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始末屋由来木屋

 一人の男が死んだ。
 死因は内臓破裂による失血死。それを証明するように、苦悶の表情を浮かべる男だった肉塊の口から血が止めどなく溢れてくる。
 今うつ伏せで倒れているモノをひっくり返せば、腹部だけ衣服が円状に破れているのが確認できるだろう。
 壊れた蛇口の如くコンクリートを赤く染める頭を爪先で小突き、破壊を為した少年は口角を歪に曲げる。嘲りの意思が克明に刻まれたそれを向けるのは、視線の先で狼狽える有象無象。

「……予想以上に脆いですねぇ。安物買いの銭失い、ってご存知ですかぁ?」

 白の短髪を掻き上げ、赤の瞳で敵を睨む。眼光一つで歯がカスタネットになる者も片手では数えられぬ程。
 黒のインナー。砂色のカーゴパンツ。腰に巻かれたのはデニム素材の上着か。一七〇にも満たぬ体躯が、眼前で蠢く有象無象へ足を進める。
 小さな悲鳴が、彼の鼓膜を心地よく揺らした。

「お、おいッ。お前達! あの思い上がったガキをぶっ潰せッ。私は依頼人だぞ!」

 有象無象から離れた、いくつかの鉄柱が置かれた場所から指示を飛ばす初老の男性。その表情は禿げ上がった頭も相まってタコを連想させる。
 廃工場に響く怒号が有象無象にはナイフの如く突き立てられた。

「つってもよぉ……」
「つってももどってももあるかッ! 依頼人の命令が聞けんのか!」

 弱音を握り潰し、軟弱な思想を踏み躙り、無能な指揮官は部下へ死ねと暗に命ずる。血走った眼では、その実感もないのであろうが。

「部下は上司を選べませんからねぇ。同情しますよ」

 心にもないことを呟き、少年は玉砕覚悟で特攻を仕掛ける有象無象を一瞥する。
 視線を合わせたのは、一際大声を上げて鉄パイプを振り上げた男。心の内に宿る恐怖を振り払う──あるいは誤魔化すように、喉が裂けんばかりの咆哮であった。
 とはいえ、それは蛮勇の類。

「フッ!」

 少年は短く息を吐き出し、腰に構えた右腕を振り抜く。
 半回転した拳が風を裂き、無防備な男の腹部へ打ち込まれた。乾いた銃声を思わせる破裂音が辺り一面に木霊し、苦痛に歪んだ男の口からは血の濁流が溢れ出す。
 唾液混じりの流血を直に浴び、少年の眼光が一層輝きを増す。
 突き出した拳を引き戻す反動で男だったモノへハイキックを繰り出し、即席の弾丸として利用。右側の安全が確保されたことで左へ意識を傾ける。
 眼前にまで迫った拳へ、冷静に左手を添えることで勢いを逸らす。当然、当たることを前提に振り抜かれた一撃を躱されたことで拳の主は態勢を崩してしまう。

「ハッ。なってない、ですねぇ!」

 拳の主を嘲笑い、少年は自ら近づいてきた身体へ膝蹴りを叩き込む。僅かに地面から浮かんだところへ背中からの肘打ちで連撃し、背骨を粉微塵に粉砕。
 弾丸の如き出力で振るわれる拳の一つ一つ、鞭の如くしなる足の一つ一つが、有象無象から確実な人生の脱落者を量産する。
 金で雇われたチンピラ無勢とは一線を画する洗練された技。それでいながら荒々しい、人命を塵のように薙ぎ払う暴力性が合わさり、廃工場の床に屍山血河を築き上げていった。

「プギャッ」
「アハハ。カエルが潰れた声の真似ですかぁ? 結構似てるんじゃないですかぁ。聞いたことはないですけど」

 コンクリートと豪快な接吻を果たした男の頭を踏みつけ、更に執拗なまでに踵で捻る。爪先が左右に揺れる度、哀れな犠牲者から呻き声が漏れるのは、まだ生きているという幸運なのか、まだ苦痛を受け続ける不幸なのか。少年の口から流れる加虐的な嗤いも相乗効果を果たし、有象無象の足が止まる。
 依頼人と目の前の戦鬼。
 真に恐れるべきがどちらなのか、心の中の天秤が激しく揺れ動いているのだ。
 戦鬼の足元に転がる屍の山、そして汚れの殆んどを返り血だけで成り立たせている戦鬼自身。依頼という無形の鎖を砕いて有り余る圧倒的な“死”が、眼前の屍という形で実体化していた。

「あんまり遊んでないで、さっさと依頼を達成しなさいよ。帳(とばり)」

 特別大きな声だった訳ではない。にも関わらず、帳と呼ばれた少年の露悪的な嗤いを遮って、鈴とした声が工場に響く。
 有象無象の視線が帳の背後、廃工場入り口からゆっくりと歩いてくる人物へ注がれた。
 まず目を引くのは灰色のパーカー。目深に被られたフードの頭頂部には、猫耳を模した可愛らしい装飾が備えつけられている。フードの奥から覗ける青の眼光は、冷徹なまでに冷たく帳が引き起こした惨劇を捉えた。
 下のショートパンツなど、平時であれば鼻の下を伸ばしていた代物も、今の有象無象にはその余裕もなし。

「巻奈(まきな)ですか。
 簡単に言ってくれますが、この数なんですよ。まずは頭数を減らしてから本命、ってのが定石ですよ」
「そう。私には貴方が殺戮を愉しんでいるように見えたけど」
「別にいいじゃないですかぁ。彼らは適度に爪を見せて上げないと、能ある鷹かどうかの判断がつかないんですからぁ」
「……」

 ねぇ。と、同意を求めて顔を向ければ、有象無象は揃って後退りした。
 既に彼らが戦意喪失していることは明白。後一つ、何か切欠があればそこから一気に決壊するのが目に見えている。
 顎に手を当ててわざとらしく唸ってみると、一つの足音が鼓膜を震わす。

「お、おいッ。無茶だ、よせッ!」
「あああぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!」

 恐怖で気が触れたのか、有象無象を掻き分けて一人の男が猛進する。右手に握っているのは亜鉛のメッキが剥がれて、やや錆ついた鉄パイプ。廃工場で転がっていた物を借用しているのだろうか。
 帳へと向けられたはずの目は彼を捉えているとは言い難く、焦点がズレているのではないかと思わせた。
 あぁ、もうアレでいいですか。
 ため息を一つ。帳は悪趣味な笑みを浮かべて男を眺めた。
 大仰に掲げられた鉄パイプが水銀灯の光に照らされて、鈍い輝きを放つ。錆と錆の間には呆れて頭を抱える巻奈、次いで眼前の光景には不釣り合いな表情で待ち構える帳が反射した。

「あぁッッッ!!!」

 鈍く、生々しい。生理的嫌悪感を催す音が工場中に響き渡る。
 火事場の馬鹿力、というものであろうか。
 男の腕に血管がいくつも浮かび上がり、火傷しそうなまでの血液の循環を感じた。たったの一撃であったはずなのに、これまで生きてきた人生の中で比類なき疲労を覚える。全身からは、真夏でも早々ない程の汗が止めどなく流れた。
 だが、これであの戦鬼は倒れた──

「唾がさぁ……」
「ッッッ?!!」

 振り下ろした鉄パイプが揺れる。
 聞こえるはずのない、持ち主が死したはずの声が聞こえたからではない。
 鉄パイプを誰かが握り返してきたから、でもない。

「顔にかかるんですよねぇ」

 人体よりも強度で勝るはずの鉄が、渾身の力を以って頭部へと振り下ろされたというのに。
 帳は額から軽く血を流すだけで済み、反対に鉄パイプの方が大きくひしゃげてしまっていたのだから。

「あ、あぁ……!」

 鉄パイプを握る手から力が抜け、男の身体は無意識に後方へ足を取る。身を守るための得物を手放す愚も、そもそも得物の信頼性が欠落した現状ではやむを得ない。
 そして、獰猛な肉食獣の如き笑みを浮かべた狩人が震えた獲物を逃がす道理もない。

「逃げないで下さいよぉ?」
「ア゛ガァ゛ッ」

 間合いを詰め、掬い上げるような一撃で男の首元を掴む。コンクリートから離れ、呼吸のできない男は帳の腕を握り返すが、状況は一向に改善しない。
 万力へ徐々に力を込めるかのように、帳は右腕に少しずつ力を込める。
 爪を首に食い込ませ、指で痣を刻み込み、苦痛と呼吸不全で顔を歪める男へ嬉々とした目で返す。
 無謀の末路を見せつけられている有象無象は次々と得物を手放していき、意識するよりも先に足が後方へ向かう。

「辛いですよねぇ、死にたくなりますよねぇ、弱いって。気持ちは分かりますよ。
 僕だって、昔はそうでしたから」

 だが、今は違う。
 もう弱かった奴はいない。あの事件の現場で両親と共に死んだ。
 ここにいるのは弱者を踏みつけ嘲笑うだけの力を持った男、由来木屋(ゆらぎや)帳である。

「弱いと理不尽に抗えず、不条理に呑まれ、無秩序に死ぬ。
 今の僕は強い側……理不尽も不条理も無秩序も、僕はばら蒔く側なんですよ」

 男を頭上まで軽々と持ち上げ、破綻間際の有象無象へ見せつける。
 脳裏にこびりついた映像を再現するように、目を見開いた醜悪な笑みを浮かべて。
 数瞬の間を置き、渾身の力を込めて右腕を地面へ振り抜く。風を切る物々しい音がこの場にいる全ての鼓膜を震わせ、直後に響く生々しい破裂音が有象無象を完全に破綻させた。
 最早恥も外聞もありはしない。
 目の前で暴虐の限りを尽くす悪魔から逃げなくては。一秒でも早く、一歩でも遠くへ、周囲の誰をはね除けてでも。

「おいっ。戻ってこいッ!!! 依頼人の言葉が聞けないのか?!!」
「知るか、バァカ!!! あんな化け物ッ、何億積まれても釣り合わねぇよ!!!」
「なっ。お、おいっ」
「賢明な判断です。そうは思いませんかぁ?」

 鮮血に染まったコンクリートを叩き、帳は鉄柱へと足を進める。
 一歩足を踏み出すごとに、血溜まりから粘度の高い液体特有の粘っこい音が鳴るものの、それさえも自らの優位を示すものへと利用して。
 事実として、わざとらしく音を鳴らす程に禿げ上がった初老から血の気が引いていく。

「く、来るなっ。私を誰だと思っている?! 貴様のような小僧なぞ、数百回は社会的に……!」
「おぉ、怖い怖い。だったら早く物理的に死んで貰わない、とッ!」

 枯れ枝が折れるかの如く、あまりにも呆気なく。
 帳が適当に蹴るだけで、初老の右足が曲がってはならない場所から曲がった。

「あ、あぁ……あああぁぁぁぁぁぁッッッ。あ、足ッ、私の足があぁぁぁ?!!」
「アハハ。無様無様!
 いやぁ、本当にいるんですねぇ。目の前で自動小銃を突きつけられてもペンは剣よりも強し、とか言う人」

 わざとらしい拍手を重ねて、帳は初老の姿が心底愉快とでも言いたげに言葉を操る。

「あぁ、そうでした。そろそろ口を割った方がいいと思いますよ?
 誘拐したご令嬢はどこにいるんです?」
「痛い痛い痛い痛い痛い痛いぃぃぃ!!!」
「チッ。役に立ちそうもないですねぇ……
 巻奈ぁ、探してくれません?」
「いやよ。依頼を受けたのは貴方で、私はあくまで依頼の存在を教えただけ。
 そこまでする義理はないもの」
「あぁ、はいはい。そうですか──」

 ため息の一つでも吐こうとした寸前、恐るべき速度で不幸が帳の顔面を殴りがかった。
 初老が雇ったチンピラは全員逃げ出したと思い込み、不意討ちをもろに喰らってしまった帳の身体はピンボールよろしく弾け飛び、数度コンクリートをバウンドした上で壁へ直撃した。
 舞い上がった埃と放置されていた粉末で姿を隠した帳へ、殴りがかった不幸が声を飛ばす。

「おいおい。雑魚をいたぶって悦に浸っていた割には、大したことないじゃないか」

 二メートルはあろう体躯に筋肉の鎧を纏った黒人。特に目を引くのは丸太を思わせる図太い腕の先、肘から向こうが生身とは異なる肉体であること。
 黒い輝きを放つ義手は日常生活が送れる程度に簡略化されたものではなく、人を殴打するための最適化が故に人体の部位と酷似した形状を持つ。男の体格も合わさり、繰り出される一撃はまさしく鉄槌のそれ。

「き、さま……!」

 遅いぞ、と視線で訴える初老へ黒人は掌に拳を打ち付けて答える。

「悪いな。組合の方から電話があってな」
「組合……悪路組合(あくろくみあい)のことね」
「お、物知りだな。嬢ちゃん」
「そりゃどうも」

 からかう調子で黒人は口を開くも、巻奈は興味なさげな返事をするに留まった。
 恐怖で身体が震えている様子はなく、帳が吹き飛んでからも巻奈は同じ場所に立ち続ける。仮に逃げたとしても廃工場内で捕まえ直せる自信があった黒人としては、余計な手間が省けて都合がいいものの、僅かな引っかかり程度は覚えた。
 “こちら”の世界に足を踏み入れてからの経験が、この引っかかりに触れることを奨励する。

「なんだ。俺みたいな男に会うとジャップはもっと怯える、って嶽丸(ごくまる)は言ってたぞ」
「酷い偏見ね。
 だけどお生憎様、貴方みたいなガワだけの存在よりよっぽど恐ろしいことを私は知ってるから」
「ホォ……言ってくれるな」

 返答は、凪を連想させる感情の揺らぎが伺えない代物。
 対照的に、黒人は口笛を吹くものの、額には小さな青筋が浮かんでいた。
 内にどんな暗器を忍ばせているかは不明だが、外見的には高校生程度の小娘に嘗められたのだから。鉄腕の表面がこびりついた血で仄かに赤がつけ加えられるまでの長い時間、殺し屋家業に費やしてきた黒人にとって、受け入れられる訳がなかった。

「だったら俺が本当にガワだけかどうか、試させてやろう」
「そうだ、やってしまえッ。“鉄拳”!」

 鉄の拳を握り締め、初老の応援を背に受けて黒人が巻奈の元へと走り出す。
 日本人の平均身長を一回り以上上回り、横も筋肉の鎧と形容できる体躯が、踏み出す歩幅だけ幼子な訳もなし。
 数秒と経たずに巻奈の視界を覆う巨躯が放つ威圧感は尋常ではなく、さながら真正面からアクセル全開のダンプカーを見据えるにも等しい。フードが取れそうになる突風も、迫力で動かされたように錯覚してしまう。
 それでも巻奈は瞬き程度の動きしか見せず、眼前に迫る死にもまるで興味の色を示さない。

「死ねぇッ!」

 振りかぶられる右の鉄槌。
 頭蓋骨などリンゴを握り潰すよりも簡単に破砕可能な一撃が、巻奈の視界を上書きする。反応すらできていない彼女の頭は、一秒と経たずに中の脳漿を盛大にぶちまけることになるだろう。
 そんな、一刹那。
 巻奈と鉄拳を遮る手が差し込まれた。
 けたたましい破裂音が廃工場の外にまで轟く。月光が大地を照らす夜でなければ、今の音を切欠に通行人から通報されていた可能性も否定できない。

「なッ……!」

 差し込まれた腕に黒人は僅かに動揺を示した。
 腕の主にではない。彼の顔面を拳で殴りつけた際、綺麗に入った時特有の感触が伝わってこなかったから。
 邪魔が入った事実にでもない。死亡していない以上、邪魔が入る可能性は考慮すべきなのだから。
 ならば何に動揺しているのか。
 答えは容易。

「動かねぇ……?」

 掴まれた右腕が微動だにしないのだ。
 無論、抵抗の意思として力は込めている。
 だというのに。体格差も筋力差も歴然なのに。最新の機械義手による筋力補助も合わされば、厚さ一センチのカーボン素材すら破砕できるのに。
 何故たかだか十数年しか生きていない小僧の拘束から逃れられない。

「殺してやる……」

 戦鬼が呟く。
 目蓋の上を切ったのか、滴る血が顎を伝わり地面へ落ちる。インナーにも傷が目立ち、内から皮膚が覗けた。
 しかして、出血量に反比例して戦鬼の口元は戦意の高まりを訴える。

「殺してやるぞ、劣等人種がぁッ!」
「ッッッ?!!」

 背中が粟立つ。神経に電流が走る。第六感が最大限に警鐘を鳴らす。
 離れなくては。何を犠牲にしようと。依頼を投げ出してでも。右腕そのものを喪失してもお釣りがくる。
 あの戦鬼から距離を取れるのであれば。
 だが黒人の願いは届かず、先に拳の方が軋みを上げて握り潰された。

「な……!」
「逃がさねぇ──!」

 神経系統を即座にカットし、痛覚へのフィードバックを極力抑える。が、帳は意識に生じた一瞬の隙で剥き出しになったケーブルを引っ張り、黒人の態勢を崩した。
 近づくに連れて克明になる黒人の表情は見るからに怯えており、そこに帳を凌駕する経験値の蓄積はない。あるいは、迫りくる死を前にすれば誰しも同じような表情を浮かべるのだろうか。
 帳が一度拳を開いたことで内側の破片が宙を舞う。
 改めて握られた拳は硬く、筋繊維の一本一本に至るまで力を染み渡らせた射出機構は先の鉄槌にさえ劣らない。
 否、ただ鉄の塊で補強した程度の存在に遅れを取るなど、可能性から否定すべき案件。考慮にあたらぬ愚者の夢想でしかない。
 そんな安い生を十年もの間続けてきた訳ではないのだから。

「よッ!!!」

 黒人の顔が歪にひしゃげる感触が、拳を介して伝わってくる。めり込む感触からして、頭蓋骨が陥没し、頭の中がおぞましい変貌を遂げている最中であろう。
 音の壁を打ち砕き、円形上に広がる衝撃で体積の少ない物体を吹き飛ばし、黒人の身体を打ち上げる。間近で大リーガーのフルスイングを聞くにも勝る轟音が鳴ると、黒人がホームランボールよろしく廃工場の壁を貫通して突き進む。
 多数の瓦礫が数十メートル進んだところで川へと着水する中、勢いの衰えを見せない黒人はなおも打者の飛距離へ貢献。やがて廃工場など比べるべくもない煌めきを放つガラス張りのオフィスへと突っ込み、多数の窓とデスクを生け贄に漸く制止した。

「て、鉄……拳……?」

 何が起きたのか理解できない初老がどこか間の抜けた、しかし当然とも言える呆然とした声色で穴の先を眺める。
 廃工場からオフィスまでは軽く見積もっても百数メートルはあり、その上二つの間には橋もしかれている。ただの拳で百数メートル先まで殴り飛ばすなど、それこそ人外の所業ではないか。
 足音に振り返ると、圧倒的破壊を為した暴力の具現が彼の元へと歩んでいた。

「く、来るなッ。化け物!!!」
「あ゛ぁ゛? 指図すんなよ。凡人」
「帳。いい加減待ってる側も寒いんだけど」
「お前が勝手に来ただけ、なんでしょう。巻奈?」

 帳は顔だけを後方の巻奈へ向ける。彼女は立ち疲れたのか、ショートパンツが汚れるのも厭わず、近くの放棄された埃まみれの机へ腰を下ろしていた。
 巻奈が帳の気を逸らしたからか、初老は帳の身体に起きた異変──右肘から伸びる突起へ意識を傾ける余裕が生まれる。
 全身に怖気が走る。裸で氷点下の地へ放り出されるにも勝る震えが、身体の支配権を掌握する。
 決して逆らってはいけない七つの禍、その一つが彼なのだと自覚してしまう。

「“牙”……いや、それは“角”ッ。ゆ、許してくれぇ。貴方様がこのような些事に来るはずがないと……!」
「へぇ。滅相院(めっそういん)をご存知、と……
 でしたら、僕の要求に対して何をすべきかも……分かりますよねぇ?」

 禿げ上がった頭を鷲掴みにし、帳は初老へと顔を近づけた。
 チンピラや鉄拳と対峙していた時の醜悪なまでの笑みはなく、代わりにどこか幼さを感じる笑顔をしている。
 尤も、そこに年相応の純粋なものを受け取る感性は、初老に残されていなかったが。

 その空間は黒で埋め尽くされていた。
 目蓋を開けても閉じても代わりのない、どこまでも広がる無明の闇。
 一歩足を踏み出せば、元の場所には二度と戻れないのではないかと錯覚してしまう空間が、彼女に与えられた世界であった。
 両手を持ち上げて、目の前で拳を握ってみたり開いてみたり。肌の色も分からない場所では無意味な行為だが、何もやることがない以上はこうでもしないと退屈でどうにかなってしまう。
 座っている場所も最初は固い上に冷たかったのだが、長い間椅子とベッドを兼用することで彼女の熱が伝わり、快適とまではいかなくともなんとか慣れた所にまではきた。寝つきがいいとは口が割けても言えないが。

「お腹、空いたなー……」

 腹の虫が鳴り、身体が食料を希求する。
 この空間に放られてから、もうどれだけの時間が経過したのかも分からない。そも、時の流れを感じさせるものが自身の体調くらいしかないのだから。
 派手な動きや意味もなく声を上げる行為は控えていた。だが、それでも身体状態を維持するだけでも体力は消費される。
 本音を言えば、上半身を起こしているだけでもキツい。

「ホラ、早……蹴り……よ」
「スミマ……! お願……らないで……!」

 外から声が漏れてくる。獰猛な男のものとそれに怯えた誰かの二つ。
 自らを発するか、もしくはネズミや昆虫が這うくらいしか音のない空間ではある。が、今鼓膜を震わせるものは決して聞こえのいいものではなかった。
 きっと自分を拐った一派に違いない。
 そう結論付けると、自然と拳が硬くなる。無意味を通り越して体力の無駄であると頭では理解しても、手に籠る力を抑えられない。

「誰をいじめているのかは知らぬが、そのような行いは止めるのだ!」
「今……から……が?」
「こちらだ。自分達で放り込んだのに、居場所すら忘れたのか!」

 彼女の声に呼応するように、足音が近づいてくる。
 先程まで何度か大きな物音がしていた。資材の搬入か何かだと思っていたが、もしかして新入りか事情を知らない者を雇い入れていたのだろうか。
 人拐いをするような連中が。
 感情のセーブができず、彼女は椅子代わりの石から腰を上げた。このままどこか壁にぶつかるまで進んで、抗議の意思として叩き続けてやるという決意を固める。
 体力の温存など知らない。ここで抗議の一つもしなければ家の名に、ひいては自身の誇りに傷がつく。
 だが、いざ歩みを進めようとした段階で暗闇に異変が起こる。
 光が、差し込んだ。

「ここですかぁ」


 声が聞こえた。
 何かに遮られてくぐもった、歩行音でも掻き消せてしまう程に脆弱な声が。
 口角を上げた帳は先程まで引きずっていた初老から手を離し、声の方角へと足を進めた。あまり足音を立てないように意識して、声へと耳を傾ける。

「今、どこから声が?」
「こち……自分達で……すら……のか!」

 問いかけを投げれば意味が読み取れるまではいかなくとも、徐々に怒気の含まれた声量が高まる。確実に距離は縮まっていた。
 帳の意図を把握したのか、背後についていた巻奈も音を殺す。
 そうして辿り着いたのは、奇妙な扉であった。
 本来内側を覗くためのガラスには目張りをしており、隙間という隙間を多量の張り紙で覆い隠す。ここまでやるならいっそ扉そのものを隠せばいいだろう処理をしておきながら、取っ手だけは剥き出しの有り様。

「ここですかぁ」

 初老や屍の山へのドス黒い感情が沸き立つ感覚を自覚しながら、帳は取っ手を掴む。
 セメントなどではなく所詮は張り紙。取っ手を引けば紙の破ける音が鳴り、薄暗い室内が露となる。

「う、眩し……」
「は……?」

 扉へと歩こうとし、室外から注がれる水銀灯の輝きで目を瞑る幼子が一人。椅子兼寝具なのか、石作りの長方形が一つ。
 後は何もない。
 窓は内と外から念入りに封鎖され、光を完全に遮断。子供が遊ぶための玩具は勿論、手に取れるものすらない。その上で照明すら取り外され、光でさえも介在する余地を失っている。
 視界が潰れていた影響か、もしくは誘拐された時に乱暴されたのか。透き通る空色の長髪は所々が乱れ、肩を露出したドレスのような純白の衣装は砂埃で煌めきを失っている。表情にもやつれた様子が伺え、マトモな食事があったのかさえ疑問視してしまう。
 アイツ、殺すか。
 ごく自然に傾いた思考に従い、帳は踵を返す。目標は折れた右足を抑えてうずくまっている被害者気取りの加害者。

「そこまでだ」
「ん?」

 背後から飛び込んできた声は、決して大きくはない。しかしどこか逆らい難い何か──あまりにも抽象的ではあるが、抱いた感想を正しく形容する術を帳は持っていない──を秘めた言葉であった。
 半身で背後を見ると、幼子が扉の縁に掴まりながら帳を強く睨みつけている。

「妾を拐い、その上おじいさまにあのような仕打ちを……恥を知れ、賊め!」
「はぁ?」

 幼子の言葉に、思わず帳は口を開ける。
 古風な言葉遣いはともかく、何故自分が責められているのかが、帳には理解できなかった。
 首を傾げて辺りを見回せば、倒れ付したチンピラが一人。その容姿を暫し眺め、合点がいったと帳は手を叩く。

「あぁ、そういうアレですかぁ」
「何を納得しているッ。早くおじいさまと妾を解放しろ!」
「認識がズレてますよ、お嬢さん。
 まず、僕はお嬢さんを助けに来た者で、向こうの死に損ないが誘拐犯の主犯ですよ」
「助けに来た……」

 幼子は怪訝な目を帳へと向ける。
 誘拐されたのだから、突然目の前に現れた人物に不信感を抱くのは何もおかしくない。品定めするような視線となるのも理解が及ぶ。
 そんな理屈とは別のところで腹が立つのは事実だが。

「信用できんな。お主のような血塗れの近衛など、忘れたくとも忘れられんわ」
「僕は近衛じゃなくて、お嬢さんのお父さん辺りに雇われた始末屋なんですよぉ。だから、柄が悪く見えたならそれも仕様と言うことで」
「帳、その娘が山城(やましろ)家のご息女なの?」
「そうですよ、巻奈。ただ、信用されてなさそうなんですよねぇ」

 とぼけた調子で背後へ投げかける帳だが、正面に立っていた幼子は巻奈の姿を見て顎に手を当てる。

「ふむ……
 そこな顔を隠したお主。お主達は本当に妾を助けに来たのか」
「そうよ、山城家からの依頼でね。
 忠誠ではなく金銭のために救われるのは拒否感があるのかしら。だとしたら、そこは依頼人の愛で妥協して」

 およそ熱のない、限度を知らない冷たい言葉達が巻奈の口から放たれる。
 流石帳も閉口し、頭を掻く。
 巻奈の言葉はあまりにも直球が過ぎた。少なくとも子供に対して向けていいのか帳が悩む程に。これでは一層幼子が警戒してしまうではないか。
 だが彼の予想とは裏腹なことを幼子は口にした。

「そうか、それは大義であった。山城の家の者としても、助けられた者としても礼を言う。色々と格好がつかないのは許して欲しい。
 ……なんだお主、妙な顔をして。報酬で動く者は報酬を与えられる限り信用できると、お父様は度々口にしていてな。ここまで正直に言えるのであれば、信用にも値しよう」
「あぁ、そうですか……では」
「どこへ行くつもりだ?」

 再び背を向けた帳へ幼子が突き刺さらんばかりの視線を向ける。
 誤解は解けたはずなのに、ともすれば解ける以前よりも強烈は視線を。

「どこへ、って。当然、お嬢さんへ粗相を為した不届き者への制裁、ですよぉ」

 口を開けば口角が歪む。
 おそらく、今振り返れば幼子が泣きわめくに違いない表情を形作っていることだろう。
 戦鬼なんて大層なものではない、ただ人型をしているだけの獣の顔を。

「不要だ。あの様子ではもう何もできないであろう」
「お言葉ですが、邪魔者は消せる時に消しとくべきでは?
 幸い、僕は口が硬いつもりですがぁ」
「不要と言った。山城の家はあのような男に二度も遅れは取らぬ」

 幼子の言葉に歯噛みするものの、無視する訳にもいかない。
 ため息と共に籠った熱を吐き出し、帳は幼子へと向き直る。子供の前に出しても問題ない表情を形成して。

「改めて礼を言おう。妾は朝日。
 山城の家が一人娘、山城朝日(あさひ)だ」

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