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【映画の話】花束みたいな恋をした

映画を観終わって、
「この気持ちを上書きしたくない。」
劇中のそんなセリフのことを思い出しながら書き綴っている。

公開中の映画や、絶賛されている作品について普段はあまり文章に書き起こしたいと思うことがない。
それは公開中の作品について書いている人は多く、他の文章と誰かに見比べられてしまうのではないかという勝手な不安が巻き起こるからなのだ。だけどこの映画については何か書かないといけないような使命感を勝手に感じている。

最初に言っておきます。ちょーっと長いです。

2021年1月29日公開された坂元裕二初のオリジナル脚本映画作品。坂元裕二作品といえば『Mother』や『最高の離婚』、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』『カルテット』など挙げればキリがないほど、数々の話題のドラマを手掛けてきた、その名前だけで視聴率の取れる数少ない脚本家です。
監督は土井裕泰。『逃げるは恥だか役に立つ』や『ビリギャル』、昨年大きな話題にもなった映画『罪の声』など数々の話題作の監督や演出も務め、坂元裕二脚本作品の『カルテット』ではチーフプロデューサーも務めている。
そんなタッグで製作された今作は菅田将暉演じる山音麦と、有村架純演じる八谷絹の2人の20代のファミレスのドリンクバーで始めた恋の始まりから終わりまでを繊細に、丁寧に描いた作品となっている。

まずは、2019年10月30日に製作発表された時からずっと待っていたので、無事公開されたことが今とても嬉しいです。
あれから1年以上の月日が経って、こんな世の中になるとは誰も予想することは出来なかった。

時折過去を振り返ると、あっという間に感じてしまうことがあるが、その時間は誰にとっても同じように流れ、その時間の中で多くの人が様々な体験をし、それぞれの感情や言葉を持ち、それぞれに成長したり怠けたりする。

映画というのは約2時間の中で物語が展開していく。何十年もの歳月を描いたものからひと夏のことまで。
この映画では2015年の冬から2019年の冬までの2人が過ごした4年間が描かれている。
たった数十分の間に過ぎていく数年という時間の中には映しきれない様々な出来事があったことを、それぞれの心の記憶で補完しながら見る必要性があるように感じた。

ここからは内容に触れながら感想を書いていきます。

「クロノスタシスって知ってる?」

2人が出会う2015年に学年は違うものの21歳だった自分にとっては同世代として、作品の中に抱えきれないほどの情報量があった。2人が初めて出会う時の服装や前髪の少し長い髪型など、当時のその年齢の少年少女像がリアルに描かれていた。
きのこ帝国の「クロノスタシス」を歌いながら帰る夜道、完全な個人的趣味の映画制作、ceroの高城さんの経営する阿佐ヶ谷にあるお店Roji…、音楽や映画などのカルチャーを愛してきた人間にとっては作品に映る過剰なほどの情報量がノイズにもなり得るこのポイントを映画を観たどれほどの人が拾い集められたのだろう。カラオケで「クロノスタシス」を歌うシーンで、どれほどの人が"クロノスタシスだ!"となったのだろう。
いちいち知ってるタイトルや名前が出るたびにそれに付随する自分の思い出と照らし合わせてしまっている自分がいて、作品を見る上では若干のノイズにもなっていたが、それゆえ彼らの物語が自分たちと地続きであることをより実感することができた。

続くはずのない永遠

個人的なこととして、映画のように19歳から24歳までの5年間を恋人と暮らした過去がある。
休みの日の地元のパン屋さん、コンビニのコーヒーを飲みながら他愛もない話をして歩く帰り道、休日をベッドの上で過ごす1日。どれも知ってる風景、知ってる感覚。些細な瞬間のやり取りに古い記憶を掘り起こされた人も多いのではないだろうか。
2人はきっとこの瞬間に安心と永遠を感じたのだろう。永遠を感じる瞬間ってどうしてあんなにもドキドキするのでしょうね。
坂元裕二の描く脚本では時折僕らの生活に存在する永遠を感じる瞬間が登場するように思います。『最高の離婚』の最終回で2人が出会った時と同じように新横浜から中目黒の自宅まで歩くシーン。夜中の街を歩いてる時、不思議と世界に自分たちだけのような気分になりますね。

続くはずのない永遠に想いを馳せ、2人が目指した"現状維持"、その言葉の無邪気さがこの先の2人を予感させて寂しい気持ちになった。
この感覚は『ソラニン』を観た時にも感じた気持ちで、同じ多摩川沿いに住む2人を描いた作品としてそれぞれの結末の選択は違うものの地続きの作品にも感じた。
両作品とも大学生の頃に出会い、同棲し、社会に出ていく話なので2つの作品を見比べることでまた見えてくるものがある。


また、就活のシーンでは主演の2人が共演した朝井リョウ原作の『何者』を思い出した。
『何者』の物語では主人公が就活や就職というゴールに対して、自分なりの答えを見出していく結末ではあったが、今作では見事にその就活というシステムに翻弄されていく。
この就職して社会に出ていくパートの描き方には現代の社会の暗部が描かれていて、こういった恋愛をメインに売り出した作品にもしっかりと社会を描くことで、作品の繊細さと意義を強く感じることができる。

「パズドラしかやる気がしない」

坂元裕二が生み出してきた台詞の中でも相当最強クラスの台詞がまた生まれた。
これは仕事の忙しさ、生きることに追われた人が一度は体験してしまう感覚かもしれない。映画や音楽や本が好きだった頃のことは覚えているのに、自分のことのようには感じられなくなってしまう。映画を見る2時間を映画のために使えなくなったり、どこにいても仕事のことを考えてしまう。多くの人が趣味を失ってしまうこの国の暗部を覗かせる。カルチャーの敗北である。

また、絹が好きだったブロガーの人が自殺してしまう。いまの若者は死やメンタルヘルスとの距離感がすごく近い。そんなことも描かれていたように感じた。

"普通"に生きることって、こんなにも難しい。

山音麦と八谷絹

新潟の長岡から上京してきて、自分の憧れだったカルチャー溢れる街、東京に来て自分で好きなものを選んで生活できる環境を手にして充実感に溢れながら自分の夢見るイラストレーターを目指していた山音麦。
一方で八谷絹は東京にある実家で暮らし、両親ともに広告代理店で働く業界の人間。その姿を幼い頃から見てきた絹にとっては、業界で働くことに夢や憧れはなく、ただ自分の好きなものを趣味として愛していたい気持ちが強いように感じた。

2人は趣味の一致により運命のように惹かれあってはいくが、育った環境や価値観は初めから大きく違っていたことに途中から気付かされていく。カルチャーとの距離感、熱量の向き方の違いが徐々に浮き彫りになっていく。
その1つの大きなポイントとして麦はイラストを描き、職業としてひとつのプロフェッショナルとして人生をかけて自分の好きなものと向き合っていた。ただの趣味や好きという気持ちを越えた、必要以上に強い憧れがあった。
だからこそイラストレーターとしての現実を知ったあのメッセージから完全に心が死んでしまった。
「就活するよ」と言ったあの笑顔の中でこれまでの麦は死んでしまった。100か0の選択しかできない麦は、"絹といる"という残された選択だけを必死に守るために生きることになる。
一方で絹はそもそも初めから憧れや人生を賭けるほどの強い思いはなく、割り切った距離感で休日に楽しむ自分の趣味のために平日は仕事をして、そんな人生を選んでいた。
そして、徐々に2人はお互いにそのことに気付けずジリジリと生活の中で深い溝を生んでいく。
最終的に絹はイベント会社で仕事をすることになり、そのことが麦の心にひとつの闇を生み、麦にとって完全に心の終了を迎えてしまう。

個人的な考察として、山音麦は"男らしさ"や"男が支えるべき"といった日本の昔からある"男性大黒柱主義(勝手に作った言葉)"の被害者の1人だと感じた。
「自分が頑張らなきゃ」という誰に言われたでもないプレッシャーを勝手に背負い、最終的に「自分ばかりが頑張ってる」などという謎の苛立ちをその相手にぶつけ始める。極めて不可解だが、これは日本中見ても様々なところで見る光景だと思う。
2人で生きていくってことが、"2人で生きていく"っていうことだとちゃんと気付ければ。
この映画を観て気付ける人も多いのではないだろうか。

ファミレスで始めた恋の終わり

ジリジリと2人が終わりに向かっていくシーンは終始辛かった。それほどに背景に見える"別れ"を意識したリアルな演出が効いていた。
お葬式の日に"どうでもよかった"と2人の中で何かが完全に終わって、結婚式の日にそれを終わらせようと決めた。
式というのは1つの形式で、本来は"人のことを思う"ためのものである。だからこそ2人にとっては考える機会が与えられた、そんなきっかけになったのだろうと感じた。
そして2人は走馬灯のような1日を過ごし、出会った頃のようにファミレスへ向かう。ファミレスのドリンクバーで始めた恋を、ファミレスで終わらせる。
席に着く2人は何気なくスマートフォンで写真を振り返りながら「楽しかったね」と言い合うが、今日1日に対して言ったはずの言葉が徐々に2人が過ごしてきた4年間に対しての言葉にすり替わっていく瞬間が切なかった。
スマートフォンの中にはこれまでのたくさんの写真が残っていて、それを見せ合うが、その時の感覚や瞬間は残っていない。空っぽの感想を言い合う2人に、"あの頃"の自分たちと似た2人が昔自分たちがいつも座っていた席に座る。
あそこであの席に座れなかった演出がこんな展開になるとは思ってなかった。
2人が語らずとも、これほど残酷にはっきりと彼らの終わりを見せつける演出に度肝を抜かれて完全に号泣してしまいました。

もうどうにもならないことに気付いていながら必死になって"プロポーズ"という手段を使って繋ぎ止めようとする麦の心情はとても苦しかった。
『最高の離婚』で光生が、家を出て行った結夏のいつも座っている席に向かって1人で語りかけるシーンを思い出した。
きっとあの瞬間、麦も同じように1人だった。
2人が大袈裟に泣き崩れたりせず、絹がファミレスから飛び出す演出のリアルさに涙は止まらなかったし、追いかけて後ろから抱き締める麦の姿に本当の愛を感じた。あと店員さん困ってるだろうなとも思った。

愛も恋も人生の一部分である

この映画が素晴らしいのはここで終わらないことにある。この映画には2人が別れた後、家を出ていくまでの数ヶ月一緒に生活を共にする恋愛のエンドロールの向こう側がある。
僕らの恋愛にはエンドロールもスタッフロールも流れない。ヒゲダンが歌うエンディングソングも流れない。ちょっと見てみたい気もするけど。
あくまで冷静に普通に、終わる。連絡先を消したり、一緒に撮った写真を消したり、貰ったものをメルカリに出品したり、鍵を返したり、住所変更したり、そんな風に終わる。
この2人が羨ましいのは終わった後に「実は浮気したことあるでしょ?」とか聞き合える、そんな関係ちょっと羨ましいと思ってしまった。
恋愛映画では恋愛が終わった後は突然1人になって、"また始めよう!"みたいな展開で終わるのが定番で、まるでその映画の内容全てが人生の全てかのような錯覚になる。

でも人生にとって恋愛は本当にささやかなものなのだ。
人によって、色んな形はあるとは思うがそれが人生を決めてしまう全てではない。だけどささやかでも、劇中で語っていたように"宝物"であると僕も思います。
この映画を観て、色んなことを思い出せる"別れ"が自分にあってよかったなと映画を観終わった今、深く感じました。

そして最後の麦の表情が大好きです。
Googleマップで自分たちを見つけた時の顔はまるで"あの頃"のようで、きっと麦はこれから大丈夫だと安心した。

まとめ

とても普遍的で、誰でも1つは持ってそうなそんな作品だと思った。
"恋愛映画"として話題になる作品で、就活、人脈、仕事、家族、自殺、メンタルヘルスと現代の若者が対面する距離感の近い出来事を描いていることにとても意味があると感じた。

"花束みたいな恋"とはなんだろうと、映画を観ている最中もずっと考えていたが、
"最初は綺麗に咲いていても、いずれは必ず枯れてしまう"というそんな安易なタイトルなのかなあ…と思う答えしか浮かばず、自分の人生でその本当の意味にいつか出会えるのか。そんなことを考えて生きていきたい。
そしてあなたの恋の話が聞きたいです。
恋は1人に1つずつ、そのセリフがこの恋を包み込んでいた。

最後に劇中の2人を意識したイメージプレイリストを作りました。
なんとなくこんなの聴いてそうという曲を集めました。
あー、いい映画だった!


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