
感受性を豊かにすることはできるのか
感受性が豊かな方が人生楽しそうだなと、ふと思った。
でも感受性って何だろう?分かるようでよく分からない。
辞書にはこうある。
外界の刺激や印象を感じ取ることができる働き。「感受性の強い人」「感受性が豊かだ」
なるほど、とは思うものの、これだけだとどうすれば豊かにできるのか、その切り口も分からない。
そもそも、自分がなりたいのは本当に「感受性が豊か」なのだろうか?言葉の定義すら分かっていないのに。
ここで気付いたのだけれど、「感受性が豊か」の正しい定義を知りたいわけではない。目的は「感受性が豊かだと色々なことに感動できて楽しそうだなぁ」と自分が憧れた状態に近づくこと。
では、自分が思う「感受性が豊か」とは何なのか?
あいみょんがラジオで「感受性がめっちゃ強くてすぐ泣く」的なことを言っていた。これは自分の「感受性」のイメージに合う。そこで、「感受性」と「泣き」について掘り下げてみる。
「感受性が強い人は泣きやすい」に違和感はない。でも、「泣きやすい」と「感受性が強い」はイコールじゃないと思う。違和感がないのにイコールじゃないのは、言葉が足りないから。
「感受性が強い人はホニャララだから泣きやすい」の、「ホニャララ」が知りたい。
そこで極端だけど、一枚の絵を見て泣くことを考えてみる(そんな経験はないけど)。どんなプロセスがあるか、人によって違うのはどこか。
こんな風に分解できそうだ。
(1) 絵が存在する
→ (2) 観察する
→ (3) 想像する
→ (4) 感動する
→ (5) 泣く
ここで、(1)以外は全て個人差がある。
(2)同じ絵を見ても、観察力が違うと得られる情報は違う。
(3)同じ情報でも、そこで止まる人もいれば、自分の体験に重ね合わせたり、想像の膨らませ方は違う。
(4)同じ想像をしても、感情の動きやすさは人それぞれ。
(5)同じだけ感動しても、涙が出るかどうかは人それぞれ。
だいぶ具体的になってきた。ここで改めて自分がどうなりたいか考えてみる。
涙が出るかどうかはどうでも良くて、感動したい。つまるところ、「よりよく観察して、想像力を豊かに働かせることで、沢山の感動を味わいたい」ということだと思う。
これは頑張ってどうにかなることだろうか?
どうにかなると思う。観察力と想像力は伸ばせると思う。
観察力はよく見ようと意識するだけでも違うし、そのジャンルへの慣れでも違うと思う。生まれて初めて花の絵を見たときには「花だ。」としか思わなくても、100枚の花の絵を見た後には、「花なのはもう分かった。どんな花でどんな部屋にどうやって飾られてるのか。」と色んなことが見えてくるだろう。
想像力には人生経験や知識量の影響も大きい。「病室なのに縁起の悪い花だから、もしかして嫌われてるのかな」とか。年を重ねるほど良いかもしれない。
より感動して、より人生を楽しむことは、まだまだできそうである。