トガノハ 第二話
炎を支配したいと思った。
全てを焼き尽くす炎熱を、金属すら溶かす焔を自由に。
そうすれば家族も、旅行も、灰に変わった全てを取り戻せる気がして。
世界が焼ける。
焼け爛れ、あるべき形を失う。
全身を包む焔の勢いは収まる時を知らず、煌々と輝く光は視界を覆う黒煙の奥でも存在を主張する。
既に肉塊と黒炭、そして影法師と化した人々を尻目に少女は上向きで倒れていた。
身体を動かす気力は湧かず、右肩からは喪失感と共に体内の熱が徐々に流れ落ちる感覚が続く。首を傾ければ腕を失ったと理解出来るのだろうが、それを成すだけの気力はない。
灼熱の世界。人が生存するには全てが欠け、そして全てが過剰な世界。
地獄と呼ぶに相違ない世界に少女が一人取り残されているのは、何も彼女自身の意志ではない。むしろ気力と、左足を捉えて離さない瓦礫がなければ今すぐにでも火の手から逃れたい、と思考できたのだろう。
膨大な熱量に煽られた空気によって、肺も少なからず焼かれている。
喉から漏れるのも、呻き声と呼ぶのも烏滸がましい音の塊。
助けて。
虚空へ向け、燃え盛る炎に覆い隠される声量はたとえ聞き逃したとして、相手を責めることは叶うまい。
たとえ、消防士がすぐ側で右腕を握っていた少年だけを助けたとしても。
両親とは異なり、即死を免れたばかりに地獄の炎に延々と焼かれ続ける。冤罪だと声高に主張しても無意味なことは実証されている。だからこそ少女は口を瞑んだ。
二つ違う兄とは異なり、即死を免れたにも関わらず、助けに駆けつけた誰かの腕をすり抜けて少女はなおも空を見上げる。黒煙に覆われた世界が届ける光は、夜闇に浮かぶ星々の煌めきなのだろうか。
いずれにせよ、関係はない。
少女に何かを成す術はなく、ただ漫然と目を開き死が到来するのを待つばかり。
肌にも熱が異様に籠る。飛び火したのか、もしくは汗が蒸発するせいで冷却機能が不全を起こしているのか。少女には分からない。
それでも。
せめて。
少女は最後の力を振り絞り、天へと腕を伸ばす。
何か目的があった訳ではない。
掴みたいものがあった訳でも、今腕を伸ばせば誰かが見つけてくれると確信があった訳でもない。
ただ、腕を伸ばせば、何かが変わってくれると妄信したがために。
信じたかったがために。
「たすけて」
擦れた声を最後に、力を無くした腕が落下する。
刹那。
誰かが掌を掴んだ。硬く、強く、決して離さないとばかりに。
棚徒総合病院。
港谷区に於いて最大規模の病院は広大な敷地を有し、駐車場には面会に訪れた人々を乗せた乗用車でごった返している。
夢兎はすれ違った人々の怪訝な表情など我関せずと道を進み、入口を潜る。
受付は既に顔パスであった。
馴染みの受付嬢には慣れた手つきで、目的の人物はいつもの場所にいると教えて貰った。目的地へ向かう廊下の間も派手な服装やローラースケート、或いは醜い火傷痕に道行く人の関心が集まる。とはいえ、夢兎へ直接何かをしようと企む者がいない以上は、彼女も意識の片隅に追いやる価値さえないと即座に削除を繰り返すが。
やがて北側の突き当たりに到達すると、清潔な純白の壁面から浮いた四角の闇が広がる。闇に紛れるだけで地下へと続く階段も完備しているが、何故か照明の類は見当たらない。
棚徒総合病院に伝わる七不思議の一つに、霊安室の霊が夜な夜な一階をうろつくというものがあるらしい。病院にすら娯楽要素を持ち込む様に妄想逞しいと感心する一方で、霊の正体を知っている夢兎は初見の時から大した興奮を示すことができなかった。
階段は中々に急勾配だが、夢兎は手すりを掴んで一歩づつ確実にローラースケートで下りていく。
霊安室の反対側、不自然に増設された扉の頭上には『蛇島祥吾の研究室』と緊急避難経路と同じ緑で輝く看板がある。少女は溜め息を零して扉を押し込むと、室内からニコチンの不快な臭いが堰を切ったように吹き出した。
「ッ……病院で煙草はどうかと思いますよー。しょごしょごせんせー」
室内は思いの他広いのだろう。
手術室を連想させる足元のタイルに薄暗く確認はし難いものの散乱する幾つかの資料。壁に隣接する形で設置された机の上には不気味に液晶を輝かせるパソコンに、キーボードを覆う資料の山。
整理整頓が最悪な部屋に何度目かなる蔑視を注ぐと、呼びかけに応じた男が姿を見せた。
「別に構いやしねぇだろ、ここに来るのはお前ぐらいなんだからよ」
口元で紫煙を燻らせた、気怠げな態度の男は蛇島祥吾。
顎の無精髭や皺や染みの目立つ白衣、やや腹の出た体躯のせいで信用には今一つ至らない男性である。だが、夢兎にとっては生命線にも等しい。
「それで、今回は何のご用件で?」
「わぁざわざ聞くなんて面白い冗談ですねー。いつもの定期メンテをお願いしたいんですがー」
「メンテだな、オーケーオーケー。それじゃちょっくら準備してくるわ」
言い、男は薄暗い闇の向こうへ去る。
事前に通達していた訳ではない以上、億劫な待ち時間が発生することも止む無し。しかし彼女が請け負う仕事の傾向として、予定を立てて行動するという行為には相応のリスクが伴うのだ。
「悪ーい人がいつ現れるか、分かったもんじゃないですしー」
「おーし、準備はできたぞ。着替えてからこっちへ来てくれ」
闇の先から蛇島の声が響く。消えてから早かった辺り、簡単な動作確認でもしたのだろうか。
夢兎は付近のロッカーから簡素な病院服へと衣を移した。たとえ枯れた中年男性だとしても男の私室で着替えることへの抵抗も最初はあったが、八年も付き合いが続けば部屋の一角に監視カメラを仕込むような下種の感性を持っていないことも把握できる。
むしろ現在抱く不満は、布を張りつけただけに等しい服を着なければならないことであった。
定期メンテナンス、といっても別に身体へメスを入れる訳ではない。
脈拍や神経系への伝達が正常に作用しているか、ジョギングを始めとした低負荷な運動を通して確かめるのが主である。
蛇島は夢兎の動きや幾つかの観測情報を元に、過去のデータとも照合することで必要に応じて各種薬品の投与や緊急手術が必要かの是非を判断する。
「神経系の反応速度コンマ〇九、脈拍一〇〇から一八七、握力四六……その他数値も過去のデータから逸脱しない程度。正常値か」
著しい数値のズレが起きていれば何らかの措置を講じる必要もあるが、手元の資料を考慮すれば今回は誤差の範囲である。
蛇島は冷めた眼差しを強化ガラス張りの先、トレーニングルームを思わせる無機質な部屋へと注ぐ。そこには数値計測用の器具が幾つかと、肺を上下させる少女が一人。
八年前に始めて出会った時、山城夢兎は死に損ないであった。
後に一九四便爆発事件と呼ばれるトガノハ達によるテロ行為によって、乗客八三名、乗組員七名が全員死亡した事件。唯一の生還者である少年は最寄りの病院で手厚い治療を受け、回復した当初はマスコミが『奇跡の少年』と囃し立てていたのを覚えている。
そして夢兎は現場にいた。
当人曰く消防隊員が救助した少年とそう距離は離れていなかったらしいが、不幸にも彼が自らの右腕を固く握っていたことと瓦礫で隔てられたことで判断を誤ったようだ。
「奇跡は二度は起こらない」
残酷な話である。
瓦礫一つの差でかたや奇跡の少年、かたや女性版フランケンシュタインなど。
欠伸を一つ、意識を切り替えると蛇島は備品棚から一本の注射器を持って扉を潜る。
「おぉう、夢兎。検査の結果は正常だ。いつも通りの注射だけでいいぞ」
「はー、注射ーですねー……」
如何に鉄火場を潜り抜けるといっても齢一四の少女。蛇島が手に持つ注射器の先端や、シリンダーの中で怪しく輝く緑の液体には抵抗を持つ。
露骨に表情を暗くすると、視線を床へと向けて左腕を差し出した。
「ほら、お前の大好きなカテコランYだぞ」
「ッ……しょごしょごせんせー。いっつも思うんですけど、薬物依存ってのを大好きっていうの悪趣味って言われませーん?」
「先生だって茶目っ気を出したいんだよ、タマにはよ」
異物が体内に侵入してくる感覚は、いつまで経っても慣れる気配がない。その上、あまりにも長期に渡って投与され続けているため、血液に溶けて脳内にまで伝わっても初めて投与された時のような高揚は現れない。蛇島や研究員には精神の安定をいい傾向と評されたものの、注射の痛苦を誤魔化す快楽がないのは無味無臭の健康料理を食べるにも等しい。
加え、検査には相応の時間も用いる。
ランニングマシーンに内蔵されたデジタル時計は、時刻が午後五時を回ったことを、無機質に知らせた。
「メンテ、月一くらいに伸ばしたらダメなんですかー?」
「カテコランYがそんなに長く持たねぇんだよ。寝言言ってる暇があったら、時間を大切にすればいい」
カテコールアミンをベースとして人工的に調剤された脳内伝達物質は、人体で生成することが不可能。故に定期的な供給が絶たれれば、思考力の低下を経て廃人化するという研究結果が動物実験を以って実証されている。
更に他にも各種薬物や外科的に強化された肉体の経過観察の意味もある。
被験者がやりたくないといって拒否していい代物では、断じてないのだ。
「ぶー。わーかりましたー。だったら要件も済みましたし、時間を大切にするためさっさと帰らせてもらいまーす」
唇を尖らせて捨て台詞を残すと、夢兎はトレーニングルームを後にする。
残された蛇島は、使用された備品一つ一つの手入れを開始するのだった。ウエスで付着した汗を拭い、機器の簡単な動作確認を行う背中には帰る場所のない一人身の哀愁がどこか漂う。
「はー、彼女欲しいなー」
戯れる相手を求める声はしかし、誰の鼓膜を揺さぶることもなく大気に溶け込んでいった。