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消えゆく星空:天の川に思いを馳せて
自然や動物、環境保全などに関する海外メディアの中で、個人的に気になった記事や番組を紹介し、そのことから思い浮かんだこと、思い出したことなどを綴る。
今回は「光害(ひかりがい)」について。
フランスのラジオ番組「De cause à effets, le magazine de l’environnement」から、2022年8月13日の放送「Le ciel étoilé, un espace en voie de disparition ?」の内容を一部引用しつつ、心に浮かんだあれこれを記す。
* De cause à effets, le magazine de l’environnement:環境問題に関連する一つのテーマを取り上げ、研究者、アーティスト、思想家、活動家などのゲストと共に考える番組。ラジオ・フランス「france culture」にて毎週火曜日放送。司会 Aurélie Luneau(歴史学者)
「Le ciel étoilé, un espace en voie de disparition ?」
ー星空はこのまま失われてしまうのか?ー
ゲスト
Samuel Challéat:地理学者。著書『Sauver la nuit』(Premier Parallèle社)
Carole Reboul:自然写真家。著書『Il était une fois la nuit』(Salamandre社)
環境省の定義によると、光害とは「良好な『光環境』の形成が、人工光の不適切あるいは配慮に欠けた使用や運用、漏れ光によって阻害されている状況、又はそれらによる悪影響」のことをいう。街のあかりのような人工照明により「星が見えにくくなる」現象も光害だとしている。
光害は、都市化や交通網の発達等により屋外照明が急増した1950年代以降、世界各地で認識されるようになった。日本でも1970年頃から天体観測への障害が問題視され始める。
2016年6月10日掲載の『Science Advances』の記事によると、世界人口の80%以上が人工光の影響で明るくなった夜空の下で生活をしていて、さらには、世界の3分の1以上の人々(欧州では人口の60%、北米は80%)が、天の川を肉眼で見ることができないという。また、ドイツ地球科学研究所(GFZ)の研究グループが2011年から2022年にかけて実施した調査では、毎年9.6%ずつ夜空が明るくなっていたそうだ(2023年1月19日『Science』掲載)。
番組前半では、光害が私たち生物に与える影響が指摘された。
昼と夜の区別が曖昧になることがもたらす生態系への影響は深刻である。昼行性の生物にとっては、活動時間が延びることで十分な休息が取れなくなり、夜行性の場合は、狩りや移動、繁殖行動などが効率的にできなくなる。例えば、孵化した子ガメや渡り鳥が、月や星の光ではなく人工的な明るさに導かれて目的地に辿り着けないことや、繁殖に生物発光を用いる蛍などへの悪影響があげられる。
私たち人間への影響も無視できない。睡眠障害、がん、ストレス、不眠による肥満などの問題が深刻化している。過去50年で睡眠時間は1時間半減少した。24時間稼働する社会では、寝ることは「時間の無駄」と考えられがちである。
スロベニアやフランスでは法律の規制により光害対策が進んでいるという。「光の都」パリでは、近年のエネルギー価格の高騰も受けて、2022年から観光名所のライトアップを数時間短縮することとなった。以前は深夜1時まで照らされていたエッフェル塔も23時45分に消灯される。
私たちは明るさに慣れてしまい、本当の夜の感覚を失ってしまった。暗闇に不安を感じるのだ。昼が終わり、夜が来るということを受け入れなければいけない。
暗闇に対する負の感情について、自然写真家Carole Reboul氏は「夜に自然の中へ入ってみると、それが本物の恐怖ではなく”怖いと思っているだけ”だと気づく。」「暗闇では生き生きとした感覚が蘇る。嗅覚や触覚、聴覚など視覚以外の感覚が研ぎ澄まされる」と語っていた。そして「自分の居場所ではないと感じるのが心地いい」という言葉が印象的だった。
大切なのは美しいものを見ること。小さい頃に心を動かすような体験をすること。そして、成長してもその感覚が持続されるようにすることだ。
番組の最後に、宇宙での花火や夜空に浮かぶ広告などのプロジェクトの存在にも言及していて、それらは本当に必要なのか、星空の代わりに夜空の広告を見る生活を私たちは望んでいるのだろうか、と改めて考えさせられる内容だった。
私自身、日が沈み暗くなった後の自然がどういうものなのかを知りたくて、登山道が比較的整備された、登り慣れた山を、あえて夕方から登り、夜に下山したことがある。町に近い山なので、残念ながら星がきれいだったという記憶はないが、背後で二足歩行ではない何かの、ガサガサという物音がしたり、携帯していた小さなヘッドライトが偶然照らした先に光る目があったりと、どんな動物なのか姿がはっきり見えないことでドキドキが増すのと同時に、本来は平和であるはずの彼らの時間に、お邪魔して申し訳ない気持ちになったことを覚えている。そして、昼間の登山と違い、二足歩行の誰にも見られていない開放感も感じていた。
以前、四国地方に住んでいた時、家の近くのお寺の片隅に人工的に作られた小さな洞窟があった。いわゆる「胎内めぐり」や「戒壇めぐり」のような場所だ。何も見えない完全な暗闇の中、体がやっと通るような狭い通路を手足の感覚だけを頼りに進む。段差や傾斜を足の裏で感じ、右に曲がるのか頭上が低くなっているのかなどを手の感触や微かな空気の流れで探りながら、自分の中に生じている恐れや不安と向き合うことを体験する。そういった光の全く届かない完璧な闇は目が慣れるとかの次元ではないが、きっと私たちの生活圏内では、明るさを少し落としたところで、月明かりや星の光、周囲の住宅と店の灯りなどで、それほど不便にはならないだろう。
私が光害という問題を具体的に意識するきっかけになった本『本当の夜を探して』(ポール・ボガート著、白揚社)の中で、著者が人生で見た最も美しい星空を次のように表現していた。
「奥行きがあり『天の川が細部までくっきりと見え、ねじれていて、厚みがあるのがわかる』まるで3Dのようだ」
不思議なことに、この一節を読んだ時、夜空に広がる美しく立体的な天の川が、まるでいつか見た光景かのように鮮明に目に浮かんできた。幼い頃にでも見たことがあるのだろうか。今はまだ思い出せないが、著者が出会ったような満天の星の下では、その記憶も蘇るのかもしれない。