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20年目のバースデー

#恋愛小説 #ショート #登場人物少なめ #アラサー33歳 #既婚 #18000文字 #花束
#女性視線 #中学生の頃の彼女 #ドジっ娘 #上書き保存と名前を付けて保存 #16年振りのアイアイ傘

中学時代の吹奏楽部の2つ上の先輩だった謙一に中学項の卒業式の日に告白し、3年ほど付き合ったが謙一の引っ越しなどの理由により、離れることになった。美紗子が24歳の頃、謙一が東京に戻ってきたのを機に、また連絡を取り合う中になり、お互い結婚していたが年に1~2度位は逢う仲だったが、美紗子は照れから謙一に自分の誕生日は教えていなかった。20年目にして初めて誕生日を一緒に過ごし、サプライズを贈られる。

謙一が美紗子と逢うのは久し振りだった。とは言うものの二人の歴史から考えれば、わずか半年なので短いものである。彼が美紗子に初めて逢ったのは14歳の春だったから、もう20年もの付き合いになる。

二人が出会ったのは、中学の吹奏楽部の部活でだった。謙一は3年生に上がり、吹奏楽部の部長をやっていた。吹奏楽部に新入生で入ってきた美紗子は、たまたま割り振られたパートが謙一と同じクラリネットだったこともあり、謙一にすぐになついた。この頃の美紗子の感情は、「なついた」という表現が相応しかった。出会ってすぐの時点で、本人は気付いてなかったかもしれないが、既に謙一のことを好きだったのかもしれない。まだ恋愛の「れ」の字も知らない、子供だった美紗子は表現の仕方がわからず、思春期の男の子が好きな女の子につい悪戯してしまうのと同じように、謙一のことをからかったりすることで気を引くのが精一杯だった。美紗子はそれまで男性のことを好きになったことがなかったので、異性を好きになる感覚というのが全くわからなかった。
美紗子が自分の気持ちを認識できたのは、謙一が卒業する寸前だった。謙一が受験で部活を引退すると、顔を合わせる機会がめっきり減った。それでも後輩思いで責任感の強い謙一は、週1回位は部活に顔を出していたから、他の先輩に比べれば、まだ話す方だった。美紗子は謙一が来ると、「教えて」と言っては独占しようとしていた。部活を引退する前より、会う頻度は減ったが、みんなの部長だったのが、ただの同じ楽器の先輩になったので大手を振って教えてもらえるようになり、そこでバランスがとれていた。ふと気が付くと、謙一を送る卒業式の演目を何故か謙一から教わっていることに気付いた。そこでやっと、同じ学校にいうるうちはこうやって会えるけど、謙一が卒業したら会えなくなることに気付かされた。美紗子は、こうして謙一に教わることがずっと続くものだと勘違いしていた。それに気付いてからは、頭が突然パニック状態になり、どう接していいか判らなくなった。以前は廊下ですれ違ったときには必ず声を掛けていたし、ときどき悪戯をしていたが、気付いてからは会釈して足早に遠ざかった。
美紗子の気持ちの整理がつかないうちに、謙一の卒業の時期が来てしまった。美紗子は卒業式の演目を謙一に教わったことを思い返しながら、できる限り一生懸命演奏した。いつもなら、ドジを踏んで1曲に1回は間違えるのに、最後の卒業生が退場していく前の演奏まで、ノーミスの会心の出来だった。最後の演奏をしているとき、美紗子はクラリネットを吹きながら、講堂から退場していく謙一の姿を探した。背の低い美紗子は背伸びしながらやっとのことで謙一の姿を見つけた。ちょうどそのとき、謙一も美紗子の視線に気付いたようで、美紗子の方に向かって軽く手を振ってくれた。謙一の姿が見えなくなると、美紗子は涙が溢れ出て、その後は演奏できなかった。
卒業生が退場したのを確認し、指揮者はタクトをゆっくりと止めた。そのときには美紗子はクラリネットを片手にうずくまっていた。美紗子の隣でフルートを吹いていた親友の真由美が、屈んで美紗子の背中に手を置いて、涙をハンカチで拭いていた美紗子に訊いた。
「みーちゃん、…いいの?」
フルートの真由美は部活での大の仲良しで、美紗子の口から直接その思いを聴いたことはなかったが、美紗子の気持ちは充分知っていた。
「・・・、何が?」
美紗子は涙を拭きながら、できるだけ平静を装って言った。
「判ってるくせに…。もう会えないかもよ。」
真由美の言葉に後押しされ、クラリネットをケースに手荒にしまい、真由美に預け、在校生でごったがえす講堂を縫うよう走って出て行った。
校庭に出ると、卒業生がそれぞれグループになって、最後の別れを惜しみあっていた。背の低い美紗子はあちこちの輪を背伸びして覗き込んでは走って、謙一の姿を探した。姿を探せないうちに在校生も校庭へ出てきて、余計に探し辛くなってしまった。やっとのことで謙一を見つけ出したときには、走り回って息があがっていた。しかもタイミングの悪いことに吹奏楽部の集まりの中にいた。さっきまで隣で演奏していた真由美も、クラリネットとフルートの2つのケースを持ってその輪の中にいた。真由美は美紗子が来たことを確認すると、声を出さずに「ドジ」と美紗子に向かって言った。美紗子は輪の中心にいる謙一になかなか近付けなかった。やっとのことで声が聞こえるところへ近付き、
「部長、後で部室に寄ってください。」
謙一がOKの合図に手を上げたのを確認すると、輪の外へ出て真由美の隣へ行った。真由美が預けていたクラリネットのケースを差し出しながら、美紗子に小声で訊いた。
「ちゃんと言えた?」
美紗子は照れくさくて、その質問に手を振って答えた。
「どうすんのよ!」
真由美は小声ながらも呆れた口調で、美紗子に言った。
「でも、後で部室で。とは言ったから。」
美紗子は、真由美の耳に口を近付けて言った。
「今度はしっかりね。」
真由美はそう言って輪の中へ入って行き、謙一と仲の良い先輩と話して謙一を空けようと努力した。

美紗子は部室へ行く前に、まだ誰も戻ってきていない静かな教室へ戻り、ロッカーを空けた。ロッカーには渡せなかったバレンタインデーのチョコレートが入ったままだった。チョコレートにはバレンタインデーの前日の夜、悩みに悩んで一睡もせずに書いた手紙がそのまま、チョコレートを包んでいた赤いリボンで止められていた。万が一誰かに見られないように、ロッカーから取り出すと抱えるようにして自分の机へ走り、机の上に置いていた鞄の中に包みを押し込んだ。
(何て言って渡そう…。)
右手に鞄、左手にクラリネットのケースを持って教室を出ると、吹奏楽部の部室になっている音楽室への渡り廊下を歩きながら考えた。ボンヤリ考えながら廊下を歩いているうちに、謙一のクラスの教室が目に入った。
(よくこの教室の前で部長のことからかったなぁ)
開けっ放しになっていた扉から、教室の後ろにある個人用ロッカーが目に入った。ロッカーにはまだそれぞれの名前のプレートが貼られていた。
(そうだ!)
美紗子は名案を思いついたと思って、それまでの悩み顔が嘘のように変わった。謙一の教室にこっそり入り、廊下から見えないように扉を閉めた。鞄とクラリネットのケースを空いている机の上に置き、鞄の中からペンケースと手紙を取り出し机に置いた。
(誰も来ないうちに書かなきゃ)
そう思って焦ってペンケースからお気に入りのボールペンを取り出し、立ったまま封がしてある封筒の裏側に書き添えた。書いている間、自分で書きながら笑ってしまった。読み返して字の間違いがないかを確認すると、慎重に鞄の中でリボンに挟み込んだ。鞄ごと持って謙一のロッカーを探した。ロッカーはアイウエオ順に並んでいるのですぐに見付かった。ロッカーをそっと開けると、予想通りロッカーの中は、もう何も入っていなかった。鞄から包みを取り出し、ロッカーの奥の方へ静かに置いた。入って来た時と同じように、静かに扉を開け、何食わぬ顔をして教室を出た。廊下には校庭から戻ってきた生徒達が戻り始めていた。
さっきまでの重い足取りとは打って変わって、軽くスキップしながら音楽室へ向かった。

音楽室へ着くと、何人かが既に戻って来ていて、演奏した後の楽器の手入れや、片付けをしていた。美紗子も鞄を置き、ケースからクラリネットを取り出してマウスピースを洗った。手入れを終え、クラリネットを隣にある音楽準備室へ置き、戻って来ると謙一の姿があった。ふいの事で、謙一を見たら一気に心臓がバクバクしてしまった。
謙一は音楽室に入ってくる扉の音で、美紗子のことを見付けた。びっくりして立ち止まっている美紗子に、謙一はゆっくりと歩み寄って来た。
(どうしよう、どうしよう?まだ、どう言うか考えてなかったよ。)
だんだん近くなる謙一から逃げたい気分だった。
「あっ!」
美紗子はその場しのぎでわざと声を出し、誰もいない音楽準備室へ戻り、クラリネットを置いた棚の前に立った。ゆっくりと近寄って来る謙一の足音と自分の心臓の音が、ひどく大きな音に感じた。謙一は美紗子の後ろに立つと、
「何か用があるんじゃないの?」
と背中越しに声を掛けた。
「大した用じゃないんだけどね。最後の悪戯に気付いて欲しいな~と思って。」
美紗子は一度置いたクラリネットケースを開け、何かを忘れたフリをして、謙一の顔を見ずに答えた。
「悪戯?」
「そう、最後のね。…ヒントは暗くて狭~いところで、まだ部長の名前があるところ。」
「えっ?暗くて、狭くて、名前があるところ?」
「そうよ。」
美紗子はクラリネットケースを棚に戻し、うつむいたまま謙一の横を足早に通り抜けた。本当は謙一の顔を見たかったけど、耳まで真っ赤になっている自分を見られるのが恥ずかしくて、顔を上げることが出来なかった。あっけにとられた謙一はその場で美紗子のヒントを考えた。しばらく考えたが、思い当たるところもなかった。しばらくして謙一は判らないまま、吹奏楽部の後輩達に別れを告げ、鞄を取りに教室へ戻った。

教室へ戻ると、まだ何人かの同級生が集まって別れを惜しんでいた。鞄が置いてある机から鞄を持ち上げると、教室の後ろにあるロッカーに目が行った。
(もしかして…。)
鞄を机の上に戻し、ゆっくりと自分のロッカーの前へ歩いた。確かにまだ自分のプレートが付いていて、暗くて狭い。近付くうちにだんだん確信に変わってきた。と同時に【何をしたんだろう】という疑問が持ちあがってきた。
(悪戯って言ってたけど、何か出てくるんじゃないだろうなぁ)
謙一は自分のロッカーの前に立ち、念の為ゆっくりと扉を開けた。びっくり箱のように何かが出てくるかもしれないと思い身構えたが、何も出てはこなかった。ロッカーの中は仕切りで2段に分かれていて、下の段は靴が入れられるように低くなっていた。美紗子は下の段の一番奥に包みを置いたので、パッと見ただけでは何も見えなかった。少し呆気にとられたが、首を少し低くして覗き込むと、奥の方にピンクの包みが見えた。
(これのことか)
まだ教室にいるクラスメイトに見られたくなかったので、一旦ロッカーの扉を閉め、鞄を持って再びロッカーの前に立った。鞄のチャックを開け、素早く鞄の中にピンクの包みを押し込むと、急ぎ足で教室を出た。廊下も少し早足で歩き、角を曲がったところにあるトイレの個室に入った。チャックを閉めずに鞄に入れたのですぐにその包みを取り出すことができた。包みは10センチ四方で高さが3センチぐらいのそれほど重くない箱で、かわいいピンクの包装紙に包まれていて、金色と白のリボンが掛かっていた。リボンには美紗子の好きなディズニーキャラクターの封筒が挟まっていた。謙一はリボンを寄せて封筒を取り出し、開けようとした。封筒の裏側には間違いなく美紗子が書いた文字があった。
(当たりだな)
そう思い封筒の文字を読んだ。
【一ヶ月以上も遅刻のバレンタインデーです。えっ、遅いって??まぁそこは上達の遅い、不出来な弟子のすることと思って、見逃してやってくださいナ。さて、私は誰でしょう??わかったら、次に会ったときエライと誉めてつかわそう。】
(ハハハッ、自分でヒントを出しといて誰でしょう?って…、それに字体でバレバレだし)
美紗子の字は多くの女子が書くような丸い文字ではなく、いかにも習字を習っていましたというような、しっかりした筆圧の強いきれいな文字だった。
(しかし、今頃バレンタインデーって言われてもね。少なくとも1ヶ月以上前のチョコレートってことか)
そう思いながら、封筒に付いているミッキーマウスのシールをはがし、中の便箋を取り出した。封筒を置き、
Yシャツの形に折りたたんであった便箋を丁寧に広げると、2枚の便箋もまたディズニーキャラクターの便箋だった。謙一はひと呼吸おいて、手紙を読み始めた。

【部長へ
いつもつたない&ド下手くそな私を、暖か~い目で見守って、
よくも呆れずに教えてくれてありがとうございます。
それと、隠居呼ばわりとかしちゃって、ごめんなさい。
小学生の頃の癖(いびり癖?)が直らなくて…。
まぁ、子供のすることと思って(えっ、思えないって?)許してね。
普段の感謝の気持ちを込めて、チョコレートを贈りますね。
といっても、決してそうゆう意味じゃないから、誤解のないように!
あくまでも、世間の儀礼を真似しただけだから。
卒業しても、たまには教えに来てくださいませ。
不出来な愛弟子より
追伸 いや~、こんなもの買うの初めてだったから、何にしていいか
迷いましたよ。付属のチョコペンは好きにお使いください】

謙一は笑いながら手紙を読んだ。
(少しはそれっぽいことぐらい、書いてあるかと思ったわ)
便箋を封筒に戻し、包みを開けてみた。上が透明な箱からは、ハート型のチョコレートと隣にデコレーション用のペン型のチョコレートが入っているのが見えた。
(これのことね。自分で書けって言われてもねぇ)
謙一は包み紙を戻して、手紙と一緒に鞄の中へ入れ、ファスナーを閉めた。トイレから出ると、また音楽室へ足を向けた。美紗子がまだいればお礼をしようと思った。謙一が音楽室に戻ったときには、もう二人ほどしか残っていなかった。音楽室の扉が開いた音で二人がこちらを向いたが、美紗子ではなかった。
「あ、部長。まだいたんですか?」
左に居た後輩が尋ねた。
「ああ、まあね。みんなは?もう帰った?」
本当は美紗子だけのことを訊きたかったが、照れくさくてぼやかして訊いた。
「ええ、もうみんな手入れ終わって帰りましたよ。」
今度は右に居た後輩が答えた。
「あたし達も、今帰ろうと思ったところなんですよ。」
続けて左の後輩が謙一の扉の方へ歩きながら答えた。
(じゃあ、ダメか)
謙一は美紗子にお礼を言うのを諦めた。
「じゃ、部長、また遊びに来てくださいね。」
「そう、演奏会も絶対見に来てくださいね。」
二人は謙一の前まで来ると、そう言って音楽室を出て行こうとした。二人が謙一の横を通り過ぎるのを見送ろうとしたとき、
「あ、み~ちゃんが準備室にまだ居るんで、鍵持ってるはずですから。じゃあ。」
左に居た後輩にそう聞き、謙一はにやけるのを堪えるのに苦労した。
「あ、そう。」
謙一はできるだけ平静を装って音楽室へ入って行った。二人の後輩が遠ざかった気配を感じると、鞄を扉の一番近くの机に置き、忍び足でゆっくりと準備室に入る扉へ近寄った。ノブの音を立てないようにゆっくり回し、扉をできるだけ静かに少しずつ開けた。開けながら覗き込むが、美紗子の姿は見えなかった。
(あれ、いないじゃない)
扉を全部開け、準備室を見渡した。
(おかしいなぁ)
そう思いながら中へ入ると扉の影から
「わっ!」
美紗子が謙一を驚かすのに突然出てきて、謙一を両手で押した。謙一はびっくりして、後ろにのけぞった。謙一の慌てた顔を見て、美紗子はケタケタ笑った。
「あ~、びっくりした。」
呆れ顔で美紗子に文句を言った。
「あはははっ!」
美紗子は笑いが止まらなくて、返事が出来なかった。
「もう、最後なんだから勘弁してよ。」
謙一は美紗子が悪戯をしたときにいつもやるように、コブシで軽く美紗子の頭をコツンと叩いた。いつもの美紗子は叩くと憎まれ口を言って、フイっと何処かへ行ってしまったが、この日は様子が違った。笑い止んだと思ったら、突然泣き始めた。顔を伏せていたので涙は見えなかったが、それまで聞いたことはなかったが明らかに泣き声だった。謙一は普段気丈な美紗子が泣くのを見るのは初めてだったし、いつもと違う展開にとまどい、次の言葉がなかなか出てこなかった。
「ごめん、痛かった?いつもと同じ位に叩いたつもりだったんだけど…。」
謙一はどうしていいか判らず、頭を掻きながら言った。
「ううん、そうじゃなくて、…そうじゃなくてね。」
「じゃあ、どうしたの?」
「ハハっ、柄にもなく部長との別れが淋しくなっちゃったみたい。」
美紗子はそう言って、袖で涙を拭き、謙一の顔を見た。
「顔、ぐしゃぐしゃだぞ。」
謙一はポケットからハンカチを出し、美紗子に差し出した。
「ありがと。」
美紗子はハンカチを受け取り、涙を拭いた。
「チョコありがとうね。嬉しかったよ。」
「あ、見付かった?」
「何とかね。なかなか判らなかったよ、ロッカーとは。もう昨日で荷物は全部持って帰っていたから、全然頭に浮かばなかった。」
謙一はいつも通りの美紗子になるように、できるだけ普通に話すように心掛けた。
「見付けてくれなかったら、後で取りに行かなきゃいけないことに気付いて、ここで暇つぶししてたんだ。」
「えっ、何で?」
「だって、他の人に見られたら恥ずかしいじゃない。」
「でも、名前はどこにも書いてなかったよ。」
謙一は手紙を思い返して言った。
「えっ、そうだった?」
「うん、外も中もどっちにも書いてなかったよ。」
「な~んだ、そっか。書かなかったんだ、あたし。てっきり中の手紙には書いたとばかり思っていた。何せ随分前に書いたから、記憶があいまいで…。」
「美紗子らしいよ、本当に。」
「バカにしてるでしょ!」
「そんなことないよ。」
「絶~対そうです!だから部長嫌い!」
美紗子はそう言って舌を出した。
「何だぁ、嫌いだったのか…。」
謙一はそう言って振り返り、音楽室へ戻ろうとした。美紗子は謙一の後姿を見て突然悲しくなってしまった。
「待って!」
美紗子は後ろから謙一の腕を掴んだ。
「ごめんなさい。」
美紗子は頭を謙一の背中にくっつけ、小さな声で言った。
「何が?」
「嫌いって言ったこと。」
「…。」
謙一は美紗子の重さを感じながら、美紗子の次の言葉を待った。
「…、今日ね、そう…、今日ね、真由美に言われたんだ。【いいの?】って。」
「…。」
「真由美に言われるまで、…あたし自分でも良く判ってなかった。部長がいなくなるってこと。春休みが終わっても、またいつものようにからかったり、教わったりできるものだと勘違いしてたの。…おかしいよね、そんなのわかりきってることなのに、そんなことはないって思い込んじゃってさ…、おかしいよね。」
最後の方は涙混じりで、謙一には聞き取りづらかった。
「そうだね、春からはもう教えたりすることはないよ。」
謙一はできるだけ優しい声で、呟くように言った。
「うん、わかってる、…わかってた。でも気付かないフリしてた。…だから、そう…だから最後は、笑ってたかったのに…、ごめんなさい。泣いちゃって、本当にごめんなさい。」
「別に謝ることなんかないよ。」
謙一は美紗子の方を振り返ろうとしたが、美紗子は顔を見られたくなかったので、力一杯それを制した。
「部長…。」
「なに?」
謙一の優しく答える口調が、美紗子を余計に悲しい気持ちにさせた。
「部長って、…ううん、何でもないや。」
「何よ?言い掛けたことはいいなさいって、いつも言ってるじゃない。」
謙一は美紗子がいつも自分に言うセリフを逆手にとった。
「そうね、言ってたね、いつも…、あのね、…うまく言えないんだけど、あたしね、部長のこと…」
「俺のこと…?」
「あ~、やっぱり恥ずかしい!もう、こんなこと言わせないでよ!」
「こんなことって、何さ?」
謙一は普段の意地悪の仕返しをしたくなり、わざととぼけた。
「もう!判ってるんでしょ!!意地悪しないの!」
「別に意地悪なんてしてないよ。判らないから、訊いてるんだけど。」
「絶っ対、判ってるくせに!」
美紗子は涙と恥かしさと怒りで、自分でも声や表情がどうなっているかよく判らなくなっていた。
「だから、何が?」
それでも謙一はわざととぼけた。普段は意地悪される側だったので、背中越しに困っている美紗子の表情を想像して笑いをこらえるのに精一杯だった。
「もう!あたしが部長のこと好きなこと!!」
美紗子は謙一の背中を右手の拳で叩きながら、勢いを付けて言葉を吐き出した。
「…。」
謙一は突然叩かれたことにびっくりして、一瞬息が詰まった。
「そう、自分でも気付いてなかったけど、…たぶん、ず~っと前から好きだったんだと思うの。だから、つい意地悪したり、からかったりしてたことに気付いたの。」
美紗子は溜め込んでいたものを一気に吐き出すように言った。
「あのさ…、」
「ん?」
「まだ、チョコ見付けたのにエライって言ってもらってないんだけど。」
「も~う、せっかくいいところなんだから、茶化さないでよ。」
「だって約束でしょ?」
「そうね、エライ!エライよ!」
美紗子は呆れて投げやりに言った。
「ちぇっ、ぜ~んぜん気持ちがこもってない。」
謙一の言葉に美紗子は謙一の前へ回って
「はい、エライね~。」
背伸びして、子供をあやすかのように、謙一の頭を撫でながら言った。
「子供じゃないんだから…。恋愛もわからない子供に、子供扱いされたくないって。」
謙一は頭を撫でていた美紗子の腕を振り払った。
「ふ~ん、じゃあ部長は恋がわかるっていうの?」
美紗子は口を尖らせて謙一に突っかかった。
「少なからずね。」
「だったら、もっと早くに教えてよ、クラリネットなんかより…。」
「何で?」
「もっと早く教えてくれれば、こんな間際になってこんなことしなくて済んだのに…、恥かしいったらありゃしないよ。」
「じゃあ、あのチョコはそうゆうこととして受け取っていい?」
「…。」
美紗子は黙ってうなずいた。
「じゃあさ、ホワイトデー代わりに、今度何処かへ行こうか?」
「本当!」
「本当。」
「本当に、本当?」
「本当!」
「だって、今度とお化けは見たことないっていうじゃない…。」
「わかった、わかった。じゃあ来週木曜の3月28日でどう?」
「うん、大丈夫。」
「じゃ、11時に駅で。」
「本当に来る?」
「大丈夫だよ。それより、かわいい格好してくるんだよ。期待してるからね。」
普段飾りっ気のない美紗子への皮肉を混ぜて言った。
「もう、部長はいつも一言多い!」
「じゃあ、来週ね。」
「う、うん。」
美紗子が頷いたのを確認すると、謙一は鞄を持って音楽室を出ていった。
二人の恋愛はこのときから始まった。

それから3年余りの間、紆余曲折ありながらも二人は付き合った。喧嘩の原因はいつも、謙一がなかなか時間が取れないことだった。謙一は子供の頃から獣医に憧れていた。中でも馬や牛などの大型動物の獣医になりたかったので、大学は北海道の大学と決めていた。東京で大学に行く分にはそれほどでもないが、北海道の大学に通うことになれば、当然ながらお金がかかる。親にできるだけ負担をかけたくなかった謙一は、高校時代は学校が終わるとすぐにファミリーレストランのアルバイトに行った。休みの日曜日は早朝から夜中まで働き、学費と生活費を貯めた。
それでも、まだ近くに居るうちは良かったが、謙一が北海道へ行ってしまうと、だんだん気持ちが離れてしまった。
その後も年賀状のやり取りだけはしていた。年賀状だったので、お互いが自分の状況を一方的に書いてあるだけだったが、それでも生きているということだけは伝わっていた。

二人が再会したのは、謙一が今年卒業したら東京へ戻ると書いた24歳のときの年賀状がきっかけだった。
謙一が東京へ戻って来て再会してからは、たまにメールのやり取りをするようになり、年に一度位は近況報告がてらに会うようになった。そんな付き合い方が10年ほど続いた。その間に二人はそれぞれ結婚した。一度はお互いを好きだった者同士だから、逢っていて恋愛感情が全くなかった訳ではなかった。会話の中でそれらしい言葉は出るが、冗談で済ませてしまっていた。結局そうならなかったのは、タイミングが合わなかったというのが、一番の理由だったかもしれない。どちらかの恋愛感情が持ちあがったときには、相手に恋人が居た。

再開したあとのある時はこんな会話をしていた。
「ねぇ、…あれからどんな人のこと好きになった?」
「う~ん、色々かな…。美紗子に似ている子もいたし、正反対の子もいたし…。」
「へぇ~、あたしに似てるって??」
美紗子は昔のような悪戯好きな顔で訊ねた。
「うん、どこかで美紗子の面影をひきずっているところがあるんじゃないの。たぶん、無意識のうちに。」
「そうゆうもんなのか。」
「そうゆうもんだよ。パソコンにたとえると女の恋愛は上書き保存で、男は名前を付けて保存なんだよね。」
「ん、どうゆうこと?」
「女は新しい恋人ができると前のデータは全てデリートできるけど、男は別ファイルに引き出しみたいに大事にしまっておくってこと。」
「だから昔の女のことがつい口に出るんだ。」
美紗子は自分の体験を思い返してみた。
「そうみたいね。忘れられないんだよね。」
謙一も思い当たるフシを同じように思い出していた。
「でもさぁ、それじゃすぐに容量オーバーになっちゃわない?」
「だから、男はあんまり覚えてないでしょ。」
「なるほどね。」

美紗子が33歳を迎える頃、謙一へアドレス変更のメールを送った。
(メール)件名:メールアドレス変更のお知らせ
携帯を新しくしたので、番号とアドレスが変わりました。登録の変更をお願いします。美紗子より

メールを受け取った謙一が、そのアドレスを登録しようとすると4桁の番号が付いていることに気付いた。
(あれ?美紗子の誕生日かな?)
【0923】と付いていたアドレスを見て、近くにあった雑誌の星占いのページを探した。美紗子は決して自分の誕生日を教えてくれなかった。照れ屋な彼女はお祝いをされるのが恥かしかったらしい。高校生の頃、ゲームセンターで占ったときに天秤座ということだけしか、謙一はずっと知らなかった。2冊目の雑誌でようやく星占いのコーナーを見付けると、天秤座の欄を探した。
(やっぱりそうだ)
謙一は20年にして初めて美紗子の誕生日を知った。カレンダーをめくると、都合のいいことに来月のその日は秋分の日で祝日だった。謙一は早速美紗子にメールで返事を出した。

(メール)件名:Re
登録しときましたよ。ところで久しぶりに会わない?来月休みが合いそうなときある?

(メール)件名:Re: Re
そうだね、そろそろ会いたいね~。来月で赤い日の休みは、9日と23日なんだけど、どう?

(メール)件名:Re : Re: Re
9日はやぼ用があるから、あんまりゆっくりできそうにないな。23日なら嬉しいんだけど。

(メール)件名:Re : Re: Re:Re
じゃあ、一応23日ってことで、また近くなったら詳しく決めようね。あたしも休めるかどうかは結構ぎりぎりになんなきゃ判らないから、あとヒロのこともあるしね。

美紗子は謙一と逢うときはできるだけゆっくり楽しめるよう、自分の一人息子のヒロを両親に預けたりしている。
23日ならスーパーのパートも休みがとれそうだと思ってそう答えた。

23日の誕生日の数日前、美紗子は謙一に確認のメールを送った。
(メール)件名:馬だけじゃないのよ、肥えるのは
体の方はだいじょうぶよ。休みは今のところは大丈夫です。まだ、何とも言えないけどね。一応申請はしてますけど…m(._.)m

(メール)件名:OKよ
OKよ。じゃあ12時頃メドにそっち行くね。近くに着いたら連絡するよ。

謙一は誕生日の当日、10時頃に車に乗り込んだ。謙一のマンションから美紗子の住む東久留米市までは、空いていれば1時間かからないが、祭日に空いていることはまずなく、しかも今日は小雨がパラついていたので、余裕をもって2時間前に家を出た。
謙一の予想通り、道路はある程度混んではいたが、祭日にしてはスムーズに走れ、30分前には近くに着くことができた。このあたりには雨は降っていなかった。広い片側3車線道路の脇に車を止め、美紗子へメールを打った。

(メール)件名:どうする?
近くまで来たけど、どこで待ち合わせにする?

(メール)件名:Re;
えっ~、もう着いちゃったの?まだ用事終わってないよ(涙)とりあえず車はスーパーの駐車場に止めてあるけど…。

(メール)件名:Re;Re;
じゃあ、こっちも向かうよ。ヨーカドーでしょ?

(メール)件名:Re;Re;Re;
そうよ。なるべく早く行くね。

謙一はメールを終えると、右のウインカーを出し、また車を走らせ始めた。5分もしないうちに目的のイトーヨーカドーに着いた。駐車場へ入れるのはさほど混んでいなかったのでスムーズに止められた。時間を見るとまだ約束の12時には15分ほど早かった。駐車場からスーパーの中へ入り、案内板を見た。目的の店が見付かるとエレベーターで1Fへ降り、その店を探した。入口の近くに見付けると、店へ入り店員に二言三言話し、お金を支払うと何も持たずに店を出た。その店があった入口とは逆側にある、駐車場から直接出てくる入口へ移動し、メールを打った。約束の12時にはまだ10分弱あった。

(メール)件名:着いたよ
駐車場側の入口のところにいます。
謙一は近くにあった旅行会社のパンフレットを見ながらメールを待つと、2~3分で返事が戻ってきた。

(メール)件名;Re;
こっちももうすぐ終わるよ。今、銀行のディスペンサー待ち。もうちょっとしたら行くから、ごめんね。

(別にまだ約束の時間過ぎてないのに…。)
謙一はそう思いながら、別のパンフレットを取り出し、観光案内を読んだ。
4冊目のパンフレットに飽きてきた頃、後ろから聞き覚えのある声がした。
「おまたせ~!」
謙一が振り返ると、美紗子が息を切らして立っていた。
「お久しぶり。」
「ごめんね、待たせて。ヒロがなかなか離れてくれなくてね。」
美紗子は一人息子を保育園へ預けるときの表情を思い出しながら言った。
「歩きながら話そうか、とりあえず駅でしょ?」
「うん、そうね。」
二人は少しだけ間をおいて、ヨーカドーから近い東久留米駅に向かって歩き始めた。雨が降りやんでたので傘はいらなかった。
「で、離れてくれなかったんだ。」
「そうなのよ、もう。どっかで判ってるんだと思うんだよね、きっと。いつもより保育所に行く時間が遅かったし、あたしが仕事に行く格好じゃなかったから、【かあちゃん、休みなのに、何で置いていかれるんだ~!】ってね。」
「わかるのかねぇ?」
「絶対わかってると思うよ。子供は勘が命だからね。」
「ヒロにはちょっと後ろめたいことしたかなぁ。」
「旦那には?」
「それは、いいでしょ。本人の了承を得てるんだから。ヒロとはまだ了承がとれないからね。」
美紗子は保育所で別れたときの息子の顔を思い出した。
「そうよ、ヒロはあたしが居なくなったらパニックになっちゃうんだから。」
「でも、そうでもしなきゃゆっくりしゃべれもしないからね。」
「しゃべるのはまだいいのよ。ご飯がね…。たまには暖かいモノを暖かいうちに食べたいものよ、お母さんは。」
「そうだね、食事もままならんもんね。」
以前美紗子と食事をしたとき、ヒロの世話をしながら食べていたので、せっかくの暖かいソバはうどんのように伸びきっていたのを思い出した。
「だから、今日はとっても楽しみなんだよ。」
「何食べに行く?」
「う~ん、家では食べられないものなら何でも。」
「じゃあ、ホテルのランチバイキングにしない?」
「いいけど、何で?」
「だって、好きでしょ?色んなのがある方が。」
「そうなのよね、その手のはついつい目移りしちゃって…。」
子供を産んでから少し太ったお腹を叩いて言った。

二人は電車に乗り池袋へ出た。祭日でごったがえす街中を二人は付かず離れずサンシャインシティへ向かって歩いた。エレベーターで59Fへ上がり、ランチバイキングの店へ入った。若いウエイトレスがテーブルへ案内して、椅子を引いた。窓際なら遠くの景色も見えるのだが、この場所からは見えなかった。
「残念、ここじゃ良く見えないね。」
それでも、ゆっくりと食事がとれることに美紗子は喜びながら言った。
「どうせ見ている暇なんかないでしょ?」
謙一は自分で椅子を引き、テーブルについた。案内をしたウエイトレスが厚いガラスのボトルから水をグラスに注ぎ終わると、二人は同時に立った。
「さぁ、食べるゾ~。」
美紗子は気合を入れて言った。二人でテーブルとブッフェを5往復したころ、すっかり満腹になっていた。

帰り際、謙一がカウンターで会計をしているのを横で待っていた美紗子は【誕生日の方は10%OFF】と書いてあるスタンドを見付た。
「あ!」
「どうしたの?」
「あの~、すいません。これってもうダメですかねぇ?」
美紗子はカウンターの上に置いてあったスタンドを指差しながら、レジ係の女性に言った。
「いえ、かまいませんが。証明できるものはお持ちですか?」
レジ係の女性は嫌な顔せず、丁寧に答えた。
「免許証でいいですか?」
「はい、結構です。」
返事を聞くと、美紗子はバックから財布を取り出し、免許証をレジ係へ渡した。
「良かったね、少し浮いたよ。この分でお茶代になるね。」
「さすが、家庭持ち、しっかりしてるね。」
「そうよ、お母さんは大変なのよ、誕生日のあたしに感謝してね。」
謙一がレジ係から割引分を受け取ると、二人はエレベーターホールへ向かって歩き出した。
「やっぱ今日が誕生日だったんだ。」
「あ、バレちゃったか…。せっかく隠し通してたのに。」
「でも、実は知ってたんだけどね。」
謙一は立ち止まり、エレベーターのボタンを押した。
「えっ?何で知ってたの?」
エレベーターはすぐに扉が開き、二人が乗り込むと、その後から数人が後に続いた。エレベーターの中では何もしゃべらなかった。1Fに着くと、乗っていた全員が降りた。エレベーターから降りるとすぐに美紗子が訊いた。
「何で知ってたの?いつ?」
「知ったのはごく最近だよ。」
「えっ、あたしが言った?」
「ううん、言ってない。メールのアドレスで判ったんだ。」
「あ、そっかぁ。」
「でも、単に0923だけじゃ判らないでしょ?」
「そこは、昔ゲームセンターで占いやったの覚えてる?」
「え~と、新宿だっけ?…そう映画の帰りに。」
「そうそう。あのとき天秤座って入力したでしょ。」
「よく覚えてたね、そんなこと。」
「だって、全然教えてくれないから、唯一それだけが誕生日のキーワードだったからね、美紗子の。」
「なるほどね。とうとうバレちゃったね。」
「だから、今日一緒に過ごせるのはとっても嬉しかったんだよ。」
「何で?」
「だって、始めてじゃない20年の付き合いで、美紗子の誕生日を一緒に過ごすのは。」
「確かにそうかもね、部長の誕生日はあるけどね。」
美紗子は謙一と二人の時は、いまだに謙一のことを部長と呼んでいた。

二人はぶらぶら歩きながら、ウインドーショッピングを楽しんだ。あっという間に保育所へ迎えに行かなければいけない時間になってしまった。地下道を通り池袋駅へ戻った。そんなに急ぎではなかったので、先発の準急ではなく座って帰れる各駅停車に乗った。扉の横に並んで座った。

電車が東久留米駅に着くと小雨が降っていた。
「傘なんて当然持ってないよね。」
手ぶらの謙一を見て美紗子は言い、バックの下の方から折り畳み傘を取り出した。謙一は美紗子から傘を預かり、広げた。美紗子がバックを持ちなおすのを確認すると、屋根のないところへ一歩出た。美紗子も後に続いて謙一の左側に並んだ。
「ちょっと狭いね。」
美紗子が傘に入ると二人はゆっくり車の置いてあるヨーカドーへ歩いた。
「そりゃあ、一人用だもん。」
「まぁ、いっか。情緒があるでしょ、アイアイ傘も。」
「そうね、何年振りかしらね。アイアイ傘なんて。」
「う~ん、少なく見積もっても16年以上でしょ。」
「そんな昔かぁ。」
「そうだよ。人生の半分くらい前だね。」
「遠いね~。」
「そりゃそうさ、美紗子が吹奏楽部に入ってきてからだから、20年だもの。」
「あり得ないけど、あのとき子供がいたら今二十歳ってことか。そりゃ長いわ。」
「いつまで続くかねぇ、この関係は…。」
「さぁ、ずっとかな?旦那とは一生とは思えないけど、部長とは生きている限りこうして逢ってそうな気がする。」
「だと、いいね。」
「共に白髪が生えるまでってね。」
「もう、少し生えてるけどね…。」
話しているうちに車を止めたヨーカドーに着いた。謙一はどちらでも距離的には変わらなかったが、待ち合わせた駐車場側とは違う入口に美紗子を誘導した。
「駐車場向こうだよ。」
美紗子はココのことを良く知らないと思って、傘をたたんでいる謙一に向かって言った。
「あっ、ちょっと寄りたいお店があるから…。」
謙一は傘を畳み、美紗子へ渡すと、スタスタと先に歩き始めた。美紗子は傘を受け取り仕方なく謙一の後を早足で追った。謙一は美紗子と待ち合わせる前に寄った花屋へ入って行った。
(家用にでも買うのかしら?)
美紗子は花屋の店先にある色とりどりの花を見ていたが、すぐに謙一は戻って来た。
「はい、お誕生日おめでとう!」
謙一はピンクのバラとかすみ草の花束を美紗子に差し出した。
「えっ?えっ?どうゆうこと?えっ?」
「だから、誕生日おめでとうってこと。」
「えっ、ちょっと恥かしいよ、こんなところで。店員さんも見てるし。やばっ、顔が熱い!」
そう言って美紗子は花束を抱え、顔を真っ赤にして駐車場へ上がるエレベーターへ歩き出した。
謙一は何も言わず美紗子の右側を歩いた。エレベーターホールまでの間、二人は無言だった。エレベーターホールは店内よりも少し人の数がまばらだった。
「あ~、びっくりした。心臓に悪いよ。」
美紗子はエレベーターホールの角で立ち止まり、謙一の方を向いて言った。
「ハハハッ、喜んでくれた?」
「喜んだっていうか、びっくりだよ、本当に。【家にでも飾る花を買うのかなぁ】なんて思ってたら、これでしょ。本当にびっくりよ。」
「まぁ、それだけ驚いてくれれば渡した甲斐もあるってもんよ。」
「あたしお花をプレゼントされたのなんて初めてかも。送別会とかではあるけど、プライベートでは…、ないなぁ。」
「結構そうみたいよ、女性でも。」
「だよね。」
美紗子はもらった花束を見て、花の香りをいっぱいに吸い込んだ。
「プレゼントに何が欲しいかってアンケートでは、いつも上位にあるのにね。意外ともらってないみたい。」
「だって、普通男の方が照れるって、花束をプレゼントするなんて。」
「そうみたいね。でもこうゆう渡し方なら、ありえるでしょ。」
「いや~、だから余計びっくりだよ。はぁ~、心臓はドキドキするわ、顔から火を吹きそうになるわで大変だったぁ~。でも、先に用意していたってこと、あんなに早く戻って来たってのは?」
「そうだよ。昼に美紗子を待っている間に頼んでおいたんだ。」
「な~んだ、じゃあ誕生日だって予めわかってたんだ。」
「まあね。それより時間、大丈夫?」
「あ、そう、急がなきゃ。」
美紗子は時計を見て慌てた。ちょうど来たエレベーターに乗り込んだ。
「何階?」
謙一はボタンの前で美紗子に訊ねた。
「4階。」
「じゃあ、一緒だ。」
ほどなくエレベーターは4階に着き、扉が開いた。
「車は?どっち?」
両手に荷物を抱えていた美紗子を心配して謙一は訊ねた。
「右の方。部長は?」
「ん、逆側。だけど開けられないでしょ?車まで一緒に行くよ。」
「ありがとう。」
まだ、美紗子は謙一と離れ難かったので、嬉しかった。
「あ、あそこの青の車。」
「あぁ、あった、あった。」
「ちょっと持っていてもらっていい?鍵出すから。」
美紗子はそう言って花束を謙一に渡した。美紗子が鍵を探している間に謙一は助手席側へ回った。美紗子が集中ロックを開けると、助手席のドアを開け、シートに花束を丁寧に置いた。美紗子は後部座席に鞄を置くと、また鍵を閉めた。車の前を回ってきた謙一の方を見て、
「車まで送らせて。」
「いいよ、急がなきゃ、ヒロが待ってるでしょ。」
「でも、送るから、ね。」
「言い出したら聞かないからな、美紗子は昔から。」
謙一は諦め顔で美紗子の車から少し離れた。
「そうよ。」
謙一は説得するのをあきらめて自分の車がおいてある方へ歩き始めた。
「でも助手席に花束が置いてあるっていうのもオツでしょ?」
「とってもね。何かの映画みたいよ。」
「「プリティーウーマン」」
二人は同時にそう言って、顔を見合わせて笑った。笑いが収まると、謙一の車に向かって無言で歩き始めた。美紗子はその一歩一歩が現実に近付いていくような気がした。
「あ、あそこ。」
謙一の言葉が宣告のように聞こえた。謙一の車の前に着くと美紗子は助手席側へ回り、謙一と距離をとった。運転席側にいたら、謙一に抱きついたり、それ以上のことをしてしまいそうな気がした。謙一は車に乗り、エンジンをかけて助手席側の窓を開けた。助手席側から、美紗子が顔を覗かせた。
「今日は本当にありがとうね。嬉しかった。」
美紗子は謙一と離れる寂しさを押し殺して言った。
「こちらこそ、誕生日を祝えて良かったよ。しかし美紗子にしては妙に素直だね。」
「もう、茶化さないでよ。本当に嬉しかったの、たまには素直にならなきゃね。あなたの前でも。」
「いつもそうだといいんだけど…。」
「それじゃぁ、面白くないんでしょ?」
「まぁね。突っかかってくる美紗子の方がしっくりくるかな。」
「でしょ?でも今日だけはなれそうもないかな。」
「じゃあ、次回はいつも通りってことで。」
「そうね、次はね。」
「じゃあ、また。」
「うん、またね。嬉しかった、ありがとう。」
謙一はその言葉を聞くと、ゆっくりと車を走らせ始めた。駐車場の出口へ向かってぐるっと回ると美紗子が歩いているのが前に見えた。軽くクラクションを鳴らしたが、全く気付いていなかった。すれ違うときに窓を開け、
「美紗子、またね。」
と言ったが、美紗子は全く気付かず歩いて行くのをルームミラー越しに見た。
美紗子はまだ謙一と一緒に居たことや花束をもらったことで頭がボーっとしていて、謙一の声は耳に入らなかった。自分の車の前まで戻るとポケットから鍵を取り出し、集中ロックを外した。運転席に乗り込むとバラの香りが充満していて、とても心地良かった。運転席にしばらく座ったまま目をつぶりバラの香りを楽しんだ。目を開けると車の前を通った買い物客が助手席にある花束を見付け、ジロジロ見ていく様子に優越感を覚えた。

謙一は帰りの信号待ちを利用してメールを打った。
(メール)件名:改めて
美紗子へ。改めてお誕生日おめでとう!
20年にしてようやく一緒に過ごせて、とても嬉しかったよ。次は美紗子が53歳のときかな?(笑)
でも、そのくらいまでおめでとうと言える関係でいたいものです。
では、よいお誕生日を。ほんの少しの愛を込めて(笑)

(メール)件名;まだ心臓がバクバクしてます。
おめでとうなんて・・・ほんっとに照れちゃいますねぇ(*^_^*)。あれから20年、早いものですね。先輩を隠居呼ばわりした「じゃじゃ馬娘」は、少しは女性らしくなりましたか?歳相応に(笑)?
53歳の誕生日に、また一緒にランチを楽しめるように、元気でいてね、部長。その時にはアイアイ傘も慣れていると良いのだけれど(爆笑)。今日は本当にありがとうございました。

美紗子の返事に対して謙一は何も返さなかった。もう家に着いている頃だろうから、彼女の家庭を邪魔したくなかった。翌朝になってメールの返事を打った。

(メール)件名:バクバクは収まった?
おはよう。いい夜を過ごせた?昨日書き忘れたんだけど、帰りに駐車場ですれ違って、気付かなかったから声掛けたんだよ。だいぶボーッとしてたみたいね♪

(メール)件名:え?気付かなかったわ…
こんにちは。昨日は回転寿司で、家族揃っての誕生日をしました。駐車場で声掛けたって?う~ん、感動しているのに、何せ照れが先にきちゃう性質じゃない?女性として扱われることにも慣れていないし、かなり心拍数が増えていたから、ボケ~としてたかもね…。ごめんね。

(メール)件名:たまにはね
うん、口開けて、ぼけ~とした顔してた(笑)まぁたまにはお母さんじゃなく、女性扱いもいいもんでしょ?
自分で選んどいて言うのも何だけど、お花似あってたよ。

(メール)件名:お恥ずかしい(*-_-*)
口開けてましたかぁ…。心拍数が増えると、呼吸も辛くてつい。落ち着け~、落ち着け~って思いながら歩いてた時すれ違ったのか…。まぬけな顔してたでしょ?
追伸 ピンク系のお花が似合うなんて益々照れるじゃないの~(>_<)

美紗子にとって、33歳、二人の20年目のバースデーは一生忘れられない一日になった。


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