【リライト】逃げていた。だけど幸せだった。 #クリスマス金曜トワイライト
潮が舞い上がって砂浜は白く霞んでいる。海沿いの公園にあるベンチは強い太平洋の風にさらされて、鮮やかだったはずのグリーンのペンキは剥がれ落ち、朽ちかけていた。
目に映るのは残酷なほど青い空と、細く刺さる日差し。遠くでコンクリートを打ち付ける波音。
僕は風に吹かれてベンチに落ちた砂を、皺が増えた手で払いながら、ゆっくりと腰掛ける。
今でもこの海に来れば会える気がする。
おそらく叶わない願いを思い、自らを嘲って目を閉じた。
未だ心に残るのは、今日の暖かな陽光とは裏腹な、土砂降りのように降り注ぐ理不尽から逃すことが出来なかった、僕の無力。
あの日確かに、僕たちはここにいたんだ。
どうしようもない不安や良心との葛藤を抱えて走っていたあの頃の僕たちが。
でも僕は、あの子の傘になれなかった。
あの子が隣に居ないことで、心にぽっかりと空いた穴を埋めないままでいれば、償いになるのだろうか。
答えがでない僕は独り、今を生きてしまっている。
□
ランドセルを玄関に置いてすぐ、僕は所々錆びた自転車に乗り込んで公園を目指すのが日課だった。玄関の先にある、闇のような空間には居場所がなくて、僕自身の存在を消してしまいたい場所だったから。
きしみをあげて自転車を走らせていた時、明らかにそれとは違う音が飛び込んできた。何かが割れる音だ。僕は思わず両手を握りしめてブレーキかけた。減速していく自転車の先には、視線が定まらないまま口だけ笑いながら青い何かを抱え、裸足で立ちすくむあの子がいた。
その姿をみた瞬間、僕の胸には、あの感情がしぶきをあげて溢れ出した。
口元の笑顔とは真逆の恐怖を察するのに、時間はかからなかった。同じ境遇にいるものだけが解る、あの感情。
「い、いつもは優しいんだよ…」
震えた唇から発する言葉が終わらないうちに、僕はあの子の肩を掴んだ。
あの子の背後から、玄関越しにこちらを見据える母親の周りには、割れたガラスが棘のように光る。その奥は、僕の家と同じ、闇だ。
「…乗って」
「え…でも」
「いいから乗って!」
僕は錆びついた後ろの座席の汚れを右手で払い、あの子の肩を掴んだ左手を引き寄せ自転車の後ろに乗せた。右手に付いた赤茶けた錆を、ハンドルと共に握りしめたまま、僕は走った。
汚れを払ったせいでざらついた手は汗ばみ、付着した錆の匂いは風に入り混じって微かに鼻をつく。夢中でペダルを踏みながら背中に感じるあの子の体温と、2か所の湿度は、なぜか僕の心を落ち着かせ、さっき溢れ出した土砂降りような感情を鎮めていった。
守らなくちゃ、と、思ったんだ。
□
「それ…」僕はあの子の持っているものを指さした。
「え?ああ。これ…」
あの子が抱えていたのは、青い豚の貯金箱だった。
「割ったら痛いかな…」
「かもしれないね」
「ごめんね…」
青い豚に謝るあの子をみて、僕は何も言えなくなった。
お金を拾い集めて、その日の青空と同じ色のスニーカーを買った。
僕はおばあちゃんの家がある南へ向かって、海沿いの道を走ることにした。
僕はペダルを漕ぎ続けた。
先のことなど分からないまま、闇から離れることだけを考えていた。
頭は空っぽで、とにかく夢中でペダルを漕いだ。足にかかる重みはいつにも増して重かったけれど、あの子を乗せた分、前に進まなければと力が入る。少しでもあの子を悪い何かから遠ざけたかった危機感と、二人でなら、どこまでも行けるという根拠のない自信が、僕の足に力を与えていた。
逃げていた。だけど幸せだった。
いくつも街を通り過ぎた。夜は誰も住んでいない廃屋や漁師小屋を見つけて新聞紙にくるまって寒さをしのいだ。天気のいい日は海の見える公園の芝生で寝た。自転車を降りて、晴れた砂浜を二人で歩いていた時、あの子はおもむろに木の棒を拾い上げ、絵を描きはじめた。家の見取り図だ。
「ここは台所ね。私カレーが好きだから、大きなお鍋を買うの。お皿は長くて丸いのがいいなあ」
そう言いながらあの子は笑ってカレーの絵を描いた。
「はい、どうぞ」
「あ、ありがとう…」
おままごとなんて女の子の遊びなのに、という恥ずかしさを隠して、「ムシャムシャ」と食べるふりをしていると、僕の顔をじっと見つめて、不意にあの子が呟いた。
「ねえ…あとどれくらいかなあ」
あの子がそう言った時の、どこか泣きそうな瞳が今も忘れられない。
逃げていた。だけど幸せだった。
二人はいつも空腹だったけど、出来るだけ言わないようにしていた。が、背に腹は代えられない。僕はあわててズボンのポケットをまさぐるけれど、出てきたのは二束三文の小銭。情けない顔をした僕を見て、あの子はうっすらとほほ笑んだように見えた。
夜、公園にある土管の中でも、拾った新聞紙にくるまり寄り添った。少しだけ口を開けて、静かな寝息をたてるあの子の頬の産毛が、土管に少しだけ差し込む白銀灯の光に照らされて、とても綺麗だったんだ。その顔を見つめていられる時間が、何より僕を強くしていたのだと今でも思う。
立ち寄ったコンビニで肉まんを買い、一つを半分にしながら、どちらが大きい方を食べるかをじゃんけんで決めた。あの子はいつも最初に「パー」を出してしまう癖に気が付いていないから、僕はわざと「グー」を出して負けるのが嬉しかった。湯気と共に、2人だけの温かさを分け合う瞬間、身体の内側が妙に熱くなった。
僕はまたハンドルを握りしめペダルを漕ぐ。あの子の体温を背中に感じながら、いくつもの街を通り過ぎる。
やってられない毎日にピリオドを打つ。そしてずっと二人でいられたら、どれほど楽しいだろうと思う反面、こんな脆く不確かな日々を、どこまで走り続けていけるのかを考えていた。いつか終わりが来ることを感じながら。
逃げていた。だけど幸せだった。
□
あの子は肉まんを買いに行くと言って、コンビニに向かった。
なんとなく嫌な感じがして、僕も後を追いかけたが、遅かった。
そこにはパトカーが2台と警官に取り囲まれたあの子が、肉まんを抱えたまま立っていて、僕は思わず柱の陰に隠れた。
隠れながら僕は、青い豚の貯金箱を抱えていた、あの日のあの子を思い出していた。
あの子を守らなくちゃ、と、思って、僕はペダルを漕ぎ続けてきた。
漕ぎ続けて来たのに、結局はどうすることもできなかった。長くて丸いお皿に入った本物のカレーを二人で食べたかったのに。
パトカーに乗せられたあの子を観ることが出来ないまま、僕はその場を離れた。
僕は一人、再びペダルを漕ぎ続けた。軽くなったペダルを踏みしめる脚は弱虫で、無力で、情けなかった。
土砂降りのように降り注ぐ理不尽がまた、僕の心を支配していく。どうしようもない情けなさから逃げるように、夢中でペダルを漕ぎ続けた。
守ってあげられなかった。
割れたガラスのように鋭く尖った事実だけが、今も胸に刺さったままだ。
□
僕は身体だけ大人になった。
大人になったけど、あの子と過ごした一週間にも満たない思い出が、いくつ恋を重ねても棘のように刺さったまま、抜けることは無い。
原稿を書くときにインクで汚した手を、静かに見つめながら思い出す。
錆びついた鉄の匂い、割れた青い豚の貯金箱の破片、あの日の青空と同じ色のスニーカー、カレーの絵を描きながら見せる笑顔、二つに分けた肉まん、震える唇、泣きそうな瞳、光る頬の産毛。
ゆるく長い登り坂の石垣にみかんが見えた時のことを。自転車を一生懸命こいでいる僕の背中に押しつけるあの子の顔。鼻をすする音。あの時、聞こえないふりをした言葉の答えは、もうあの子には届かない。
「なんで、やさしくしてくれるの。。あたしなんて。。かわいくないのに」
今なら、今ならその答えを、ありったけの気持ちを込めて言える。
言えるのに。
未だ心に残るのは、今日の暖かな陽光とは裏腹な、土砂降りのように降り注ぐ理不尽から逃すことが出来なかった、僕の無力。
あの日確かに、二人はここにいたんだ。どうしようもない不安や良心との葛藤を抱えて走っていたあの頃の僕たちが。
でも僕は、あの子の傘になれなかった。
あの子が隣に居ないことで、心にぽっかりと空いた穴を埋めないままでいれば、償いになるのだろうか。
答えがでない僕は独り、今を生きてしまっている。
-Fin-
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随分とご無沙汰しております。くくるでございます。
今回はこちらの企画に参加いたしました。
■リライトした作品
■「なぜその作品をリライトに選んだのか?」
恋にも満たない「恋ごころ」
身体では分かっているのに、それを言葉に出来るほど大人ではなかった二人。成熟した恋愛よりもまた難しいストーリーに魅力を感じた事が一つと、題材に上がっていた曲が、私の大ファンである「King gnu」であったことが理由でした。文章の中には、歌詞でよく登場する言葉を交えてリライトしてみました。
■「どこにフォーカスしてリライトしたのか?」
どこと言われれば、全体的にと言った方がいいかもしれません。
「僕」が「あの子」と出会って、守りたい、何かを変えたい一心で逃げている心情と、結局は守り切れなかった落胆を、大人になってからも引きずっている「僕」の現状は、読んでいても心に響きましたので、特に。
文面に関しては思い切って変えた部分が多い分、池松さんの原作どおりの言葉も使った時に、流れを切らないよう心掛けました。出来ているかは分かりませんが…
リライトという作業自体が、ほぼ初めての経験でしたが、久しぶりに言葉を綴る喜びを感じることができました。
池松さん、お誘いいただきありがとうございました。