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「リュッケンハルトの魔導書工房」Avant 5

頭に生えるそれを隠すようにフードを深く被り、呼吸を整えることもなく街を抜けていく。いつもは人で賑わう大通りも、この日ばかりは騒がしさの主導権をこの大降りの雨に譲り渡していた。石畳に穴を開けようと落下する水の滴は、次第に私の視界をも奪っていくほどに強くなってく。足はもつれ、何度もつまずきそうになりながらも、もがくように、振り払うように走った。




その、少し前のこと。


「ペルクナス」

人々は口を揃えてそう呟く。空から無尽蔵に落ちてくる水に、昔の人は感謝と畏怖の意味を込めてその名前をつけた。
この国では7日間のうち2、3日ほどの頻度で雨が降る。海に囲まれたこの国で、雨水は貴重な水資源だった。
そして雨が降ると、その雨音に紛れて、いくつかの言い伝えがこの街で噂されるようになる。

「雨の降る日に露店を出すと利益まで流される。」
「雨の降る日に橋の下に一人でいると、竜の亡霊に攫われる。」
「偉大なる魔術師が、禁じられた雨乞いの魔術で恵みをもたらしている。」

真偽はどうあれ、この街には雨にまつわるさまざまな言い伝えが存在している。雨に「ペルクナス」という名前がつけられているのも、リュッケンハルトに残る言い伝えと関係しているらしい。
ペルクナスはさらさらと降るような、比較的穏やかな雨を指す。いわゆる災害と言えるような豪雨ではなく、むしろ恵みの側面を強く感じさせる雨に対して使われる雨の通り名のひとつだ。
この国では、自然現象にそれぞれ固有の名前がつけられている。雨や雷、嵐、日照りの他にも、強い雨、弱い雨でも名称が異なる。それがいつ発生した風習なのか、誰が名付けたのか、由来は何か…など、正確な文献や資料などが残っていないものも数多い。
ただ、大昔に生まれたその呼び名が今でもこうして呼ばれ続けているのは、雨と魔術がそれほどまでに、この国の根幹に位置するものだという証明でもあるのだ。

このような言い伝えや伝説は、時間とともに尾ひれをつけていく。
実際、この国で広まっている言い伝えや伝説の中には、出来の悪いお伽噺のようなものもあるのも確かだ。ただ、これら言い伝えを「ありえない」と無下にしてしまうのは賢明ではない。
どんなに突拍子もない話であれ忘れてはいけないことは、それがどんな言い伝えであれ、その話が語られるようになった何らかの”背景”が必ず存在するということだ。
これは以前、アプフェル先生の本棚で見たお話のひとつだ。ある遠い国の集落に、こんな言い伝えがあった。

「どんなに喉が渇いていても、女神の泉の水を飲んではならない。」

乾燥地帯の一角にある、小さな集落に伝わる話。

ある日、その小さな村にひとりの商人が訪れた。その商人は水を買い占め、高額で売るという商売をしていた。その商人は村の近くに湧く綺麗な泉を見ると、「これが欲しい」と桶で汲み始めた。するとそこに一人の老人が現れ、その泉を”女神の棲む泉”だと言い、その水を飲んではならないとその商人に忠告した。しかしその商人はその老人の言葉を水を奪われたくないために村人がついた嘘だと思い、気にせず汲み続けた。
その夜、砂漠の乾燥に慣れていない商人は喉の乾きに耐えられず、女神の泉の水を一口だけ口にした。それはこれまで誰も飲んだことがないほど美味しく、商人はもう一杯、もう一杯と飲み続け、そして眠りについた。

翌朝、村人は商人の様子を見にテントを訪れた。なにも、昨晩は血に濡れたような赤い魔物が、乾いた声で叫びながら辺りの森を徘徊していたそうだ。
心配になった村人はテントを訪れたが、そこに商人の姿は無く、ただ、女神の泉にズルズルと続く足跡と、泉の前に置かれた血だらけの服だけが残されていた。
女神の棲む泉には、真っ赤な体の魔物がひとつ浮んでいた。

…という言い伝えだ。

これは今でも「砂漠地帯で水を独り占めしてはいけない」「現地の人の話を聞きなさい」という戒めが込められた”寓話”として語られている。
ただし気をつけなければならないのは、この村が実際に存在するということだ。今現在、この村が存在した場所はすでに廃村となり、「女神の血の泉」という意味の名前がつけられている。

後にその泉を発見した地質学者が調べたところ、その水には人体に猛毒の鉱石が大量に溶け込んでおり、一口でも体内に取り込めば、身体が焼けるように熱くなる爛血病を引き起こしてしまう、というものだった。
商人はこの猛毒の水を口にし、燃えるような痛みと疼きに皮膚は赤く爛れ、体中を掻きむしりながら、最終的に水を求めて泉に飛び込んだと思われる。その様子を遠くから見れば、きっと赤い魔物が徘徊しているように見えたことだろう。これがなぜ、普段寓話などが置かれていないアプフェル先生の部屋にあったのか、私はその中身を読んで理解した。

結局、これら言い伝えは教育的な意味で言い伝えられたものであると同時に、その泉の危険性や真実を伝えるためのものでもあったということだ。他愛もない言い伝えや物語、伝説の出来事を、ただのフィクションだと無下にするのは賢明ではないと、伝わっただろうか。


まるで走馬灯のようだった。
ではなぜ今、このおとぎ話にまつわる話を走馬灯のように思い出しているのかといえば、このような語り口調の私自身が、そのような言い伝えを軽視していたからだというほかない。

「雨の降る日に一人でいると、竜の亡霊に攫われる。」

私は今、リュッケンハルトに伝わる言い伝えのひとつを完璧に再現するように、水底へ落ちていった。
後から考えれば、確かにそれは竜の亡霊だったのかもしれない。




その日は晴れていた。足元の石橋には少しばかりの水たまりが残り、無限とも思えるような青空の面積が、さらなる広がりを見せていた。

カセドラルを発ってからしばらくたった。今では、あの大きなカセドラルの建物が遠く、ミニチュアのように見えている。
何度も振り返りそうになったし、この胸を紐で引かれるような寂しい気持ちは最後まで断ち切れなかった。それでも、先生と交わした再会の約束だけは無碍にしたくないという一心で私は歩き続けた。
今度は必ず、自分の言葉で自分自身を語ろう。それまで私が経験したたくさんの思い出を、記憶を、武勇伝のように語って聞かせよう。そうして前を向けば、その足取りは下を向いていた時よりも速くなったような気がするのだ。ぱちゃりと水たまりを踏んだ足は水に濡れても、それでも私の歩いた跡を乾いた地面に残している。
アプフェル先生と別れたいま、この足跡と前に進んでいる感覚だけが私を絶えず励ましていた。


ときにリュッケンハルト橋国は文字通り、あの巨大な骨以外は全てが人工物でできた島国だ。決して大きな国ではないが、体1つで渡るのには広すぎることに変わりはない。荷物を尻尾にくくりつけ、長い長い中央橋を抜けた。海風を体中で受けながら、陽が傾きはじめるまで石橋を歩き続ける。そうしてようやく、目の前に何段にも積み上がる石橋の街が姿を現した。

石橋のゲタは門にもなっているようで、くっきりとした影を落とす高い門をくぐると、そこには白い石畳とオレンジ色に輝く屋根の街が広がっていた。人、荷、馬、風、色、声、匂い…全てが胸の中へなだれ込んでくる。さまざまな感情が、瞳の内側で複雑に反射した。

私は門のすぐ横にある橋のへりに座ると、貰った地図に改めて目を通し、これからやるべきことを簡潔に整理した。

私の目的地はこの国で最後に残った魔導書工房だ。名を、アインブレーベンという。シュヴァンと図書館で話をしたとき、実際の所在地も教えてもらっていた。
西方地区フロプト大橋中層3脚目、そこからさらに脇に伸びる小橋に入っていった先に、その工房はある。私がカセドラルの手伝いで赴いていたのはほとんどが東地区で、いまいる西地区に訪れたのは今回が初めてだった。

「さて…と。」

私がその目的地にたどり着くためにしなければならないことがあった。それは通行許可証の発行だ。

リュッケンハルト橋国はその名前のとおり、数々の巨大な石橋を、クモの巣のように互い違いに張り巡らせたような構造をしている。その昔に起きた大きな洪水災害以降、新たな橋を橋の上に積み上げ、海から逃げていくような形でできた街は、リュッケンハルト独特の立体迷路を作り出していた。

この互い違いに重なる橋は層のように広がっていて、大きく分けて「上層」「中層」「下層」の3段で構成されている。

上層。海から最も遠い三段目には、身分の高い領主や貴族の屋敷、豪勢な教会などが整然と立ち並んでいる。あの場所はまさしくリュッケンハルトの中で、太陽の恩恵を受けていると言っていい場所だ。他の層に比べて面積も狭く、限られた者しか立ち入ることすら許されないエリアだ。

次に中層。ここには稼ぎのいい商人や役人、技術者と、グラナイや人間の騎士が住んでいる。上層、下層のどちらからも近いこの層には、質の高い病院や学校など、役場的な役割を持った施設が多いのも特徴のひとつだ。目的地である魔導書工房アインブレーベンは、この中層の一角にある。

そして、いま私の立っている下層。最も面積が広く、最も人口が多く、そして最も海に近い場所。そのほとんどが漁師や農家、商人や大工で、ひしめくように建物が並ぶリュッケンハルトを代表する活気あふれる場所だ。モノ、権力、人、金。この下層で手に入らないモノはほとんどないと言っていい。

リュッケンハルト橋国でこの層を行き来するためには関所を通る必要がある。上から下に降りるのはとても簡単だが、その逆となると話は変わる。もしひとつ上の層に渡りたいのなら、「通行許可証」を買う必要があるのだ。聞いた話では中層に入るのに必要な許可証の金額は金貨5枚。それで、私がいまいる下層と、その上に見える中層との行き来が可能になる。
金貨5枚、それは下層に住む人間がおよそ50日かけて手にする報酬に相当する額だ。なにか劇的な幸運でも降りかかるか、あるいは再び壮絶な洪水災害でもおこらない限り、殆どの国民は生まれた層で生涯を終えると言っていい。

ちなみに、私が昨日まで身を置いていたカセドラルはどの階層にも当てはまらない場所だ。カセドラルはトーラス型の国土の中央のぽかりと空いたスペースに存在していて、ここを訪れるのに必要な許可や資格などは存在しない。傲慢な貴族、気高き騎士、手をこまねく商人にも、カセドラルの門は平等に開かれている。
この国を訪れた人はみな「リュッケンハルトという島の中央に、カセドラルというもう一つの島が浮かんでいるみたいだ」と言う。

そして、カセドラルから各地域へ伸びていく4つの大きな橋は総じて「中央橋」と呼ばれ、橋が伸びた先の地域をそれぞれ北地区、東地区、南地区、西地区と呼んで管理していている。各地域にも、異なる特徴や地域色が表れている。
カセドラルを行き来するためには、この中央橋を必ず通らなければならない。

私がカセドラルの仕事でよく駆り出されていた東地区は、リュッケンハルトの中で最も大陸側に位置する地域だ。交易が盛んで、大陸からの商人を通じてさまざまな文化が持ち込まれてくる。新しい文化も食材も、技術も、人間も、全てがこの東地区を通過していく。
一方、それに比べてこれから向かおうとしている西地区は、古い伝統が色濃く残る街だ。この西地区の一角に、私の目的地はある。

宿から宿へ、橋から橋へ。数日かけて街の中を進んで、目的地近くまで歩を進めた。
私は今、魔導書工房があるというフロプト大橋のちょうど真下に位置した、とある安い宿に泊まっている。関所の近くで銀貨5枚という安さで泊まれる場所を見つけられたのは幸運だった。
うまく中層まで辿り着ければ、ここが下層で最後の宿になるだろう。

宿屋のおじさんに案内された部屋はアプフェル先生の部屋のとはまた違った匂いがした。ここは下層の中でもさらに海面に近い場所にある宿屋で、こういう場所の建物は石橋の上ではなく、海にぷかぷかと浮くような形で建てられているものも多く存在する。この宿もそのうちのひとつだ。波の満ち引きに合わせて建物全体が少し揺れているものの、特にこれといって不便には思わなかった。
部屋の中に入り、棚の上を指でそっとなぞる。
明日、朝起きたら部屋を掃除をするとだけ決めて、私は浅い眠りについた。

翌日。陽は完全に出きっていて、遠くで響く喧騒と波の音に揺さぶられるように目を覚ました。私は部屋の掃除をルーティンのごとく終え、目的の許可証を発行してもらうために、この下層にある役場へと向かった。下層に住む人たちはみな気さくで、この宿の店主も例に漏れず、役場までの道のりを丁寧に教えてくれた。

日の差す街道を、太陽に向かうようにして歩いた。そうしてまもなく、役場に到着した。
簡素なつくりをした役場の扉を開ける。中はカセドラルの中で見たものと似た作りをしていて、まるで家に帰ったかのような安心感を覚えた。

「えっ…」

だが、そんな安心感は一瞬の錯覚のように、海に落ちた泡のように、あっという間に消え失せた。

話にきいていた許可証の金額は金貨5枚だった。だというのに、その役場で提示された額は金貨15枚。私の手持ちはそれと同じ金貨15枚で、今後の生活費を考えれば、金貨15枚という金額はとても払える額ではなかった。
なにかおかしいと思って役場の人間に尋ねても、そこにいた人間から返ってきた答えは一縷いちるの希望にもならなかった。
役場で発行してもらうことができなければ、他に手段はない。

背後に身を焦がすような夕焼けを背負い、ぼんやりと残りの金貨を手に入れる方法を考えながら、その虚脱感に煽られるようにして帰路についた。まっすぐ正面に伸びる長くて暗い影が私の行先を暗示しているように感じて、嫌気がさす。私はその夕日から逃げていくように、路地裏や建物の影をつたって帰った。
きっと、先生の部屋で見ていた、煌めくような冒険譚にあこがれていたのだろう。カセドラルを出た直後は、何か冒険のような展開を期待していたけれど、現実はこんなにも地味で陰鬱な困難が待ち構えているのだと、自分と世界に対して薄暗い気持ちを抱きながらベッドに倒れ込んだ。

その日の夜。月明かりが部屋の窓ぎわを冷たく照らすような時間に、ひとつの物音が聞こえた。

「グラナイの嬢ちゃん、まだ起きてるかい。」

扉の外からだ。その小さく囁くような声からは扉の先にいる人物の見当がつかなかったので、私はその突然の来訪者に対し、少し警戒をしつつ答えた。

「は、はい。どちら様ですか…?私に何か?」
「あんた、中層に上がりたいんだってね。主人から聞いたんさ。アタシはグレル、この宿主の妻だよ。」

扉をゆっくりと開けると、そこには初老の女性が立っていた。くるぶしまで届きそうな長いスカートを履いていて、黒い髪に少しだけ混じるシルバーの毛が月光に照らされて光っている。その様子は、若い頃の彼女の美しさが滲み出しているようだった。グレルはゆっくりと部屋の中に入って扉を優しく閉めると、空いている椅子にそっと腰掛けた。

「さてと…」

無駄のない所作で、その長いスカートを整える。

「こんな夜遅くにごめんね。さっき旦那からここに泊まってる嬢ちゃんのことを聞いてね、もしかしたらこの情報が役にたつかと思って、こうして訪ねたのさ。にしても、どうして中層なんかに?カセドラルのお嬢ちゃん。」
「カセドラル…ど、どうしてそれを…?」

彼女は確かにカセドラルと言った。私は彼女にまだ名前すら口にしていない。

「そりゃあアンタ、その黒い服はカセドラルのものだからさ。あの紋章が無くたって、わかる人にはわかるものさ。それに、その綺麗で整った身なりをしてちゃ、同じ下層の”住民”には見えないさ。」

グレルは優しく言う。
血の繋がりも感じなければ、それを確かめるような過去もなかったが、グレルの声はまるで母親のような柔らかさがあった。
実際、カセドラルの統治が長く続き、平和な時代が訪れた今でも、ここ下層には、カセドラルという組織をよく思わない人間が少なくない。

「その格好で下層を過ごすつもりなら、少しは覚悟しないと。」
「…実は、長く下層に留まるつもりではないんです。グレルさん。」

中層のとあるエリアに行きたいことと、許可証を買うことができないという旨だけを伝えた。

「なるほど。つまり関所を超える必要があるのは今回の一回きりということね。それなら、下層に棲む一部のグラナイだけが使う、中層につながる裏道があるよ。そこは足場が悪くて、人間にはとてもじゃないが渡れないし、危険な場所だから通行人も少ない。」
「でも…それは正規の方法じゃあないんですよね。」
「…そうだね。もちろん、見つかればタダじゃ済まないだろうね。でも、グラナイが関所を通らずに中層へ渡るなら、これが一番確実な方法じゃないかね。…ふふ、信用できないかい?」

そう言うと、グレルの白いスカートのカーテンがもぞもぞと蠢いた。足でもなく、手でもない。それは人間の体の構造では不可能なほどなめらかに、おぞましく動いた。そして、座った椅子の下にぼとりと何かが落ちる音が響く。
それは月明かりに柔らかく照らされて、黒いウロコのような表面をあらわにした。

「グレル…さん…?」

「グラナイはどんどん数を減らしてる。こうして同じもの同士巡り会えたのだって、きっとアンドラの導きのおかげさ。なら、こうして助け合わないと罰当たりってもんだよ。」

尻尾。
私はここで初めて、目の前彼女が自分や先生と同じグラナイであることを認識した。
それはなぜか、シルバーの髪が光る彼女の頭部には、グラナイの象徴ともいえる角が一本もなかったからだった。ただ私は、なぜ角がないのかの理由を考える前に、新たな場所で、同じ種族に出会ったという事実にあてられた。それは、手で包んで氷を溶かすように、私の心に張られた警戒心をゆっくりと溶解させていく。
その体温は、私の知らないはずの母親の香りがした。
しかし、僅かな希望という光は、ときに虫の行き先を狂わせるということを、このときの私は知らなかった。


三日目。空模様はなんとも中途半端な曇天だった。いつもこの国全体を照らすような太陽は、すぐそこに手が届きそうな分厚い雲に隠れ、その光を以て輝く竜の遺骸もほとんど見えなくなっている。私はそんな天気に辟易しつつ宿を出た。いつもは空高く、気持ちよく響く鐘の音も、今日はこもるように不本意そうな音を響かせていた。
しばらく歩くとぽつりぽつりと水滴が分厚い雲の中から滴り落ち、やがて、街の景色すべてをじわりと滲ませるように雨が降り始めた。

少女は小走りになりながら、雨を凌げる場所を探す。遠くにうっすらと中層の橋が掛かっているのが見えた。この時にはもう、その灰色の景色にも似た、くすんだ期待を抱いてしまっていたに違いない。残りの金貨を稼ぐよりも早く、さらに多くの金貨を手にしたまま中層へ辿り着けるという期待と、裏道を通って目的地にたどり着くという、憧れていた本の中の冒険の香りを。

雨宿りをしに大橋の下を目指して走る。雨は次第に細かくなり、辺り一面に白く充満した。まるで雲の中に紛れ込んでしまったかのような、そんな霧に包まれた。その現象に一瞬足を止めた、その瞬間だった。
白く煙る霧雨の向こうに、淡く揺れる黒い影が見えたような気がした。そして、次に私が目にしたのは、さっきまで自分が立っていたはずの石橋の裏側・・だった。
ふと、雨を降らす分厚い雲と目があったような気がした。
私は、ただのひとつも声を発することもできないまま、海の中へと落ちていく。

その日、誰にも気づかれることもなく、一人の少女が姿を消した。ただ一匹の、空模様にくすんだオレンジ色の屋根からそれを見ていた一羽の黒い鳥を除いて。



そうして、橋の上で何者かに首を引かれ、暗く冷たい海に落ちて今に至る。
目が覚めると、私は両手と両足を縄のようなもので縛られ、薄暗くてゴツゴツとした場所に放置されていた。足元には色褪せたオレンジ色の瓦礫が並び、暗闇の中に、小さな動物の影が監視するかのように目を光らせていた。先程まで支配していた雨音はもうどこにもなく、今は際限なく打ち寄せる波の音だけが激しく反響している。幸いなことに怪我などを負った痛みなどはなく、ただ眠らされていただけのようだ。

どうやら私は、何者かに誘拐されたようだった。耳を塞がれているような、ぼわぼわと不明瞭な頭で周りを見渡す。
周りに人影はなく、ガラクタのようなものがいくつか置かれているみたいだった。遠くの方にはちらちらと明かりが明滅して見える。
両腕は動かないが、ひとまず命はある。そして、それは嬉しい反面、これから我が身に起ころうとしてる出来事に対して不親切だった。
なんとか手に巻かれた縄を解こうとするも、私の力ではなんとも無意味に終わった。とにかく脱出をしなければいけない。未だぼんやりとした頭で、光が差し込むような出口がどこかに無いか見渡し、同時に今自分がどこにいるのかを考える。そんな思考の邪魔をするかのように、不規則なリズムで打ち寄せる波の音を聞いていると、ひとつ、ある会話が脳裏に再生された。

カセドラルにいたとき、食堂にいた人が話していたことだ。一般的にその存在を認められていない、三層ある橋の下層のさらに下。人々には『ダンケルミア』と呼ばれ、疎まれる領域が存在するという話だった。
リュッケンハルトの言葉で「足場」を意味しているそこは、下層からもあぶれた犯罪者や浮浪者、捨てられた奴隷や娼婦などの行き場を失ったもの、表ではできない仕事を請ける者などが集まり、不当な商売や人身売買が行われているという、良くないものの掃き溜めと言われている。
そこは確かに、誰かの足場という呼ばれ方をするにふさわしい場所だった。
たちの悪いお伽噺か、子どもを怖がらせる類の寓話だと思っていた。だが、その話で語られていたものは何一つ脚色されることがないまま、こうして私の目の前に姿を表した今、それはすべて事実だと認めざるをえない。もし生きて帰ることができたのなら、それはまったくの事実だったと、言い伝えていくべきだろう。

兎にも角にも、私の置かれている状況は最悪だった。様々な思考が脳を通過しては結論に辿り着く前に消えていく。そんな私に希望を見せるように、遠くにちらちらと反射し、明滅する灯りが見えた。間もなくして、3つの足音を引き連れたその光は、私に希望を見せること無く、むしろ私の周りの暗闇に潜んでいた残酷な現実を見せつけるに至っていた。

湿度の高い暗闇から、話し声とともに3人ばかりの人影が姿を表す。2人の人間と、1人のグラナイ。人間のうち1人はカセドラルの中で見たことがあるような貴族らしい服を身に着けていて、もう片方の男は暗闇に溶けるように、いまだその輪郭を捉えられずにいた。背の高いグラナイの男は一言も喋らずに、一歩下がったところで様子を見ている。
気を失っているふりをして、息を殺すようにして様子を伺った。

ガサ…

1人の男が私の横に置かれていたガラクタの中から何かを引きずり出した。それ・・に巻き付いていた金属がジャラジャラと地面を打ち立てると、その衝撃でそれ以外のガラクタが崩れ落ちて砂埃が舞う。貴族のような男は心底嫌そうに舞い上がった埃を手で払って、そのガラクタだったものにランタンを向けた。少しだけ舞い上がった埃にランタンの灯りが乱反射し、周囲がぼんやりと明るくなる。
そしてキラッと、何かが光った。私はなるべく顔を見せないようにうつむいていたけれど、思わずその微かな閃光に目線を上げる。目線の先にはあまりに見慣れた一対の黒い角が、ランタンに照らされて力強く輝いていた。

男の手に掴まれていたのは、私よりも幼そうな1人の少女だった。手足と首を鎖で縛られ、その白かったであろう皮膚は黒くこけて、その様子は魂が抜かれているような、抜け殻のような感じだった。それでもなお、2つ頭部に光る角だけは褪せぬ輝きを放っている。
すると、その輪郭の見えない男はなにかギザギザと光る刃物のようなものを取り出し、その少女の角に当てた。それに呼応するかのように、耳を貫通して脳の内側で跳ね返るような甲高い悲鳴が、波の音を忘れさせるほどに反響した。その少女は必死にもがくように、振り払うように、体をつかんでいる手から自分自身を引き離そうと抵抗する。その悲痛な叫びに共鳴するかのように、繋がれた鎖が地面を打ち付ける金属音が辺り一帯にこだました。
想定外の抵抗に狼狽えて、少女をつかんでいた貴族の男は咄嗟に手を放す。その様子を見かねたのか、後ろに控えていたグラナイの男が何かを手にとり、その少女の抵抗の意志を裁ち切るかのように、ドスッという鈍い音を響かせた。

男は、再びぐったりとした角の持ち主を引きずり出し、何か四角い箱のようなものに詰めると、また何かを話しながら何処かへ去っていった。その言語はどうやらリュッケンハルトのものではないらしく、最後まで何を話しているのかわからなかったけれど、いくつか聞き分けることができた単語からは、次は自分の番だということだけは理解できてしまった。

あの男たちの目的はたぶん、グラナイの角だ。私たちグラナイに生えるこの黒い角には、様々な「使い道」がある。主な使い道のひとつが、魔導具を作るときの素材だ。魔術との親和性の高いグラナイの角は、最高の素材になる。
ただ、成長したグラナイから硬質な角を採集するのは至難の技だ。グラナイという種族は一般的に寿命は人間に比べて短いものの、動きが素早く、力も人間の数倍はあるということが知られている。このグラナイ特有の能力は、成人になっていくにつれて完全なものになっていく。この角を専門知識無く切除するには、未だその力を使えない子供の、未発達でやわらかい角が最適だった。それ故に、希少価値の高いこれには相応の買い手が付く。例えそれがどんな方法で採集されたものだろうと、手にしたいと思う輩は少なくなかった。

悲鳴は消え、先程まで支配していた声は遠くなって、波の音だけが無神経に響きだした。今度こそ私の周囲には、人影1つ無くなった。呼吸は打ち寄せる波のように不規則で、私は開いた口を塞ぐことも、呼吸を正すこともできなくなった。足がすくんで動けないことも、縛られた手にはもう力が入らないことも、恐怖と暗闇に声が出ないことも、自分に抵抗する強さがないことも、何もかも自分の意志に従わないことは試さなくてもわかった。ただ一つ、涙だけが私の意思に呼応しているようだった。

そうか、さっきの子もこうなってしまったのかと、改めて自分の置かれている状況を別の私が俯瞰する。それには気づかなかったほうが幸せだったと思ったし、そう気づくのも遅すぎた。
もしかしたら、連れられた先で脱出できるかもしれないと、せめて痛く苦しまないように、少しでも従順でいようと、消えかけの蝋燭の火みたいに諦めの悪い諦めを抱いた。その虚ろな目の先には、1人の無邪気な顔が思い出されていた。

そうしてすぐに、私の順番が回ってきた。
さっきの3人はまた何かを話しながら私の前に立つ。グラナイの男が縛り付けられた私の腕を引っ張るように持ち上げると、布でできた袋が私の体からゴトッと床に落ちた。貴族のような男はそれを汚いものでもつまむように拾い上げてから、私の体のあちこちを嫌な視線で見回した。
その後は、気持ちの悪い笑みを浮かべては、無抵抗な私の体を隅々まで調べていった。目が覚めたとき、私に新しい傷がなかったのはそうゆう理由かと変に納得した。角を失ったグラナイは、言ってしまえば頑丈な人間だった。

そうしてその貴族のような男は一通り私の身体を調べ終わると、満足したかのように後ろに控えていた男に合図する。そして、輪郭の見えない男は先程の少女と同じように私を掴み、私の角に刃を当てた。私は目をつむり、歯を食いしばりながら、自然と彼女に別れを告げたときの景色を回想した。あのときの別れと同じ痛みを覚悟する。治してもらったこの体も、この角も、私の意志も。こんなところで、こんな奴らに奪われてしまうことが、彼女にも、あの日の自分にも申し訳なくて、私から永遠にそれが失われることが怖くて、私の体は動かすことも、声を上げることも叶わず、小刻みに涙を流しながら震えていた。

すると突然、後ろに下がってそれを見ていた貴族の男は、何か衝動に突き動かされたように焦った声で「待て」と命じると、その手におもむろに握られていた袋の中から、ある一冊の本を取り出して、そのページをめくろうとしていた。
その光景を見た私の中に、赤く光る熱を持った鉄芯に似た感情が現れる。
それだけは、それだけは。

「それ だけは…やめ て」

言葉が貴族の男に届くこともなく、その本のページがめくられようとした、その瞬間だった。


眼の前が突然、赤黒く染まる。
その水飛沫は、飛び散るその経過を見せることなく、最初からそこにあったとでも錯覚するように周囲に小さなシミを作り出していた。一瞬という言葉も生ぬるい時間が過ぎた今、その赤い水滴は、四方に形成された血溜まりを広げるように、ぽつりぽつりと天井から滴り落ちている。
はじめはその光景があまりに唐突で、これは自分をコントロールできなくなった私の幻覚か何かだと思っていた。いや、そうであってほしいと思った。天井から滴るその音は、時計の針のように、次第に私とその空間に時間の経過と、これが現実であることを思い出させる。

「ぁ…」

声を漏らす私の視線の先には、黒い血溜まりの中になお黒く佇む、1人の男の姿があった。その頭部には怪しく光る漆黒の角が一対、持ち手を失って床に落ちて砕けたランタンに照らされて煌めいていた。

私が覚悟していた悪夢は突然にして、全てを省略したかのように音もなく結末を迎えた。視線を動かすことすら叶わない、もはや時間とも呼べるかわかも怪しいような一瞬。私は決してその瞬間、瞬きなどしていなかった。それは本能のようで、ここで瞬きをすれば二度とその目を開けることができないと直感したからだ。

そうしてその劇の一幕は、3人の男の降板という形で終わりを迎えた。唐突に私の目の前に突きつけられたひとつの悲劇は、自分の身長の2倍ほどもある槍と本を持って立つ、見慣れた黒衣とエムブレムを纏った1人のグラナイの手によって幕を閉じたのだった。

少女の前にあった人間だったものは、どれも一筋の薙ぎによって切断され、9つの塊に成り果てていた。1人は縦に3分割、1人は横に3分割、そして最後の1人は腕を切断された後、その心臓を胴体ごと消滅させるように弾き飛ばされていた。それを瞬きほどの時間も要せずに完了させる妙技は、もはや時間を操るような一撃だった。


私はその光景を見て、積み上がったガラクタを崩しながら後退りするように倒れる。それから、その突きつけられた結末を理解するのに少しの時間を有した。その間、口も目も開けたまま閉じられず、喉はきつく恐縮し、声も呼吸も怯えて身体の中に閉じこもってしまった。
先程までとは比べ物にならない恐怖が、少しでもその状況を理解しようとあちこちへ飛んでいく視界を狭めていく。目の前に広がる血溜まりに3回ほど血が滴り落ちたところで、ようやく喉が開き、息と声が漏れ出る。
といっても、口から出た声は嗚咽混じりの悲鳴となにも変わらないものだった。
そのグラナイの男は私のほうに一度も顔を見せず、崩れた肉の中からいくつかの金貨と、手に持っていた本を袋の中に戻し、その袋ごと私の目の前に投げ捨てた。

「…二度と手放すな。さっさと逃げろ。」

そう言ってその黒衣共々、暗闇の奥に溶け込んで消えていった。
実を言えば、そのあたりの出来事を私はあまり覚えていない。感情の濁流に精神が耐えられなかったのか、致死量の恐怖に脳が焼き切れたのか定かではない。最後に見せられた顛末は、そこまで私を染めていた絶望と恐怖を一瞬にして赤黒く上塗りした。

私は呼吸の仕方を思い出すよりも先に逃げ出した。逃げろと言われたことは聞こえてはいても、もうその言葉の意味を考えることなど出来はしなかった。



私は頭に生えるそれを隠すようにフードを深く被り、呼吸を整えることなく街を抜けていく。いつもは人で賑わう大通りも、この日ばかりは騒がしさの主導権を雨に譲り渡していた。水の滴は次第に私の視界をも奪っていき、石畳に穴を開けようとしているかのように強くなっていた。足はもつれ何度もつまずきそうになりながらも、もがくように、振り払うように走った。

どのくらい走ったのかはわからない。雨は目に映る景色を均一化させて、ここが何処なのか、今がいつなのかも分からなくさせていた。
それからいくつかの橋を超えて、ようやく私は立ち止まる。息を整えようと下を向いた瞬間、あの光景が断片的に脳を焼き、思わず内にあるものを吐き出してしまった。もう二度と思い出さないように、あの強烈な記憶をも吐き出してしまうかのように。
雨はすべての音と景色をかき消し、そして何も無かったかのように洗い流す。そうして私は思い知った。自分と、自分の手に握られているものの価値の重さを。

私は大雨の中、しばらくこの雨をしのげる場所を無心で探した。探しているつもりなのに、目の焦点はどこにも合わなかった。ペルナスクだった雨は次第に強くなって、もはや自分がどの方向に進んでいるのかさえ分からないほどの大雨になった。最後の力を振り絞り、目の前にあった建物に倒れ込むようにしてその悪夢から逃げ切った。

その中は仄暗く、しばらく使われていないような場所だった。ここまで無心に逃げてきた疲労が一気に押し寄せる。その場にべたりと腰をおろし、しばらく放心状態で、外で激しく叩きつける雨の音に耳と心を預けていた。私を打ち付けていた雨はそのあと、重さと寒さになって私に張り付いている。髪の毛からぽつりぽつりと雫が滴り落ちていく。

しばらくすると、入った建物の奥から足音とともに誰かが近づいてきた。


「おいアンタ、大丈夫かよ。…って、何だとんでもねえ顔してんな。」

私はとっさに、怯えるように後ろの壁に背中を預けた。今は、自分以外のすべての生物が恐ろしかった。

「別になんにもしないって、オレからしちゃあグラナイのアンタのほうがよっぽどおっかねえんだ。」

私に向けらたその声は、炎ほどでは無いが、太陽から落ちる陽のような暖かみがあった。目の前にいたのは、頭に黒い角の生えていない、私と同じくらいの年齢の人間の青年だった。
手に抱えている箱には大きな魚の一部に見える何かと、黄金色の液体が入った瓶が入っていた。その少年は続けざまに、遠慮なんて知らないような感じで話しかけてくる。

「てか、こんなとこで何してんだよ。雨宿りにしちゃあ何か様子がおかしいし、血もついてるし…グラナイは雨が苦手だっていうけど、本当なのか?」
「…」
「変なヤツだな…黒い服着たグラナイってだけでちょっと変だってのに。ま、オレも雨は苦手なんだけどな。」

そうして、近くとも遠くともない絶妙な距離に腰を下ろすと、そこからはただ雨の音が屋根を打ち付ける音と、橋の上を小川のように流れる水流の音だけが空間を支配していた。この暖かさと静寂が、今の私にとっては何よりの特効薬だった。


「…私…中層に行こうとして、それで…」

少しして、私はようやく口を開いた。声の出し方を思い出したかのような声で。青年は私が反応したのを見て、驚くような顔をしたが、すぐに無邪気な顔で笑った。そして、どこかで一度見たような眩しさを滲ませながら言う。

「中層?もしかして、許可証もないのに無理やり通ろうとして、カセドラルのガードにでもやられたんだろ。絶賛指名手配犯って感じ?」

不正解だが、外れてはいない。
「ぜ、ぜんぜんそんなんじゃな…」
「はは、隠そうとしなくても、逃げてきたことくらいその死にそうな顔見たらわかる。その血もカセドラルのガードとかから無理やり逃げてきた時につけられたんだろ。」

そう言うと、さらに反論しようとした私を手で制するようなポーズをとった。そのまま、持っていた木箱の中から黄金色の液体の入った瓶を取り出し、私の隣に位置を変えて座り直した。
ふわりと、かすかに甘い香りがした。

「ま、言えない事情なんて誰にでもあるもんだから気にすんなよ。それよりこれ、めちゃくちゃ高価なやつなんだけど、ちょっと舐めてみろよ。何があったかしらねえけどさ、きっと疲れてんだろ。甘くて少しは気持ちが楽になるから。」

蓋をあけると、甘いような渋いような、なんだか変な匂いがふんわりと漂った。

「本当は別の使い道でお使いを頼まれたんだけど、まあこんくらい少なかったらバレないだろ。これでオレにも、あのおっさんに言えない事情が出来たってことだしな。」

青年は少し照れたような顔をしながら、その瓶を手渡してきた。その指先は寒さからか、少しだけ震えているように見えた。

私はその黄金色の中身を少しだけ手に取り、それを口に含んだ。喉にちょっと渋さが残るような不思議な甘さで、その甘さという突然の味覚に思わず目を見開く。その様子を見てその青年はまた、ふわっと暖かくなるような顔で笑った。彼が言った通り、張り詰めていた心と身体が少しずつほぐれていく。

「あ、ありがとう…」
「ん?ああ。礼なんていいよ。それでも礼がしたいってんなら、まぁまたどこかであった時にしてくれればいいさ。」

そして、その少年とふたりきりの空間で、少しばかりのぎこちない会話が続いた。私がさっきまで失っていた声をその少年と話すことで取り戻したことに、私自身はこの時気づくことは無かった。
ただ、その少年とは最後まで目が合わなかったことだけが心残りだった。

「それで、アンタこのあとどうすんだ?」
「私、中層に大事な用あって…」
「中層?そういやそんな話だったな。実は、オレもこの後中層に戻る予定なんだ。雨はあんなに穏やかだったのに突然ルサルカになっちまって…もっと早く戻る予定だったのに寄り道してたから、あのおっさんも怒ってそうだな…」

そう言って、その青年は首にかけていたものを服の下から出して見せてきた。その金属片は、私が全財産を叩いてもなお半分にしかならず、諦めてしまったものだった。

「この許可証は1枚につき2人までなら通れるんだよ。中層には学校とか工房があるから、きっと連れの子どもや弟子なんかが一緒に立ち入るための制度なんだろうけどな。そうだな…グラナイと人間が兄妹ってのは無理があるし、仕方ないから、オレがアンタを弟子ってテイで連れて行ってやる。」

脳が現状の理解を拒んでいるみたいだった。これまで感じた不幸に手を引かれているようで、こんな幸運は罰当たりに感じてしまう。ただ、それは願ってもない言葉だった。私は目の前に現れたその青年が救世主に見えるほどに、精神を摩耗していた。私は藁にもすがるように、ありがとうと振り絞るような声でそう言って、その青年に抱きつく。きっと、無害な誰かの暖かさが私には恋しかったのだと思う。
私の顔には、雨なのか涙なのかわからない雫が伝っていた。それを受けてその青年は私を引き離すように暴れたあと、「なにすんだこの竜女!礼は3倍だかんな!!」と言い残して私の横から立ち上がって離れていった。それからは会話も無く、なんだかちょっと気まずい時間が流れた。

それから、座っていた部分がじりじりと痛くなるような時間が経ち、私と青年がいた空間に小窓からゆっくりと光が差し込んできた。私が入ってきた建物はどうやら小さな教会のようで、その窓から光が斜めに差し込む様子は伝説の物語の一幕のような神々しさがあった。私は先に扉を開け、外へ出る。

その眩しさに一瞬だけ目がくらむ。「ルサルカ」と呼ばれる大雨はもうすっかり上がっていた。空を覆うような分厚い雲は無く、石畳に残った水たまりにはオレンジ色の屋根と、青く抜けるような空色が写り込んでいた。

雨上がりの水たまりを何度も踏みしめながら、青年とひとりの"弟子"は中層へ上がる関所を通る。
今朝までは思いもよらないような、夢のような瞬間だった。そこは先程までいた下層とは、全く別の世界に見えた。ただ1つ、橋に打ち付ける波の音だけは変わらない。そう思うと心の何処かで安心したのか、ようやく大きな呼吸をすることができた。

その少年曰く、関所や役場に配置されるのはカセドラル内で働くことが出来なかった人間達で、そういう場所には、人間自体をはじき、グラナイのみで構成するカセドラルという制度に不満を持っている人間が少なからずいるらしい。
私の着ている黒いロープは、胸に示された紋章がなくともカセドラルのものだと判別できる。中層行きの許可証の価格が跳ね上がっていたのは多分、カセドラルのグラナイだとわかるや否や、憂さ晴らしに嫌がらせをしただけだろうと、その青年は言った。

青年とは関所から少し離れたところで別れることになった。結局最後まで、互いに名前を言うことも聞くこともなかったが、この方法で中層へ渡った以上、彼と私の師弟関係はまだ無くすわけにはいかない。そうして私は、最後の関門を突破する。
ここまで来ればもう目的地は目の前だ。


その工房は、西地区にふさわしい古臭さを漂わせながら、ひっそりと佇んでいた。その看板を見て、私はようやく辿り着いたのだと、胸の鼓動を加速させていた。今回ばかりはそれを抑えること無く、正直に従うように呼吸を整える。
そうして、その建付けの悪い扉を開く。いつかの塔を開けたときと同じように、そのわずかに開いた中から、古い紙のような香りが私の前を抜けていった。

「ごめんください…」

店の扉がガラン、と心地いい軽快な音を立てて開く。自然とそこにいた3人の男が私に目を向けた。





その場にいた3人全員が、一斉に不思議そうな顔をした。
そこに立っていたのは、この場所にあまりふさわしくない1人の少女だった。
私が驚いたのは、この歳の娘に本が読めるとは思えなかったからだ。リュッケンハルトにはカセドラルが支援、半ば管理している学校がいくつかあると聞く。文字の読み書き程度までを学ばせるために学校へ通わせるのは、特別難しいことではないだろう。だけど、本を読むとなると話は別だ。日常的に使うことのない単語や文字で溢れていて、ほぼ別の言語で読んでいるのと変わらない。
しかも、よりにもよってその少女が持っていた本は紛れもなく、この場所にふさわしい・・・・・モノだった。

小柄な少女はやや神妙な面持ちで、さっきまで私が立っていた受付カウンターに進んでいく。その様子を、店主は驚きつつも、私とはやや違うような様子でそれを見ていた。
そうして、その少女は手に持っていた魔導書をカウンターに置き、他の客と変わらぬように注文を始める。その様子を、私ともう一人の客である口の悪い魔術師は、何かの演劇を見るかのような真剣な表情で一言も発せずに見ていた。
その少女は、そうしてこの場所にはあまりに不釣り合いな、可愛らしくも凛とした声で切り出した。

「この本の、写本を作ってはくれませんか。」




『この本の、写本を作ってはくれませんか。』

カウンターには、ボロボロの魔導書がひとつ置かれている。

私の身長の2倍はありそうな大きさの店主は驚いたようで、しかし私を侮ること無く、普段のような丁寧な対応をした。

「お嬢ちゃん、それは構わないが、その魔導書のグリモワールを作るとなるとかなりの金額になる。きみがそれを用意できるというなら、もちろん一人のお客様として、その仕事を請けてやっても良い。」
「いくらになるんですか…」
「魔導書を一冊全てとなると、金貨にして100枚だな。」

金貨100枚。それはあまりに途方もない数字だった。許可証の金貨5枚で心が折れた私には、どうしても払いきれない額だった。ここにたどり着くまでがゴールだと思って、いくつかの障害を超えてきたようなものだったが、最後のゴールが最も高い障壁となって、私のすべてを否定するかの如く立ちはだかった。
おそらく、この魔導書の価値は私よりも重い。

「そんな…そんな大金は持っていません…」

私は多少の差額なら稼いで出直すつもりでいた。しかし、提示された額はその覚悟を余裕で踏み抜けていくようで、そのゴール地点は私の遥か先に逃げて見えなくなった。

「この金額が払えないなら、その相談は乗れない。」

その声は、いつかのシュヴァンのような鉄の冷たさを感じさせた。
店主はそう言って踵を返し、カウンターの奥に戻ろうとしていた。その大きな背中にしがみつくような声で、私は必死に叫ぶ。

「なら、私を弟子にしてください!お金で払えない額なら、自分で直すための技術を私に教えてください!」

その場に居合わせた誰もが、巨石を小鳥が押そうとしているかのような、無謀な言葉に感じただろう。
ただ、その店主は立ち止まって後ろを向いたままそれを聞いていた。そして少しの時間考えたあと、その背中越しに、審判のような1つの問いかけを投げかけた。それはもはや、客に対して行うような質問ではない。私はもう既に、客ではなくなっていた。
既に、あるいははじめから。

「1つ、1つだけ質問だ。その魔導書はお前にとって何だ。なんでそこまでして写本を…この魔導書を修復しようとする。」

その男は、初めからすべて理解していたかのように、鏡のような命題を私に問うた。私がここに来ることも、こうしてその問いに答えるため、ここに立っていることも。

私は私のことについて、何も答えることができない。だけど、その質問にだけは明確な答えを持っていた。この本にどんなに振り回されようと、それが私をこの場所まで導いたことに変わりはなかったのだ。これがもたらす結末やその道程がどんなものであろうとも、私にとってその本がもつ役割は決して変わらない。そうして、わたしはその問いかけに、自分自身に何度も語り聞かせるように答える。


「この魔導書は、私が海を彷徨っているときに隣にあっただけのものです。それ以上でも、それ以下でもありません。
…でも、記憶すら無くしてしまった私の隣にあったのは、この本だけでした。私の手にはもう、少しの金貨と名前、そしてこの本しか残っていません。私はただ、知りたいんです。この本が伝えようとした何かを。」


店主が振り返る。その瞳は、これまで私に向けられたものとは違う色をしていた。
その工房の中に、埃を光に変えるような柔らかい陽が落ちた。

「だから、この本は私なんです。私を、私が知るための…」

その店主は表情を変えずに、その答えを最後まで聞き届けた。
その少女の身体から発せられた静かなる気迫に気圧されるように、その場でしばらく考え込む。そうしてしばらくの沈黙が続いた後、なにかを諦めるように、深く深くため息をついた。

「………わかった、良いだろう。」

ふわりと、胸の内側がほころぶ。そんな私に釘を刺すように、店主は言葉を続けた。

「但し、3つ条件がある。ひとつ、今持っている金貨をすべて払うこと。2つ、その本は最後まで自力で修復すること。3つ、この工房で働くこと。それが出来なければすぐに追い出す。」

その店主はそう言って腕を組んで目を閉じ、後ろの本棚にもたれかかった。
そして片目だけ開け、いたずらに眉を上げるように話す。

「何か質問は?」


まるで蕾がようやく花を咲かせたように、じわっとその嬉しさを滲ませた。何度も頭を下げるように、ありがとうございますと口にしながら。
その工房の中に風は吹いていなかったが、それでも背中から、突き抜ける初夏の海風のように爽やかで温かい風を感じた。
顔をあげ、1つだけ尋ねなければならない質問を思い出す。

「あの、店主さん。店主さんの名前は…」

これまで、少し似合わないような透かした顔をしていたその店主のぽかんと抜けた顔に、横にいた魔術師の男が大笑いする。
そして、店主はその魔術師を睨みつけるような視線を飛ばした後、やや恥ずかしそうに咳払いして、明朗な口調で答える。

「俺の名前はバーレ。バーレ・オズヴァルト。そういうお嬢ちゃんの名前は?」

店主はそうして、私の顔ほどもあるその大きな手を差し出した。
私は髪に差した純白のリリウムの髪飾りのような満々の笑みで答える。

「わたしの名前はリリーフォリア。リルと呼んでください!」

そうして、店主の無骨な手と、少女の柔らかな手がカウンターに置かれた一冊の魔導書越しに交わされる。
その日、リュッケンハルト最後の魔導書工房は、似つかわしくない新しい香りで満ちていた。


Avant 完


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