半日だけパパをやってみたら…
#恋愛小説 #ショート #子供欲しくない #登場人物少なめ #仕事と家庭の両立
#結婚適齢期 #遠距離恋愛 #海外赴任 #子供への責任 #週末婚
その日、裕司は休みの土曜日だというのに、会社へ行くときより早く起きた。一人暮らしの裕司は、生活パターンが決まっていて、土曜日は必ず洗濯と掃除をすることにしている。曜日を決めてやらないと、なし崩しで部屋が荒れてしまうことが、長年の一人暮らし生活でわかっていたので、そう決めていた。普段の休みの日は、ゆっくりと9時~10時頃に起きるのだが、その日は7時半に起き、まず洗濯機を回した。その間に1DKの部屋に掃除機をかけ、ゴミを片付ける。1週間分溜まったゴミを袋にまとめ、ジーンズにTシャツという軽い装いで、裕司の住むマンションから50mほどのところにある、集積所までゴミを出しに行く。その頃には洗濯も終わり、猫の額のようなベランダに洗濯物を干す。ちなみに裕司は、洗濯して干すまでは洗濯機がほとんどやってくれるので、嫌いではないが、干し終えた洗濯物を片付けるのは面倒くさく感じ、大抵は居間にある小さな2人掛けソファーの上に、取り込んだまま置きっぱなしだった。その後、部屋に備え付けの狭いユニットバスのトイレを掃除し、そのまま着ていた服を脱ぎ、裸でバスタブを掃除する。きれいになったバスタブでゆったりお湯につかり、本を読むことが、裕司にとっての休日の贅沢だった。バスタブを掃除する時間と、ゆっくり本を読む時間の両方の時間を使うことが、自分の心にゆとりがあるような気がして、贅沢な気分になれた。普段なら掃除の後、お湯を溜めてゆったり読書なのだが、今日は時間がなかったので、シャワーだけですませることにした。掃除の後は埃をかぶっているので、シャンプーの泡立ちが悪く感じるので、土曜日はいつも2回シャンプーをする。シャワーを浴び終わり、腰にバスタオルを巻いてバスルームから出ると、狭いシステムキッチンに無理矢理押し込められているような、小さな冷蔵庫を開けた。冷蔵庫から冷たい空気が足元に流れ、濡れた体に当たり、ひんやりして気持ち良かった。裕司は冷蔵庫を覗き見て、缶ビールを飲むかスポーツドリンクを飲むか迷ったが、車を運転するかもしれないと思い、スポーツドリンクを手にした。缶のスポーツドリンクを開け、ひと口飲み、シングルベットに座る。テーブルの上に置いていたスマホに手を伸ばすと、メールが受信されていた。シャワーを浴びている間に来たようだった。左手でスマホを操作してメールを開き、スポーツドリンクを飲みながら読んだ。
【今日は無事に検診に出発できました。出る前にだいぶぐずって、大変だったけどね。
ちょっと熱があるみたいだけど、まぁ大丈夫でしょう。(なんていい加減な母)
3度目の正直ということで予定通りの待ち合わせでOKです。
でも車が結構混んでいて、予約の時間につけるかしら…?
多香子】
裕司は以前付き合っていた多香子と、今日逢う約束をしていた。付き合っていた頃と違うのは、多香子の名字が変わったことと、多香子に子供がいることだった。先々月も先月も逢う約束をしていたが、先々月は彼女の子供が風邪をひき、先月は彼女本人がひどい風邪をひき、既に2回キャンセルになっていて、3度目のアポイントだった。裕司は多香子に3年以上逢っていなかった。5年前、裕司は多香子にプロポーズをするほどの間柄だったが、その後二人は別れることになってしまった。細かい原因を挙げればきりがないが、一番の大きな原因は二人の子供に対する考え方の違いだった。裕司にとって子供は、自分や多香子との関係を壊すモノとしか思えなかった。多香子にとっては、幼い頃に両親が離婚し母子家庭で育った影響が強く、幸せな家庭を作ることが、彼女の人生において最優先事項だった。そして一般の女性と同様に、女として生まれたからには子供を産みたかったし、頼りがいのある夫とかわいい子供達に囲まれた、幸せな家庭を築くことを夢見ていた。
裕司がプロポーズした当時、二人は結婚することについては同意していたが、その後の家庭という面では折り合いがつかなかった。多香子は子供ができてしまえば、裕司の考えも変わるだろうと思い、付き合っている頃、ピルを飲んでいるからと嘘をつき、わざと避妊しなかったが、付き合っている間には子供ができず、別れの方が早く来てしまった。
裕司はメールを読み終えると、バスルームへ戻り、ドライヤーで髪の毛をかわかした。多香子と初めてデートをしたときより緊張していたが、それ以上に多香子に逢うのが楽しみだった。裕司は仕度を終え、多香子との待ち合わせ場所へ向かった。
裕司と多香子は二人が20歳のときに知り合った。二人が通っていた大学は違っていたが、それぞれが所属していたスポーツ関連サークルの交流会で知り合った。コンパの席上で裕司は多香子に一目惚れをしてしまい、その夜に半ば強引に多香子を車で家へ送ったことから、二人の付き合いが始まった。多香子は見るからに上品そうな出で立ちで、サークルの中でも目立つ存在だった。多香子にとっての裕司の印象は、ナンパな体育会系の男だったが、強引に口説かれ、断れずにいるうちになりゆきで付き合うようになった。サークル内での高嶺の花の多香子を、裕司が手に入れたことで、裕司は周りから恨まれ、美女と野獣のカップルと冷やかされた。最初は裕司の強引さに、少し嫌々ながら付き合っていた多香子だったが、裕司の純朴さと自分に対する愛情を感じ、次第に裕司のことを好きになっていった。
二人は4年制の大学を卒業すると、裕司は体力がありそうということで、大手の電器メーカーに採用された。多香子は中堅のアパレルメーカーに就職し、営業とマーケティングを担当することになった。就職後は、大学時代ほど一緒に過ごせる時間はなかったが、忙しいながらも時間を作って、二人は付き合いを続けていた。
入社4年目の春、裕司は転勤でフィリピンへ行くことになった。現地工場の設立プロジェクトに転属となり、最低2年は帰って来れないと会社から言われた。工場が完成し、軌道に乗るまでは帰れないとプレッシャーを掛けられ、裕司の上司は25歳の裕司を心配して、身を固める宛があるなら結婚しておいた方がいいと脅した。5年前に台湾の工場設立プロジェクトに、同じ4年目で行った先輩は、まだ日本へ戻って来ていなかった。彼が近況報告で日本へ帰って来た際に、一緒に飲みに行ったとき、彼は裕司の上司に、それまで付き合っていた女性と距離が原因で、別れることになったとこぼしていたのを、裕司は隣りで聞いていた。
裕司にとって、多香子に対して何の不満もなかったので、20歳から付き合いを始めて5年の期間と、先輩から聞いた実体験が、裕司に多香子へプロポーズの言葉を自然に言わせた。プロポーズを受けた多香子にとっても、付き合い初めの頃は、裕司の一方的な愛情を受けていただけだったが、近頃は裕司が自分を愛してくれる以上に、裕司を愛していると思えていた。だから裕司と結婚することは、何の障害も無かったし、むしろその言葉を待ち望んでいた。ところがフィリピンへ行くということが、多香子に結婚の決断を鈍らせた。幸せな家庭を作ることは、そのときの多香子にとって、依然として一番大事なことだったが、自分が勤めるアパレルの仕事が面白くなりはじめ、責任のある仕事も色々任されるようになっていた。そして多香子は結婚しても、子供ができても、【幸せな家庭と今の仕事を両立させたい】と思うようになっていた。そのときの多香子が描く幸せな家庭の理想像には、自分の隣に裕司がいることは間違いなかった。しかし、降って湧いた裕司のフィリピン行き、しかもいつ日本へ戻ってこられるかも判らないと言われ、プロポーズの返事を躊躇した。フィリピンへ裕司と行くことになれば、今の仕事はもちろん続けることは出来なくなり、新しくやりがいのある仕事を、現地で見付けられる可能性は低い。それに日本に母ひとりを残して、よく知らない遥か異国の地で、裕司以外の知り合いが居ない環境に耐えられるとも思えなかったし、フィリピンにいる自分を想像できなかった。裕司からのプロポーズは、飛び上がるほど嬉しかったが、すぐに返事はできなかった。そして多香子は1週間あまり考えて【今はできない】とプロポーズを一旦断ることにした。
多香子は、早ければ2年で日本に帰ってこられることを、楽観的に見ることにして、裕司に遠距離恋愛でこのままの関係を続け、日本へ帰って来てからもう一度結婚を考えようと提案した。2年ならまだ二人は27歳、3年で28歳と結婚適齢期をのがしてはいない。多香子は2・3年間ぐらい、裕司を待つ覚悟はできていたが、裕司はその意見に同意できなかった。裕司は体育会系の体型通り、不器用で、今の日本での仕事でさえ、多香子との時間をなかなか作れずにいるのに、フィリピンと日本の距離で、うまく関係が保てるか不安だった。しかしこういったことは世間と同じく女の立場が強く、結局は勝気な多香子に無理やり押し切られ、二人は遠距離恋愛で付き合いを続けることになった。
裕司がフィリピンへ行ってからは、金銭的な理由からパソコンのメールが二人の関係をつなぐ手段になった。当時はまだ携帯電話でのメールは料金が高く、LINEなども無かった。今のスマホでのメールとは違い、家でパソコンの電源を入れなければ、メールが来ていること自体もわからず、返事を送ることもできない。二人のやり取りは1日置きに、行ったり来たりしていたが、裕司に泊り込みの仕事が舞い込んだり、多香子が出張で家を空けたり、酔って帰りそのままベッドに倒れこんだり、気分が乗らなかったり、さまざまな理由で、1週間に1回ぐらいしかメールを送れないときがお互いにあった。そうなると始めのうちは毎日帰ると、まずパソコンの電源を付けていたが、【明日見ればいいか】と思い、パソコンの電源を毎日付けることも自然としなくなった。
裕司がフィリピンに行ってからちょうど1年後、初めて現地の経過報告の為に、日本へ戻ることになった。その頃には、週に1回メールが行き来すればいい方、という状態になっていた。裕司は日本に滞在できる3日の間に、多香子と逢う時間を強引に作ったが、その日急に多香子には買い付けの仕事が舞い込み、福岡へ行くことになってしまった。裕司が滞在できた3日間で逢えたのは、多香子が半球を取って、成田空港へ見送りに来たわずか1時間だけだった。多香子はその日の昼に福岡を出て、羽田空港に着き、その足で成田空港へ向かった。成田空港の出発ロビーが見渡せる喫茶店で、二人は1年振りの再会を果たした。しばらくはメールで既にやり取りしていた仕事のことや生活振りなど、少しぎこちない会話が続いた。裕司のフィリピンでの暮らしぶりを執拗に訊く多香子に対して、裕司は心の中で、そんなことはメールで書いているじゃないかと思った。多香子は、最近メールのやり取りがうまくいってないことを気にして、もやもやした気持ちで、あたりさわりのない会話を続けていた。しゃべり続けていた多香子がコーヒーを口にし、言葉が途切れたところで、裕司はつかえていた言葉を切り出そうとした。
「多香子。」
「ん、な~に?」
多香子は飲んでいたコーヒーのカップをソーサーに戻して訊く。多香子は今までの経験から、裕司が言いにくそうにしていたことがわかっていたので、視線はカップに落としたまま、わざと甘えた声で応えた。裕司は多香子の声に押し流されないように言葉を続けた。
「やっぱ、・・・ダメなんじゃないかなぁ。」
裕司は、多香子にメールをきちんと送れないことに、罪悪感を持っていたので気弱に言った。
「なにが?」
多香子には、裕司が何を話したいかをわかっていたが、わざととぼけた。
「・・・二人の関係が。」
わかっているクセにとぼけた多香子の態度で、昨晩無理をして時間を空けたのに、多香子が福岡にいたことを思い出し、裕司は少し強い口調になった。
「そうかなぁ。…そりゃあ、裕司が日本にいるときのように、うまくはいかないわよ。」
少し突っかかる口調の裕司に対して、つい多香子も皮肉っぽく応えてしまった。
「じゃあ、僕に会社辞めろって言うの?」
裕司は多香子の言葉が、まるで自分がフィリピンにいることが、全ての原因だと言われているように聴こえて、言葉を荒げた。
「そんなこと・・・、そんなこと一言も言ってないじゃないの!」
裕司の言葉が荒くなったことに、多香子もつい感情的になってしまった。この後の展開はわかりきっているので、多香子は口に出してすぐに後悔した。
「言ってるじゃないか!」
裕司もつられて大声になってしまった。幸い喫茶店はそれほど混んでいなかったし、近くには外国人しか居なかったので、聴かれても大丈夫だろうと思ったが、言い争いをしている様子は万国共通らしく、裕司が周りを見回すと3人ばかりの人が、怪訝そうにこちらを見ていた。周りに気を取られている裕司に、多香子は少し腹が立った。
「ちゃんと私を見て。」
多香子は感情的になった自分を反省して、お互い冷静に話し合いができるように、静かに且つできるだけ優しい声で、裕司に言った。
「・・・・・・・・・。」
裕司は多香子の言葉に対して、熱くなってしまった自分を、沈黙の間に取り戻そうとした。冷静になろうと思っている間に、多香子が言葉をつなげる。
「ねぇ、裕司。・・・裕司が仕事でフィリピンにいることを、悪いことだとは思わない。仕事なんだからしょうがないじゃない。私だって昨日のように、仕事で福岡へ行かなきゃいけなくて、裕司との時間を壊したんだから…お互い様よね。ただ、ん~・・・、そう、ただ、以前のようには、距離の分だけうまく行かないってこと。家に帰って、裕司からメールが入ってなければ、病気でもしてないかなぁとか、仕事が忙しいのかなぁとか、浮気してるんじゃないかしらって、少し、・・・うん、少しだけ不安になるのよ。」
「だから、遠距離は無理だって言ったのに。知っての通り、僕は不器用なんだから、きっと向いてないよ。」
「そうね、私も向いてないのかもしれない。裕司のこと、信頼しなきゃいけないのに、待つって言ったくせに、つい不安が持ち上がっちゃう。」
「やっぱり、・・・。」
裕司は続きを言えず、言葉を詰まらせる。
「このままじゃダメかなぁ、私達。」
裕司の表情を見て、溜息混じりに多香子はその言葉を引き取ってぽそっと言った。
二人の間にしばらく沈黙が流れる。裕司は多香子の言葉が二人の終わりなのか、それとも今の状況で付き合いを続けたいのか、どちらの意味なのかわからなかった。沈黙した二人の空間に、出発の案内を告げるアナウンスがやけに大きく聴こえた。裕司は多香子の言葉に隠された彼女の本音は見えていなかったが、アナウンスにせかされて話しはじめた。
「…もう一回、結婚のこと、…考えてくれないかなぁ。結婚という形じゃなくても、多香子に…フィリピンに…、そばに居て欲しい。」
「・・・・・・、それはできないよ、…今は。」
「…なぜ?」
「私にも日本でのしがらみがある。お母さんのことも、仕事のことも…。全てを放り出してフィリピンには、・・・行けないよ。」
多香子は申し訳なさそうに下を向いてこたえる。
「でも、早ければ来年には帰って来れるじゃないか。たった1年だけだよ。」
「そうね。でも1年で戻れる保証は無いんでしょ?どこにも。」
「……。」
「そう、早ければたった1年なんだから、お互い我慢すればいいじゃない、ね。」
「多香子は、…我慢できるの?」
「できるわよ。裕司がフィリピンへ行く前にプロポーズしてくれたとき、…そう決めたんだから。」
多香子は自分に言い聞かせるように言った。
「僕は自信無いな。」
「私だって自信は無いわよ。でも、そうしなきゃ…ね。子供でもいれば違うんだろうけど。」
「えっ?」
「子供がいれば気もまぎれるし、その子を裕司の代わりだと思えるじゃない。」
「またその話。」
多香子に子供の話を聴かされるのは、子供嫌いの裕司にはうんざりだった。
「だって、私ももう26歳よ。周りでは結婚して、もう子供が3人もいる友だちもいるし。少しは焦るわよ。」
「でも多香子の理想は、幸せな家庭でしょ?そこに旦那は居なくてもいいの?」
「それは理想だけど、でも状況が状況だけに、しょうがないじゃない。妥協案よ。」
「僕の理想の家庭には、子供は含まれていないんだけど。」
「できたらきっと変わるって。うちの課長も、最初は【子供なんてまっぴらごめんだ】って言ってたのに、今は親バカ丸出しになってるわよ。」
「自分がそうなるとは想像できないよ、少なくても今は。それにこの仕事が落ち着くまでは、そんなことを考えてる暇はないしね。」
「それでも考えて欲しいな。…私にも理想があるってこと。」
下のロビーから裕司を呼ぶ声が聴こえた。フィリピンへ一緒に戻る会社の上司の声だった。多香子とこの手の話をすると、いつも子供が欲しい・欲しくないと、言い争いになるので救われた気がした。裕司は聴こえたという返事がわりに手を上げて上司にこたえた。慌てて時計を見ると、もうゲートインする時間が近くなっていた。
「もう行かなきゃ。」
裕司は慌てて身支度をしながら多香子に言った。
「昨日は本当にごめんなさい。」
多香子は裕司との離れる時間が来たことを知り、急に寂しくなって、涙ぐんでいた。
「いいよ、しょうがないじゃない。お互い生きていれば、こうして逢えるんだから。」
裕司は多香子の涙には滅法弱く、それまでの気分を切り換えて、優しい口調になった。
「無理しないでね。」
多香子はフィリピンに戻る裕司を心配した。
「うん、じゃぁ、…また。」
裕司は会計の伝票の上に千円札を置き、軽々と資料が詰まったスーツケースを持って、喫茶店を出て行った。多香子は裕司の後ろ姿を見送ると、仕事へ戻る為に駆け足で電車に飛び乗り、東京へ戻った。
裕司がフィリピンへ戻ってからは、最初の頃のように毎日メールのやり取りをしていた。しかし2ヶ月目に裕司の進めるプロジェクトが、現地法人とのトラブルから頓挫してしまった。裕司達がそのトラブルを解消するのに、1ヶ月以上の期間を要した。その間は殆ど事務所に入り浸りで、家へ帰るのは、いい加減臭くなった服を着替える為に帰るだけだった。シャワーを浴び、パソコンの電源を付けるところまでは覚えていたが、パソコンが立ち上がる前に眠り込んでいた。同僚からの電話で起こされ、付けっ放しだったパソコンでメールの確認をすると、多香子から何件もメールが入っていた。裕司はトラブルで忙しいことと、何とか生きていることだけを短く返信した。その1ヶ月間の多香子からのメールは、初めのうちは自分の近況報告と、裕司を心配する内容ばかりだったが、あまりにも返事が帰って来ないことで、自分のことが嫌いになったのか?書きなぐりのメールではなくてちゃんと返事が欲しい、浮気してないか?などという内容に変わっていった。多香子はそんなことを、裕司にメールするつもりはなかった。裕司が本当に忙しいのだろうと、心の底では信じていたが、感情をコントロールできなかった。裕司を中傷するメールを送った後、自己嫌悪に陥り、翌日には謝りのメールを再送した。裕司を待つと言った自分と、返事が来ないことで不安になる自分が、多香子の中で格闘していた。
メールのやりとりが途切れ途切れになって1ヶ月経った頃、多香子は会社の新入社員の歓迎会で、飲みに行くことになった。裕司とうまくコミュニケーションがとれてないことに、多香子はイライラしていて、とてもじゃないが歓迎会の気分ではなかったので、出なくてもいいように、わざと出張の仕事をその日にしようとしたが、先方の都合が合わなかった。社長に適当な理由を言って断りに行ったが、仕事の一環だと窘められ、嫌々参加することになった。歓迎会の間は塞ぎこんだ気分で、あたりさわりのない会話をしていた。隣りに座った後輩に、日本酒を勧められ、上の空で勧められるままに飲んでいるうちに、それまで押さえ込んできた感情が爆発してしまった。その後輩は、多香子と同じ部署の小園洋二だった。多香子は仕事のパートナーとしては、洋二のことを気に入ってはいたが、2歳年下だったのでそれ以上の感情は持っていなかった。お酒の席でこうして隣に座ったことも、今まで無かったので、仕事以外の話をしたことはそれまで殆ど無かった。多香子は、裕司とのいきさつを、酒の勢いを借りて洋二に吐き出した。洋二は歓迎会が終わるまで、ずっと多香子に捕まるハメになった。多香子が愚痴を言う相手は、極端に言えば自分がしゃべれれば、洋二だろうがクマのヌイグルミだろうが、何でもよかった。ただ、しゃべってすっきりしたいだけだった。たまたま隣に座った洋二のことを、しゃべっている間に自分でも(かわいそうだな)とも思ったが、止められなかった。その席が終わっても、まだ多香子は吐き出し足りなかった。お酒を飲みすぎた上に、感情が高ぶった為、その店を出たときには、多香子は少しふらふらしていた。周りの同僚たちは、飲ませた洋二に多香子の後始末を押し付けた。洋二は貧乏くじを引いたと、多香子にお酒を注いでしまったことを後悔した。そんな洋二をよそに、まだ収まっていない多香子は、目に付いたバーへ洋二の手を引っ張って入った。二人はカウンターに並んで座り、バーテンダーに注文をした。多香子は最初の一杯目は、少しすっきりしたかったので、フレッシュミントの入ったモヒートをオーダーした。洋二は最近気に入っていた、ビンに蝋がかかっている、メーカーズ・マークのブラックトップを、ダブルのロックでオーダーした。注文を聞いたバーテンダーは手際良くオーダーをこなし、二人の前にグラスを並べた。
「じゃぁ乾杯!」
バーの端まで聞こえるような声で、多香子は洋二のロックグラスに、自分のコリンズグラスをぶつけた。洋二はそれに応えず黙ってひと口飲んだ。
(今日は散々だなぁ、しかし、このお姉さんにも困ったもんだ)
「おい、洋二!飲んでるか。」
黙っている洋二に、多香子はからみだした。バーまで歩いたことで、すっかり酔いがまわったらしい。
「あ、はい、飲んでます。」
多香子の機嫌を損ねないように、調子をあわせる。
「だいたいね、洋二って名前が良くないのよね、裕司みたいで。まったく、ロクなやつがいないんだから。」
「はいはい、そうですね。」
「そうよっ!裕司ときたらメールの1本もなしで、なしのつぶて。酷いよね。」
「そうですね。」
洋二は気のない返事を続ける。気持ちの入ってない洋二の返事に、矛先は洋二に変わった。
「本当にそう思ってる?」
酔って力の加減ができない多香子は、洋二の背中を思い切り叩いて言った。
「思ってます、思ってます。」
「だったら、裕司の代わりに謝んなさいよ!」
多香子は理屈に合わないことを言って、自分のグラスを一気に飲み干し、次のお酒を注文しはじめた。
「バーテンダーさん、なにか、こう…すっきりして強いやつ。あ、お腹いっぱいだから、短い三角のやつで。」
二人を見かねたバーテンダーは、気をきかせてアルコールの薄いカクテルを作って、多香子にサーブした。多香子はバーテンダーの出した、普通よりアルコールの弱いメキシカンをひと口飲んだ。
「うん、いい感じ。裕司もこのバーテンダーさんの爪の垢ぐらい、気がきけばいいのに…。」
自分で口にした裕司という言葉に、多香子は涙ぐみ始めた。そして泣きながら洋二に愚痴をこぼした。洋二が止めるのも聞かず、愚痴の合間にショートカクテルを次々と飲み干した。カクテルはバーテンダーが気を利かして薄めに作られていたが、多香子は飲んでいる雰囲気と、感情の高ぶりですっかり酔っぱらっていた。洋二がなだめすかして、そのバーを出ることができたときには、午前0時を回っていた。洋二はそのバーで、2時間以上も多香子のお守りをさせられた。会社の飲み会から数えると、4時間以上になり、精神的な疲れと、多香子に付き合って飲んでいた酔いで、すっかり疲労していた。多香子を引きずるように、バーからタクシーを拾える通りまで、やっとのことで連れて行った。
「多香子さんの家は? どこですか?」
涙で化粧が落ちかけている顔を覗き込みながら、子供を諭すように洋二は訊いた。
「ん、うち?うちは…あっち。」
多香子はロレツの回らない返事をして、通りの向こう側を指差す。
「あっちって、どこ?」
「う~ん、あっち!乗ればわかるから…。ね。」
多香子はのそのそと歩いて、車の往来が激しい大通りに出ようとしたので、洋二は右手で多香子の腕を捕まえたまま、左手はタクシーを止める為に上へあげた。周囲の人から見れば、どっから見ても泥酔した女性に手を焼いているように見える。洋二は飲み会で多香子の隣に座ったことを、今さらながら後悔した。5分程でタクシーが捕まった。タクシーのドアが開くと洋二は先に乗り込み、多香子を引っ張るようにして、なんとか席に座らせた。行き先を尋ねた運転手をルームミラー越しに見ると、明らかに嫌そうな顔をしていた。洋二はまだ多香子の家の場所を聞き出せていなかった。
「運転手さんに指示して。」
洋二は運転手の冷ややかな目を気にしながら、多香子を促した。
「等々力まで。」
多香子はタクシーに乗ったことをうっすらと認識し、行き先をか細い声で答えることができたが、ドライバーには声が小さすぎて聞こえなかったらしく、洋二が言い直して、タクシーは走りはじめた。とりあえず多香子の家へ向かっていることで、洋二は少しだけ安心したが、等々力に着いた後のことや、家に着いてからのこと、それから自分の家まで帰ること、明日会社へ行かなくてはいけないこと、様々な不安が改めて浮かび上がり、暗い気分になった。洋二の不安を他所に、泣き疲れたのか、多香子は隣でいびきをかいて寝込んでいた。タクシーは渋滞に引っ掛かることもなく順調に走り、30分ぐらい乗ったところで、等々力の駅へ着いたことをドライバーは洋二に知らせた。
「等々力駅まで来たけど、この後は?」
起きてちゃんと答えて欲しいと願いながら、洋二は多香子を揺り起こして訊いた。多香子は寝たことで少し落ち着きを取り戻したらしく、ゆっくりと体を起こし、ガラス越しに周りを見た。ぼんやり外を眺めている多香子に、
「等々力駅ですよ。この後は?」
洋二はもう一度ゆっくりと多香子に訊き直した。同時に多香子は切羽詰った声を出した。
「すいません、運転手さんドア開けてもらえますか?」
運転手は感付いて、急いでドアを開けた。ドアが開くと同時に多香子は外へ飛び出し、2・3歩歩いたところでうずくまった。そして咳き込みながら吐き出した。洋二は多香子が降りた後、続いてタクシーを降り、多香子の背中をさすった。多香子が収まったのを見て、運転手が洋二に大丈夫か声を掛けてきた。洋二は手を上げて運転手に合図を送った。
「多香子さんの家は、ここから近いの?」
吐くときに咳き込んだせいで、黒のセミロングのスカートと、エナメルのパンプスのつま先が汚れていたのを見て、洋二はタクシーには乗れないと思った。
「ん、ん~と歩いて5分ぐらい、かな。」
ハンドバックからハンカチを取り出し、口を拭いながら多香子は答えた。洋二はその答えに嬉しさと悲しさが半々だった。5分ならおぶってでも家まで送り届けられるが、タクシーをここで帰すことになり、自分の家へ帰るタクシーをその後拾わなければならない。もう少し遠ければ、運転手に無理を言って乗せてもらうが、歩ける距離だったので遠慮が先に立った。洋二は運転手にここでいいと伝え、タクシー代を払った。お釣りを受け取ると、最悪のときには会社に泊まろうと思い、財布に会社までのタクシー代が残っているかを確認した。タクシーがドアを閉め、走り出して行くと、うずくまったままの多香子を見て途端に気が重くなった。金曜の深夜に住宅街で、タクシーが簡単に捕まると思えないことが、更に気を重くした。
「さて、行きましょうか。」
洋二は自分の暗い気分を振り払うように、うずくまっている多香子に明るく声を掛けた。
「えっ、タクシー…は?」
洋二のほうを向き、乗って来たタクシーが無いことに多香子は気付いて言った。
「これじゃ、乗れないでしょ。」
洋二は上着のポケットからハンカチを取り出して、多香子に差し出した。多香子はスカートの汚れに気付き、持っていた自分のハンカチで拭いた。スカートを拭いているうちに、靴も汚れていることに気付き、慌ててそっちもハンカチで拭った。
「ごめんなさい。」
多香子はハンカチを差し出している洋二を見上げて、申し訳なさそうに謝った。
「もう、今日は諦めました。何があっても怒らないし、呆れもしないから、さぁ行きましょ。」
「ごめんなさい、本当に…。ひとりで帰れるから…大丈夫。」
「もうタクシーも行っちゃったし、家まで送り届けますよ。そうしないと、明日怒られそうだし。」
多香子の勤める事務所は、土曜日は交代で電話応対の留守番をする勤務があり、洋二と多香子の上司が明日の担当だった。
「明日出勤なの?」
「あ、うん。それも斉藤さんと。」
「本当にごめんなさい、言ってくれれば…こんなに連れまわしたりしなかったのに…。」
「いいんですよ、さぁ、行きましょう。」
洋二は多香子の腕を持ち上げ、立たせようとした。多香子は少しよろけたが、洋二が支えていたので何とか立ち上がれた。
「みっともないね、後輩にクダまいた上に、こんな迷惑かけちゃって。」
洋二は多香子の腕を支えながら、多香子の歩く方向にならって、歩調を合わせて歩いた。
「まぁ、今日は社長が挨拶で言ったように、無礼講ってことで。」
裕司は多香子に謝られ、少し平静さを取り戻した。
「ねぇ、無礼ついでに訊いていいかな?」
多香子が洋二を上目使いで見て訊く。
「何ですか?」
「洋二君は、彼女いないの?」
「先々月別れたばっかりで、今はフリーですよ。」
洋二はどんな質問がくるかと、身構えていたのに、予想外の質問だったので、笑いながら答えた。
「そう…。何で、別れちゃったの?」
「こうやって誰にでも優しくするから、かな?」
「自分で言ってる。」
洋二に支えられていない方の右手で、洋二のお腹を突っついた。
「まぁそれは冗談として、甲斐性なしだから…でしょうね。」
洋二は彼女との別れ話のときに、彼女に言われた言葉を思い出した。
「どうゆうこと?」
「会社の人達には内緒ですよ。」
「うん、約束する。」
多香子は興味津々に、続きを催促した。
「実はですね、3ヶ月前ぐらいに、彼女に子供ができたことが判って…。」
「おろせって言ったんだ。」
「いいえ、その逆。こっちは喜んだんですけど、彼女はそうじゃなくてね。」
「どうして?」
「いや~、ついついギャンブルとかで熱くなっちゃって、貯金はすっからかんどころか借金まで作っちゃって、【そんな状態で子供が育てられるわけないでしょ!】って怒られまして。」
洋二は彼女に言われたときの口調を真似て言った。
「で?」
「それでも子供のことがあったから、彼女に【結婚しよう】って言ったんだけど、【堕ろすお金も無いのに、育てられるわけないでしょ。もうあんたなんか、いらない!】って捨てられまし
た。」
洋二は自分の頬を左手で叩き、彼女にぶたれたことを多香子に見せた。
「そうなんだ。」
「何で裕司さんは、子供がそんなに嫌なんでしょうね。僕には理解できないんだけど。」
「そうね、裕司が子供好きだったら、…良かったのになぁ。あ、そこがうちのマンション。」
多香子は出張などで度々家を空けることを、母親に心配させるのが嫌で、実家の近くに借りている、8階建てのレンガ調のマンションを指差した。
「ありがとう、送ってくれて。」
「いいえ、どういたしまして。お姫様。」
洋二は多香子が自分を責めないよう気遣って、おどけてみせた。
「これから帰れる?」
洋二の帰りを心配して多香子は訊いた。
「ええ、大丈夫ですよ。タクシーが捕まりそうな道さえ、教えてくれれば。」
「でも、この時間じゃね。」
「まぁ、最悪ぶらぶら帰りますよ、どうせもう会社に泊まるつもりだし。」
「だめよ、会社じゃ風邪ひいちゃうよ。」
多香子が朝一番に行くと、社長が社長室のソファーで、上着を布団がわりにして寝ている姿を思い出した。それで社長は、よく風邪をひいたとぼやいていた。
「よかったら、上がって。何にもおかまいできないけど、迷惑かけたお詫び代わりに。」
洋二は時計をちらっと見た。時計は既に1時を過ぎていた。タクシー代も心もとなかったので、始発で家へ帰ればいいかと思い、多香子の申し出に甘えることにした。
二人は多香子のマンションのエントランスへ入り、エレベーターに乗る。深夜だったので、靴音やエレベーターの機械音が響き、多香子には驚くような音に聞こえた。それ以上に驚いたのは、お酒を飲んだとはいっても、裕司以外の男性をマンションに入れることを、言ってしまった自分に気が付き、驚いた。それに気付くとエレベーターのボタンを押す手が、少し震えていた。多香子の部屋がある5階に着き、いつもは一人で歩く長い廊下を、二人で部屋に向かっていることに、違和感を覚えた。ハンドバックからマンションの鍵を取り出し、ロックを外した。
「どうぞ。」
部屋のライトのスイッチを入れ、多香子は精一杯、虚勢を張った声で、洋二を部屋に招き入れた。洋二は玄関に靴を脱ぎ、真っ直ぐ居間の方へ歩いた。多香子は後ろを歩き、一緒に居間へ入ると、居間のライトのスイッチを入れた。
「適当に座ってて。コーヒーでいい?」
「いいえ、かまわないで下さい。水を一杯もらえれば。」
多香子はハンドバックをテーブルの上に置き、台所で洋二と自分用に氷水を作った。
「はい、どうぞ。」
多香子は、普段ビールを飲む為の大きなグラスに、氷と水を入れて洋二に差し出した。居間にあるソファーに座っていた洋二は、立っていた多香子からグラスを受け取ると、視線が自然と汚れていたスカートに、目がいってしまった。多香子はその視線に気付いて
「ごめんなさい、あたし着替えてくるから。あ、ついでにシャワー浴びてきてもいいかな?」
「ええ、どうぞ。」
「もし、眠くなったら、これ使って。」
多香子は、持っていた自分のグラスをテーブルに置き、居間の箪笥から毛布を一枚引っ張り出して、洋二に差し出した。
「じゃぁ、ごめんなさい。シャワー浴びてくるわね。」
多香子はテーブルに置いた氷水を一気に飲み干して、バスルームへ向いた。
「ごゆっくりどうぞ。」
多香子がバスルームに入るのを見届けると、洋二は上着を脱ぎネクタイをはずし、そのままソファーに横になった。
(はぁ、疲れた。しかし何でこんなことになっちゃったんだろう?)
そう思いながら瞼を閉じると、うとうと寝てしまった。
多香子はマンションまで歩く間かなり辛かったが、洋二の手前我慢していた。そしてシャワーを浴びているうちに、また酔いがまわってきて、そのまま座りこんで眠ってしまった。
洋二はシャワーの音がかすかに聴こえることで目を覚まし、着けたままだった腕時計を見た。時計は2時を過ぎていた。マンションの前で時計を見たときが、1時過ぎだったことを思いだし、多香子があれからずっと浴室にいることに気付いた。洋二はソファーから跳ね起きて浴室の前へ歩き、ドアをノックした。摺りガラスの向こうに、多香子がぼんやりと見え、座り込んでいるように見えた。2度、3度とノックをしたが、多香子からの返事は無かった。洋二は心配になり、今度は声を掛けた。
「多香子さん、大丈夫ですか?」
それでも返事は無く、シャワーから流れる水の音だけしかしなかった。
「多香子さん、開けますよ。」
洋二は一応、断りを入れて浴室のドアを開けた。ドアを開けると、多香子はバスタブにもたれかかって、座り込んでいた。洋二は多香子の体を見ないように目をそむけて、シャワーの栓を止め、多香子の頬を軽く叩いた。
「多香子さん、風邪ひきますよ。」
(人の風邪の心配してる場合じゃないだろうに)
洋二は自分が風邪をひくからと、心配されてここに居るのに、これじゃあべこべだと思った。
洋二の声に、多香子は少しだけ反応したが、まだうつろな気分だった。洋二は掛けてあったバスタオルを見付け、多香子をバスタオルで包み、抱き起こした。だらんとした状態の人間が、これほど重く感じるとは、洋二は初めて知った。苦労して寝室まで運び、やっとのことで、ベッドの上へ寝かせることができた。多香子は横になったことで安心したのか、寝返りをうつと、バスタオルがはだけて、廊下から漏れる明かりで、多香子の体がぼんやり見えた。洋二はもう一度バスタオルを戻し、多香子の体の下から、掛け布団を取ろうとした。多香子の首を抱きかかえ、上半身の下にある布団を引きずり出そうとすると、多香子は洋二の背中に腕を回して、自分に抱き寄せた。洋二は踏ん張れない体制だったので、多香子の力に負けて、多香子の上に倒れこんだ。
「裕司。」
多香子は洋二を抱き寄せ、裕司の名前を呼んだ。多香子は洋二の背中に腕を回したまま、洋二を自分の左に寝かせた。洋二は、酔っ払っている多香子を振りほどこうとしたが、思ったより力が強かったので、諦めて多香子が寝て力が抜けるまで、添い寝をしようと思った。洋二の思惑通り、5分ほどで多香子は寝息をたてはじめた。洋二はゆっくりと多香子の腕をほどこうとしたが、そのことで多香子は起きてしまい、寝ぼけて目の前の洋二に唇を重ねた。長いキスと、浴室で見た多香子の裸体と、バスタオル一枚に隔てられた温もりが、洋二の理性を崩し、二人は体を重ねた。
朝方、洋二は多香子より早く目が覚めた。隣に寝息をたてて寝ている多香子を見て、洋二は昨晩のことを思い出して罪悪感を覚えた。洋二はベッドからそっと抜け出し、カーテンから漏れるうっすらとした明かりで、ベッドの下に脱ぎ捨ててあった衣類を探し、それを持って寝室を出た。明かりが付けっ放しだった居間で、持っていた服を着て、ソファーにどっかりと腰を下ろした。部屋を見回すとTVの上には、多香子がおそらく裕司という男性と、笑って並んで写っている写真が飾ってあった。洋二に後悔が大きく押し寄せた。多香子と顔をあわせづらく思い、電話の横にあったメモ用紙を1枚取り、上着からボールペンを取り出して、テーブルの上で多香子宛のメモを書いた。
【おはようございます。
出勤なので、帰ります。
泊めて頂きありがとうございました。
鍵、空けっぱなしなので、これを見たら必ず鍵を閉めて下さい。
では、よい週末を 洋二 】
洋二が帰ってから2時間後、多香子はお酒のせいで喉が渇き、布団の中に丸まっていたバスタオルを巻いて、居間の冷蔵庫へ歩いた。二日酔いで頭痛が酷く、昨日の夜のことを考える余裕は無かった。冷蔵庫から冷やしてあったミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、一気に飲んだ。体の乾きが少しずつ潤っていく感じがした。落ち着きを取り戻し、ペットボトルを持ったまま、ソファーへ座ろうとして目を向けると、テーブルの上にメモがあることに気付いた。ゆっくりとした足取りで、テーブルの上にあったメモを取り、ソファーに腰を下ろした。洋二のメモを見て、多香子は昨日の出来事を、懸命に思い出そうとした。しばらく考えたが、歓送迎会が終わって、洋二を連れてバーに入った後は、断片的にしか記憶が出てこなかった。裸で寝ていた自分に気付き、急いで寝室へ戻った。
(あぁ、馬鹿やっちゃった。裕司にも、洋二君にも悪いことしちゃった、どうしよう)
寝室のベッドの前にへたり込んで、頭をうなだれた。
その週末は、裕司からのメールが来ていることが恐くて、パソコンの電源は付けられなかった。時間が経つにつれ、自分がしたことを少しずつ思い出し、裕司と洋二に申し訳ない気持ちで一杯になり、食事を摂る気にもならず、何も手につかなかった。
週明けの月曜日、多香子は鉛のように重い気分で出勤した。いつも通りの時間に出勤し、事務所の鍵を開けようとすると、鍵が既に開いていた。誰かが泊まったときは、既に開いていることはあるが、いつも多香子は一番に出社していたので、癖で鍵を差し込んでいた。事務所のドアを開けると、洋二がいた。通勤途中も、洋二と顔をあわせたとき、何をしゃべっていいのか考えていたが、まさか朝一番で顔をあわせることは考えてなかった。意表を突かれて、多香子は事務所のドアを閉めたくなった。
「おはようございます。」
洋二はいつも通り、多香子に挨拶をした。
「おはよう。」
多香子は返事をしたものの、その後の言葉が続かなかった。困り顔の多香子に、洋二は助け舟を出した。
「多香子さんはいつも一番早く来るから、この時間なら大丈夫かなって思って。」
「そう、この前はごめんなさい。あたし、だいぶ酔っ払っちゃったみたいで…。」
「いいえ、僕の方こそ、その、何て言うか、泊めてもらった上に、…。」
二人の間の空気はもどかしかった。
「ほ、本当はね、電話して謝らなきゃって、ずっと思ってたんだけど、つい、どう言っていいか判らなくて。あ、土曜日、仕事間に合った?」
「ええ、大丈夫でした。でも、そのままの格好だったから、斉藤さんに変な目で見られましたよ。多香子さんを、家まで送ったとは言いましたけど。」
「本当にごめんね。週末はずっと自己嫌悪に陥ってた。反省してます。」
「まぁ、そうゆうこともあったってことで…」
洋二が言いかけたとき、他の社員が出勤してきた。多香子と洋二に挨拶をし、洋二が珍しく早く出勤しているのを、その社員はからかった。
多香子はその一件以来、仕事が終わってから、度々洋二と飲みに行くようになった。一人っ子の多香子には弟ができたみたいで、裕司の愚痴を聴いてもらうときが殆どだったが、日が経つにつれ、お互いのことを話すようになった。多香子にとって、洋二はまだ弟のような存在としか思っていなかったので、あの日以降、一線を越えることは無かった。
あの日から2ヶ月を過ぎた頃、多香子の不安は当ってしまった。ここしばらく体の調子が悪かったのと、生理が来なかったので、恐る恐る一人で産婦人科へ行った。もちろん洋二以外の心当たりは無かったが、洋二には話せなかった。話せば余計な心配を掛けることになるので、まず自分で確かめてからと思った。初めて産婦人科の診療台に乗ったときは、恥ずかしくて顔から火を噴きそうだった。暗い気持ちで検査結果を待ち、医者と検査結果について面談すると、妊娠していると告げられた。
多香子はその日、医者へ行く為に会社を休んだが、会社には単なる有給休暇で、親戚のところへ行くと言っていた。洋二にも同じように、本当のことは話していなかった。洋二にどうやって告げようか、それともこのまま、洋二に妊娠のことは知らせずにいようか、病院を出てから座った公園のベンチで、さんざん迷った。何度もスマホの洋二の番号を表示させたが、通話ボタンは押せなかった。そのまま夕方になると、着信音が洋二の方から電話を知らせた。多香子はためらいがちに、5回目のコールで電話に出た。
「はい。」
多香子は洋二に心配させまいと、精一杯明るく電話に出た。
「どうしたんですか?暗いじゃないですか。」
多香子の精一杯は、洋二には感付かれてしまっていた。
「そお?」
取り繕うように、もっと明るい声を出そうと努力した。
「ええ、何かあったんですか?」
「う、うん、まあ。」
洋二の指摘に、多香子は気勢を張るのを諦めた。
「何か、多香子さんらしくないなぁ、歯切れが悪くて。」
「ごめんなさい。」
多香子はそう言って泣き出した。
「そんなつもりじゃなかったんだけど・・・、本当にどうしたんですか?」
「ううん、いいの。それより洋二君こそ、どうしたの?」
「あ、もし空いてたら、飲みにでもと思って。」
「そう。」
「でも、その様子じゃ、…また今度にしましょうか。」
「ううん、いいわよ。」
「本当に大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。何処にする?」
「じゃあ、渋谷のいつもの店に、7時でどうですか?」
「わかった、7時ね。」
「ええ、じゃあ後で。」
多香子は無造作に電話を切った。スマホの時間を見ると、7時まであと2時間弱。その間に洋二に妊娠のことを言うか、言わないか、それとも先延ばしにするか、を決めなければいけなかった。渋谷までの電車に乗っている間に、多香子は洋二に告げる決断をした。産むにしろ、堕ろすにしろ、一人の問題ではなく、洋二にも知っておいてもらうべきだと、多香子は思った。待ち合わせの時間より、多香子は20分早く渋谷のバーに着き、先に注文をして飲み始めていた。お酒の勢いでもなければ、言いそびれそうな気がして、洋二が入ってきた7時には、既に3杯目だった。洋二は店に入ると、多香子の姿をカウンターに探した。まだ来ていないかと思って、カウンターに座ろうとすると、バーテンダーが奥の席を指した。多香子は一番奥の2人席に座っていた。洋二はカウンターの椅子を戻し、2人席の向かい側に座った。
「どうしたんですか?カウンターじゃないなんて。」
「ちょっとね。」
「あ、ビールをお願いします。」
裕司のビールが運ばれてくるまで、二人は黙ったままだった。
「とりあえず、乾杯。」
洋二は多香子の飲んでいる、淡いブルーのカクテルが入ったタンブラーに、グラスを合わせた。グラスの乾いた音が鳴ると同時に、多香子は目を伏せてはいたが、つとめて明るく洋二に話し始めた。
「あのさ、実はね。」
「うん。」
「今日は病院に行っててね…。」
洋二はビールを半分ぐらいまで一気に飲みながら、多香子の言葉を待った。
「えっとね、できちゃったみたいなの。」
洋二はビールを噴き出しそうになった。
「で、できちゃったって、何が。」
洋二は多香子の口ぶりなどで、薄々わかっていたが、改めて訊ねた。
「子供。」
「・・・・・・。」
洋二はその言葉を予測はしていたが、その次の言葉を訊くのをためらった。うろ覚えだが一度はそうさせた可能性があり、自分が父親ということもありうる。一方最近の付き合いは、姉弟みたいな付き合い方をしていたので、弟として相談されたのかもしれないとも思った。洋二が言い出せずにいるうちに、多香子からの次の言葉で答えがわかった。
「ごめんなさい。」
多香子はうつむいたままだった。洋二はその答えに慌てて次の言葉を探したが、見当たらなかった。しばらく沈黙が二人の間に流れた。多香子の前にあるグラスの中の氷が溶け、グラスの縁に当った音が妙に大きく聴こえた。
「ごめんなさい。」
多香子は同じ言葉を繰り返した。それしか多香子には思い浮かばなかった。
「謝ることじゃないですよ。多香子さんが悪い訳じゃないんだし。」
「でも、あの日酔っ払わなければ…。」
「自分を責めないで下さい。責められるのは、…僕の方だし、ね。」
「でも…。」
「事実はわかりました。ん~と…え~と、ど・どうします?・・・というか、どうしたいですか?」
「洋二君は?…どうすればいいと思う?」
「わからないですよ。前のときも、どうすれば最善だったのかは、今になってもわからないし。でも多香子さんのしたいようにすることに賛成しますし、協力もしますから。」
多香子は洋二の言葉に冷たさと、暖かさの両方を感じた。そして自分の決心を静かに答えた。
「わたしは…、私は産みたい。」
「僕には何ができますか?」
「何も…うん、何もしてくれなくていい。承諾してさえくれれば。」
「でも、どうやって育てるんですか?一人じゃ無理ですよ。」
「何とかなるわよ、何とか。」
「多香子さんは、…僕のこと嫌いですか?」
「ううん、好きよ。」
多香子はその後に続く、【弟として】という言葉を端折った。
「じゃあ問題ないじゃないですか、僕も多香子さんのこと、好きなんですから、結婚すれば。」
「姉さん女房よ、私じゃ。」
「昔から言うじゃないですか、姉さん女房は金のわらじを履いてでも探せってね。」
「ありがとう、でも今日の今日のことだから、しばらく考えさせてくれる。」
多香子は裕司のことをどうしようかと思い、返事を先延ばしにした。
「ええ、かまいませんよ。いずれにしろ、決まったら教えて下さい。」
結論の出ないまま二人は渋谷のバーを後にした。
洋二から結婚の話は在り得るとは思ったが、多香子の心の中では低い可能性だった。堕ろしてくれと言われると思っていた。お腹に宿っている命を捨てずに済むことは、多香子を安心させたが結婚については思案橋だった。自分が26歳で少し焦っていること、洋二がまだ24歳で男として人生を決めさせるには早いこと、洋二のことを弟のように付き合ってきたが、まだよくは知らないこと、そして何より裕司に何をどうやって話せばいいかということ、多香子は頭がぐちゃぐちゃになっていた。裕司にはもう1年待つと言っておきながら、こんなことになってしまった自分を責めた。
多香子は3日悩んで、洋二と結婚する決意をした。自分にとっては子供が大切で、命を捨てる決断はできなかった。子供にとっては、やはり両親が揃っていることが望ましいのは、幼い頃から自分が片親で育ってきた環境から、わかりすぎるぐらいわかっていたし、自分の都合で片親にするのは、子供がかわいそうだと思った。決心してから、多香子はパソコンに向かって、裕司に送るメールを何度も何度も書き直した。書き上がるまで1週間かかったが、その間にも3通、裕司からのメールが届いていた。妊娠がわかって以来、多香子は裕司からのメールは見たが返事は出せなかった。裕司が多香子のことを心配するメールが溜まっていた。ようやく裕司へ妊娠のことと、洋二と結婚することをメールすると、その翌日【お幸せに】の一言だけのメールが返ってきた。多香子は裕司を裏切ったことを改めて知り、つわりと相まって酷く気持ち悪くなった。
多香子が洋二に結婚したいことを告げると、洋二は黙ってうなずいた。そのときには既に少しお腹が目立ち始めていたので、内輪だけで略式の結婚式をした。多香子はそれまで住んでいた等々力のマンションを引き払い、洋二の住んでいたマンションへ引っ越した。結婚と引越の案内状を送るとき、多香子は裕司にも送るかどうかを迷った。さんざん迷った末に、何もコメントを書かず、洋二には黙って送ることにした。
洋二との結婚生活は、はじめのうちは順調だった。多香子が思い描いていた結婚生活に近い状態だった。妊娠8ヶ月で産休をとり、会社を休むようになった頃から、少しタガが狂い始めた。それまでは同じ会社の同じ事務所に勤めていたので、多くの時間を一緒に過ごせたが、洋二は一人で出社するようになると、ギャンブル癖が持ち上がってきた。妊娠してお腹が大きくなった多香子とセックスをしないことで、他所にその欲求を吐き出す為にもお金を使った。洋二はギャンブルが好きだったが、ヘタの横好きで決して巧い方ではなく、多香子に内緒で街金から借りた借金は、利子を含めるとあっという間に300万円を超えていた。多香子がそのことを知ったのは、洋二が酔っ払って帰ってきたとき、洋二の上着が皺にならないよう、ハンガーにかけようとして財布を出したとき、誤って財布を床に落とし、カードローンの明細書が財布から出てきたことで気付いた。慌てて洋二の財布の中を調べると、名前を知っている有名なカードローン会社はもちろん、全く無名のローン会社の明細書まで、かなりの数のローン会社の明細書と、明らかに風俗店の女の子の、角の丸い名刺が何枚も入っていた。多香子はその事実に精神的なダメージを受け、お腹の子供にも影響し倒れこんだ。散らばっている明細書と唸っている多香子を、洋二がたまたま見付けて病院へ運んだが、母子ともに危険な状態と判断され、そのままお産をすることになった。促進剤を打ったが、まだ子供を普通に産める状態ではなく、結局帝王切開で取り出すことになった。多香子にはお腹の傷と心の傷と両方が残った。子供が産まれて家に戻ってからも、洋二の癖は直るどころか、子供にばかりかまっていると多香子を非難し、さらに酷くなった。多香子の思い描いていた幸せな家庭は遥か彼方にあるような気がした。
多香子から結婚と引越の知らせを受けてから2年後、裕司はフィリピンのプロジェクトが無事立ち上がり、日本の本社へ戻れることになった。多香子との関係が終わった日本にそれほど執着は無く、むしろフィリピンの工場に愛着が湧いていたので、日本に戻ることはあまり気が進まなかった。気が進まないのと、引継ぎの処理で忙殺されていたので、日本へ戻る3日前になって慌てて身支度をした。とりあえず全ての物を運送会社のダンボールに押し込み、期日までに仕度を終わらせた。
日本へ戻り、会社が探してくれた新居で、ダンボールの山を片付けているとき、多香子から送られてきた結婚と引越の報告のハガキを見付けた。彼女は今頃、夢だった【幸せな家庭】を実現できているのだろうか、と多香子のことを考えた。必要最低限の片付けが終わると、裕司は友人達へ送る引越案内が印刷されたハガキを文房具屋へ買いに行き、まだ片付いていないダンボールだらけの部屋で、ついでに買ってきた缶ビールを飲みながら、ハガキを書きはじめた。アドレス帳を見ながら、ひととおりハガキを書き終えると、1枚ハガキが余った。裕司は残った1枚のハガキの白い宛名面を眺めているうちに、多香子へ出すかどうかを迷った。2本目の缶ビールを飲み干すと、3本目を冷蔵庫へ取りに行くついでに、さっき見付けた多香子のハガキを引っ張り出し、見慣れない新しい住所を宛名面に書いた。名前のところでペンが止まった。多香子の名字が変わっていることに少しとまどった。裏面のコメントを書くスペースは十分に空いていたが、書く言葉が見付からなかった。本当は幸せに暮らしているかを尋ねたかった。でも帰ってくる宛が無いハガキに、尋ねても仕方ないと思い、3本目の缶ビールを飲み干す間に書いたことは、自分の新しい住所と電話番号、【お元気ですか?】の一言だけだった。裕司は書き終えると、他のハガキと一緒に重ね、テーブルの上に置いた。明日から出勤で、明日着るスーツも出していなかったが、そのまま床に横になり寝てしまった。
裕司が引越のハガキをポストに投函してから一週間後、多香子から電話が掛かってきた。裕司は日本に帰ってきたことで、会社や友人達との飲み会で毎日飲み歩いていた。その日も会社の同期での飲み会があり、自宅へ戻ったときには日が変わっていた。少し酔いが回った足取りで玄関に入ったとき、自宅の電話機のベルが鳴っていた。このところ日本へ戻ってきたと書いたハガキの返事がてら、頻繁に電話が掛かってきていたので、酔っていたこともあって少し面倒臭い声で電話に出た。
「もしもし。」
「あら、こっちもご機嫌斜めですか?」
裕司は聞き覚えのある声に心当たりを探したが、返事が来るはずがないと思っていた多香子のことは、すぐには浮かんでこなかった。
「えっ…?」
「多香子よ。」
多香子は、すぐに自分だと気付かない裕司に、電話をしたことを少し後悔した。
「えっ、本当に?」
「うん、多分。私が電話番号を間違ってなければ、貴方にとって本物の多香子よ。」
「あ~、びっくりした。」
「何で?」
「いやぁ、連絡が来るとは思ってなかったから。」
「でも、案内くれたでしょ。」
「一応ね。」
「何よ、たった一言【お元気ですか?】って。」
「色々なことを考えた末の一言だったんだけど、お気に召しませんでしたか。」
「召さないわよ!だからこうやって電話したの。」
「こんな時間に大丈夫なの?旦那は?」
「ん、寝てるんじゃない。今はマンションの前の公園から掛けてるの。子供が夜泣きするのが気に入らないらしくてさ、うるさいって怒鳴られたから外であやしてるの。」
「ふ~ん、お母さんしてるんだ。」
「それなりにね。」
「旦那とは?うまくいってるの?」
「さぁ?あ、あ~あ。」
「どうしたの?」
「お粗相したみたい。」
「はははっ。」
「もう笑い事じゃないんだからね。ねぇメールアドレス送ってくれない。私は前と一緒だから、わかるでしょ。」
「ああ。」
「近況報告はメールで送るわ。じゃあ、お願いね。」
裕司は次の休日、フィリピンから持ち帰ったパソコンをダンボールから取り出し、多香子のメールアドレスを探して、自分のメールアドレスを送った。その後、メールで連絡が途絶えていた間のことや、今の状況をやり取りするようになった。
多香子からメールの内容を読むと【幸せな家庭】ではなさそうだった。夫が子育てに殆ど協力しない、毎日のように飲みに行くか賭け事をする、他の女と遊んでいる、借金が莫大に膨らんでいる、etc…。それでも健気に頑張っている多香子を裕司は心配した。同時に多香子の夫に怒りを覚えた。そんな男に多香子を取られたかと思うと、自分がなさけなかった。そして多香子の夫には絶対に会わないようにしようと思った。会ってしまったら殴り掛かっていく自分を押さえられないと思った。
メールを再開しはじめてから1ヶ月した頃、裕司のメールに通勤途中で見る桜並木が、少しずつ咲き始めていると書いてあり、多香子は一緒にお花見をしようかと提案した。多香子と逢うことに、裕司は少しとまどいを感じた。相手はもう人妻で、子供もいる。自分は昔の彼氏だから、世間から見れば不倫に見えないこともない。でも多香子のことが心配で、顔を見て安心したい気持ちの方が強かった。多香子は毎月の子供の検診日を、土曜日の午前中にしていたので、その後に逢う約束をした。桜もきれいに咲いていた4月初めの土曜日は、子供が熱を出してとても連れ回せる状態ではなかったので、二人で花見をすることはなかった。5月も約束をしたが、今度は多香子の方が熱を出してダメになった。三度目の正直で6月にやっと逢うことができた。
待ち合わせは子供の検診が伸びる可能性を考慮して、12時に検診する病院のロビーで逢うことにした。裕司は2年以上多香子と逢っていなかったので、すぐ多香子を見付けられるか少し不安だった。女性は変わりやすいし、ましてや違う男性と結婚して子供を産んでいる。裕司は約束の時間より5分早く待ち合わせ場所に着いた。待ち合わせの病院はかなり大きな病院で、ロビーも50人以上座れる場所があった。多香子に予めロビーの位置を確認してあったので、ロビーの場所はすぐにわかった。裕司はロビーに入りぐるっと一周見回した。左奥の窓際に、子供をあやしながら、ビスケットを食べさせている女性に目が止まった。その女性は少し太めで、顔も丸顔だったので、裕司のイメージにあった、スラリとした多香子とは少しかけ離れていたが、遠めに見える顔のパーツは多香子だった。裕司は確信を持ち切れなかったので、ゆっくりとその女性に近付いていった。その女性は裕司が近付いて来るのに気付き、声を掛けてきた、
「裕司!」
多香子は懐かしそうに、病院だということも忘れて、大声で裕司を呼んだ。裕司は多香子から声を掛けられて少しほっとした。そして昔通り裕司と呼ばれたことに、嬉しさを感じた。
「お久し振り。」
裕司は多香子の前に立ち、多香子を上から下へ見た。裕司の最後に見た多香子とは、随分変わっていた。美しかったセミロングの黒髪は、短くなり、すっかり痛んでいた。体型もスリムだったのが二周りは、体に肉が付いた感じだった。顔にはシミとクマが見え、化粧をしていなかったせいで、余計に疲れた顔に見えた。バリバリと仕事をしているときの多香子からは、想像もつかない姿だった。多香子は裕司に見られることに少し抵抗感を覚えた。鏡の中の自分が、裕司と付き合っている頃とは、すっかり変わっていることを自分でもわかっていた。それでも化粧をしている余裕はなかった。昨日の夜、子供は寝つきが悪かった上に、夜泣きで何度となく起こされた。朝は食事の仕度をし、夫を起こして食べさせ、仕度を手伝って会社へ送り出した。自分の仕度をしはじめようと思ったら、今度は子供がぐずり、なかなか出掛ける用意は進まなかった。そうこうしている間に、検診の予約時間から逆算すると、出掛けなければいけない時間がきてしまい、髪をとかすのが精一杯だった。裕司と初めてデートした日は、2時間もかけて身支度していたことを思い出し、苦笑いをした。
「元気そうだね?」
多香子は裕司の視線を断ち切るように言った。
「ぼちぼちね。」
「ほら、おじちゃんに挨拶は?」
多香子は抱いていた子供を裕司に向け、体を倒して挨拶させた。
「本当に産んだんだね。」
「そうよ、ここに証拠があるでしょ。」
「名前は?」
「将棋の歩って書いて、あゆむっていうんだ。」
「へぇ~、うん、いい名前だね。初めましてあゆむ君。」
裕司は生まれて初めて赤ん坊の手を握り、握手した。
「抱いてみる?」
「えっ、知っての通り、抱いたことなんかないよ。」
「大丈夫よ。はい!」
裕司は子供を渡され、おっかなびっくり抱いた。
「結構重いもんだね。」
「そうよ、大分大きくはなったけど、これがお腹に入ってたのよね。自分でもびっくりしちゃうよ。」
「やっぱ恐いよ、返す。」
裕司は30秒と子供を抱いていられなかった。
「そのうち慣れるわよ、抱くのにも。」
子供は多香子の胸に戻ると、安心したような顔になった。
「どうする?」
「お昼ご飯食べに行こうよ、どっかに。」
「OK、荷物は?これだけ?」
裕司は多香子の足元にあった、子供用の荷物が入ったトートバックと多香子の荷物の入った手提げを持ち上げた。
「いいよ、重いでしょ?あたし、持てるよ。」
多香子は裕司に遠慮して言った。
「まぁ、今日ぐらいはラクして下さいな。」
「じゃあ甘えるね。駐車場あっちだから…。」
二人は新米夫婦のように並んで駐車場へ向かった。
「へぇ~、免許獲ったんだ。しかし多香子が車を運転してるところは想像できないな。」
「うん、子供が産まれたら必要になると思って、妊娠してからすぐ獲ったの。結構優良ドライバーよ。」
「結構っていうのは微妙だね。」
「あ、車それだから。手提げの中に鍵が入ってる。」
裕司は多香子の指示通り、バックからたくさんの鍵が付いているキーケースを取り出し、多香子の指した車に向けて自動ロックを解除した。
「優良のわりには、思いっきり擦り傷があるけど…。」
裕司は助手席に荷物を置き、チャイルドシートのある左後ろのドアを開けた。
「へへっ、まぁ初心者だから、ね。ということで今日の運転はお任せしますので…。」
多香子は子供をチャイルドシートに座らせ、ドアを閉め、車の後ろを周って右後ろのドアを開けた。
「その方が良さそうだね、」
裕司は運転席へ座り、持っていた鍵をイグニッションに差し込み、エンジンをかけた。裕司は後ろに座る二人の様子が気になり、身をよじって後ろを見た。
「どちらへ行かれますか、お嬢様。」
多香子は裕司にお嬢様と言われ、洋二が多香子を送ってくれたとき、【お姫様】とおどけて言ってみせた洋二の顔を思い出して、少し悲しくなった。
「まかせるわ、爺や。」
「爺やは酷くない!同い年なのに。しかも独身の…。」
裕司は体を戻して、ルームミラーを見て言った。
「それは失礼しました。子持ちでもないしね。」
裕司は車を走らせはじめた。
「ねぇ、お昼オムライスにしようか?」
裕司は多香子と付き合っている頃、よく食べに行ったお店を思い浮かべて訊いた。
「オムライスと言えば、経堂の?」
多香子はすぐその店を思い出して、懐かしむように言った。
「もちろん!」
「賛成!ハンバーグとセットのデミグラスソースのやつね。」
「随分お早い注文で。」
「だって、思い出したらお腹空いちゃって。」
「まだお店あるかなぁ?」
「ん~、わからない。あたしも裕司と行ったきり、店の前も全然通ってないから。」
「そっか、なかったらショックだね。」
「ショックどころじゃないよ、このオムライス気分はどうすればいいの?って感じ。」
15分ほどで目的の店に着いた。ふたりの心配をよそに今も営業を続けていた。裕司は車を駐車場に入れ、エンジンを止めた。多香子は子供のチャイルドシートを解きはじめた。
「荷物は?両方?」
イグニッションから鍵を抜き、キーケースを手提げのバックに戻して訊いた。
「うん、それと助手席のベビーカーをお願い。」
裕司は助手席側に周って、助手席を占領していたベビーカーを取り出した。多香子も助手席側に来て子供を抱きかかえた。裕司がベビーカーを開こうとしたが、はじめて触ったものだったので、どうしていいかわからなかった。多香子は片手を伸ばし、ボタン1つで開き、慣れた手付きで子供をベビーカーに座らせた。
「さすが。」
「そりゃそうよ、1日に何回もやってるんだから。」
多香子はベビーカーの前にかがみ、ベルトを付けて固定した。裕司は車の鍵を掛け、多香子の様子を黙って見ていた。
「どうしたの?黙って?」
多香子は立ち上がり、裕司の方を見て訊いた。
「ん、いやぁ何せ初めて見るものばかりだから…。」
「そっか、あたしはもう見慣れちゃって…たまには離れたいわ。さっ、行こっ。」
多香子がベビーカーを押し、裕司は荷物を持って先を歩いた。お店の前に4段の階段があったので、二人でベビーカーを持ち上げて階段を降りた。店の扉を開けると、ふたりの来店を告げる鈴の音が店内に響いた。二人にとって懐かしい顔が見えた。
「あら、お久し振り!」
お店のママが昔と変わらず、元気な声で二人を歓迎した。
「ご無沙汰してました。」
二人を代表して多香子が答えた。裕司は会話の腰を折らないように会釈だけして、窓際の席に荷物を置き、ベビーカーを置くスペースを作った。
「しばらく見ないと思ったら、子供が…。」
「ええ、あゆむっていうんです。」
「こんにちは、あゆむ君。かわいいわねぇ~。」
ママは目を細めて子供の頬をさわりながら言った。
「あなた達はいっつも仲が良かったから、何だか孫ができたようで嬉しいわ。」
ママの屈託のないセリフに多香子は苦笑いした。
「あら、ごめんなさい。おしゃべりばっかりしちゃって、すぐ用意するわね。」
そういってママはカウンターに入り、おしぼりと水を用意した。多香子はベビーカーを裕司がいる席へ動かし、席に座った。
「聴こえた?」
多香子はママに聴こえないように小声で裕司に問い掛けた。
「何が?」
ママがおしぼりとお冷を運んで来たのが目に入り、会話を止めた。テーブルにおしぼりと水が入ったグラスが並ぶ。
「ご注文は?いつも通り?」
「あたしはいつも通り?裕司は?」
「僕も」
「じゃあハンバーグ&オムライスでソースはデミグラスソースね。飲み物はアイスコーヒーでよかったのよね。」
「はい。」
ママが厨房へ戻るのを見て、多香子は続きを話し始めた。
「孫だってさ。」
「あぁ、聴こえた。」
「やっぱりそう見えるのかしら?」
「そりゃ、知らなければそう見えるでしょ、普通。ましてやママは一緒にいるところをいつも見てたんだから。」
「そうだよね。」
多香子の淋しそうな表情が見えたのか、子供が泣きはじめた。多香子はベビーカーから抱き上げ、揺らしてあやしたがなかなか泣き止まなかった。仕方なく多香子は子供を連れて外へ出た。窓越しに裕司の顔を見せたりしてあやしているうちに、注文した食事が運ばれてきたので、多香子は席に戻り、子供をベビーカーに座らせた。
裕司は昔と変わらず食べるのが早く、多香子が1/3も食べないうちに食べ終わっていた。もっとも多香子は子供をあやしながら食べていたので、なかなか食事が進まなかった。裕司は見かねて子供をベビーカーに乗せて前後に揺らして、子供の機嫌をとった。そのおかげで、多香子はいつもより温かいうちに食事ができた。二人が食事を終えたのを見て、ママが食器を下げた。
「ふぅ~、お腹一杯!」
少し膨らんだお腹をさすりながら、多香子が満足そうに言った。
「ご飯食べるのも一苦労だね。」
多香子の食事の様子を見ていて、裕司は大変だなぁと思った。
「まぁね、あたし一人のときはもっと大変よ。食べ終わるまで1時間ぐらいかかっちゃって、すっかり冷たくなっちゃうんだから…。」
多香子は、裕司がかまっているうちにおとなしく寝た子供を見て言った。
「だろうね。」
裕司も同じように子供を見ながら言った。
「ねぇ、裕司。」
「なに?」
多香子に視線を戻すと、多香子は両肘をテーブルについて手を組み、その上に顎を乗せていた。多香子が裕司に大事な話をするときは、このポーズのときが多かったことを裕司は思い出した。
「この前の電話のときも・・・、今日も・・・なんだけど…。【多香子】って呼んでくれないね。」
裕司の目を見ながら、少し寂しそうな、甘えた声で多香子は言った。
「……。」
「ちょっと寂しいな・・・。」
「う~ん、確かに意識してそう呼んでないよ。だって…、旦那がいるのに、呼び捨てってわけいかないじゃない。」
「関係ないよ。裕司にとってのあたしは【多香子】なんだから…。旦那がいようといまいとね。」
「…じゃあ、昔通り【多香子】・・・、でいいかな?」
「うん、…それが・・・いいな。」
多香子の表情は、裕司が初めて多香子の誕生日を過ごした日に、裕司が【誕生日おめでとう】と言ったときと同じ位、嬉しそうな顔だった。違うのは、あの時より少し顔が丸くなって、歳をとったことだった。
「さぁてと、どっか行きますか?」
「そんじゃぁ、どっかベビーベッドがあるところがいいんだけど…。」
「ん?ベビーベッド?」
「そう、この子のおしめを変えたいの。」
「なるほどね。とりあえず、動こう。」
裕司が伝票を持って席を立ち、会計を済ませに行っている間に、多香子は荷物をまとめた。裕司は会計を済ませるとテーブルへ戻り、入ってきたときと同じように多香子の荷物を持った。
「お金は?」
多香子はベビーカーを押しながら、裕司に訊いた。
「後でいいよ。じゃあ、ママまた。」
「ママ、また近いうち来ますね。」
二人はママにまた来ることを告げて店を出た。裕司は次に来るときは、この3人ではないかもしれないと多香子の言葉を聴いて思った。
駐車場へ戻り、裕司は車のロックを外すと、荷物を助手席へ入れた。多香子がチャイルドシートに子供を座らせる間に、ベビーカーを畳んで助手席へしまう。
「もう、覚えた?」
多香子がベビーカーをしまう裕司に声を掛けた。
「まあね、うまいもんでしょ。」
裕司は胸を張って、自慢げに多香子に言った。二人は来たときと同じように運転席に裕司が、その後ろに多香子が座り、車を動かしはじめた。
「どこへ行けばベビーベッドってあるものなの?」
「そっか、必要ない人にはわかんないよね。」
「そりゃそうだよ、必要性を感じないもの。」」
「私なんか、この近辺ならある場所は殆どわかるよ。」
「何で?」
「いざってとき知ってないとね。だから色々な人に聴いておくの。」
「ふ~ん、で、どこへ行く?」
「そうねぇ、高島屋でも行こうか?買い物がてら。」
「何か買うものあるの?」
「う~ん、特にはないんだけど…、夕飯の買い物ぐらいかな。」
「OK。」
裕司は車を走らせ、二子玉川の高島屋の駐車場へ入れた。駐車場へ着くと、裕司は助手席側へ周りベビーカーを広げた。多香子がベビーカーに座らせると、一緒にベルトを付けて子供を固定した。
「ばっちりできるじゃない。」
多香子は手際良くできた裕司を茶化した。
「パパになれるかなぁ?」
「う~ん、まだまだだね。他にも色々やることがあるんだから、オムツを換えたりとか…。」
「そっか、道は険しいなぁ。」
「今日1日で試してみれば、なれそうかどうかを。あ、荷物はここに下げれば大丈夫だから…。」
多香子は裕司からバックを受け取り、ベビーカーのフックに吊り下げた。裕司がベビーカーを押し、駐車場からデパートへ続く渡り廊下を並んで歩いた。
「う~ん、手ぶらで楽チンだわ。」
多香子は両手を振って、裕司の方を見た。ベビーカーを押している裕司も、なかなか似合うとひそかに思った。
「今日ぐらいラクしてよ、お母さん。」
「そうさせてもらうわ。でも、手ぶらだとこんなこともできちゃうね。」
多香子は裕司の腕を取って、腕を組んだ。裕司は多香子と数年振りに腕を組み、少し照れくさかった。
「胸大きくなったね。」
裕司は照れ隠しに、左の肘のあたりに当っている多香子の胸を意識して言った。
「どうせ昔は小さかったですよ!でも、子供がいるうちだけで、すぐ元に戻っちゃうらしいけどね。」
「写真とか撮った?」
「初めてのDカップの記念にデジカメでね。・・・もう、何言わせるのよ!」
そうこうしているうちにデパートのエレベーターホールへ着いた。すぐにエレベーターが止まり、乗り込んだ。
「何階?」
エレベーターのボタンに近かった裕司は多香子に訊いた。
「4階。」
多香子の答えを聴き、裕司は4階のボタンを押した。エレベーターが4階に止まると、裕司がベビーカーを出す為に、何人かがエレベーターを一旦降りてくれた。裕司と多香子は、降りてくれた人達に軽く会釈をした。
「どっち?」
「ん、左の方。」
多香子は裕司の質問に即座に答えた。左の方へ行くと、いかにもという雰囲気になり、ベビー服が所狭しと並んでいた。裕司達は一番奥にあった授乳室へ入った。
「へぇ~、こんな風になってんだ。」
初めて入った場所に裕司は興味津々だった。ベビーベッドが3つ、オムツを換える為の簡易ベッドが3つ、ミルクを作るための給湯器と洗面所、奥には授乳室と書いてある扉があった。多香子より少し年上の女性がベビーベッドに子供を寝かせて、本を読んでいた。
「ちょっと待っててね。オムツ換えちゃうから。」
多香子が手際良く子供のオムツを換えるのを、裕司は座って見ていた。隣に座っている女性に何にもしない旦那だと思われてるのかなぁと考えたりしていた。オムツを換え終わり、授乳室を出ると、裕司達はぶらぶらとデパートの中を宛も無く廻った。裕司は多香子と付き合っている頃、よくウインドショピングに付き合わされたのを思い出した。地下の食料品売場で、多香子は少し夕食の材料を買った。多香子はシュークリーム屋さんの前で足を止め、裕司に訊いた。
「ねぇ、シュークリーム食べない?」
甘いものが好きな多香子は、特にシュークリームに目がなかった。
「そう訊くってことは、食べたいってことでしょ。」
「そうよ。」
「付き合いますよ。食後のデザートってコトで。」
多香子は目を輝かせて、買う人の列に並んだ。多香子は家に持って帰る分5つと、二人で食べる分2つを分けて、合計7つ買った。
「また、随分買い込んだね。」
両手にシュークリームと財布を持って、戻ってきた多香子を見て裕司は言った。
「うちの旦那もここのシュークリーム好きなんだ。」
「へぇ~。」
「持ち帰り分を5つ買ったんだけど、旦那には3つあげるの。偉いでしょ?旦那を立てて。」
「でも、今1個食べるんでしょ?」
裕司は即座に計算した。
「それは内緒!上のロビーで食べよ。」
エレベーターで1階に上がり、途中の自動販売機でジュースを買って、ロビーの椅子に並んで座った。ベビーカーは二人の前に正面になるように置いた。
裕司は二人分の缶ジュースを開け、1つを多香子の座っている横に置いた。多香子は袋に2つ入っているシュークリームを取り出し、1つを裕司に渡した。
「こうして子供と一緒に居ると結構かわいく思えてくるもんだね。」
裕司は片手に多香子から渡されたシュークリームを持ち、片手でベビーカーを揺らしながら言った。
「そうよ、意外といいもんでしょ。子供と一緒に居るっていうのも。色々制限されるけどそれ以上にかわいいし、この子にとっては守ってくれる人は私だけだから、ついつい甘やかしちゃう。」
多香子はそう言って、シュークリームに噛り付いた。
「でも夜泣きとかするときは?イヤにならない?」
「うん、なるなる。絞め殺してやろうかと思うこともあるけど、真っ直ぐ私を見る目を見ると、…許しちゃうんだよね。」
「そうだね、子供ってじっとこっちを見るよね。大人はその視線に耐えられずに、目をそらしちゃう。」
「うん。いつからなんだろうな、目をそらすようになっちゃったのは。」
多香子は裕司ではなく、子供の方を見て言った。
「少なくても多香子と出会ったときには、もう目をそらすことを覚えていたね。」
裕司も多香子の方を見ずに、吹き抜けのロビーの天井を見上げて言った。
「なんか哀しいね。」
そう言って、多香子は子供の頬を撫でた。
「・・・・・・。」
「ねぇ、少しは変わった、子供嫌いは?」
「うん、変わりつつあるかな。でも多香子の子供だから、かわいいと思えるのかもね。自分の子供はまだ自信ないな。」
「責任が?」
「そう、20歳までは親の責任でしょ。たとえどんな子供であろうとも。」
「なるようになるって。ちゃんと向き合ってあげれば悪い子にはならないよ。一緒に成長していければいいなって思う。うちの産婦人科の先生にね言われたんだけど【育児は育自】だって。裕司はもっと自分を信じた方がいいんじゃない。」
多香子は裕司の手を取り、掌に育児と育自の文字を指で描いた。
「自分なんか信じられないなぁ。」
「じゃあ私も信じられない?」
「いいや、こうして今でも逢いたいと思うんだから、信じていたし、信じてるよ。」
「だったら、裕司が自分のこと信じてもらわないと、私の立場がないな。私が好きになった人なんだから、もっと自信を持ちなさいよ。」
「過去形?」
「そうね、どうだろう?…現在進行形…、かもね。」
「あのとき…、多香子の言うように子供がいたらこんな風に3人で、もしかしたら4人とかで過ごせたのかなって、この状況を楽しんでる自分を客観的に見て、…さっきふと思った。」
「そうね。運命の糸が変わっていたら、あなたの子供だったかもね。ここに居たのは。」
「ねぇ、まだ時間大丈夫?」
「う、うん大丈夫。」
多香子は時計を見て、そろそろ帰らないと夫が帰宅する時間に夕飯ができていないと思ったが、裕司と居ることが居心地よく、離れがたくなかったので嘘をついた。
「じゃ、出会った頃デートしたあの公園に行ってみない?」
「懐かしいね、世田谷公園!あれ以来行ってないよ。」
「じゃあ決まりってことで。」
デパートの駐車場に戻り、多香子が子供をチャイルドシートに座らせている間に、裕司は慣れた手つきでベビーカーを助手席にしまった。
裕司の運転で思い出の場所へ向かって走り始めた。デパートの駐車場を出て環状8号線を左折した頃に、彼女の夫から多香子の携帯に電話が入った。着信音は彼女の大好きな、ミッキーマウスのテーマソングだった。裕司は二人でディズニーランドに行ったとき、多香子が大はしゃぎしたことを思い出した。
「もしもし、ごめん今運転中だから手短にお願い。」
運転は裕司がしていて、自分はリアシートで子供の横に座っていたが、裕司と居ることがわからないように、運転中の素振りをした。裕司は多香子のやり取りを、黙って運転しながら聞いていた。
「うんうん、わかった。お茶漬けぐらいなら作れるから、はい、飲みすぎないようにね。」
多香子は携帯の通話ボタンを押し、ため息をついた。
「旦那からだった。運転中って言っちゃった。私が…、じゃないけどね。」
「何だって?」
「ん、今日も飲み会で遅くなるから、ご飯いらないって。どうすんのよね、この夕飯の買い物は。」
「ハハッ、夫婦の会話してるね。」
「いちおう夫婦ですからね。」
「ねぇ、ところで今日は旦那に何て言って、出てきたの?」
そのとき車は信号待ちで止まっていたので、彼女の方を向いて訊く。
「何も言ってないよ。」
多香子はさも普通に言ってのけた。
「僕と逢うってことも?」
あまりにも普通の対応に、裕司は少し驚いて訊いた。
「言うわけ無いじゃない! …ダメだった?」
多香子はそれまであたり前のような気でいたが、裕司の対応に少し困惑した。
「ちょっと後ろめたい気がする。」
後ろの車にクラクションを鳴らされ、裕司は慌てて前を見て車を走らせた。車は世田谷公園の駐車場の入口まで来ていた。裕司はパワーウインドゥを開け、駐車券をとった。
「でも、別に言っても大丈夫だと思うけどね。旦那には、裕司は私にとって、とても【大事な人】だからって、理解してもらってるつもりだから。」
「そっか。」
多香子に【大事な人】と言われ裕司は心の中でとても喜んだ。
「うん、だから大丈夫よ。健全な付き合いでしょ?どう見ても。」
「まぁ、子供付きじゃ何もできないし、する気も起きないしね。」
裕司は切り返しした勢いで、少し声が大きくなった。そしてバックで駐車スペースに入れ、エンジンを止めた。
「コブ付でこんなになっちゃったから、魅力的じゃないってこと?」
多香子はシートベルトを外し、運転席の方へ身を乗り出して、裕司に訊いた。
「いいえ、十分魅力的ですよ。それなりの年輪を経てね。」
裕司もシートベルトを外し、半身後ろに捻って答えた。多香子の顔がすぐそばにあった。
「お世辞でも嬉しいよ。」
多香子は運転席のシート越しに両腕を回して、後ろから裕司を抱きしめた。
「どういたしまして。今もちゃんと多香子のこと好きだから…。そうだなぁ、たぶんあの頃より今の方が好きだと思うよ。」
裕司は自分の胸の前にあった、多香子の両手の上に右手を重ねた。
「本当に?」
多香子の声が、少し涙声になっていた。ルームミラーを見れば多香子の表情は覗けたが、裕司は見ないようにして、胸の前で重なっている二人の手を見ていた。
「うん本当に…。今日逢って・・・そう…思った。」
「・・・あの頃、そう言ってくれればね。」
多香子は成田空港の喫茶店で、裕司と言い争いをしたときのことを思い出した。
「もう後の祭りで、ピーヒャララってね。」
裕司はシリアスな雰囲気を和ませようとして、冗談を言った。二人は車の中で大声で笑った。多香子の笑い声には泣き声も混ざっていた。二人の笑い声が落ち着いた頃、今度は子供が起き、泣き始めた。
「いいムードもぶち壊しだね。」
裕司は少し助かった気がした。
「やぁねぇ、もう。お母さんが浮気するのは、許せないみたいよ。」
多香子は裕司に回していた腕をほどき、子供を抱き上げた。
「浮気?」
裕司は運転席を降り、多香子の座っている席のドアを開けた。多香子は子供を抱いたまま外へ降り、子供を揺らしてあやした。その間に裕司は助手席のベビーカーを取り出し、広げて多香子のいる方へ動かした。
「うん、ちょっとしそうになっちゃった。」
多香子はベビーカーに子供を座らせ、ベルトを締めた。裕司は多香子の荷物を取り出し、ベビーカーのフックに吊り下げた。
「さっきは【健全な付き合い】って言ったじゃない。」
「そうだけど…ね。まだまだ女心がわかってないな、裕司は。」
「どうせわかりませんよ!だから多香子と別れた後も、彼女のひとりもできないんだろうけど…。」
ベビーカーを裕司が押し、1時間ほど公園を散歩した。散歩を終え、駐車場に戻ったときには7時前だったが、6月だったので日が長く、まだ明るかった。裕司は一番近くの用賀駅まで自分で運転して、車を降りた。
「じゃあ、またね。」
裕司は運転席に座っている多香子に声を掛けた。多香子は少しつまらなそうな顔だった。
「うん、またね。」
「これ以上ぶつけないよう、気を付けてね。」
「だから、優良ドライバーって言ってるでしょ。」
「わかった、わかった。でも、気を付けてね。」
「うん、ありがと。裕司もね。」
「何かあったら、電話するんだよ。すぐに駆けつけるから…。」
「あたしはそんなことがないのを祈るばかりだわ。」
「じゃ、行くね。」
裕司はドアのところに置いていた多香子の手を軽く叩いて、駅の方へ体を向け歩こうとした。
「裕司!」
多香子は置いていかれる子供の気分になり、裕司の名前を叫んだ。
「なに?」
裕司は多香子の方を向き直した。
「…ありがとうね、今日は。」
多香子は車から降りて、裕司に抱きつきたい衝動を押さえ込んだ。
「こちらこそ。楽しかったよ。」
裕司はもう一度多香子の手を叩き、駅へ歩いていった。多香子は裕司の後姿を、角を曲がって見えなくなるまで追っていた。裕司の姿が見えなくなると、多香子は大きくため息をつき、エンジンをかけた。少しでも気分を和らげようとお気に入りのCDをかけた。音楽が流れはじめて、このCDは裕司の部屋でよくかかっていたことを思い出した。信号待ちで車を止めているとき、子供の様子を見るのに、後ろを振り返った。子供は今日1日連れまわされて疲れたらしく、おとなしく眠っていた。眠っている顔を見て、多香子はさっき心の片隅で【この子がいなければ】と思ってしまった自分を反省した。家に着いても今日のことが、裕司のことが頭から離れなかった。久し振りに女性扱いされて、裕司にまだ好きだと言ってもらえて、多香子は嬉しかった。部屋の姿見に映る自分は、とてもじゃないが、裕司に好かれていた頃の自分とはかけ離れているのが、自分でもわかっていた。鏡の中の自分は、今日の朝は子供がぐずったので、化粧もしてなかったし、自慢だった黒髪はすっかり痛み、スリムだった体型は見る影もなかった。裕司には見られることはなかったが、お腹には妊娠線がくっきり残り、帝王切開の縫った跡が残っている。訳も無く裕司に「ごめんなさい」と口に出して謝った。多香子自身は女性として、やっぱりいつもきれいでいたいとは思っていたが、つい子供を優先して時間もお金も、後回しになってしまう。今日裕司に見られた自分の姿を、多香子は少し恥ずかしく思った。それでも昔通り、裕司が自分のことを、優しく、女性として扱ってくれたことが、多香子にはとても嬉しかった。自分を見ない夫、借金の重圧、子供の世話に追われる日常、多香子は圧し掛かっている現実から逃げたかったことと、裕司の優しさが重なり、裕司への気持ちが残っていることに気が付いた。
その日の夜、多香子は何年振りかに手紙を書いた。裕司宛はもちろん、女友達にも結婚してからは、子供が先にできたこともあってなかなか筆を執る機会はなかった。しばらく出すこともなかったレターセットが入った箱を、押入れの奥から引っ張り出した。夫は飲み会から帰ってくると、そのまま倒れるように床についた。夫のお茶漬け用に炊いた電子ジャーのランプが、台所で薄暗く光っていた。夕方寝すぎたのか子供はなかなか寝付かない。隣の部屋でのん気にいびきをかいている夫に気付かれないように、居間で静かに子供のベッドを揺らしながら、丁寧に手紙を書いた。
【半日パパはいかがでしたか?
結構楽しそうに見えたけど?
こちらはおかげさまで少しラクができたし、久し振りに貴方と逢えて楽しかったよ。
これに懲りず、また親子共々遊んでやってくださいな。
貴方に久し振りに逢って、実はとっても緊張していたんだよ。
しゃべっていないと心臓の音が聞こえそうで、だからついしゃべり過ぎてしまった。…反省。
“今更緊張するわけがない“と思っていたんだけど、そうじゃなかったみたい。
貴方の顔を見たら、気持ちがあの頃に戻ってしまったのかもしれませんね。
今度逢う時は緊張しないといいけど…。
では、また機会があれば
多香子より 】
裕司がその手紙を読んだ日の夜、裕司の夢に多香子が出てきた。裕司のアパートで多香子と子供と3人で暮らしていた。
3人とも笑って幸せそうに暮らしていた。そんな実感があるわけがないのに、妙にリアリティがあった。夢から覚めて裕司はこうゆうのが、多香子の望んでいた【幸せな家庭】の姿なのかなぁと思った。そして半日子供と一緒にいて、結構楽しんでいた自分を思い出し、子供がいる生活もいいんじゃないかと思えるように変わった。
2人が再会してから半年後、多香子は洋二と離婚し、実家に戻っていた。その頃には乳離れも終わり、多香子は職場へ出られるようになった。実家の母が子供の世話を助けてくれるので、以前のように泊まりで出張というわけにはいかなかったが、思う存分働ける環境に満足していた。同じ職場だった洋二は、離婚間際に会社の金を横領し、クビになった。離婚成立後、彼の両親に挨拶に行った際に聞いた話では、ギャンブルが嵩じて先物取引に手を出し、失敗したのが原因らしい。実家に戻った後の多香子は、毎週末が待ち遠しかった。仕事が休みで子供と1日一緒に居られるのはもちろん、子供と裕司の3人で過ごせる日でもあった。主に裕司のアパートへ多香子が出向き、ついでに裕司の身の回りの世話をするのが、いつものパターンになった。子供もすっかり裕司に慣れたらしく、多香子が別のところにいても安心していられた。裕司の週末パパ振りもすっかり板についてきたようで、オムツを換えるのも手慣れてきていた。
土曜のお昼前、いつものように多香子が子供を連れて、裕司のマンションへ来た。ベビーカーには多香子の荷物、子供の荷物が吊り下げられていた。マンションの呼び鈴が鳴り、裕司は玄関へ多香子たちを迎えに出た。
「おはよう!」
裕司がマンションの鍵を開ける音がして、扉を開けるとすぐに多香子が声を掛けた。
「おはよう、どうぞ。」
裕司は慣れた手付きでベビーカーのベルトを外し、子供を抱き上げた。
「今日はあゆむ、ご機嫌よ。」
多香子は吊り下げてあった荷物を玄関に置き、ベビーカーを畳んで靴置き場に立てかけた。
「おはよう、あゆむ。元気だった?」
「元気だったよねぇ~。」
多香子は裕司が抱いている子供の頬を、人差し指で突っついた。
「今日は少し早起きしたから、もう片付いてるよ。」
裕司は子供を抱いて、居間へ歩いた。
「ほんとだ、バッチリじゃない。」
多香子は荷物を持ち、いつもは散らかっている廊下が片付いているを見て言った。
「いつも手伝ってもらうわけにもいかないでしょ。」
裕司は居間のドアの前で立ち止まって言った。
「別に。好きでやってるんだから…、気にしなくていいよ。」
「ありがと。でも、今日は特別だし。」
「ん?…特別って?」
裕司はもったいぶって居間のドアを開け、多香子に先に入るように促した。多香子は不思議そうな顔をして、裕司に促され、先に居間に入った。居間のテーブルには、クーラーに入ったシャンパン、多香子がプレゼントしたランチョンマットの上にシルバーやグラス、ディナー皿に色とりどりのアンティパスト、それと一輪差しの花が並んでいた。
「どうしたの?」
多香子は振り向いて、後ろにいる裕司の顔を見る。
「・・・・・・。」
裕司はにやにやして、多香子の顔を見て何も言わなかった。
「あ、もしかして誕生日?」
多香子はハッと気が付いて、驚いたように言った。
「当たり。」
「あぁ~、嬉しい!覚えていてくれたんだね。」
多香子は荷物を放り出して、子供を抱いている裕司に抱きついた。
「もちろん!と言いたいところだけど…。」
「けど…?」
多香子は裕司の顔を見上げて言った。
「ネタをばらすと醒めちゃうから…。」
「何よ、ネタって。」
「いやぁ、9月だってことは覚えてたんだけど、日にちが思い出せなくてね。」
「それで?」
多香子は首を傾げて、裕司に続きを訊ねる。
「天秤座ってことを思い出して、雑誌みたら9/24~って書いてあったから…。」
裕司は多香子の目を見ず、居間の壁に掛けてあるカレンダーを見て言った。
「なるほど、じゃあ日にちはわかってないんだ。」
「そうゆうこと。今日が9/24だから、もう9月中には週末はないでしょ。」
「とても論理的だわ。ちなみに答えは火曜日の27日…だけどね。」
多香子は裕司から離れ、放り出した荷物を拾った。
「来年用に覚えておくよ。とにかく座って。」
多香子は荷物をローテーブルの横に置き、クッションを引いて座った。裕司も子供を抱いたまま、隣に腰を下ろした。
「この料理はどうしたの?」
テーブルの上の料理を眺めながら多香子は裕司に尋ねた。
「朝一で買ってきた。手作りじゃなくて悪いけど。」
「ううん、裕司の手作りじゃ…かえって心配。」
不器用な裕司が台所で格闘している姿を想像して、多香子はおかしくなった。
「手料理もあるよ。」
裕司はガスレンジで温めている鍋の方を見て言った。
「うん、匂いでわかるよ、ビーフシチューでしょ。」
大学時代、裕司に初めて手料理を作ってもらったときのことを思い出した。
「ご明察。」
「昔、裕司のアパートで食べたよね。」
確かあの時のビーフシチューは野菜がとても大きくて、ナイフで切って食べた。じゃがいもはところどころ皮が残っていたが、裕司に悪くてそのまま食べた。
「あの頃よりは、美味しいと思うけど・・・。」
「それは腕が上がった・・・ってコト?」
「肉が良くなったってコト。貧乏だったからね、あの頃は。」
裕司は子供を多香子に渡し、台所に立ち、火を消して軽くレードルでシチューを混ぜた。
「でも、あのとき言ってたじゃない、ビーフシチューはシチューなんだから、主役は汁の方で肉なんかダシだって。」
「言ったね、そんなこと。でも、訂正、肉も美味しければ更に美味しい。」
裕司がシチューをよそり、テーブルにクープ皿を2つと小皿に1つ並べる。
「これならあゆむも食べれるでしょ?」
「うん、大丈夫。少しさましてから食べさせるね。」
裕司はシャンパンの栓を空け、2つのシャンパングラスに注ぎ、氷の入ったクーラーに戻した。
「では、ちょっと早いですが、29歳の誕生日、おめでとう。」
「ありがとう。けど…歳は余計よ!」
2つのグラスがぶつかり、心地よい音が部屋に響いた。
食事が終わり、多香子が食事のお礼にと、洗い物をするのに台所に立った。裕司はその間子供の相手をしていた。多香子は洗い物をしている間に紅茶をいれていた。食器を片付け、紅茶をティーカップに注ぎ、テーブルへ運んだ。
「あゆむ、遊んでもらってるの?」
多香子はティーカップをテーブルに置くと、床に座っていた子供の手を取り上下に振った。母親の顔を見て子供は笑い顔になった。
「ねぇねぇ、あゆむのパパはどこ?」
多香子は無邪気に子供に話し掛けると、子供が裕司の方を見て、何となく指さす。
「…多香子、笑えないよ、それは…。」
多香子の無邪気な声とは正反対に裕司の声は低いトーンだった。
「…ごめん、調子に乗り過ぎた。」
多香子は子供を抱き上げ、膝に乗せた。
「……。」
裕司はテーブルの上のティーカップを見つめたまま、何も言わなかった。
「でも、…でも、あゆむをあやしてる裕司を見たら…、…つい…。」
「ん?」
次の言葉を聴こうと裕司は多香子の方を見た。多香子は裕司と視線を合わせられず、膝の上の子供を見た。
「…だったら、いいなぁなんて思っちゃってさ。…ごめん、あたしちょっとおかしいわ。」
「……。」
「・・・今日は帰るよ。あ、紅茶よかったら飲んで。今日はありがとう、嬉しかった。あっ、それからさっき言ったこと…忘れて…ねっ。誕生日ってことで大目に見て。」
多香子は大急ぎで、散らかっている子供の物をバックに詰め込み、立ち上がった。
「多香子!」
裕司は立ち去ろうとする多香子を、後ろから抱きしめた。
「…ごめんね、裕司。」
多香子の顔は裕司には見えなかったが、明らかに多香子は泣いていた。
「ごめん、言い方が悪かった。…照れがあってさぁ。」
「……。」
多香子は何も言えず、鼻をすすった。
「ホントは、…本当はちょっと嬉しかったんだ、あゆむに指差されて…。」
「……。」
「僕も、…僕もそうなれば、…そうなれれば、いいなぁって、どこかで思ってた。」
多香子を抱きしめていた腕に自然と力が入った。
「本当に?」
「ああ、本当に。」
「でも、…子供ダメなんじゃないの?」
「ん、もう大分慣れたよ、おかげ様でね。」
「それに、…それに、あたしはバツ1のコブ付きだよ。…昔とは違いすぎるよ。」
「それが多香子でしょ。」
「えっ?」
「バツ1だろうと、コブ付きだろうと、太ろうと、多香子は多香子でしょ?」
「……。」
「昔の僕が愛した多香子は居ないけど、今の僕が愛している多香子は…、この腕の中にいる多香子だよ。まぎれもなく…。」
「…裕司、ありがとう。」
多香子は裕司の腕で涙をぬぐった。それまでおとなしくしていた子供が、相手にされてなかったからか、ぐずって泣き出した。
「はははっ。」
二人は子供の泣き声を他所に、逆に笑ってしまった。
「本当ならここでラブシーンなのにね。」
多香子は裕司の腕をほどいて、子供を抱き上げた。
「そうだよ、感動的なラブシーンのはずなんだけど…。お預けみたいだね。」
「子供がいると…、こうゆう邪魔も入るってことがわかった?」
「へいへい、よ~くわかりました。」
「まぁ、焦らず、ゆっくりと…ね。まだまだ、パパの道は険しいんだから…。」
多香子は子供を抱えたまま、少し背伸びして、裕司の頬にキスをした。