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迷惑を掛けたり掛けられたりの効能

 こんばんは。イルチブレインヨガ一般会員フマジメ枠のyoctoです。睡眠習慣なおしたいと言いながら午前にならないとnote開く気にならない困った人でもあります。まああまり気にしません、不真面目なので。
 今日はですね、表題の通り、珍しくちょっと考えることがあったので、「”迷惑”はそんなに排除すべき存在なのか」ってとこらへんをフマジメ一般会員目線で考えたいと思います。


1.迷惑?

 先日のことです。生協さんのやってる社会活動の一環で、家事なんかのサポートをする活動があるんですが、それでバスに乗ってサポート場所に向かっている時でした。
 そのバスは前乗りで、私は後ろのほうの座席に座っていました。あるバス停で女性が乗ってきて、いえ、乗ろうとして何事かを苦労されていました。
 後ろの方の私からはよく見えなかったので「パスモとかお財布をカバンの中で探してるのかな?」と思って大人しく待っていたんですが、私より前のほうに座っていた年配の男性にはその方の困っている様子が分かったらしく、大丈夫ですか、と声を掛けて助けに行かれました。女性が乗り込んでこられて分かったんですが、その女性は杖を付いていて、どうやらどちらかの足が上がらなくてステップが昇れなかったようです。
 さっさと助けに行けば良かったなーと自分の機転の利かなさを後悔していると、その時私よりもっと後ろのほうで座っていた銀のお姉様方*が、
「他人様に迷惑かけないようにしたいわよね〜私もバスに乗る時モタモタしちゃってすごく焦る時があるわぁ〜」
 なんつってお喋りされてるんです。さすがに前まで聞こえるような大きな声ではありませんでしたが、なんというか、一昔前の橋田壽賀子ドラマに出てきそうな人達だなと思いました。
 それで思ったんです。

 迷惑ってそんなに存在しちゃいけないものなんでしょうか?


2.実はコミュニケーションの手段なのでは

 なんでそんなふうに考えたかって、私はいわばその時どこかの誰かの困ったに手を貸して解決するためにバスに乗ってたわけです。もしどこの誰も困らなくて、助けて欲しいって言わなかったら、その時の私の存在意義ナッシングですよね。もともと低い自己肯定感がだだ下がりです。
 迷惑をかけてもらって、誰かを助けて、社会のなかでの自分の存在意義を知ることもあります。
 もちろん迷惑も程度の問題で、巨大な迷惑行為は困ることがありますが、その巨大さも個人個人の受け止め方で大きくなったり小さくなったりしますよね。つまり迷惑かどうかは絶対的なものではなく、相対的なものです。
 それに、反対に自分が迷惑をかけることもありますが、その時、適度な反省と感謝以上に自分を責めてしまうと、社会のなかでの自分の居場所はなくなります。他者から責められて居場所を失くすのでなく、自分から居場所を捨ててしまっているんですね。そんなことをしていたら生きづらいのは当たり前だなと思います(主に過去の自分自身について)。

 迷惑をかけたりかけられたりが無かったら社会におけるコミュニケーションのタネは半分以下になってしまうのではないでしょうか?
 残るコミュニケーションは売ったり買ったりといった極限まで自動化された無味乾燥な交換と、恋愛や紛争などの生物としての本能による原始的なものが殆どになってしまう気がします。
 表現もコミュニケーションのひとつですが、原始のヒトも壁画やダンス、楽器などで表現していたことは分かっているので、もしかしたら表現自体は本能に近い部分のコミュニケーションなのかもしれません。
 迷惑をかけたり掛けられたりを受容する能力、それは優しさや思いやり、いたわりといった、人間の脳が高度に発達したからこそ得られた最新の能力なのではと思ったりするのです。
 ただの交換でなく、ただの欲望でなく。
 また、技術の発達によるものでもなく、ヒトが社会のなかでその社会性を成熟させた結果なのではないか、と。
 誰とも接することなく衣食住に至るすべての営みをひとりで完結させている人以外、誰にも迷惑をかけず、誰の手も借りずに生きられる人間なんていません。
 迷惑掛けたり掛けられたりって、人間が群れて生活する生物としてのある意味自然な姿、つまり私たちが生きているからこそ出てくる事象ですよね。
 なのに「迷惑」を絶対悪にカテゴライズしてしまったら、自分の首を絞めることになりませんか?
 水道を例にとりますと、水道局の人が働いてくれているから蛇口のコックを操作するだけで出てきますが、それは「労働に対する対価を払っているから迷惑かけてない」と思われるかもしれません。
 でももし、対価を払われてもしたくないって水道局から言われたら自分で水を用意できません。たちまち困りますよね私たち。
 対価を支払っているにせよ支払っていないにせよ、みんなが、誰かの力を借りながら、誰かの時間を使ってもらって、自分の今の生活を維持しています。
 それと同じで、誰かの「困った」を「迷惑」として一方的に排除対象にしてしまったら……次に排除されるのはもしかしたら自分かもしれません。


3.他人様に迷惑をかけまい、ではなく


 迷惑をここまで擁護するのは、別に私がその日のサポート活動で肉じゃがをちょっと水加減まちがえて肉じゃがスープにしてしまったからではありません(利用者さんは快く許してくださいました。ありがたや)。
 社会での迷惑かけたりかけられたりは必然の事象で、その時々で助けられる人が助ければ良いじゃないと思ったのもありますが、何より「迷惑は絶対悪だ」という思想をどうにかした方が人間、生きやすくなるんじゃないかなと思ったからです。例によって、脳が嫌がることはしたくない、変えていきたい人なので…大胆ですか?そうですね。
 銀のお姉様口調で「ヤダヤダ、迷惑は掛けられたくないわね〜、アタシも他人様の迷惑にならないように気をつけなきゃ!」って言うのは個人の自由ですが、自分の耳を介して脳はちゃーんと聞いてます。声に出して言うと脳にすごい影響が、っていうのを本などでご存知の方もいらっしゃると思いますが、脳が「そーなんだ〜」ってインプットしてしまうと、自分の言動もそのようになってきます。
 つまり、この事例の場合、迷惑を掛けまい掛けられまいとして社会とか自分の実情からどんどん乖離していき、どんどん生きづらくなります。極端ですが現実的な例を挙げると、歳食って誰かのお世話になるようになった時、「迷惑ばっかりかけて、もう死にたい」ってなります。
 だったらそんなせせこましいこと口ずさんでないで、死ぬまで生きやすくなってやりましょうよ。
「私はたくさんの迷惑を許せるし許してきたから、周りの人も許してくれる、大丈夫」って口で言ってみましょう。そうじゃない、私は不寛容だし…と思っても言ってみましょう!
 私も口に出して言うのはフマジメ一般会員的にはすっごくしゃらくさいので嫌だったんですが、口で言うと耳を介して脳に情報が伝わるというのを小耳に挟んでから、大事なことはなるべく口でブツクサ言うようにしています…口がへの字になっても。

4.すぐに変われなくても



 良いんです。すぐに変われなくても。認知を変えるためには時間と訓練が必要ですし。
 そして、脳にはなるべく良い情報を入れるようにしましょう。これはイルチブレインヨガの元、脳教育でもよく言われる文言です。やっと出ました、今日の非公式広報活動。
 「自分は誰かの迷惑になっているんだ」ではなく「迷惑を受容してもらい、他人様の迷惑を受容しながら生きているんだ」と思考転換のウルトラCを決めましょう。

 誰かの抱えた生きづらさが少しでも軽減されていけば良いなと願いつつ、今日はこの辺でお開きにします。おやすみなさい。


*銀のお姉様=シルバー世代の妙齢の女性




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