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川野里子『ウォーターリリー』短歌研究社*書評
第5回BR賞(ブックレビュー賞)応募作です。まだまだ筆力が至らず、予選通過かないませんでしたが、心を込めて書きました。
「あなたも、そこにゐる。睡蓮に生まれて」 淀美佑子
あなたは、自分の現在地をほんとうに知っていますか?どこに生きていますか?
ウォーターリリーここに生まれてウォーターリリーここがどこだかまだわからない
この歌集には、睡蓮をモチーフにした歌が様々な題材の歌の狭間に、繰り返し登場する。これらの歌は、歌謡曲の(俗にサビと呼ばれる)リフレインパートのように功を奏していて、歌集全体をひとつの世界観にまとめあげている。引用した冒頭の一首は、独立して読むと主語である「ウォーターリリー」が擬人化されているのか、何者なのか、どこにいるのかわからない。ただ始まりの予感がする。
さてこの歌の二頁前に、序文のような一文がある。
「わたしはひとつの声であり、
また多声である。」
この歌集を通して多く歌われている題材は、様々にすくい上げられた社会問題で、この世の小さな声を、歌というひとつの声にしている。
ブレーキとアクセル踏みまちがへたといふ日本(にっぽん)がそしてある老人が
ニュースで聞いた覚えのある交通事故。それを起こした老人が、「日本」という国そのものとして並べられている。これはわたしの生きている国のことだと、はっとさせられ、恐ろしくなる。あなたは、どんな国にいますか?
誰もが強く記憶に刻んでいるであろうコロナ禍を題材とした連作「舟歌(バルカローレ)」では、ダイヤモンド・プリンセス号を歌っている。
病む船は繭ごもり浮かび日本列島は帆のあらぬままふたつの船よ
隔離 われわれの大き沈黙は切り離したりわれわれ以外を
およそ一ヶ月横浜に停泊した船を、不安な気持ちで見守った大多数「われわれ」の側にわたしもいて、その「大き沈黙」を担った。そして「われわれ」もまた「帆のあらぬままふたつの船よ」と言われるとおり、日本中が身動きできずにいる船だった。
「繭ごもり浮かび日本列島は」は定型からあふれていて、「列島」を削ればかなり定型に近づくが、船を表現するのに「列島」という重たい字余りを引きずって下の句へ向かうほうが、この歌にふさわしいと感じる。
また、コロナ禍に疫病退散のお守りのような意味合いで流行した妖怪アマビエを題材にした連作「アマビエの海」は、そもそものアマビエ発祥の肥後の海、水俣にも焦点をあわせながら疫禍を見渡した深みのある連作だ。
わが姿見よとぞアマビエ現れき水俣の海ひとたび死にき
ぴつたん。アマビエの三本の足立ち止まり ぴつたん。人間を見る
社会的(ソーシャル)距離(ディスタンス) 人間(ひと)は恐ろしき心あるゆゑ近づくべからず
「ぴつたん。」あなたは見ましたか、それとも見られましたか?この歌を一読したとき、主語であるアマビエの視点で人間を見たように想像するか、アマビエに見られた人間側として想像するか、あるいはその両方が想像できる。自分のなかにいるアマビエが、自分と向き合ってしまう驚きがないだろうか。人間である限り、人間を客観視することは難しい。しかし、アマビエを通して、人間の異質を客観的に見せられる構造だ。そして「ぴつたん。」という読点付きのオノマトペを用いた独特の韻律も読みどころだ。4/5/7/5/4/7と、読点を一音として数えない場合、合計三十二音、(「。」に0.5音ずつくらい感じるが、)少し字余り程度の長さだ。破調でも三十一音に近ければ近いほど過不足のない一首として違和感なく読め、この歌も冗長な印象はない。しかも、読点によって呼び出される緊張感が、アマビエとの遭遇に生々しさを与えていて、迫真力がある。
ソーシャルディスタンスも、コロナ禍をきっかけに浸透した言葉で、感染症対策が目的の主軸であったはずだが、同調圧力の強い日本では、人の目を気にしながらその距離をとるという心理も働いた。疫病よりも「人間は恐ろしき心あるゆゑ」であることに強くうなずけるし、無意識への気づきがあった。
これらの歌はこの歌集の社会詠の一端で、その視野は広く地球全体に及ぶ。『ウォーターリリー』の世界を旅する出発点に、わたしが日本を選んだにすぎない。
遠視のわれかなたばかりがよく見えて北方領土は白鳥のもの
いづこからいづこへ返還されたるか琉球諸島は青海(あおうみ)のもの
この兄弟のような北と南の二首は、まったく別々の連作に含まれる歌だが、日本から世界へそして大自然へと視野を開いてくれる。そこからは、戦争の、原子力の、ベトナムの、カンボジアの、様々な声が聞こえてくる。旅はまだ始まったばかりだが、ここでもう一度最初に立ち戻りたい。この歌集において、ウォーターリリーとは何なのか。
ウォーターリリー、ウォーターリリーそこに咲くあなたは炎で手が届かない
多元宇宙のなかの銀河のそのなかの太陽から三番目 睡蓮咲いた
生まれたらゆれるしかないゆれながらひらくしかない睡蓮咲いた
「ウォーターリリー」が単に植物としての「睡蓮」以上の何かの比喩であることは明白で、引用した三首から読みとるだけでも「炎」であり「地球」であり「生命」である。
植物としてのスイレン科は、大地と水と空とを繋いで生きている。その神秘的な姿は、古代エジプト文明や仏教など古くから長きに渡り象徴的な花とされている。
白蓮華、化仏、日輪 仏像の千手が摑む藁のかずかず
この歌は、京都の蓮華王院三十三間堂を詠んだ連作の中の一首で、リフレインされる睡蓮の歌とは一線を画すものの、筆頭に「白蓮華」が在ることに注目したい。千手観音は、まさにこの世で助けを求めている人々の声を聞き、手を差し伸べるという思想の具現化だ。
こういった思想を内包しながらも、それを大きく飛び越えたところに、この歌集のウォーターリリーの概念はある。火であり水であり、生であり死であり、中国思想で言う陰陽のように睡蓮はある。ゆえに睡蓮は、この世を見渡す眼となり声となり、それを通して、わたしたちは自分の生きる場所を俯瞰することができる。
社会詠と睡蓮の歌、このふたつが縦糸と横糸のように、この世の小さな声を聞くという壮大な主題を織りなしているわけだが、これを読むにあたって、特に身構える必要はない。中には地に足のついた歌がありほっとする。
明けない夜はない のだけれど子の部屋に目覚まし時計三つを拾ふ
穴あらぬポケットに指の居場所なくしかたなければ拳を握る
朝は来るけれども、なかなか目覚めない子を歌った、微笑ましい一首。次の歌は、穴のあいたポケットに手を入れているとそこに指を入れてしまうけれど、穴がないので拳を握るという何気ない仕草の歌だ。このような歌の、きちんと実在し生活している人間の匂いは、遠い国のニュースに置き去りにされるような感覚を回避し、社会詠を浮世離れしたものにしないエッセンスにもなっている。
さあ、旅に戻ろう。もっと多くの声を聞きに。それらの声を聞くことで、自分の現在地も見えてくるかもしれない。わたしが一緒に旅するのはここまでだけど。
ウォーターリリーふれたら逃げるウォーターリリー呼んだら消える
ウォーターリリーウォーターリリーウォーターリリー そこにゐますね
いってらっしゃい。きっとあなたも、そこにゐます。この歌集を開いて聞けば。
『ウォーターリリー』川野里子 二〇二三年八月十日発行