トガノハ 第一話

 短針が時を刻む。
 一秒、また一秒と時を刻む。
 時刻は一二時半を指し示し、本来なら相応の賑わいを見せる平日の帝国銀行港谷支部はしかし、現在は病的なまでの静寂に包まれていた。
 ニ〇周年を記念して購入した置き時計には血痕が付着し、それはデスクを通じて地面に横たわる男性への意識を否応なしに集める。仰向けの男性は絶望と痛苦に表情を歪め、背中には球体の物体によると思われる不自然な凹みが伺えた。
 入口や窓は例外なくシャッターで閉じられ、外界から遮断された様は一見すれば閉店を連想させる。
 しかし隅へ追いやられ、一纏めにされた人々の中には制服に身を包んだ行員だけではない。凡そ二〇人はくだらない私服の人物──不幸にも銀行強盗と居合わせた哀れな客も含まれていた。
 デスクの上に陣取り、飢えた獣の如き烈火の表情で彼らを睥睨するは、異様な姿の男。
 顔に皺はなく、身に纏う学生服は近隣の中学で採用されたものである。しかし前は一切閉じられず、内に眠る部活で鍛えられた腹筋が誇らしげに存在を主張する。そして黒の上には赤い斑の汚れが乗っていた。
 そして心臓付近には漆黒の杭が身体を貫き、手首足首には学生にあるまじき錠と鎖が地面を擦る。錠に縛られた腕は鬱血したかのように漆黒に染まり、鎖の先には行動を戒める鉄球が続く。三つの屍によって彩られた得物は、我こそが凶器だと鮮血を啜った。
「誰だよ警察に通報したのは……誰だ誰だ誰だ誰だぁッ!!!」
 夜闇に咆哮する狼を彷彿とさせる絶叫はしかし、自然界で行われる気高さとは無縁な野蛮さを以って人々は受け取る。
 乱暴に振るわれた鉄球が激情に乗ってタイルを削り、周辺のデスクを破壊して内部の資料を宙に舞わせた。
 恐怖し、肩を寄せ合い、親の付き添いで訪れた児童は目尻には涙を浮かべている。
「お前か、それともお前かぁ……お前かお前かお前かぁッ!!!」
「ヒッ……ぁ、いや……!」
 正気は失われたのか。それとも銀行強盗を働く輩に期待すべきではないのか。
 血走った瞳が客の顔を一つ一つ覗き込むと、彼らの心に癒えぬ恐怖を、抗えぬ死を刻み込む。
 銀行から一歩踏み出せば、シャッター越しにサイレンを掻き鳴らして包囲している警察に保護されるだろう。だが、僅か障壁一枚隔てて天国と地獄が分たれる現状では、何の希望にもなり得ない。
 やがて男の瞳が一人の女性へと注がれる。
「馬鹿にしやがって馬鹿にしやがって馬鹿にしやがって……何が幸多からんことをだ、何が不合格だ、見る目もねぇ分際で俺を図りやがって……!」
 男が捉えているのは現実か、それとも数多ある数字を掲示した掲示板か。
 我が子を覆って盾になろうとする女性は全身を震わせる。息も小刻みに繰り返し、心臓は絶えず高鳴りを見せて血液が火傷しそうなまでに流動する。カスタネットの如く叩かれる奥歯が、男の神経を理不尽にも逆撫でした。
「ぶっ殺してる。全部纏めてぶっ殺してやるッ!!!」
 タイルの上に寝そべり、血溜まりを形成する人物は三名。
 男の言葉が脅迫や虚仮脅しの類でないことは、人質達の共通認識となっていた。
「嫌……いや、やだ……!」
 半泣きの女性はしかし、子供に危害が加えられないように盾となる姿勢だけは崩さない。状況への理解が及ばない子供が、それでも母親を思って頬を撫でる感触だけが彼女の精神を奮い立たせる。せめて我が子だけは守り通してみせると決壊寸前の心を維持させた。
 男が両腕を振るい上げ、鉄球が追随する。
 その刹那。
「現場はー、こぉこですかー?」
 状況への理解が及ばない間の抜けた声と共に、銀行のバックヤードへと続く通路からとびらの開く音がした。
 行員も、客も、強盗を働く男さえも。
 皆の注目が一身に集まる。
 そして二度目の驚愕は声の主が未だ幼い、下手をすれば学生服を纏った強盗と比してなおも幼い子供であることだった。
「こんにちはー、特活隊でーす」
 気怠げに左手を上げ、パーカー姿の少女が挨拶した。

 凶行の現場たる帝国銀行を取り囲む警察達。
 その数は十や二〇では足りず、パトカーは彼らを凶弾から保護すべく防波堤の如く入口を囲う。近隣の高層ビルには狙撃班も配置され、犯人が抵抗した場合に備えて射撃姿勢を堅持していた。
 それでも彼らが学生を捕らえ、栄達に預かる確率は限りなく〇に近い。
 随意性心的障害。
 トガノハと呼ばれる病気に罹患した患者の戦闘能力は、お伽話の英雄譚にも等しい。数の利という現代戦争に於いて最重視される要素すらもたった一人で薙ぎ払う異常性と異能力は、統治者側にも相応の対策を強いてきた。
 即ち、専用の部隊編成を。
「田部部長、いいんですか。あんな子供に……!」
 パトカーの影に隠れて事態の推移を見守る所轄警官の一人が問いかける。
 警察を志願した当初の情熱を失わない彼の正義感が、現場へ無遠慮に乗り込んだ少女を案じさせた。
 しかし問われた側、田部と呼ばれた角ばった顔立ちの中年刑事が答えたのは、諦観にも似た言葉であった。
「仕方ねぇだろ。立てこもったのはトガノハだ、警察にはどうすることも出来んよ」
「だからってあんな子供に……危険ですよ!」
 脳裏に浮かぶのは最悪の結末──少女が成す術なく犯人に殺害され、激情に駆られた男が人質にまで手を出す光景。
「分かってるよ。しかし、あんなでもトガノハ……今は俺達の何万倍も役に立つ」
 苦虫を噛み潰し、田部は入口の先を睨みつける。
 彼女の有用性は、翻って警察の無能さを強調させる。いくら報道では活躍が最小限であるかのように謳われたとしても、現場には塵が積もるかのように不満が蓄積していくのだ。
「化物なら化物らしく、人間様の役に立てよ。なぁ、国家公認特別活動大隊の隊員さんよ」

 唐突に現れた少女への注目度は、依然に高い。
 ショッキングピンクと黒の派手なパーカーを着用した小柄な体躯は、股下までを覆い隠す。左右で違和感を抱かせるハイソックスもまたオーバーサイズのパーカーと同色の配色を示し、靴にはあろうことかローラースケート。忙しなく動く頭に揺れる白色の短髪は寝癖を連想させ、不気味に開かれた瞳は血走った男にも負けない赤。そして不自然な体躯はやがて、一つの事実を克明にする。
 快適な気温を保つべく稼働するエアコンの空調にたなびく右袖に。
「なんだぁ、おめぇ……どこから来やがった?」
 男は詰問し、少女との距離を詰める。彼の動きに呼応して鎖が音を鳴らし、鉄球がタイルを剥ぐ。
 一方で少女は顎に指を乗せると、わざとらしく首を傾げて思案のポーズを取った。逐一人の神経を逆撫でする女、そのような印象を男に植えつけて。
「そーですねぇ……どこからと言われれば、裏口から素直に?」
 平時であらば可愛らしい仕草も銀行強盗の前で行えば異質なものと映る。
 ましてや顔の各所には焼け爛れ、皮膚の内に眠る筋線維が剥き出しの箇所があれば、三日月の化粧も相まって最早ホラー映画の描写と大差ない。
 しかし、男も凶器で武装した状態。冗談染みた少女の態度に憤激を露にした。
「ふざけてんのかッ。ぶっ殺すぞ!」
「ぶっ殺す……ですねー」
 飛ばされた怒気に身動ぎ一つせず、周囲を一瞥すると少女は平静を維持して背負ったバックを足元に置く。デフォルメされたウサギのステッカーが幾つも張られたバックから引っ張り出されたのは、黒衣のロングコート。
 銀で縁を取ったコートに身を包んだ少女を見て、誰かが小声を漏らした。或いは、誰かの心中を代弁したのかも知れない。
 特活隊、と。
 左袖を通しただけの殆んど流し着に近い状態となり、男の注目は完全に少女へと変わっていた。
 胸元に空いた穴。
 まるで何かが貫通してもいいように作られた空白が、少女の正体を雄弁に物語っていたのだ。
「一応聞きますけーど、降伏の意思とかは……ないですよねー?」
「降伏だぁ?
 何舐めたこと言ってやがるッ。状況分かってんのか?!!」
「いやいやいや。どうせしないのは分かってますけど、これしないとうるさいんですよ」
 口を走らせる少女の纏う空気が、一変する。
 力なく下げられた左腕と右袖。やや落とされた視線に内股へ開かれた足。それらが臨戦態勢なのだと、格闘家が構えを取ったに等しいのだと、男の肌に焼きつく感覚が告げていた。
 そして心臓が、貫かれる。
「あ……」
 誰が溢した声か。
 少女を貫く漆黒の杭は、男の胸元にあるものと同一。
 即ち、意味するところは変生。
 指し示すように右袖がのたうち回る蛇が如く蠢き、力なく揺れていた袖口から五指を覗かせた。
 上げられた顔には新たに化粧が一つ。口元の黒は三日月を描くものの、頬骨に当たるかどうかまで伸びた様は道化の化粧を彷彿とさせた。
 そして生えた右腕が拳を作ると、握られるは一本の鋭利なメス。
「国家公認特別活動大隊所属、山城夢兎特別隊員。これより状況を開始する」
 少女の喉から発せられたとは思えぬ低い声を合図に、獣が動く。
 地を蹴り上げる右で推進力を得たローラーが高速回転を始め、瞬く間に男との距離を詰めた。
 そして一閃。
 甲高い音を置き去りに夢兎が男を通り抜けるも、手に伝わる痺れから肉を斬ることは叶わなかったと推測。事実、振り抜いた軌跡では伸ばされた鎖が音を鳴らしていた。
 眼前に迫る壁を右足で蹴り方向を転換。
 直後に轟音を響かせ、鉄筋コンクリートの内側が存在を主張した。
「舐めんな舐めんな舐めんなぁ!!!」
 激情の赴くままに振るわれる鉄球がタイルを砕き、壁を破砕し、備品を粉砕する。そこに秩序だった動きは皆無、ともすれば夢兎へ照準を定めているのかも分からない。
「ヒッ……!」
 数ミリ軌道が逸れていれば直撃していた人質は、恐怖の余りに思わずおぞましきもしもを脳裏に過らせた。
 猛り狂う獣を前に、夢兎は己の失策を悟る。
「流石に死人が出るとうるさいんでーすよねー」
 人質の生命は最優先。
 身を翻し、男と向き合うと少女は地面を蹴り上げて加速する。
 逃げの一手であったトガノハ、自らを撃滅しうる唯一の存在が一転して攻勢に出たとなっては男も鎖を振るう腕をそちらへと注ぐ。結果、威圧感を放って迫る鉄球が二つ。
 達人とは程遠い男が乱雑に振るう一対の鎖は腕を見るまでもなく軌道が読み取れ、少女はしゃがむことで一撃、そして半身の姿勢を取ることで二撃を容易く回避する。
 皮膚が黒く染まった左に握られたメスが照明の光を浴びて鈍く輝く。
 少女の喜色に歪んだ表情を映して。
 二度目の一閃は、男の剥き出しになった胴体に真一文字の傷を穿つ。更にその場で回転すると、素早く左足を上げて中段の回し蹴り。左脇腹を強かに打ちつけて肺の空気を吐き出す男へ、少女は右腕を伸ばして後頭部を掴む。
「それじゃ、地面とのファーストチッスをお楽しみにー」
「ちょっ、ま……!」
 言葉を最後まで言い切ることは叶わず、体重を込めた夢兎の押し込みによって男はタイルと豪快な接吻を交わす。一拍遅れて流れた血は鼻が曲がったか、もしくは前歯を折ったものか。
 喧噪が収まると、痛過ぎる程の静寂が銀行内を包み込む。
 何が起きたのか。
 状況の推移は。
 迅雷の速度で薙ぎ払った彼女は、果たして何者なのか。
 だが時間が経過し、時計の針が秒を刻むに連れ、徐々に心中から緊張の糸が解ける。代わりに安堵と歓喜の感情が湧き立つ。
 助かったのだ、と。
 家族と自らと、そして行員の方々は理不尽な脅威から救われたのだ、と。
「わぁぁぁ!!!」
 誰が最初に歓喜を声に乗せたのか。それは分からない。
 大事なことは、湧き上がった衝動に身を任せて周囲の人々が口々に叫んだこと。見ず知らずの他人同士で助かった実感を分かち合い、抱き締め合ってことこそが肝要であった。
 大気を震わす絶叫を背景に、しかし一人夢兎は凡そ感情の抜け落ちた赤の瞳を男へ注ぐ。
 空いた左手でロングコートの内に携帯していた拳銃を取り出す。流行を素早く取り入れたフレーム全体にポリマーを採用して軽量化を果たし、短めの遊底には撃鉄と撃針を兼用した部品が内蔵している。
 黒光りする殺意の名は、一七式拳銃。
 九ミリパラベラム弾は、人体を破壊するに充分な性能を発揮する。
「さぁてさて。可愛い可愛い山城夢兎ちゃんが、質問しちゃいまーす。
 射殺と刺殺、お好みなのはどっち?」
「な……がッ」
 夢兎は右手を自由にすると足で背中を踏み、黒の掌からは一本のメスが肉を食い破る。
「因みに出血大サービスなんだけどー、拳銃は実弾でメスはトガノハ。本当なら炎も出せる便利なヤツだーよ」
「え、いや……おい、お前特活隊だろ……どっちがいいって……」
 男の焦燥も当然のこと。
 特活隊はトガノハ関係の事件への介入権こそ政府に認められているが、無力化した犯人の殺害権など認められようはずがない。
 しかし背中を踏み躙り、大仰に両腕を広げる少女は関係ないとばかりに言葉を垂れ流す。
 法律も。
 犯罪者の流す苦悶の呻きも。
 歓喜に湧いていたはずの衆目さえも。
「はい質問に質問で答えなーい。返答ははいかイエスか……じゃあ、どっちか分かんないや。だったら素直に銃殺か刺殺で答えましょうー」
「ガッ……いや、おい……助けてくれよ……!」
「三人も人を殺しておいて、それは虫が良すぎると夢兎は思うんだよねー。
 殺された人だけじゃなくて、遺された人も辛いんだよ?」
 平坦に、淡々と。
 抑揚のない声音で告げられた言葉は、男の精神を着実に蝕む。
 既に喉は枯れ、空調機の不調を疑う程に水分を希求する。
 微かに鼓膜を刺激するのは、頭上で拳銃を弄ぶ音。しかして、それを視界に収めることは叶わない。代替として跳び込んでくるのは、タイルの上に転がる骸の一つ。
 肉の塊となって久しいそれは、虚空の瞳で男を捉える。
 次はお前だ。
 そう口が動いて見えたのは、極限状態が成した幻覚であろうか。
「じゃあじゃあ、折衷案として拳銃とメスで交互に撃って斬ってを繰り返すってことにけってーい。わーい、山城夢兎ちゃんって可愛いだけじゃなくててんさーい。
 それじゃ、記念すべき第一発」
 間髪入れずに引金が引かれ、腕を蹴る鋭い反動が手首を通じて肘へと伝わる。
 立ち上る硝煙の香りが少女の鼻腔をくすぐるが、後を追うべき血潮の匂いはいつまで経っても並び立たない。
 嘆息を一つ零すと、夢兎は眉間に皺を寄せた不快な表情で左腕を掴む手の先──彼女の横に立つ男性を睨んだ。
「乙女に無遠慮な手を伸ばすなんて、モズモズは破廉恥ですねー」
「ふざけるのも大概にしてよね、夢兎……!」
 肩で息をしているのは黒髪を後ろで一纏めにした、少年と青年の間ともいうべき中間の顔立ちをした男性であった。夢兎と同様に黒衣のロングコートに身を包むも、彼女とは異なりジッパーが限界まで上げられている。
 贄波百舌は呆れた調子で足元の男へ視線を落とす。
 枯れの尽力で銃弾は寸前の所で直撃を避け、数ミリ左のタイルに漆黒の穴を穿っていた。それでも効果は覿面だったのか、男は涎を垂らして意識を手放しているが。
「夢兎、僕らの仕事は犯罪の鎮圧であって処刑じゃない。その一線を超えたら、僕らと犯罪者の境は無くなる。いつも言ってるだろ」
「ぶー。だったら、なっさけない警察なんてみーんな辞めさせて、夢兎達が警察の居場所に収まればいいじゃないですかー。剣馬重工の力なら可能でーすよねー?」
「夢兎!」
 何かを致命的に履き違えている少女の物言いに檄を飛ばす百舌であったが、馬耳東風とばかりに反省の色は伺えない。
 口論が続く二人の間に割って入ってきたのは、夢兎が割り込む寸前まで男の標的にされていた女性とその子供であった。何度も頭を下げる女性を見てか、子供も見様見真似で頭を下げる。
 百舌は軽く会釈で応じると、額に浮かんだ汗を拭って改めて夢兎と向き合う。
「僕らの仕事は彼女達を守ることだ、悪いものじゃないだろ」
「……親子連れが助かったのは、幸運ですよね」
 僅かに目元を綻ばせ、首を傾げる。同僚として活動を共にして一年が経過した百舌には、それが彼女なりの微笑だと理解できた。
 踵を返すと、夢兎の背中を貫いていた杭が霧散し、呼応して仮初の右腕も質量を失って袖が萎んだ。片手で脱ぐのは面倒だろうに、慣れた手つきでバッグに押し込むと帰り支度を完了した少女はシャッターへとローラースケートを走らせた。
 途中、左腕を上げると子供同士がやるように手を振る。
「でも、そのお人好しは直した方がいいと思いまーすー。損するタイプのお人好しだと夢兎は思いまーす」
「……大きなお世話だよ」
 呟く百舌は返礼とばかりに右手を振ると、振り返って人質への対応を開始した。
 一方で夢兎は既に目的を喪失したシャッターを開けると、物々しい音を立てて頭上へと戻る様子を眺める。やがて音が鳴り止むと、同時に雪崩込んできた警察の荒波を回避して歩道へと躍り出る。
 その間、すれ違った警察官が声をかける様子はない。
 彼らにとって、身元がある程度判明している特活隊の人間よりも銀行に取り残された人質の方が遥かに重要なのだから。
「山城夢兎特別隊員。今回は、何も問題を起こしてないだろうな?」
 例外は最後に残った警察官。
 現場の指揮を取っていた田部刑事は、彼女が過去に犯人を殺害寸前に追い込んだという批判を幾度となく特活隊上層部へと送っていた。寸前というのもあくまで致命傷を負う前に第三者が介入したからに過ぎず、彼女が見極めた上で暴力に及んだのではない。
 故に、田部刑事は山城夢兎という隊員へ毛程の信頼も寄せてはいなかった。
「問題を起こされたくなかったら、夢兎達よりも早く鎮圧して下さいねー」
「……」
 田部は視線を鋭利に研ぎ澄ますが、それ以上口を開くことはなく少女とすれ違う。
 パトカーによる包囲網を突破し、好奇心に突き動かされた野次馬の注目も無視すると、思い出したように少女は人差し指を立てた。
「あ、報告」
 幸い、連絡用の端末はパーカーの方に収納していた。
 左手を正面の大型ポケットへと突っ込むと、中に入れていた漆黒の携帯端末──夢兎の趣味としてウサギ柄のシールを特活隊と彫られた活字を遮って張られたものを取り出す。
 そこから指紋認証で二秒、パスワード入力で三秒の時間を要し、担当への電話に取りかかるまでに計五秒の時間を有した。
 携帯会社と共同で開発された端末は、外での通話にも支障が生まれない高度な集音性能とノイズキャンセルを内蔵している。仮に真横を宣伝用の軽自動車が大音量で駆け抜けても無問題とは、支給時の弁であったか。
 尤も平日の上、周辺住民の関心は銀行へ注がれている現状ならばどの道関係ないが。
『はい、こちら特活隊後方オペレーターのヒバリです』
 電話に応じたのは、端末の電話帳に唯一登録されている女性。彼女の顔も知らなければ、本名なのかも不明な人物だが、それでも各種特活隊隊員と連絡を取り合い、時として他の雑務を兼任する存在には感謝の念を浮かべるのが道理。彼女達の情報を知るのは上層部だけらしいものの、もしも会うことが叶うのならば菓子類に一つでも送るべきかとは考えていた。
 ともあれ、夢兎はヒバリと名乗った女性の声へと今回の帝国銀行港谷支部での顛末を報告する。
 しかし、既に先んじて百舌が報告していたのか。ヒバリは相槌を打つことこそあれど、気になる部分を聞き直す、ということはしなかった。
『ほうほう、つまり君はまぁた犯人へ向けて意味もなく拳銃を発砲した訳だ?』
「無意味じゃないんですー。他の連中が価値を無くしてくるだけなのですー」
 夢兎は子供っぽく、かつ平坦な口調でありながら唇を突き出して露骨に不満を見せる。左右を高層ビルに囲まれた一等地、歩道に近い全面鏡張りの壁には彼女の表情が反射していた。
 呆れたのは行動そのものか、それとも夢兎の態度にか。
 嘆息を一つ零して幸福を逃がすと、ヒバリは声のトーンを一段階落とした。
『夢兎ちゃん。今回の分で何回目よ、今月入っただけでもう二桁はやらかしてるでしょ』
 やたらと甘ったるく可愛らしい声の持ち主であるヒバリだが、流石に本気で起こっている時には多少の凄みが端末越しにも伝わってくる。
「だ、だってぇ……」
『だってじゃない。一四歳の君が特活隊入隊が許可されてるのは、棚徒グループと剣馬重工の関係が合ってこそなんだよ。夢兎ちゃんの行動一つで、棚徒グループの看板に泥を塗ることになるんだって、自覚を持って』
 本来、特活隊への入隊条件の一つに満一五歳以上という年齢制限が存在する。危険に身を賭す活動が主であるのだから当然の規定だが、棚徒グループ側の夢兎には特別に許可が降りている。だからこそ彼女は黒衣のロングコートに袖を通せるのだ。
 しかし、特別待遇とは否応なしに周囲の妬みを買うもの。まして、問題行動を繰り返せば、やがてグループの力でも揉み消すことが叶わなくなる。
 そうなれば、夢兎は路頭に迷うこととなるに違いない。
 故にこそ、ヒバリは厳しい口調で叱責を続けた。
『しかも今回は犯人を殺すつもりで無力化した上での銃撃って……
 あんまりこういう言い方はしたくないけど、それがテロで家族を殺された人の態度なの。それとも、次は力を持った自分の番だとでも驕ってる?』
「……」
 能面のように表情から感情を無くし、少女は端末越しの言葉へ反論することなく聞き入れる。気づけば、視線が足元の影へと落ちていた。
『そんな形で、ましてや全く関係のない犯罪者をどれだけ痛めつけても、天国の両親は喜ばないよ。お兄さんだって──』
「お兄ちゃんは生きてる」
『えっ』
 ヒバリはおそらく、棚徒グループから添付された資料と夢兎が危険な仕事に従事したという事実を元に推論を立てたのだろう。
 普通に考えれば、彼女の読みが正解である。
 身寄りを無くしたからこそ金が必要になり、そして全うな就業は見込めない年齢だからこそ特別な手段を講じた。なるほど、理に適っている。
 彼女に誤りがあるとすれば、前提であろう。
「お兄ちゃんは生きてる。死んだのは夢兎の方」
『そ、それって──』
 ヒバリからの返事を待たず、一方的に言葉を告げると夢兎は通話を終了した。次いで音量を最低、サイレントモードへ移行させる。
 これで電話が来た所で気づくことはない。
 作業が終わり画面をブラックアウトさせると、左腕が力なく重力へと引っ張られる。端末の自重も相まったのか、予想だにしない衝撃が伝わるも、辛うじて親指を除く四指がフックの役割を果たす。
 ふと、横に建つビルの鏡を覗く。
 鏡が映し出すのは、反転した少女の姿。
 漂白されたかの如き白髪に充血した赤目。色白の肌には焼け爛れ、内に眠るべき筋線維を剥き出しにしたグロテスクな穴が各所に点在していた。
 穴から白煙が天へと上り、やがて発火。
 連鎖するように全身の至る箇所からも焔が吹き出し、夢兎の肉体を業火が包み込む。
 肌を貫く灼熱の痛みはない。
 命を奪い燃え盛る炎熱も感じない。
 これはあくまでただの幻覚。脳内で突如として始まった連想ゲームが、視界にまで作用しただけの話である。
 鏡の向こうでは、一人の少年が救急隊員に救出され、今まさに運び出される最中であった。少年は小学生程度であろうか、表情こそ伺えないが、手放してはいけない家宝か何かのように右腕を強く、強く掴んでいた。
 腕の持ち主から独立した、ただの肉の塊を。
「私を助けてよ」
 呟かれた言葉を合図に、視界は正常を取り戻す。
 伸ばされた左腕が掴んだのは、過ぎ去りし過去の幻影に過ぎない。
 馬鹿馬鹿しいと肩を竦めて切り捨てると、山城夢兎は次なる進路へとローラースケートの車輪を向けた。

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