
そうしてバーレが戻ってくるまで机に置かれた地図を見ていると、カウンターの方から騒がしめに会話が聞こえてきた。低い声の他に、もう一人の声が店の中に響く。その声はこの場所からだと何を話しているのかわからなかったけれど、どうやらバーレと何か言い合ってるような”熱”を感じた。でもなんだろう、その声の遠慮のない熱量にどこか聞き覚えがあったのを無視できなかった。
声のするカウンターのほうに足を踏み出す。
カウンターの前にいる人物は、ちょうど入り口の窓から入る逆光に照らされてよく見えなかったが、どうやら身長はあまり高くなく、私と同じくらいの背丈をしている”人間”の青年のようだった。
「…きのうは急にルサルカに見舞われたのと、そのグラナイの道案内してたんだ仕方な——」
バーレに向かって話していたセリフを中断する。
私の足音に、目の前にいたその青年が振り向き、瞬時に目が合う。そして私を見るやいなや少年はその紫色の目を見開き、手に持っていた小ぶりの弓やら何やらすべてを床にゴトッと落としてしまった。
一方、廊下からカウンターに顔を出した私もそれと全く同じ現象に見舞われていた。手に持っていたはずのヴェスのロールが足元にコロッと転がるも、そんなことよりも眼前にいるその少年に意識を奪われていた。
2人の視線が3秒ほど、無音で交差する。
まるでアイコンタクトで息を合わせたかのように、完璧なタイミングで2人悲鳴が重なった。
「「うわぁ!!!」」
2つの視線が交差しているその間、時空すべてがこの場所を爆心地にして止まってしまったかのように静まり返る。店の外を吹く海風も、工房の中を漂う光さえも静止した中、その場にいたバーレだけが、何も知らないといった困惑した顔で二人を見ていた。
そこにいたのは、私が命かながら逃げ入った教会で共に雨宿りをした、名も知らぬ救世主だった。
今この瞬間、リュッケンハルトに響く正午を知らせる鐘の音と、徐々に顔を熱く火照らせる血液だけが、静止した時間の中を我が物顔で流れていた。
続く
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