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キレイな月の夜はユーミンを聞きながら

#昭和の恋愛小説 #中編小説 #登場人物少なめ #  #70000文字
#容姿にコンプレックス有り #名前呼び捨て #誕生日がクリスマスイブ
#新宿のバー #笑顔 が自然  #顔は人生を映す鏡

あらすじ
久美子の誕生日はクリスマスイブで彼がいない時はダブルで哀しい思いをしていた。自分の容姿に自信が持てず、【ついてない】からとつい自己解決してしまっていた。社会人3年目の時、新宿営業所へ異動し2歳年上の昇と出逢う。昇に新宿営業所で呼ばれ慣れた【久美】と呼んでくれたことで、気になる存在になり二人で飲みに行く仲になった。24歳を迎えるクリスマスイブイブに初めて1日を過ごすが、雪の影響でラブホテルで一晩過ごすことになる

【現在】
二人が乗っているメタリックグレーの古いセダンは、中央高速を制限速度よりやや速く走っていた。高井戸のインターを過ぎると、彼はアクセルを踏み込みこみながら古臭いカセットデッキのスタートボタンを押した。10年落ちのセダンには少しハードな回転数らしく、エンジンが悲鳴を上げているように車内は騒々しかった。
カセットテープが回り始め、エンジンの音に負けないような大音量で音楽が流れ始めた。
久美子は音楽が流れ始めると、助手席から運転席側の男の耳へ口を近付けて、大声で言った。
「昇ちゃん、これってあのときの?」
彼は黙って頷き、更にアクセルを踏み込んだ。車内ではユーミンの【中央フリーウェイ】が流れていた。

【4年前】
久美子が昇と話すようになったのは、会社の歓送迎会の日だった。
その2週間前、都内にいくつかある営業所のうちの1つの池袋営業所から、久美子は移動で昇のいる新宿営業所に移ってきた。決算期の移動だった為、荷物の整理や引き継ぎで社内がバタバタしていたこともあり、久美子を含め新たに新宿営業所に加わった3人と入れ違いに出て行った2人のスタッフの歓送迎会は,少し時間をあけて実施することになっていた。
久美子がこの求人広告代理店へ入社してから配属されたのが池袋営業所で、彼女にとって初めての異動だった。女性スタッフの異動は滅多にないことだったので、異動を言い渡される直前まで、そんなことはカケラも考えていなかった。辞令の日に所長に呼ばれると、久美子は他人事のように思っていた異動の話を告げられショックを受けた。池袋営業所には入社以来3年間在籍していたので、周りのスタッフとようやく仲良くなり愛着が沸いていたところだったので、異動の話を聞かされたときには返事もできないほどに頭が真っ白になった。
所長に異動を告げられた会議室を出ると、久美子は自分の席にはすぐに戻らず、化粧室へ行き涙目になっている自分を鏡に映した。
(ついてないなぁ、せっかく慣れたところだったのに)
ポケットからハンカチを出し、化粧が落ちないように軽く叩いて涙を吸わせた。
(ダメか、化粧やり直さなきゃ。でもあたしだからどうでもいいか)
久美子は【自分はイイ女ではない】と思っていた。背は中学生並に小さいし、スタイルも胸はぎりぎり頑張ってBカップ。世間で言うところの下半身デブで、とてもミニスカートを履いて街を闊歩しようなどとは考えもつかなかった。顔立ちはハッキリしている方だが、何よりもコンプレックスは出っ歯なことだった。おかげで口は大きく見えるし、印象もお笑い系にしか見られない。両親が裕福なら矯正もできたのだろうが、久美子が生まれたばかりのとき、父親が保証人になっていた友人の会社が倒産してしまい、家にはそんな余裕はなかった。久美子は自分の容姿も生まれてきた境遇も【ついていない】と思うことで済ませるようになっていた。学校でいじめにあったことも、高校受験のとき学校推薦から漏れたことも、その他何もかも自分はツキがないと思うことで自分を言い聞かせてきた。おかげで悲観的に考えることに慣れてしまい、今度の異動の話もショックの割には意外と早く受け入れられた。

埼玉県の自宅から池袋は電車で1本だったが、新宿は乗り継ぎがあることも新宿に心が向かない要因の1つだった。
異動してから1週間が経った頃、朝の通勤でぼうっとしてしまい無意識のうちに池袋営業所に着いたこともあった。専門学校卒業後、3年働き23歳になって、社会人としてようやく独り立ちしかけたところに、この異動はきつかった。池袋営業所では仲良くなった先輩もいたし、所長にさえも冗談が言えたが、異動してきた新宿営業所にはそうやって軽く話せる知り合いは誰もいなかった。同じ社内なので顔ぐらいは知っていたが、久美子の仕事は庶務だったので営業所間の交流は殆どなく、在勤中に同じように池袋から新宿へ異動になったスタッフもいなかった。もともと人見知りの強い方だったので、新宿営業所に来てからはあまりしゃべることなく、黙々と自分の仕事をしていた。池袋営業所にいた頃は手より口の方が動いていた位にしゃべっていたが、新宿へ来てからはしゃべれない自分に嫌気がさしてきた。

あまりにしゃべれないことでストレスを感じ始めた頃、営業職の昇が久美子に仕事を頼んできた。
「久美、これ大至急登録して!」
受注の締切り時間にあと5分という時間に昇が受注伝票を久美子に回した。求人広告の絞め切りは1分でも登録が遅れると、掲載号には載らず翌週以降になってしまう。通常なら営業である昇が登録を行なうのだが、絞め切り間際に複数の案件を受注した昇が久美子にヘルプを頼んできた。2歳年上の昇とは赴任したときに挨拶だけはしたが、普段は営業で外に出てしまっているので話したことは皆無に等しかった。
精神的に落ち込んでいたところだったので、久美子は昇の言葉がとても嬉しかった。大事な絞め切り間際の仕事を自分に任せてくれたことも嬉しかったが、それ以上に池袋で呼ばれ慣れていた【久美】と、まだ慣れていない新宿営業所の中で呼ばれたことが何よりも嬉しかった。新宿に来てからは、苗字の【森下】で周りから呼ばれていて、自分ではどうもしっくりきていなかった。彼に【久美】と呼ばれて嬉しかったことで、自分が営業所で遠ざけられているような気になっていた一番の原因がようやくわかった気がした。誰か一人でも【久美】と呼んでくれることで、少しだけこの営業所の仲間に入れてもらえた気になった。
昇から渡された書類を慣れた手付きでパソコンに打ち込み、登録を済ませると、久美子は右斜め前にある昇のいるデスクへ書類を持って行き、昇に返した。
「登録OKよん。」
(しまった!)
【久美】と呼ばれたことで嬉しくて、池袋の営業所にいるつもりでつい軽い口調になってしまっていた。
「サンキュー!助けついでにもう1件頼んでもいい?」
昇はそんなことは気にも留めず、久美子に言った。
「もっちろん」
久美子は池袋にいた頃と同じような口調で答えた。
(あ~、やっちゃった!)
昇の口調に釣られてしまったことに気付き、昇から書類を受け取ると、久美子はそそくさと自分のデスクへ戻った。照れて顔が赤くなっているのが、自分でも判っていたので、他のスタッフに見られないように少しうつむいてキーボードを叩いた。締切り時間まで後2分だった。久美子は横目で時計を気にしながら、できる限り急いで登録を進めた。入力が全て終わり、実行ボタンを押すと、
「久美!大丈夫?」
自分の登録を終えた昇が、久美子のデスクの前へ駆け寄りながら声を掛けた。
(この登録が間に合ってなかったら、今【久美】って呼んでくれたことにも気付けなかったろうなぁ)
そんなことを考えながら、久美子は近寄って来る昇に向かって笑ってOKサインを出した。
「ふぅ~、助かった。ありがとうね。」
そう言われて久美子は自分のデスクの前に立っていた昇を見上げた。昇の背はそれほど高くなかったが、細身でスラッしていたので実際の身長より背が高く見えた。久美子にとって何よりも印象的だったのは彼の笑い顔だった。昇は転職でこの会社へ入ったので、営業所内ではどちらかと言えば経験も少ないし若い部類に入るのだが、その人懐っこい笑顔で営業所内のムードメーカー的存在になっていた。

昇の笑顔を【いいなぁ】と感じたのは、久美子が新宿へ配属になって3日目だった。その日の朝礼で前月分のインセンティブが所長から営業スタッフへ配られた。二人が勤めていた広告会社は、給料は銀行振込だが、毎月出る営業インセンティブは会社の方針で現金渡しを続けていた。
その日、昇は営業から戻ると、久美子の隣に座っている同じ庶務の弥生のところにケーキの入った袋を置いて、【ごめん、今月は実入りが少なかったからしょぼいけど、みんなで食べてね】と笑って言ったのを、書類を書く手を止めて今のように昇を見上げた。昇は決して一目でトキメクほどの美男子ではないが、その笑顔は包容力の深さを感じさせた。営業至上主義のこの会社で、営業スタッフが内勤スタッフを気遣うのは自分の仕事を優先してやってもらいたいとき位のものだった。池袋の営業マンが内勤スタッフにケーキを買ってくるなんてことは、3年間居て一度たりともなかったので久美子は彼の行為に驚いた。
午後のお茶の時間に配られたケーキを食べながら弥生に
「何であの人ケーキを買ってくれたんですか?」
と訊くと、昇はインセンティブが出る度に必ず内勤スタッフへお土産を買ってくると話してくれた。久美子が池袋営業所では誰もそんなことをしないことを言うと、新宿でも内勤スタッフに気を使ってくれるのは昇と所長位だと教えられた。そのことがあってから、右斜め前に座っている昇を意識して観察するようになった。久美子が見る昇は営業所の中だけだったが、所内のスタッフとうまくコミュニケーションをとって仕事をしている姿を羨ましく思っていたところだった。

「締め切り間際に連荘で受注できたから、おかげで今週も目標達成できたよ。」
「いいえ~、どういたしまして。この前ケーキをもらったからお返ししなきゃね。」
久美子は昇に頼られたことが嬉しくてあたかも昔からの仲間だったかのような口調で答え、書類を昇に差し出した。
「あははっ、ケーキ分ね。じゃあ、今後のことも考えて次は豪華にしなきゃね。」
昇は久美子から書類を受け取り、デスクへ戻って行った。

締め切りを終えると、それまで緊迫した雰囲気だった営業所が途端になごやかな雰囲気に変わる。これはこの新宿でも池袋でも変わらない光景だ。そこかしこで冗談を言ったり、笑ったりしている声が聞こえた。しかしこの時間、庶務の久美子と弥生だけは締切り後の処理が忙しく、なごやかムードにはまだ混ざれる状態ではない。久美子にとっては、忙しいことが少しありがたかった。手が空いてこのムードに入れと言われても、池袋でなら率先して輪に入るのだが、新宿ではまだ入れる自信はなかった。
二人が書類の山にうずくまっていると、所長が二人のデスクに近寄り、久美子よりキャリアが上の弥生に訊ねた。
「どうだ?片付きそうか?」
所長はいつも自分のデスクに置いてある野球選手のサインボールをもてあそびながら言った。
「あと5分くらいで。」
そう言った弥生の答えを聞くと、
「みんな、あと5分したら出るぞ!」
と所長はスタッフ全員聞こえるよう大きな声を出した。締め切り日の開放感と合わせて、新しく新宿営業所に来た久美子達3人と以前いた2人のスタッフの歓送迎会をやる予定だった。
久美子に残っている仕事量は、とても5分で終われる分量ではなかった。5分と答えた弥生を軽く睨んでから、できるところまで進めたが、歓迎会が終わった後に戻って仕事をすることが確定した。
時計が7時5分前を差すと、所長は
「じゃあ、行くぞ」
と言って所内のスタッフ全員を営業所から追いたてた。久美子は慌ててデスクの下に置いていたバックを掴み、遅れないように急ぎ足でみんなの後に続いた。

営業所から歩いて5分ほどの居酒屋へ所内のスタッフ約30人がなだれ込むと、締切りが終わった開放感で居酒屋中に響くほどのドンチャン騒ぎになった。久美子はこうゆうところは池袋も新宿も変わらないなぁと思いながら、歓送迎会にお決まりの挨拶の順番が来るまで久美子は黙って隅っこで眺めていた。何人かのスタッフが久美子の前へ来て、通り一遍の挨拶をして行ったが、自分が席を立って周るほど積極的な気分にはまだなれなかった。
(池袋の宴会なら一緒に騒げるから、もっと楽しめるのになぁ)
そう思っているうちに2時間の飲み放題が終わり、早く帰って欲しいと願っていただろう居酒屋の従業員から冷たい視線で見送られ、外へ出た。

雑居ビルの前に30人の酔っ払いが固っていたので、通行人から迷惑そうな視線を一杯に浴びていたが、そんな目を気にせずこの後どこへ行こうかとワイワイ相談しているのを輪の外で久美子は見ていた。しばらくして、どうやらカラオケパブに行くことになったらしい。カラオケが好きな久美子は池袋の頃なら喜んで参加するのだが、まだ馴染めないことを重荷に感じていたので、今日中に終わらせなければいけない仕事を残してきたことを救いに思った。
「カラオケ行く人?」
2次会の中心になっている30代のベテラン営業マンがみんなに向かって訊ねた。彼が一人一人に行くかどうかを確認し、久美子にも訊ねた。
「ごめんなさい、仕事残してきちゃったんで。」
久美子がそう答えると、後ろから誰かが久美子に声を掛けて来た。
「仕事残してるんだ。じゃあ、一緒に戻ろうか。」
久美子が声のする方を向くと、酔って少し顔が赤くなった昇が立っていた。
「何だよ、昇も行かんのか?」
彼は昇が行かないことに残念そうに言った。久美子はその言葉の中に自分が行かないことも残念に思ってくれているかとても不安に思った。
「すいません。ちょっと今日中に企画書作らなきゃいけないんで、明日直行なんですよ。」
昇は営業らしく、行けないことを残念で仕方ないというような言い方をした。
「じゃあ、しょうがないな。終わり次第来いよ!いつものところだから。」
「OKです。」
昇はそう答えると、久美子に合図をして輪を離れた。
久美子も昇と同じようにソッと輪を離れ、早足で昇の横に並んだ。
「今日中に片付けなきゃいけないんですか?」
久美子は一人で営業所に戻ることが不安だったので、一緒に戻ってくれる人がいて助かったと思っていた。
「そう、明日の朝10時に先方に行かなきゃいけないから。」
昇は久美子の口調が締切り前と違うのに違和感を覚えながら答えた。
「大変ですね。」
久美子がそう言った後、昇が歩くスピードを久美子に合わせてくれたのに気付いた。背の低い久美子は男性と一緒に歩くと早足で歩かなければ追いつかず、いつも窮屈に思っていたが、昇は久美子に合わせてゆっくりと歩いてくれていた。
「まぁ、仕事だからね。仕方ないさ。久美も仕事残っているんだから、同じでしょ?」
昇がまた【久美】と呼んでくれたことで、少し酔っていた久美子は余計に嬉しく思った。
「あの…、」
久美子は遠慮がちに昇へ話しかけた。
「ん?」
「あのですね、大内さんは何で【久美】って呼んでくれたんですか?」
久美子は勇気を出して言ったが、言った後自分で照れてしまった。
(アルコールが入ってて良かったわ)
久美子は顔が赤くなっているのを酔いのせいにできることに安堵した。
「何でって、言われてもなぁ、何となくとしか言いようがないかな。ゴメン、イヤだった?」
年下とはいえ、つい呼び捨てにしてしまったことの言い訳を昇は咄嗟に思いつかなかった。
「ううん、全然イヤじゃないですよ。でも突然【久美】って呼ばれて、少しびっくりしたから。」
久美子はそう呼ばれて嬉しかったと言いたかったが、言葉を飲み込んで別の言葉を選んだ。
「たぶん、池袋の同期から聞かされてたから…かな。」
「えっ、何を?」
「久美がそっち行くことになったから、かわいがってやってくれって。」
昇は言われたときの口調を真似していった・
「え~、誰ですか?そうゆうこと言うのは、山ちゃんかな?」
久美子は池袋営業所のメンツを思い出して、昇と同い年位の心当たりを言った。
「当たり!あいつ同期なんだ。」
「へぇ~、そうなんですか。」
「森下さんのこと誉めていたよ。凄くいいヤツだから大事にしてやってくれって。」
「あら、山ちゃんたら、嬉しいわ。」
久美子は昇の言葉が【森下さん】に戻ってしまい少しがっかりしたが、できるだけ明るく振舞った。
「そう、あいつのせい。咄嗟とはいえ呼び捨てにしちゃって…、ごめんね。」
昇は久美子の方を向いて謝った。
「ううん、むしろ嬉しかったの。実は新宿来てから少し塞ぎ込んでところだから。」
久美子は昇の顔を見ずに答えた。
「うん、山田からは【元気娘】だって聞いていたから、あまりに静かなんでちょっと意外だったかな。」
「もう~、どんなこと言ってんのよ、山ちゃんは。」
久美子は膨れっ面をして見せた。
「そのぐらいだけだよ、森下さんのことを聞いたのは。」
「そう。」
久美子は苗字で呼ばれたことと合わせて寂しい気分になってしまった。
昇は久美子の残念そうな返事に次の言葉が続けて出ず、少し沈黙のまま並んで歩いた。
(このままじゃまた、逆戻りしちゃう)
そう思った久美子は勇気を出して昇に話しかけた。
「あの、・・・そう、池袋ではみんながそう呼んでくれてたから、今日のことは気にしないで。新宿でも同じように呼ばれて、嬉しかったの。」
久美子は冷静に言ったつもりだったが、その声は少し上ずっていた。
「なら、いいけど。」
ちょうどそのとき営業所のあるビルに着いてしまった。
(じゃあ、これからもそう呼ぶよ)
そんな答えを期待していた久美子は、中途半端な昇の答えの続きを聞きたかった。

昇は鞄から鍵の束を取り出し、オートロックのドアを開け、待っていたエレベーターに二人で乗った。
久美子はエレベーター内があまりにも静かだったので、心臓が強い鼓動を刻んでいるのを自分で感じた。
(この音聞こえないよね)
久美子の心配を他所に、昇はエレベーターを降りると鞄から事務所の鍵を取り出し、慣れた手付きで開けセキュリティを解除した。まだここへ通うようになって日が浅い久美子には、電気のついていない事務所が異空間に感じた。
昇がセキュリティの横にある照明のスイッチを入れると、いつも見ている光景に戻った。
「さ~てと、片付けるか。」
昇は久美子に聞こえるように少し大きな声を出し、デスクへ座り鞄を床に置いた。
(はぁ~)
話しの続きを期待していたので、少し拍子抜けした久美子は仕方なく自分のデスクへ座り、仕事の続きを始めようとスリープにしていたパソコンのエンターキーを押した。静かな営業所にプラスチックの軽い音が響いた。
「久美、コーヒー飲まない?」
昇が椅子を回して、久美子の方を向いて訊いた。
出し抜けで【久美】と呼ばれて、びっくりして持っていた書類を落としそうになった。
(良かった、久美って呼んでくれて…)
久美子は昇の言葉に微笑み、
「そうね、じゃあ入れるわ。」
と言い、久美子はすぐに立ち上がった。
久美子が立ち上がるのを見て昇は、
「いいよ、そうゆうつもりで言ったんじゃないから。下の自販機で買って来ようかと思ってさ。お酒飲むと妙に喉が乾くじゃない。」
「ううん、いいよ。あたしの入れるコーヒーでよければ。」
久美子は昇が営業所で入れている共用のコーヒーを飲んでいないのを思い出して言った。
「悪いからいいよ。帰る時間が遅くなっちゃうよ。」
「そんなに変わらないわよ。コーヒーくらいで。お砂糖・ミルクは?」
「砂糖だけ、ティースプーンに半分で。」
「OK!」
久美子はそう言って給湯室へ入って行った。
数分後、久美子は両手に自分専用のうさぎのキャラクターがついている大きなマグカップと、お客様用のカップを持って戻って来た。
「はい、どうぞ。」
久美子が昇のデスクにカップを置くとコーヒーの香りが立ち上ってきた。
「サンキュー。」
「お客さんじゃないから、ソーサーはなしね。」
「ああ、構わないよ。入れてもらっただけでも恐縮しちゃうのに。」
「ねぇ、訊いてもいい?」
「どうぞ。」
昇はパソコンのディスプレイから目を離し、横に立っていた久美子を見上げた。
「何で営業所のコーヒーは飲まないのに、いつも缶コーヒー飲んでるの?」
久美子は昇のデスクにいつも缶コーヒーがあるのを不思議に思っていた。殆どのスタッフは自分専用のマグカップに飲み物を入れて飲んでいたが、昇用のマグカップは営業所に存在しなかった。毎朝営業所の女性スタッフが当番でコーヒーを入れるが、給湯室に貼ってあるスタッフお好み表の昇の欄は【不要】と書かれていた。
「だって、仕事じゃないでしょ?お茶入れは。入れる人の時間がもったいないじゃない。」
「そうだけどさ、持ち回りなんだからいいじゃない。」
久美子は持っていたマグカップから一口、コーヒーを飲んだ。
「一人分入れる手間が省ければ、二十秒位早く仕事が始められるでしょ。」
「まぁ、そうだけどね。」
「そうゆうこと。でも、コーヒーありがとうね。」
昇は置いてあったコーヒーを一口飲み、久美子との会話を切り、ディスプレイへ視線を戻してキーボードを打ち始めた。
(変わった人)
久美子はそう思いながら、昇のデスクを離れ自分の席へ戻った。

二人はそれぞれの仕事を黙々とこなした。久美子は仕事を始めてから三十分ほどで仕事を終えることができた。デスクの上を片付けながら昇の方を見ると、煙草を咥えながらまだパソコンに向かっていた。
久美子は昇に気付かれないように、静かに歩き昇に後ろから近づいた。
「こらっ!」
久美子が昇の後ろから大声で言うと、昇はびっくりした顔で振り向き、久美子を見上げた。
「あぁ~、びっくりした。急に大声出さないでよ。」
「デスクで煙草吸っちゃいけないんだゾ。」
営業所内は基本的に禁煙で、窓があるところにせせこましい喫煙スペースがあり、煙草を吸うスタッフはそこへ行き窓を開けて吸うことが営業所のルールだった。
「いいじゃないの、久美もたまに吸うでしょ。」
「あたしはちゃんと喫煙スペースで吸ってるわよ。」
「夜だから許されるでしょ。営業は残業代も出ないんだし。」
「でも、いつのまに灰皿を?」
「いつも机の中に常備しているんだ。やっぱ企画書系の考えながらする仕事は煙草がないとはかどらないからね。」
昇は袖机の引き出しを指差して、自慢げに久美子に言った。
「危ないじゃない、机の中なんて。」
「大丈夫、アウトドア用のやつだから、燃えないよ。」
昇はオレンジ色が鮮やかな携帯用の灰皿を久美子に見せた。
「おみそれしました。だから朝、営業所が煙草臭いときがあるんだ。」
「バレたか。」
昇は笑って言った。
「ねぇ、まだかかりそう?」
久美子は昇のパソコンの画面を覗き込みながら言った。
「ん~、もうしばらくかかるかな。気にしないで先に二次会行ってて。場所…、わかる?」
昇はまだ新宿へ来て間もない久美子に気を遣って訊ねた。
「うん、地図もらったからわかると思うけど。」
「じゃあ、大丈夫だね。でも必ずタクシーで行くんだよ。レディの独り歩きは危ないからね、特に新宿は。」
「大丈夫よ。池袋だって結構危ないし。第一、相手にされないわ。」
久美子は自分の容姿を思い浮かべて自虐的に言った。
「そんなの判らないよ。何せ新宿は人種のルツボ。外人はもちろんのことヤクザ屋さんからニューハーフまでありとあらゆる人間がいるんだから。」
「何か、それってフォローになってないんだけど…。」
久美子は口を尖らせてみせた。
「あはは、ごめんごめん。もし何かがあったら久美だけじゃなく、みんながイヤな思いをするから、ね。」
「じゃあさ、手伝うよ。そしたら一緒に行けるでしょ?」
「ありがたいけど、二次会行けなくなっちゃうかもよ。主役の一人がいないんじゃ、…ねぇ。」
「でも・・・。」
昇は久美子の表情を覗き込むと、譲らなそうな意思が見えたような気がした。
「わかった、じゃあ手伝ってもらおうかな。」
昇がそう言うと、途端に久美子は明るい表情に変わった。
「何すればいい?」
明るい声で久美子は昇に訊ねた。
「えっと、向こうのマックにスキャナーがつながってるから、このカタログの付箋が付いているページをスキャンしてくれる。」
「わかった。」
久美子は昇からカタログを受け取ると、早足で制作チームの端にあるマッキントッシュのパソコンの所へ歩いた。電源を入れると、静かな営業所に大音量の始動音が鳴り響いた。昇は時々久美子の様子を気にしながら、企画書の続きをキーボードに向かい打ちこみ始めた。
「ねぇ、画質は?」
少し離れた制作チームのデスクから、久美子が少し大きな声で昇に訊いた。普段の営業所の騒がしさだったら、到底この位置から会話は通じなかったが、誰もいないので少し大きな声を出せば十分聞こえた。
「カラー、350dpi、等倍で。」
昇はパソコンの画面を見たまま答えた。
「保存形式は?EPS?」
「いやJPEGで。」
「わかった。」
「全部できたら、共有の素材ホルダーに入れといて。」
「OK!」
久美子はそう答えると、順にカタログをスキャンした。付箋が全部なくなるまでには三十分近くかかった。

「終わったよ。」
久美子はカタログを持って昇のデスクの横に立った。
「サンキュー。もう一つお願いしていい?」
「もっちろん。」
久美子は小さな胸を叩いて見せた。
「久美の共有ホルダーにエクセルファイルを入れてあるから、このデータを打ち込んでくれるかな。」
「ということは、断ってもやらせるつもりだったんじゃないの…。」
久美子は持っていたカタログの角で昇を突っつきながら言った。
「久美は断らないだろうという予測のもとにね。」
「段取りがいいのね。」
久美子はカタログを昇の机へ戻し、替わりに昇の手から数字がびっしり書かれた書類を受け取って、自分のデスクへ座った。
昇は久美子がデータを打っているうちに、スキャンデータ-を次々に企画書へ貼り込んでいった。
十分ほどで昇の作業は終わり、後は久美子が入力したデータを貼り付ければ企画書は完成だった。その部分以外をプリンターへデータを流すと、席を立って久美子のデスクへ向かって歩いた。
「どう?」
「まだ、半分位よ。もう、さっきのデータ貼り込んだの?」
左手の人差し指で入力したところまでを押さえながら、久美子は答えた。
「うん、終わったよ。」
「早っ!結構あったでしょう、あたしの方が早く終わると思ってた。」
「じゃあ、入力やるから数字読んでくれる?」
昇はそう言って久美子の席へ座ろうとした。久美子は仕事を取り上げられた気分で少し憮然としたが、仕方なく書類を持って隣の弥生の席へ移った。昇はさっと画面を確認すると、
「お願い。」
「じゃあ、いくよ。3537、4211、18・・。」
久美子の声に合わせて昇がテンキーを叩いた。
「もっと早くていいよ。」
昇は久美子の読むスピードを上げるように言った。
「81113、6552、47・・・。」
久美子はあまりの早さに呪文を読んでいるような気分になった。昇はピアノでも弾いているかのように、久美子の声に合わせてテンキーを軽やかに叩いた。
「…、9446、終了。」
昇は久美子が終了と言う前に、ショートカットキーでファイルを保存していた。
「サンキュー!」
昇は保存の進行を示すバーを見ながら言った。
「打つの早いね。」
「まぁね。結構得意な方かな。」
「あたしの倍は早いよ、きっと。」
久美子は昇に読んでいた書類を差し出した。
「そこまで変わらないでしょ。」
昇は書類を受け取り、保存が終わるのを確認すると、マクロボタンを押した。
エクセル上でマクロプログラムが動き出し、画面が次々に写し出されるのを久美子は横から覗き込んで見ていた。昇はマウスを動かし、はじき出された数値を確認すると印刷ボタンを押した。
「プリンターに出力されている企画書の後ろにこれを付けて、5部製本してくれる。」
「わかった。」
久美子は答えると、今流されたデータを吐き出そうとしているプリンターへ歩き、既に出ていた企画書の前半部分を取り上げ、近くのデスクへ広げて並べ替えた。昇は保存したデータを自分のパソコンへ送信し、久美子の席から自分の席へ戻った。自分のパソコンへデータを移し変えると、席を立ちプリンターから出終わった部分を取り上げ、並べ替えた。二人はほぼ同時に作業を終え、それぞれのパートを重ね合わせた。
久美子が重ね合わせた企画書を整え昇に渡し、昇がプリンターの横にある大型のホチキスで次々に企画書を綴じた。
「はい、終了。助かった、ありがとね。」
昇は久美子に笑って言った。
「いいえ、どういたしまして。あんまり役に立たなかったけど。」
「そんなことないよ。まだ二次会終了の電話がかかってきてないから。」
昇は仕事が長引きそうだったので、幹事に二次会が終わったら電話をくれるように頼んでいた。
「じゃあ、二次会に一緒に行けるね。片付けましょ。」
久美子はでき上がった企画書の束をデスクで整えると昇へ渡しながら言った。
「OK、片付けよう。」
昇は手際良く使ったパソコンや周辺機器の電源を落とし始めた。久美子はデスクの上のカップを給湯室へ持って行き、シンクで洗いものをした。

二人が片付けを終え、セキュリティをかけて営業所の鍵を閉めると同時に営業所の電話が鳴り始めた。
(たった今、鍵をかけたところなのに…。)
昇は鍵を開けてセキュリティを解除していたら間に合わないと判断し、電話に出るのを諦めた。
久美子はエレベーターの中で【開】のボタンを押して昇が乗るのを待っていた。昇がエレベーターに乗り込むと、営業所から聞こえていた電話が鳴り止み、すぐに昇の携帯に電話が入った。
昇はスーツの胸ポケットから携帯電話を取り出し通話ボタンを押した。
「もしも~し。」
「お疲れ!まだ仕事やってんの?」
今日の歓送迎会の幹事をやっている先輩が、ロレツの回らない声で話し始めた。
「今、終わって営業所を出るところです。」
「そっか、ご苦労様。明日直行だってな。頑張れよ。」
「はい。」
エレベーターが動き出すと電話の声が少し聞き取り辛かった。
「今、会計しててそろそろ解散だから。」
「そうですか。すいません間にあわずに。」
エレベーターが1階へ着き、二人は玄関ホールで立ち止まった。
「いいって、しょうがないよ。仕事が優先!」
「はい、わかってます。」
「じゃあ、明日寝坊すんなよ。」
昇が新人の頃、この先輩と朝早く待ち合わせをしたときに大遅刻をしたことを思い出させた。
「わかってます。もうしませんから。」
「OK、じゃあな。」
「はい、失礼します。」
昇は電話を切ると、左に立っていた久美子を見下ろした。久美子は背が低かったので、昇と並ぶと目が肩の辺りにあった。
「ごめん、二次会終わっちゃったって。」
昇はすまなそうに久美子に言った。
「大丈夫よ。手伝いも結構楽しかったよ。」
久美子は心からそう言った。昇は久美子の顔を見て少し考え込み、
「良かったら、手伝ってもらったお礼に軽く飲みに行かない?」
(本当!行きたい!)
とすぐ口に出そうな言葉をこらえて、鞄から携帯を取り出し、時間を確認した。
(終電まではまだ時間あるわ)
池袋の頃なら終電などお構いなしに飲みに行っていた。
「本当?」
久美子は嬉しそうな顔をして答えた。
「お礼におごるよ。いきつけのバーがあるんだけどそこでいい?駅からも近いし。」
「おまかせするわ。何せ新宿はまだ2週間なんで。」
二人は営業所があるビルの玄関を出た。駅の方だと聞いた久美子は当然のように玄関を出て左へ歩いたが、昇は右へ歩いていた。久美子は昇がいないことに3歩ばかり気付かず後ろを振り向くと、昇が手を上げてタクシーを止めていた。昇も久美子がいないことに気付くと、後ろを向いて久美子を手招きして呼んだ。
昇は先にタクシーへ乗り込み行先を告げると、久美子が急いで乗り込んできた。タクシーは久美子が乗り終わるのを確認すると、ドアを閉めて走り始めた。
「駅の近くって言ったから、てっきり向こうだと思ってた。」
「ごめんごめん。時間がもったいないからタクシーで行こうと思ってた。」
昇が久美子の言葉尻と話し方を真似ると、久美子は堪えきれず大笑いした。
久美子の笑いが落ち着く頃にはタクシーは目的地の近くに来ていた。
「運転手さん、そこの信号を越えたところで止めて下さい。」
昇はそう指示をすると、財布から千円札を取り出した。タクシーがハザードを出して止まり、ドアが開くと、
「あたしも半分払うよ。」
「いいから。」
昇はそう言って久美子に出るように促すと、千円札を会計用のお盆に置き、
「どうも、お世話様でした。」
と運転手に言ってタクシーを降りた。タクシーの外で久美子は鞄から財布を取り出し小銭を探していた。
昇は小銭を探している久美子を無視して、
「行こっ。」
と言ってスタスタと歩き出した。久美子は財布を持ったまま昇の後を追いかけた。
「払いますよ、半分。」
「いいよ。あ、そこだから。」
昇は重厚な樽のような扉がある店を指差し、扉を開けて久美子を招き入れた。黄色いランプが美しい店内から軽快なスイングジャズが扉の外に流れ出てきた。昇が指で【2人】と合図をすると、顔見知りらしい店員がカウンターの向こう側から指で【上、下】と合図した。昇は彼に指で【上】と合図し、扉の右側にある狭い螺旋階段を上った。久美子は訳も判らず、仕方なく昇の後ろを追いかけた。階段を上ると正面の壁際にカウンターがあり、カウンターの上はガラスが一面に広がっていて、新宿らしい色とりどりのネオンが見えた。昇は空いている一番右の席へ座った。久美子はその左の席へ腰掛け、バッグをカウンターの下に押し込んだ。ほどなく先程合図を送った店員が、メニューを二人の間へ置いた。
「何飲む?」
昇がドリンクメニューを久美子に差し出して聞いた。
「あたし、こうゆうお店で頼むものは全然わからないんだけど…。」
まだ23歳の久美子にとって、飲みに行くと言えばカラオケか居酒屋しか思い浮かばない久美子は、場違いな自分を卑下して言った。
「カクテルとかでいいの?」
「ううん、生ビールがいいわ。」
「じゃあ、生ビールと…、」
「リベットですね。」
昇が言い掛けたところで、店員が遮った。
「そう…、」
「いつものやつもお持ちしますか?」
またしても昇が言おうとする前に店員は言った。
「もちろん。」
昇が答えたのを聞くと、店員は一礼して二人から離れた。
「随分慣れているのね。」
久美子は店を見廻しながら言った。
「もう3年通っているからね。」
昇は持っていた鞄を足元に投げ落とした。
「よく来るんだ?」
「週2回くらいかな。」
昇はガラスの向こう側に見えるネオンをぼんやり見ながら答えた。
「誰と?」
久美子は昇の横顔に問い掛けた。
「大体一人だよ。」
「うそ~、大体ってのが怪しいわよね。」
久美子は右肘で昇を突っついた。
「そんなことないよ、後でマスターに聞いてみれば判るよ。」
ようやく昇は久美子の顔を見た。
「またまたぁ、本当に聞いたら困るくせに…。」
自分の方を向かせたくて肘で突っついたが、いざ昇が自分を見ると顔がすぐ近くに来ることが判り、久美子は照れて窓の向こう側を見た。
「困ることなんてないよ。それよりこうゆうところに来て1杯目にビールを頼むのは正解。」
「えっ?何で?」
照れより昇の話に興味が沸いてしまい、昇の方を見てしまった。
(顔赤くなってないかしら…)
「あんまり手間のかかるドリンクだと、待たせちゃうでしょお客さんを。だから1杯目はすぐに提供できるビールとかロックがいいんだよ。」
「なるほどね。」
久美子はそんなことは知らずに注文したが、注文が間違ってないことに安堵し、昇の話に感心した。
「お待たせしました。」
二人の後ろから店員が声を掛けてきた。店員は二人の前にコルクでできたコースターを並べると、久美子の前に曲線がきれいな細身のビールグラスを静かに置き、昇の前に球形に削られた氷がすっぽりと入ったロックグラスとチェイサーを置いた。昇は店員が置き終わるのを見届けると、大ぶりのロックグラスを持ち上げ、久美子に乾杯を促した。久美子もそれに合わせてビールグラスを持ち上げ、昇のグラスにグラスを合わせた。クリスタルガラス同士が重なり合い、乾いた音が久美子は心地良く感じた。
「あっ!」
久美子はビールを一口飲むと声を発した。
「どうしたの?」
昇は久美子の声に反応して、飲みかけたグラスをコースターに戻した。
「大変!」
久美子は慌てて階段の方を向いた。
「何が?」
昇は久美子の慌て振りに何事かと心配して訊いた。
「マスターに聞き忘れた。」
「ぷっ!」
昇は久美子の言葉に吹き出した。
「本当に訊こうと思ったの?」
「あははっ、ウソウソ。そんな無粋な真似はしませんって。」
久美子は興味ないフリをしてビールグラスを傾けた。
「でも、訊かれても大丈夫だけどね。」
「そう、本当に一人で来るんだ。」
「たま~に女性連れのときもあるけどね、久美の隣の弥生ちゃんや進行の美樹ちゃんとかと。」
「あら、なかなかやりますねぇ。」
久美子はビールを一口飲み、おどけて言った。
「全然、久美が想像しているようなことじゃないからね。お祝いのときとか、落ち込んでるときとかに誘うだけだから…。」
「へぇ~。」
久美子はビールグラスをコースターの上に戻し、横目で昇を見た。
「その目は疑ってるでしょ。」
「そりゃねぇ、独身の男女がこ~んなステキなところで飲んでいて、仕事の話ってもんでもないでしょ。」
「そんなことないって、弥生ちゃんも美樹ちゃんも彼氏いるし。」
「でも二人とも大内さんのこと【昇ちゃん】ってすっごく親しそうに呼んでるじゃない。」
久美子は弥生や美樹が年上の男性を【ちゃん】づけで呼ぶことを不思議に思っていた。
「確かにそう呼ぶけど、そうゆうのとは違うの。」
昇の声は少し大きくなっていた。
「じゃあ、私も落ち込んでたら今日みたいに誘ってくれる?」
久美子はわざと甘えた声で訊いた。
「う~ん、どうしようかな?」
「何で!」
久美子は昇の言葉に本気で怒ってカウンターに手を付き、席を立つ真似をした。昇は久美子の目を見て冗談が過ぎたことを悟り、
「ウソウソ、本気にしないで。久美さえよければ、これからも誘うよ。」
「本当?」
久美子は席に座り直した。
「本当に。」
昇は子供を諭すようにゆっくりと言った。
「じゃあ、これから毎日営業所で落ち込んでようかな。」
久美子はそう言うと、グラスに残っていたビールを飲み干した。昇は横目で見て、後ろでオーダーをとっていた店員に手を上げ合図をした。
「次は?何飲む?」
久美子のグラスを指しながら訊いた。
「ん~、サッパリしたのがいいな。」
「OK!じゃあ、グレイハウンドとお替りを。」
店員は一礼して、階段を下りていった。
ほどなく先程と同じ丸い氷が入ったロックグラスと黄色の液体が入ったタンブラーが二人の前に置かれた。続けて二人の間に小皿が2枚とカラトリーの入った籠、肉のピンク色と脂身の白のコントラストが美しい生ハムを置いた。
「これが【いつものやつ】?」
久美子は生ハムに目が釘付けになった。
「そう、これがいつもの生ハム。」
「生ハムって普通、もっと薄っぺらくてビニールみたいじゃない?」
「あれも生ハムだけど、これも生ハム。でもこれを食べたら他のは生ハムじゃなくなるよ、きっと。」
昇は籠からフォークを取りだし、久美子に渡した。
「どれどれ。」
久美子はフォークを受け取ると、きれいに並べてある右端の生ハムの下にフォークを入れ、ゆっくりと持ち上げて自分の前にある小皿に置いた。昇は黙ってその様子を見ていた。
「どうやって食べるの?」
「添えてある玉葱を巻いてもいいし、ちょっとマヨネーズを付けても美味しいけど、まずはそのまま味わってみて。」
昇はそう言うと、久美子が取った隣の生ハムにフォークを差した。久美子は小皿に置いた生ハムをフォークにくるくると巻き込み、口に運んだ。
「美味しいっ!」
久美子の反応に昇は軽く笑い、自分も口に入れた。
「え~、これ生ハムだよね?今まで食べたのと全然違う。これをメロンに乗せたら冒涜だね。」
「なかなかいい表現で。確かにそんな馬鹿な真似はもったいないね。色んなところで生ハム食べるけど、ここだけだよ、こうゆうのが出てくるのは。」
「ん、このツマミがあるんじゃ通うのも無理ないわ。お酒はどんなんだろ?」
そう言って久美子は一口飲むと、バッと昇の方を見た。
「これって、ブルドックってやつじゃない?飲んだことあるような気がするんだけど。」
「そうとも言うね。」
「そうともって?」
「色んな名前が付いてるから、ソルティドックの塩なしでも通じるし、久美の言うようにブルドック、他にはテールレスドック、そこから派生してグレイハウンド。」
「塩なしでテールレスドックはわかるような気がするけど、グレイハウンドが意味不明。」
そう言って久美子はもう一口グラスを傾けた。
「アメリカの長距離バスの横に描かれている犬の絵、わかる?」
「うん、テレビで見たことあるわ。確か猟犬みたいな犬。」
「そう、それ。あの犬は小さいうちに尻尾を切っちゃうんだ。だからテールレスってこと。」
「なるほどね、アメリカ人の考えそうなことだわ。面白いね。…で、そうゆう話をして女の子を口説いてるんだ。」
久美子は悪戯をしている子供のような顔で昇を見た。
「だから、ここでそんなことしてないって。」
昇は持っていたロックグラスで久美子の視線を遮るように間に向けた。
「はいはい、判りました。」
久美子は昇との間に浮いたロックグラスを邪魔に思い、払いのけながら言った。
「自分こそ、彼氏はいないの?」
「野暮なこと訊くね~。まぁお酒の席だから許すか。」
「で、どうなの?」
昇は久美子の攻撃に対して反撃しようと思って言った。
「いないわよ、ここしばらく。自慢じゃないけどね。」
「そりゃ残念、じゃあ去年のクリスマスも。」
「もちろんシングルベルよ。」
久美子は残り少なくなったグラスを振り、氷をグラスに当ててハンドベルのように音を出した。
「あら、可愛そうに…。」
「もうひとつ可愛そうなことがあるんだけど、聴いてくれる?」
「どんな?」
「あたしの誕生日って、何とクリスマスイブなのよ。」
「そりゃ辛いね。」
「ひどいと思わない?いい人がいなかったらダブルの寂しさよ。」
「確かに。でも、考えようによっては寂しいのが1回で済むっていう利点もあるじゃない。」
「全然慰めになってない!まぁ、別にいいけどね。それに今年は誰かがお祝いしてくれるみたいだし。」
久美子は少しだけ顔を昇の方へ向けながら言った。
「ひょっとして?」
「だってさっき言ったじゃない。弥生ちゃんや美樹ちゃんのお祝いもするって。あたしの誕生日は入らないの、そこには?」
久美子は少し口を尖らせた。
「ん~、クリスマスイブは本命用に空けとかなきゃいけないからなぁ。」
昇は困った声で答えた。
「でも、さっき【いないって】言ったじゃない。」
「今はね。でもまだ半年以上も先の話だから、どうなるかはわからないし。久美にだってできるかもしれないしさ。」
「まぁ、可能性はゼロではないわね。」
久美子は自分の可能性はゼロだと思いながら言った。
「でしょ、だからお互いにいなかったら、付き合うよ。どちらかがダメだったら、クリスマスイブイブで。」
「天皇誕生日ってこと。」
「そう。」
「誕生日のお祝いもイブイブ、クリスマスもイブイブじゃ盛り上がんないよ。」
久美子は更に口を尖らせた。
「でも、考えようによっては祭日だからゆっくりできるし。」
「何かお妾さんに対する言い訳に聞こえるのは、気のせいかしら?そんなことばっかりやってんじゃないの?」
「そう、去年は大変だったんだから。そのときは彼女がいたから、当然イブの夜は彼女と過ごさにゃいかんでしょ。イブの昼は美樹ちゃんに付き合ってランチで、イブイブは弥生ちゃんとご飯食べに行って、クリスマスは大学のときの女友達とご飯食べて、4人のクリスマスで超ハードスケジュールだったんだから。」
「そりゃ凄いわ。」
久美子は少し呆れて言った。
「めちゃくちゃ疲れたよ。」
「あたしの入る隙がないみたいね、それじゃ。」
「大丈夫。今のところ弥生ちゃんは彼氏できたから。美樹ちゃんもイイ感じらしいしね。」
「じゃあ、イブイブでいいから予約しとこうかしら、埋まる前に。」
「ハハハッ。」
「山ちゃんが言ってた通りだわ。」
「何て?」
「あいつはプレイボーイだから気を付けろって。」
「どっからそうゆうことを嗅ぎつけてくるんだろうね、ヤツは。」
「あら、そうでもないわよ。新宿に来てからも女性陣は口を揃えて言ってるし。」
「うそ~!プレイボーイってことはないでしょ。誰も口説いてないし。」
「そうね、そうは言ってなかったわ。替わりに【誰にでも優しいって】言ってたわよ。この前のケーキ食べているときに弥生ちゃんにそう聞いたし、他の人からもね。」
「失礼だな~。」
昇はその評価に憤慨した。
「何が?」
「誰にでもってところが。弥生ちゃんには特に優しくしてるつもりだったのに…。」
「その差は女にとっては微妙ね。」
「どうゆうこと?」
「女は自分以外の人に優しくするのを見ると嫉妬する生き物なのよ。」
「なるほどね、そうかも…。久美もそう?」
「あたしはちゃんと自分の身分相応をわかってるわよ。贅沢は言わないわ。」
「なら、いいけど。」
「でも、約束は約束だからね。イブイブの件忘れないでよ。」
「はいはい、わかりました。肝に銘じておきます。」
「よろしい。」
二人はお互い顔を見合わせて笑ってしまった。その後、久美子は終電ぎりぎりの時間まで昇と飲んでいる時間を目一杯楽しんだ。


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