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 一族で墓を守っていくのが日本の伝統なのだと、物心ついた頃から教わってきた。一般的にもそれが真実だと思われているだろう。
 だから、杏一郎は幼い頃から月に一度は父と共に墓に足を運び、供養はもちろん、墓石をきれいに洗ったり、敷地に生えた雑草や墓石についた苔を取り除いたりしてきた。
 父は日焼けした腕に汗を浮かべて懸命に草を刈っていた。
 今のように家単位で墓が建立されて納骨場として一族で共有されるようになったのは明治以降の話である。それ以前、墓は個人別に建てられていた。今でも個人別に建てられた江戸時代以前の古い墓を観光地などで目にする事がある。
 生前に人々から愛され敬われた者の墓は、生きている人々から敬意を払われ、いつまでも大切に管理されていった。一方、他人に迷惑をかけたり、世の中から愛されなかったりした者の墓は誰もお参りする者も管理する者もいないまま廃れていった。
 そのようにして、生前のその人の生き様や人柄が死後の世にも反映していたのだ。人々はそれを念頭に真面目に穏やかに生きていた、と思われるが、それが一家の共同墓となってからは失われたのかもしれない。皆から慕われた者の骨も、行き場を失った者の骨も、親族関係のみで一括して納骨されるのである。墓地に供する土地が少ないこの国においては当然の政策なのかもしれない。また、そうした方が経済負担を少なくして立派な墓石を構えられるという遺族側の事情もあったのかもしれない。ただ、いずれにしてもこれは人為的に設定された慣習である。墓は一家で守るのが伝統とは、誰もが信じてきた偽りの真実なのだ。青年となるまで、杏一郎はずっとそう思っていた。
 刺すような日照りの下で杏一郎は腕時計を覗いた。正午前だ。首筋の玉汗を軍手で拭い、ペットボトルの水を流し込むように飲む。
 軍手を外して帽子を取った杏一郎は、墓に線香を供えて拝礼すると、横の墓誌を眺めた。亡くなって祖父母や父から逸話を聞いている、五代前からの先祖の名前が刻まれている。
 腕時計を覗いた杏一郎は少し頷いてから、草を詰めたゴミ袋と墓参りの道具袋を両手に提げて、狭い通路を歩いていった。
 家に帰ると、軒下の日陰で大工職人たちが弁当を食べていた。杏一郎は会釈をして通り過ぎ、資材や電動工具が放り置かれている、開け広げられたままの玄関を通って中に入る。
 上がり框とその先の一部の床板を剥がしたら、玄関の三和土は随分と広くなった。これなら車椅子でも中で方向転換することが可能だ。増設予定のスロープで家の中にも上がれる。昇降機を間に挟むよりも玄関で直接、屋内用の車椅子に移乗してからスロープで上がれば、車椅子間の移乗は一回で済み、移される父にも移す杏一郎にも負担が少ない。
 杏一郎の腕時計は昨年夏に脳梗塞で倒れた父から受け継いだ物だ。あの墓と共に曾祖父から代々受け継がれてきている物の内の一つである。その父は今日、施設から帰ってくる。その時刻までに工事は終わるだろうか。考えながら腕時計を見る。帰宅する予定の時刻、そこからは杏一郎たち家族が中心となって介護しなければならない。大変だろうが、それでもいい。杏一郎はそう納得していた。あの墓に入っている人々も皆そうしてきたと聞いているからだ。皆で協力して一人を支えていく、それが家族なのだ。だとすると、一族で共同の墓碑を建立し、そこに家族の亡骸を納め、一族でその管理を分担し引き継いでいく、これは家族らしい祭祀観念なのかもしれない。
 杏一郎は今日、初めてこの腕時計をして墓に行った。墓守の腕時計、それを見つめながら、杏一郎は思う。偽りの真実でもいい。真実は真実だから。



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