セックスレスを条件に結婚してみたが…
#昭和の恋愛小説 #ショート #登場人物少なめ # #30000文字
#夫婦共働き子供なし #dinks #結婚3年目仲良し夫婦 #セックスレス
#中絶 #望まない妊娠 #心の壁 #兄のような夫 #心の浮気と身体の浮気
あらすじ
一人っ子だった小百合は、学生時代の性体験の影響で社会不適合になっていた。高校卒業後、3年間でようやく社会へ歩み出し、その会社で出会った5歳年上の俊之を兄のように慕うようになった。それまで男性を怖い存在としか思えなかった小百合の心の壁が、俊之のおかげで少しずつ取り払われていき、お互いが意識をするようになり、結婚の話になったが小百合はセックスレスでならという条件だった。俊之は代わりに外でするのはOKという条件で楽観的に承諾したが…。
小百合は台所で夕食の準備をしていた。今日は残業で普段より少し帰りが遅くなり、慌てて近所のスーパーで買い物をして、【夫が帰る前には】と思い、急いで仕度をしていた。夫の好きなホウレンソウのおひたしを切っているとき、玄関の方から呼び鈴の音が短く2回聞こえた。短く2回呼び鈴を鳴らすのは、小百合が訪問販売などに扉を開けないようにと、用心のために夫と決めた【帰ったよ】という合図だった。小百合は鶏と大根の煮物を煮ていたガスコンロの火を止め、玄関へ走って夫を迎えに行った。小百合達は結婚して3年目だが、病気でもしていない限り、お互いに帰ってきたときにはかかさず相手を玄関で迎えた。小百合が玄関の鍵を開ける前に、夫の俊之が鍵を回す音が聞こえ、俊之は玄関を開けて入って来た。
俊之の顔が玄関から見える前に小百合は俊之に声を掛けた。
「お帰り!」
小百合はいつもどおり明るく俊之を出迎えた。
「ただいま。」
俊之も小百合の顔を見て安心したように、その日の疲れを玄関の外に置いた。小百合は俊之に纏わりついて入ってきた臭いで、いつものお迎えのキスをするのを止めた。
「食事にする?お風呂にする?それとも…あ・た・し?」
小百合は俊之を誘惑するように、両腕で胸を押し出して胸の谷間を強調して見せながら、おどけて俊之に尋ねた。
「ば~か!その気もないクセに。」
俊之は小百合の誘いを笑い飛ばして、玄関に靴を脱ぎ捨て、部屋用のスリッパに履き替えた。
「ハハッ、冗談よ、冗談。ちょっとからかってみたくなっただけ。」
小百合はそう言って俊之に触れることなく、廊下を戻りはじめた。
「冗談じゃなけりゃどんなに嬉しいことか…。でも今日は外で済ませてきたから。」
俊之は小百合の後ろ姿を眺めながら、小百合から離れるようにゆっくりと廊下を歩いた。
「どっちを?」
その答えは【あたし】の部分だとわかっているのに、今日の小百合は俊之に意地悪したい気分だったので、わざと振り向きもせずに訊いた。俊之が会社の飲み会などで、家で食事を摂らないときには、必ず事前に小百合に連絡を入れてくれている。だから、訊くまでもなくその答えは判っていた。
「もちろん、食事じゃない方。」
俊之は小百合の意地悪気分を察して、仕方なく付き合って答えた。
「そっか、じゃあお風呂だね。ちょうど良かった。…あたし、今日は残業で遅くなったから、まだご飯できてないんだ。」
小百合はそう言ってキッチンへ戻り、ガスコンロに火を入れ、夕食の仕度の続きに取り掛かった。
「ああ、先に入らせてもらうよ。」
俊之は台所を覗くようにして小百合に声を掛けた。台所には小百合の手料理の匂いが充満していて、その匂いに反応して俊之のお腹が鳴った。
「どうぞ、その間にはできてると思うから。今日は俊之の好きなものだらけよ。」
小百合は俊之の方を向かず仕度を続けながら言った。普段は料理の途中でも寝室へ一緒に行き、俊之の着替えを手伝うのだが、こうゆう日は手伝わなかった。俊之の衣服から甘ったるいローションの匂いや他の女の匂いがするのが、小百合には我慢できなかった。その日に着た洋服は、パンツを含めて上から下まで丸ごとクリーニング屋の専用袋に入れて、俊之が翌朝クリーニング屋へ自分で持っていく。二人が結婚して3年間続いている暗黙のルールだった。
俊之は別に浮気をしている訳ではなく、単に欲求不満を解消する手段として風俗店に通っていた。普通の夫婦と違うのは、それを妻である小百合が認めていることだ。認めているというのは語弊かもしれない。むしろ小百合の方がそうしてくれることを望んでいた。小百合は男性の生理現象として、セックスを我慢させることはできないと理解していた。
もちろん、俊之が浮気性とか異常性愛者とかいう訳でもなく、小百合のことを愛していない訳でもない。小百合のことは、結婚する前からも結婚してからの3年間も、変わりなく愛していた。ただ小百合とは、いまだかつて一度も性交渉をしたことがなかった。俊之は好きで性的衝動を、わざわざ外で済ませている訳ではなく、むしろ小百合が性行為を拒否しなければ、薄給の中から高いお金を支払い、愛情のない行為を繰り返す必要はなかった。俊之は小百合から渡される毎月のお小遣い4万円をやりくりして、衝動が押さえきれなくなると風俗店に行き、欲求を発散した。年度末などで飲み会が重なるとあまりお金がなくなり、安いピンサロに行くこともあれば、気晴らしに寄ったパチンコで勝った裕福なときには、豪華にソープランドへ行くこともあった。風俗店に行くときは、会社が早く終わった日の帰りに行くことにしていた。週末は小百合も会社勤めなので休みが重なるから、二人で過ごすことに使いたかったし、早い時間なら料金も安いことが理由だった。ただ会社帰りに寄るので、その日に着ていたスーツはどうしてもそうゆう店特有臭いが付き、家に帰るとローションやボディソープの臭いで、玄関に入っただけで小百合には判ってしまう。普段は俊之が帰ると主人を待ち焦がれていた子犬のように一目散に玄関へ出迎え、お迎えのキスをしてくれるのだが、そうゆう日は俊之に触りもせず、少し距離を置いて声を掛ける。俊之は寝室で着ていたものを全て脱ぎ、クリーニング屋の袋へ入れ、その袋をマンションのベランダへ出しておく。大事なところを隠すタオルさえ使わず、裸のまま風呂場へ行き、丹念に体を洗って匂いを落とす。30~40分かけて風呂場を出る音がすると、咄嗟に小百合は風呂場へ走って来て、洋服が濡れるのもかまわず俊之に抱きつき、お迎えのキスをするのが常だった。
俊之と小百合はセックスをしないこと以外は、普通の夫婦だった。むしろ休みの日にはいつも二人で買い物やレジャーに出掛け、出掛けるときにはいつも二人の間には距離はなく、ベタベタとくっついているので、マンションの他の住人からも仲良し夫婦とやっかまれる程だった。実際に二人は結婚して3年になるが、喧嘩することも滅多になく、一部を除いて夫婦関係は円満だった。小百合は俊之との関係にとても満足していて幸せを感じていた。俊之もただひとつ、小百合との性的関係を除けば、小百合との関係はとても楽しく、素晴らしいものに感じていた。
小百合にとって、セックスは愛情を示す上で重要な位置を占めていなかった。むしろセックスに対して嫌悪感を覚えていた。そんな小百合でも、愛する俊之との間に子供がいたら、この幸せがどんなに膨らむだろうと想像することもあった。しかし、その為に必要な行為をする気には到底なれなかった。そのことを考えるだけで、気分が悪くなり、身の毛もよだつ思いだった。その理由は彼女の性体験にあった。
【回想】
小百合の初体験は、中学3年生のときだった。周りの友達と比べてやや早かったが、望んで処女を捧げたのではなく、記憶から消し去りたい悲惨な思い出だった。その当時から小百合の容姿は男性受けする顔立ちで、性格も柔らかい印象の優等生タイプだったので、クラスでも目立つ方だった。そんな小百合のことを不良グループと呼ばれていた女子達が疎ましく思い、小百合を罠に掛けた。
少し寒さが当たり前になってきた晩秋のある日の放課後、小百合は彼女達に体育館へ呼び出された。後から思えばあまりにも不用心だった。前々から気に入らないと思われているのは判ってはいたが、そんな酷いことはしないだろうと多寡を括っていた。小百合が体育館に入ると、背中で重い扉がガシャンと閉まった。カーテンが閉められていたので、薄っすらとしか見えなかったが、7~8人の男子生徒が立っているのが見えた。小百合はその男達に体育館の奥にあった体育倉庫へ連れて行かれた。最初は力の限り抵抗したが、多勢に無勢でしかも男性の力にはとてもかなわなかった。両手両足を押さえつけられ、服を強引に脱がされ、次から次へと男達がのしかかってきた。
時間にしてみれば、わずか1時間程のことだったが、小百合にとってはそれまでの人生で最も長い1時間だった。あまりのショックな出来事で頭がパニックになり、彼らが立ち去った後もその場所から動けなかった。そのことがあってから6時間近く経った夜遅く、学校の警備員が巡回してくるまで、裸のままマットの上でうずくまっていた。21時の定時巡回をしていた警備員が、体育倉庫にいた小百合の気配に気付き、懐中電灯の灯りを当てた。小百合は顔に向かって当てられた懐中電灯の眩しさで、やっと誰かが近くにいることに気付いた。そして襲われたときの記憶が蘇り、狭い倉庫中がうるさいと感じるほどの大声で絶叫した。警備員が近付こうとすると更に大声になり、手に負えなかった。裸のままでいる小百合を懐中電灯越しに見て事態を察した警備員は、小百合に近付くことを諦め、一旦体育倉庫の外に出て、持っていた携帯電話で職員室へ電話を入れた。たまたまテストの採点で遅くまで残っていた学年主任が電話を取ると、受話器の向こうから金切り声が聞こえてきた。警備員の呼び掛けの声はその声に消されて聞こえなかった。
警備員は返事が聞こえなかったので、電話に呼び掛けながら、小走りで倉庫から遠ざかった。
「もしもし?」
体育館の入口付近まで来てやっと向こうの声が聞こえた。
「あ、警備の者ですけど、今ですね、え~と、体育館の倉庫を見回ってましたら、そのぉ、裸の女性が…」
「えっ?何ですって?」
学年主任はまだ聞こえる金切り声と警備員の言葉に緊張した。
「あ、だから警備で回ってたんですけど、体育館の倉庫を見たら裸の女性が居て…。」
「ウチの学校の話ですか?」
学年主任はあまりの事態に状況が把握できなくなっていた。
「ええ、そうなんですけど…。」
警備員は何故そうしなければわからなかったが、すまなそうに言った。
「わかりました、すぐ行きます。」
学年主任はそう言って受話器を置き、職員室を足早に出た。
2分ほどで職員室とはかなり離れた場所にある体育館に近付くと、小百合の泣く声が漏れ聞こえてきた。その声でさっきの電話が本当だと確信し、体育館へ降りる階段を急ぎ足で降りた。階段を降り、角を曲がると体育館の扉の前に、先ほど電話してきたと思われる警備員が立っていた。
「電話してきてくれた方ですか。」
学年主任は小百合の声に掻き消されないよう、大声で警備員に近付いて尋ねた。
「はい。」
警備員も大声で答えた。学年主任は警備員から懐中電灯を受け取り、金切り声のする体育倉庫へゆっくりと足を進めた。警備員が開けたままの扉から懐中電灯を照らすと、女性が裸で運動マットに横たわっているのを確認した。彼女の周りを照らすと見馴れた制服が放り出されているのを見付けた。
「後はこちらで引き取りますので…、で、すいませんが職員室に女性の先生が一人残っています。ここへ来るように言ってもらえますか?」
横に付き添っていた警備員の耳に口を近付け、大声で言った。
「わかりました。」
警備員は学年主任に頷きながら答えると、足早に職員室に向かった。学年主任はその間に電話が聞こえるように階段のところまで戻り、保健室の担当医にすぐ学校へ戻るよう連絡した。その電話が終わると同時に、小百合に古典を教えている教師が、警備員からの伝言を受けて階段を降りてきた。小百合の泣き声を階段を降りる前に聞き、学年主任の厳しい顔を見て、その教師はタダ事ではないことを察知した。
「すまんが、女生徒なんで、頼めるかな。」
その女教師は学年主任に促され、渡された懐中電灯で恐る恐る体育倉庫を覗くと、裸でマットの上に横たわっている小百合の姿を確認した。女教師は驚きで声を詰まらせ、呆然と立ち尽くした。しばらくして学年主任の方を見ると、中に入るよう首を横に振っていたのに押され、足元を懐中電灯で照らしながらゆっくりと倉庫の中に入った。5歩ほどおっかなびっくり歩くと、泣きすぎて声がガラガラになっている小百合に近付け、そのそばにしゃがんだ。
「もう大丈夫だからね。」
女教師はできるだけ優しい声色で、小百合に声を掛けた。そして近くに散乱していた制服の上着を小百合に掛けた。小百合は制服の重さで近くに人が居ることを認識し、さきほどの【大丈夫】と声を掛けてくれた声に聞き覚えがあったことで、少し落ち着きを取り戻した。女教師は小百合の頭を抱え上げて、彼女の膝の上に置いた。小百合は一旦泣きやんだが、今度は安心感で泣き始めた。女教師はそのまま小百合を抱きかかえ、しきりに【大丈夫よ】、【安心して】と声を掛け続けた。
学年主任から事態を説明されていた保健の担当が、毛布を持って体育倉庫へ来るまでの20分位の間、小百合は女教師の膝の上で声を出さずに泣き続けていた。
保健の先生は体育館の扉の前で待っていた学年主任を確認すると、体育倉庫へ入り持っていた毛布で小百合を包んだ。女教師と役目を代わり、声を掛けながらゆっくりと小百合を立たせた。女教師は小百合が立ったことを確認すると、手探りで体育倉庫の電気を付けた。小百合はその灯りが眩しくて、すぐに保健の先生の胸に顔を埋めた。女教師は灯りのついていた瞬間に顔を確認し、生徒の名前を思い浮かべた。教師受けも良かった小百合のことはすぐにわかり、体育館の扉の外に立っていた学年主任に小百合の名前を伝えた。
名前とクラスを再度女教師に確認すると、学年主任は既に帰宅していた小百合の担任に電話で連絡をとった。体育倉庫から女教師と保健の先生の二人に支えられて、ようやく保健室に辿り着いたのは、警備員が小百合を見付けてから1時間近く経っていた。
保健室のベッドに寝かされてからも、小百合の涙は止まらなかった。小百合が落ち着くように精神安定剤を与えようとしても、小百合は枕に顔を埋めて拒否した。
しばらくすると、帰路についていた小百合の担任が学校へ戻り、保健室に駆け込んできた。ゆっくりと柔らかい口調で小百合に何があったか訊ねても、小百合は何も答えず、声を押し殺して震え泣いていた。かけてもらった毛布が何枚あっても、震えは全く収まらず、歯をカチカチと立てる音が、静まりかえった夜の保健室に響いていた。小百合に何十回か訊いたところで、担任から連絡を受けた母親が迎えに来た。保健室に駆け込んで来た母親が小百合の名を何度も呼んだ。小百合は母親が来たことに声で気付くと、それまで押さえていた感情が一気に溢れ出し、また大声で泣き続けた。母親が運転する車で家に着いたときには、既に日が変わっていた。それが小百合の初体験の思い出だった。
その手の噂は瞬く間に広まり、特に優等生で容姿も良かった小百合に対しては、嫉みも加わったおかげで、そのことは尾ヒレが山ほど付いていた。噂と好奇心の目に耐えられなくなった小百合は、それまで生まれ育った街を出ることにした。卒業はそれまでの優等生ぶりのおかげで、出席しなくても何とか無事にできた。
高校は母方の祖母の家から通える私立校へ進学することにした。その高校は、どちらかと言えばお坊ちゃん・お嬢様学校で有名な高校だった。現に小百合の家は両親とも、それなりの家系だったので、試験もほどほどで入学できた。高校入学から半年もすると、住む環境が変わったこと、そして何よりも周りからの視線にビクビクしなくても良くなったことで、初体験の悪夢を少しずつ忘れつつあった。あの事件から中学時代までの友達とは誰とも連絡をとらなくなった。向こうから連絡が来ることもなかったし、小百合からも連絡をすることも皆無だった。高校入学当初の小百合は、あの事件のせいで暗くて近寄り難い雰囲気を放っていたが、部活のバスケットを通じて少しずつ友達ができはじめてきた。最初のうちは体を動かせば、少しは気も紛れるだろうと思って入った部活だったが、仲間ができはじめて、技術も上がると面白くなってきた。運動神経もかなり良かった方なので、二年に上がったときには、チームの司令塔となるポイントガードで、既にレギュラーになっていた。三年生が引退する夏の地区予選は高校としてはじめて4回戦まで駒を進めたが、そこで優勝常連校とあたってしまい、惨敗してしまった。
地区予選が終わると、小百合はキャプテンを任された。その頃にはもうあの事件のことはあまり考えず、毎日が楽しかった。周りの目も変わり、小百合のロッカーにラブレターが入っていることもしばしばあった。そんな中で一番積極的に小百合にアプローチしてきたのは、いつも隣で練習をしている男子バスケット部のキャプテンをやっている陽介だった。コートの割り振りや合同練習の打ち合わせなどで、二人になる機会は山ほどあった。キャプテンという立場も同じだったし、ポジションも同じポイントガードだったので、話は尽きることはなかった。度々一緒にいるうちに陽介が小百合に熱を上げるようになり、小百合も嫌いなタイプではなくむしろ好みの男性だったので満更ではなかった。
陽介の積極的なアプローチに小百合は冬休みの直前に応じることにした。冬休みが明けてからはバスケットの練習が終わると、陽介は小百合の家と正反対の方向だったが、いつも自転車を押して一緒に小百合の家の近くまで送り、帰ることが日課になっていた。小百合は彼の優しいところをとても好きになっていた。練習のない日曜日には遊園地や公園、ウインドウショッピングなど、ただ二人でいるだけで楽しかった。
春休みになる頃には、小百合の家に近い公園に着くと、二人でベンチに座り話し込むようになった。別れ際にはいつも寂しく思うようになり、最後にキスをして走って家へ帰った。
春休みに男女合同で合宿があり、二人は一緒に居られる時間が長くなることを喜び、ウキウキして合宿に望んだ。合宿中は、夜になると合宿所のロビーで陽介とこっそり逢って、声を潜めて一緒に過ごした。
合宿の4日目、小百合が昨日までと同じように深夜こっそり部屋を抜け出し、一階のロビーに降りると陽介からのメモが昨日も座っていたソファーの背もたれと椅子の間に挟んであった。
【体育館で待っています 陽介】
(どうしたんだろう?)
そう思いながらも、体育館という言葉に昔のことが頭をよぎった。
(まさかね…。)
小百合はメモを丸めて近くにあったゴミ箱に投げ入れると、紙はブリキのゴミ箱の中で小さく響いた。
(ナイシュー、小百合)
心の中でゴミがキレイに入った自分を褒めた。
ロビーから体育館に続く長い廊下をゆっくりと静かに歩いた。体育館の入口に着くと、人が一人通れる位しか開いてない重い扉からは、外の明かりしか見えなかった。
(まだ来てないのかしら?)
体を横に向けて恐る恐る体育館の中に入ると、両脇から羽交い締めにされ、タオルのようなもので口を塞がれた。抵抗して両手を動かそうとしたが、がっちり掴まれて身動きがとれなかった。タオルを口に更に押し込まれ、声を出すことができなかった。
「バカなやつ、あんなのに引っ掛かるなんて…。」
後ろから羽交い締めにしていた男が小声で言った。
「そっち持て!」
前から声が聞こえ、その男は小百合の右足を持ち上げ、もう一人別の男が小百合の左足を持ち上げた。
宙に浮かんだ小百合は足もバタつかせたが、抵抗もむなしくバタバタしているだけだった。
小さな窓しかない体育館の倉庫に連れて行かれ、あのときと同じようにマットに寝かされた。忘れかけていた記憶が頭の中一杯に蘇ってきた。必死に抵抗すると男達は小百合の顔や腹を拳骨で殴った。口の中が血の味がした。それでも身じろぎして抵抗すると、両手をタオルみたいなもので縛り上げられ、下半身は脱がされ、上着は胸まではだけさせられた。そして男達は次々と小百合の体に乗りかかった。5~6人が何回か交代で行為を終えたときには、抵抗し疲れて小百合はぐったりとしていた。男達は満足したのか、手を縛っていたタオルだけ解くと、足早に体育館を出ていった。
(何でまた…。)
タオルを口に入れたまま小百合は声を出せずに泣いた。
あのときと違うのは、誰も来てくれなかったことだった。朝日が昇り窓から差す光が目に当ると、小百合はやっとのことでふらふらしながらも立ちあがり、そばに投げてあった下着とジャージをそのまま履き、ヨタヨタしながら、倉庫を出た。体育館の中はもうすっかり陽が差し、目が眩むほど明るかった。
以前と同じく、この手の噂はすぐに広まり、また学校へ行けなくなった。
さらに悪かったのは、その事件からしばらくしてから体調の変化があったことだった。月のものが来なくなり、あきらかにいつもと体の様子が変わったことを自覚した。学校へ行かなくなったことだけでも祖母はかなり心配をしていたので、その上輪をかけて心配させたくなかったので、夜中にこっそり部屋の窓から抜け出し、少し歩くには遠い場所にある24時間営業のドラックストアへ行った。夜道は街灯が付き、それほど暗くはなかったが、暗さで記憶が蘇ってしまい心臓が激しく高鳴り、休み休みしか進めなかった。
普段なら歩いて往復40分のところを、2時間近くかけてようやく家に戻った。
外から見えないように茶色の紙袋に入れられた妊娠検査薬を取り出し、箱の裏にあった説明書きを読んだ。読み終わると箱を空け、中身だけを持ってトイレへ立った。トイレで説明書の通り行ない、そのまま結果を待った。もしかしたら…と、自分では期待していたが、結果はやはり陽性だった。突きつけられた答えにどうしていいか判らなくなり、途方にくれた。ヨロヨロと立ち上がり、自分の部屋へ戻るとベッドに倒れ込んだ。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう…。)
誰の子供かも判らない、自分のお腹の中にある命を育むという選択は小百合の頭にはなかった。問題はどうやって堕ろすかだった。小百合が1年の時、3年の先輩が妊娠してしまい、堕ろす・堕ろさないの話を部室でしていたのを聴いたことがあった。お金の面も問題だったが、相手の男性のサインが必要なことを耳にしていた。
(何でアタシばっかりこんな目に遭わなきゃなんないんだろう…。)
小百合は枕に顔を埋めて泣いた。泣き疲れるとようやく眠りに落ちた。
小百合にはこの街に大人の男性の知り合いはいなかった。悩んだあげく陽介に電話をして相談した。
「陽介?」
「あぁ、小百合か。」
藁にもすがる思いで電話を掛けた小百合は陽介の返事に驚いた。
(学校へ行けなくなっているというのに、全然心配もしてくれてないの?)
「あ、あのね、陽介…。」
「ん、どうしたの?」
「ごめん。」
「別に謝らなくてもいいよ。それより用は?」
「…。」
心のどこかで陽介に心配してもらいたかった小百合は妊娠の話をなかなか切り出せずにいた。
「用がないなら切るよ。今ダチと一緒だから。」
祖母に頼ることだけは避けたかった小百合は仕方なく陽介に経過を話した。
「本当かよ、で、どうする?」
「どうするって、無理に決まってるでしょ。これが陽介の子供っていうなら違うけど、誰か判らないのよっ。」
「そ、そうだよな。わかった堕ろすんだよな。」
小百合は陽介の言葉が引っ掛かったが、他に頼る宛もなく、そのまま流すことにした。
最終的には陽介のバイトの先輩に付き添ってもらって手術を受けた。お金は陽介がバスケ部のみんなからカンパで集めてくれた。手術が終わり、ロクに食事をとっていなかった小百合は安心の為にそのまま1日入院をすることになった。麻酔で少し朦朧とした意識の外で、ドアの向こうで先輩と陽介の話している声が聞こえた。
「俺はもう二度とごめんだゾ、こんなこと。」
「すいません、先輩に迷惑かけちゃって。」
「いくらかわいいからって、高い一発に付いたよな。」
陽介の先輩は下品な笑いを交えて言った。
「何言ってるんですか、3回はしたじゃないですか。俺なんか罠まで仕掛けて1回きりですよ。」
「まぁ、いいじゃないか。早くやりたかったんだろ、あの女と。」
「そうですけどね、でも妊娠するとは…。」
「それは予定外だったな。まぁ今度は気を付けようゼ。また美味しい話があったら呼んでくれや。」
先輩らしき足音が遠ざかっていった。その話を聴いて小百合の意識も遥か遠くへ行ってしまった。
その後、祖母の家にもいづらくなり、親に無理を言って都内のマンションを借りて一人暮らしを始めた。一人暮らしは少しだけ小百合の心を落ち着かせた。周りの好奇心の目がなくなり、少しずつ外に出られるようになってきた。
後に結婚することになった俊之と出会ったのは、堕ろしてから三年たった小百合が21歳の時だった。ようやく外で働く決心がつき、アルバイトでタウン誌の営業アシスタントの仕事をすることにした。小百合の指導を任されたのが5歳年上の俊之だった。それまで年上の男性と話す機会が殆どなかった小百合にとって、俊之と一緒に営業へ出ることは恐怖もあったが、反面ではとても新鮮だった。ある時、小百合が溺愛するバンドのコンサートチケットが偶然手に入り、一人で行きたくなかった小百合は無理やり俊之を誘った。コンサートの後、初めて仕事中以外で食事を二人ですると、俊之との距離が急激に縮まった気がした。その後は営業に行く移動の間、色々なことを俊之には話せるようになった。
(お兄ちゃんがいたらこんな感じなのかな?)
一人っ子だった小百合にとって、俊之は兄のような存在になった。それまで男性を怖い存在としか思えなかった心の壁が、俊之のおかげで少しずつ取り払われていった。
ある日、二人は俊之のなじみのバーへ飲みに来ていた。小百合は俊之がいつも座るカウンターの端の席の隣がすっかり気に入るようになっていた。
「お兄~ちゃん。もう一杯飲んでいい?」
小百合は甘えた声で俊之に尋ねた。小百合が首を動かすと、俊之の肘のあたりに小百合のロングヘアーが触れた。高校の事件以来、小百合は髪を切り揃えるだけだったので、腰まで伸びていた。
「はいはい、どうぞ。マスター、だってさ。」
心得たバーテンダーはメジャーカップで何種類かの液体をシェーカーに放り込み、氷を入れシェーカーを振った。ほんの数秒間でシェーカーに霜が付くと、小百合の前に置いてある三角のカクテルグラスにぴったりとピンクの液体を注いだ。
「わぁ、きれい、ね、お兄ちゃん。」
「あのねぇ、お兄ちゃん・お兄ちゃんって、俺はお前の兄貴じゃないんだからな。」
俊之は少し怒ったフリをして言った。
「お兄ちゃんはお兄ちゃんでしょ?」
目はカクテルグラスのピンク色に見とれながら、口を尖らせて小百合は答えた。
「…あのね、お兄ちゃんじゃダメでしょ。」
俊之は少し怒り口調を強くして言った。
「何が?…何がダメなの?」
小百合は少し酔っ払っていたのか、頭の回転が追いついていなかった。
「何がって、そりゃ、ねぇ。」
カクテルグラスを子供のように覗き込んでいる小百合の目線に入るように、カウンターに顔を近付けながら俊之が言った。
「…。」
小百合は俊之の視線で察し、目線を合わせないようにグラスをじっと見つめていた。
「だか…、」
「お兄ちゃん!」
小百合は俊之の顔を手で押しのけ、俊之の言葉を遮った。
「お兄ちゃん、今日はおかしいよ。ね?」
小百合は俊之の言葉の続きを今は聞きたくなかった。この関係が失われることを恐れて、わざとお兄ちゃんという言葉で釘を刺したつもりだった。
「…。」
「今日は帰ろっ、…ね。」
小百合はカクテルグラスに入ったお酒を一気に飲み干した。一気に飲み干すには少し強いカクテルだったので、少しふらっときた。
「小百合、…。」
「ね、今日は帰ろ。ねっ。」
小百合の声は少し涙混じりになっていた。俊之はそれを征するように左に座っていた小百合の右腕を掴み、自分の方を向かせようとした。
「ごめん、もう小百合のお兄ちゃんではいられなくなったんだ。」
「…。お兄ちゃんはお兄ちゃんでしょ?ずっと、ね。」
小百合の声は少し上ずっていた。
「だけど、もうそうは見れなくなっちゃったんだよ。」
「それは、女としてってこと?」
「そう。」
俊之は小百合を見て頷いた。
「…。あ、あのね、お兄ちゃんにそう言ってもらえるのはとっても嬉しいの、本当に。…本当だよ!でも、…。」
「でも?」
「あ、あたしね、…そう、もう誰かに愛してもらえるような女じゃないの…。」
そう言って小百合はうつむきながら、過去の話を他の人達に聞こえないように小さな声で正直に話した。俊之に対して、今までそのこと以外は素直に、殆ど何でも話すことができていた。でもそのことだけは隠していた。心の何処かでそれを話すと俊之に嫌われることを恐れていた。小百合は俊之のことを本当に好きになっていた。たまたま年上だったから照れ隠しにお兄ちゃんと呼んでいたが、異性として高校生のとき以来ようやく人を好きになりかけていた。でも何処かでまた裏切られてしまうのではないかという恐怖心がお兄ちゃんという言葉で留まらせていた。
いつか違う関係になれたらいいと半面思いながらも、この話をしなくてはいけない日が来ることを恐れていた。
過去の話に俊之はやはり驚いていた。
(そりゃ、そうだよね。誰だってそんな女イヤだよね、でも偽ってまで愛してもらうわけにはいかないし…。)
話終えた小百合はつかえが取れた開放感と嫌われてしまうかもしれないという気持ちが入り混じって自分でもどんな表情をしているのか判らなかった。
「ごめんね、だからお兄ちゃんの気持ちには応えられないの。」
小百合は下をうつむいて涙声だった。
「そんなこと…、」
俊之の言葉の続きを小百合は遮った。
「だって、私お兄ちゃんのこと好きだから、だ・大好き…だから、お兄ちゃんにはちゃんと幸せになってもらいたいし…。」
「小百合がいない幸せは考えられないんだよ。」
「でも、私、エッチはできないよ。それじゃイヤでしょ?」
小百合は男が誰でも身体の関係を望んでいることにまだ嫌悪感を持っていた。
「エッチできないって、どうゆう意味?」
「そうゆうことがあったから、とてもじゃないけどそうゆう気になれないの。」
「…。」
「ね、ダメでしょ?だから、私、誰とも付き合わないと思うよ、たぶん一生…。」
小百合は空のカクテルグラスの隣に置いてあったチェイサーを飲み、涙で流した水分を補給した。
「でも、…。」
「お兄ちゃんという立場なら今のままでずっと付き合っていけるでしょ、そうゆうことなしでも。だから、このままがいいんだ。」
「子供も欲しくないの?」
以前二人で電車に乗り、営業先へ移動する際、小百合が隣に座っていた子供達を喜んであやしていて、そのときに子供が好きだということを聞いていた。
「欲しいよ。とっても」
子供は欲しいという気持ちはあったが、その為にセックスをすることを代償にしたくはなかった。
「じゃあ、」
「でも、だからといってセックスをする気にはならないの。本当に欲しいと思えば極端な話、人工授精でも養子でも、他にも方法はあるし、やっぱり、それだけは考えられないの。」
「じゃあ、結婚もしないの?」
「うん。しないと思う。だって男の人なら、耐えられないでしょ。目の前に女性がいるのに、手を出しちゃいけないなんて、ましてや自分の奥さんだっていうのに。」
「人それぞれじゃない。本当に小百合のこと大事だったら、きっとそれでも結婚すると思うよ。」
「そうかなぁ?」
「そうだよ。」
「お兄ちゃんだったら耐えられる?」
「ん~、どうだろう、条件次第かな。」
「条件って?」
「例えば外でするのはOKとか…。」
そんなことは許されないだろうと軽く冗談混じりに言ったが、小百合は平然とした顔で答えた。
「それは、仕方ないんじゃない、身体の浮気なら。心の浮気さえしないでくれたら…。」
小百合の答えに少し戸惑ったが、ここで引いてはいけないと思い、
「それなら、いいよ、結婚しても。」
俊之は後でどれだけ辛いかを考えず、その場の成り行きで返答した。
「本当!?」
小百合は俊之の腕に絡みついて喜んだ。
「あぁ、本当に。」
「だったら、嬉しいな。お兄ちゃんと結婚できるなんて。そうなったたらいいなぁとは思っていたけど、無理だと思って諦めていたから。」
小百合は嬉しそうに俊之を見つめていた。
小百合は当然のことながら、本気で結婚できることを喜んでいた。しかも大好きになっていた俊之とだったから、なおさら喜びは深かった。一方、俊之はどこか楽観的に思っていた。いくら今の小百合がそう思っていたとしても、気が変わるときも来るだろうし、一緒に住んでいれば情も沸いてきて、身体の関係もある、普通の夫婦になれるだろうと軽く考えていた。
二人のルールはこうして始まった。
結婚の話以来、小百合は俊之のことを「お兄ちゃん」とは呼ばなくなった。もう一つ変わったことはそれまでの黒のロングストレートだった髪をショートボブに変えたことだった。すぐに小百合は結婚することと退職することを会社へ知らせると、結婚の準備に取りかかった。ほどなくお互いの親に挨拶に行き、顔合わせをして、3ヶ月後には結婚することになった。結婚資金がなかった二人は、取引先のレストランを特別に貸切にしてもらい結婚式をすることにした。少しでも手作り感を出すことを望んだ小百合は、できる限り自分で結婚式を作り上げようとした。招待状や封筒はパソコンで作って、家のプリンターで印刷したし、当日の料理もせめてデザートだけはと、クロカン・ブッシュのシュークリームを結婚式の前日から当日の朝までかけて焼き上げた。結婚式の前日の朝は山盛りのシュークリームとカスタードクリームの甘ったるい匂いが部屋に充満していた。
結婚式を終えると、翌日にバリ島へ新婚旅行に出掛けた。アジア独特の線香の匂いがたちこめる空港を出ると、予約していたリムジンとインド系と思われる背の小さなターバンを巻いた運転手が迎えた。二人を乗せると、リムジンは音もなく走り出し15分ほどで目的のバリ島の南部にあるリゾートホテルのロビーへ横付けした。運転手がドアを開けて小百合をエスコートして降ろすと、地元のスラッと美しい娘が、土地の花で作ったレイとキスで二人を出迎えてくれた。頬にキスされて少し顔がたるんでいた俊之を見て、小百合は手の甲を思い切り抓った。フロントでチェックインを告げると、吹き抜けというより野外と言った方が近い広大なロビーのソファーへ案内された。二人が座ると、ウェルカムドリンクとカットフルーツがテーブルに並んだ。ソファーからは眼下に真っ青な海が広がっていた。ゆっくりとチェックインの手続きを済ますと、ボーイ服を着た中国系の男性が近寄り、部屋へ案内することを告げた。リムジンを降りた側と反対側へ行くと、ゴルフ場にあるようなカートが鈴なりに並んでいた。ボーイは二人と二人のトランクを載せると、ゆっくりとカートを走らせた。顔に当たる風は日本の空気とは明らかに違う、少し湿気を含んでいるが心地良い風だった。
二人が案内されたコテージタイプの部屋は小百合の望み通りの造りだった。天蓋付きのキングサイズのベッド、狭いながらもプライベートプール、ウォークインクローゼット、食事をする為のオープンテラス、ネコ脚のバスタブ。ボーイが一通り説明をしていなくなると、小百合は子供のようにはしゃいで、俊之を連れて部屋を走り回った。
着いたその日は、ちょうど支配人主催の立食パーティがあり、二人は色とりどりの飲み物を片手に、焼き鳥のようなサテや小さなハンバーガーをつまみ、パーティに参加している様々な国の宿泊客と話した。とは言っても二人とも英語が苦手だったので、もっぱらボディランゲージに頼っていた。生バンドの演奏がパーティの終わりを告げると、二人は手をつないで暗いカート道をゆっくりと歩いて自分たちのコテージへ戻った。
小百合は部屋へ戻ると、先日新居に入れたベッドの2倍はある広大なベッドに飛び込んだ。手をつないでいた俊之も引っ張られ、小百合に覆い被さるようにベッドへ倒れ込んだ。小百合は仰向けになり、俊之の顔を間近で見ると、目を閉じて唇を差し出した。俊之は小百合を抱きしめ、熱いキスをした。小百合は満足したのか唇を離すと、
「まだ、眠くないね。ねぇ、プール入らない?」
小百合は俊之に提案した。
「本当に?」
パーティで少し飲み過ぎていた俊之は、眠かったのであまり乗り気ではなかった。
「いいじゃない、入ろうよ。きっと気持ちいいよ。」
小百合は俊之の返事も聞かず、起き上がると着ていたワンピースと下着をベッドの上へ放り投げ、プールへ飛び込んだ。俊之は唖然として、ベッドに寝転がったまま、小百合のあらわになった後姿を見ていた。開けっぱなしの扉から、小百合が俊之を大声で呼んだ。
「ねぇ、早く来なよ。気持ちいいよ!」
小百合の呼ぶ声に、俊之は起き上がろうとしたが、急に体を動かしたことでアルコールがまわり、そのままベッドに伏せてしまった。遠くで小百合が何度も呼ぶ声がしたが、そのまま眠ってしまった。
「朝ですよ。」
小百合は俊之の肩をゆすりながら、声を掛けた。
「…。」
俊之が目を開けると、ベッドサイドから俊之を覗き込んでいる小百合が目の前にいた。
「起きた?おはよっ。」
そう言って小百合は俊之に軽くキスをした。
「ん、おはよ。もう朝?」
「もうすっかり朝よ。朝ご飯10時までだから、頼んじゃった。スクランブルエッグにベーコンでよかった?」
小百合は受話器の横にあったブレックファーストメニューから、俊之の選びそうな卵と添え物を先に頼んでいた。
「ごめん、すっかり寝ちゃった。」
新婚初夜を台無しにしてしまったことを小百合に心から詫びた。
「いいのよ。疲れていたんだから、ね。」
俊之が新婚旅行で1週間休む為に、結婚式が終わった後、会社へ行き、徹夜で出発するぎりぎりまで仕事をしていたことを気遣い、小百合は優しく言った。
そう言い終わると同時に部屋のチャイムがなった。
「ご飯が来たみたいよ、支度して。」
小百合はもう一度俊之に軽くキスをして、小走りに玄関へ向かった。俊之は重い体を起こし、昨日着たままの洋服からベッドの横に置いてあった、タオル地の白いガウンに着替えた。着替え終わった頃に、小百合が扉から顔を出し、
「朝ご飯よ、あ・な・た。」
と笑いながら言った。ゆっくりと扉へ歩くと、小百合は俊之の腕を取り、腕を組んでスタッフが待つ藁葺屋根のオープンテラスに座った。二人が座るのを確認すると、白の制服と正反対の黒人のスタッフは、トングでパンを掴み、銀のトースターへ入れた。小麦の焼けてくる香りが二日酔いだった俊之の胃を刺激した。チンという音とともにパンがトースターから飛び出すと、スタッフは白い歯を見せながら、二人の皿にトングでパンを置き、一礼してコテージを出て行った。
「さぁ、食べよ。」
小百合は嬉しそうにフォークを持って言った。
「昨日はごめん。」
小百合の表情とは正反対の浮かない顔で、俊之はもう一度謝った。
「だから、いいのよ。あなたが疲れていたの、ちゃんと知っているから。あたしがはしゃぎ過ぎてたの。気にしないで。」
小百合は大きな白い皿に申し訳なさそうに乗っているホテルソーセージにフォークを差した。俊之はフォークで自分が刺されている気分になった。
「それより、昨日気持ち良かったんだよ、プール。水着なしで泳ぐって気持ちいいね。」
「そう。」
俊之は小百合がプールへ入るとき、ぼんやり見た裸を思い出した。
「空には満天の星空でさぁ、日本と全然星の数が違うのよね。」
小百合は話を続けていたが、小百合の裸を想像して、俊之はぼんやりと聞いていた。小百合と結婚の約束をするまでは、会社の上司と部下という立場だったから、もちろん裸を見ることはなかった。結婚の約束をしてからも、結婚の準備や新婚旅行で休む為に仕事を片付けたりしていてバタバタで、そんな機会は訪れなかった。だから、今時珍しく新婚旅行初日の昨日が二人にとっての初夜だった。
「こらっ!」
小百合は上の空で聞いていた俊之にナフキンを投げつけた。ナフキンは俊之の顔に当たり、俊之のスクランブルエッグの上に落ちて、端が黄色くなった。
「まぁだ、二日酔い?」
小百合は口を尖らせて言った。
「ごめん、ごめん。」
俊之はスクランブルエッグの上に落ちたナフキンを汚れた部分を内側にして畳み、テーブルに置いた。
「で、どうする?」
「ん、何が?」
「もう~、このあとの予定よ。海に行かないって話。」
「ああ、海ね。うん、行こうか。」
「じゃ、決まりね。じゃあ、用意しちゃお。」
小百合はグラスのオレンジジュースを飲み干し、席を立った。俊之は少しもたれ気味の胃に、ゆっくりと朝食を入れた。
部屋からボーイが運転するカートでホテルのプライベートビーチへ着くと、白い砂浜とコバルトブルーの海がとても美しかった。二人が砂浜へ降りると、パラソルとその下に白いデッキチェアが二つ並んでいる場所へ案内された。すぐに小さなテーブルが運ばれ、戸棚の中には冷えたミネラルウォーターと氷、グラスが並んでいた。ボーイが一礼して立ち去ると、
「早く入ろっ!」
小百合は水着の上に着ていたTシャツとバミューダ-パンツを脱ぎはじめた。俊之もそれに従って服を脱いだ。
「なにジロジロ見てるのよ~。」
俊之は脱いだ服を畳んでいたビキニ姿の小百合をぼうっとして見ていた。小百合の白い肌や女性らしく膨らんだ身体付きがバリの陽射し以上に眩しく思えた。
「あんまり見ないでよ。恥かしいじゃない。」
(昨日裸を見せておいて、水着姿をどうこう言うのは変だな)
俊之は苦笑いして、
「よし、行こっ!」
小百合の腕を引っ張り海へ走った。
遊び疲れた二人は浜辺で横になって休んでいた。
「ねぇ、そろそろお腹空かない?」
小百合は読んでいた小説の第6章を読み終えたところでデッキチェアから上半身を起こし、隣で持って来た本を顔に被せて寝転がっている俊之に訊ねた。
「そうだね。」
本を読みながら、うとうとしていた俊之は本の下からくぐもった声で答えた。
「そこの、レストランに行かない?水着でもいいみたいよ。」
小百合は手を伸ばし、テーブルに置いていたタオルで噴き出ていた汗を拭った。
「あ、賛成。気になってたんだ。」
俊之は寝転がったまま本を避け、テーブルの上に置いた。
「じゃ、決まりね。」
小百合はそう言うとすぐに立ち上がり、持って来た荷物の中からお揃いのタオル地でできたパーカーを取り出し、1枚を俊之に投げて渡した。俊之はそれを羽織り、立ち上がった。
「行こっ!」
小百合は俊之の腕にぶらさがり、二人はレストランへ向かって砂浜を歩いた。
オープンエアのレストランは、周りに木が茂っているせいか、少しひんやりと涼しく感じられた。
中国系に見えるウエイトレスに案内され、白いテーブルクロスのかかった、籐で編んだ椅子へ座った。
席を案内したウエイトレスとは別のウエイトレスが透明なゴブレットに冷えた水を注ぎ、メニューを二人の前に置いていった。
「イタリアンみたいだね。」
俊之はメニューをざっと見回して言った。
「そうね、でもサテとかもあるよ。」
「お飲み物は?」
二人がメニューを眺めているうちに、案内したウエイトレスがたどたどしい日本語で飲み物のオーダーをとりに来た。
「ビールでいい?」
俊之は小百合に尋ねた。
「もちろん。」
小百合は答えると、また英語で書かれたメニューの解読に戻った。
「ビールを2つ。」
「キリンとアサヒ、どっちにしますか?」
またしても、たどたどしい日本語でウエイトレスが尋ねた。
「あ、じゃあキリンで。」
「かしこまりました。」
ウエイトレスは一礼して、テーブルを離れた。
「何か、変な感じだよね。」
小百合がメニューを見ながら、言った。
「確かに。ここで日本語を聞くのも、キリンっていうのもね。で、決まった?」
「う~ん、海だからペスカトーレにしようかな。俊之は?」
「じゃあ、もう一つはピッツァにしようか。」
「いいねぇ。あと、サテも食べない?せっかくだから。」
「OK。」
ちょうどそのとき、さきほどのウエイトレスがビールを両手に運んできているのが見えた。
「ご注文は?」
「えっと、ペスカトーレとピッツァ・マルゲリータ、それとサテのセットを。」
「わかりました。」
ウエイトレスはメモ帳にさっと走り書きし、下がって行った。
サテは既に焼いてあるものがあるらしく、彼女はすぐに持って来た。豪快にサテの串が並べられた皿をテーブルに置くと、
「キッコマンはお使いですか?」
二人は顔を見合わせて首を傾げた。ウエイトレスは黙って返事を待っていた。
「YES。」
俊之はその意味がわからなかったが、テーブルの横で立って待っているウエイトレスに悪いのでとりあえず返事をした。
ウエイトレスは返事を聞くと、エプロンのポケットから小さな瓶を取り出し、テーブルに置いた。
「なるほど…。」
テーブルに置かれた瓶は日本で見慣れているキッコーマンの醤油瓶だった。
二人は声を合わせて納得した。ウエイトレスが下がると、二人はこらえきれず笑い出してしまった。
その日の夜は昨日とは逆に小百合の方が疲れて早々と眠りについてしまった。俊之はビーチで本を被って寝てばかりいたので、バリの陽射しで身体がヒリヒリしていて、なかなか眠りにつけなかった。
腕枕で横に寝ている小百合の頭の重さを心地良く思っていたが、何せ身体が熱っぽいのと昨日の小百合の姿態を思い出して悶々として眠れなかった。付けっぱなしだったテレビはアメリカのアニメ番組だったので、音がなくても退屈はしなかった。俊之の記憶では外が明るくなった5時頃までの記憶があった。
「朝ですよ。」
昨日と同じように小百合が俊之の肩をゆすりながら、声を掛けた。
「…。」
目を覚ますと昨日と同じように、ベッドサイドから俊之を除き込んでいる小百合が目の前にいた。
「おはよっ。」
そう言って小百合は俊之に軽くキスをした。
「ん、おはよ。」
そう言った瞬間に下腹部に違和感を覚えた。
小百合は俊之の表情が変わったことに気付き、
「どうかした?具合でも悪いの?」
心配そうな顔をして、手の平を俊之の額に当てた。
「いや、…そうゆうわけじゃなくて…。」
「えっ、どうしたの?何かして欲しいことある?」
益々心配そうな顔で見つめられることで、俊之は一層困ってしまった。
「いや、大丈夫。具合が悪いって訳じゃないから…。」
俊之は小百合がベッドから離れてくれることを切に望んでいた。早くこの何ともし難い気持ち悪い状態を脱したかった。
「煮え切らないなぁ、どうしたの?私達夫婦になったんだから、何でも言ってよ。」
「ちょっと言い辛いことだから…。」
俊之は言葉を濁して言った。
「何?言ってくれなきゃわからないよ。」
小百合は俊之が寝ている間に朝食の注文をしていたのがそろそろ来ると思って、少し苛立ち始めていた。
と、そこにチャイムの音がした。
小百合は俊之の言葉を待たず、玄関を開けるために部屋を小走りに出て行った。俊之は小百合が見えなくなるとすぐにベッドから降り立ち、着替えの置いてあるクローゼットからトランクスを1枚持ち、トイレへ駆け込んだ。
(一昨日の裸と昨日の水着姿が刺激的過ぎたのかな?)
俊之は日本ではあり得ないほど硬いトイレットペーパーを引っ張り、ゆっくりとトランクスを下ろして下腹部の精液を拭った。
(この歳で夢精ってのもなぁ…)
自分で汚れを処理している姿がバスルームにあった大きな鏡に写し出され、余計に空しく感じた。
藁葺屋根のオープンテラスにボーイが朝食を運び終えるのを確認すると、小百合はボーイに自分達でやるからと告げて、玄関を閉め部屋へ戻った。部屋には俊之の姿が見当たらず、バスルームのドアが閉まっていることに気付いて、ドアの外から声を掛けた。
「本当に大丈夫?ご飯きたよ。」
先ほどまで少しイライラした声だったが、朝食の匂いで小百合は少し落ち着いていた。
「ああ、大丈夫。先に食べてて。すぐ行くから。」
俊之は慌てて拭いたペーパーを便器へ投げ込み、持って来た新しいトランクスに履き替えた。しかし汚れたトランクの行き場がなく、仕方なく羽織っていたタオル地のガウンの中に挟み込んだ。
バスルームの鍵を開け、ドアを出ると予想通りに心配そうな小百合の顔が待っていた。
(先に食べててと言ったのに…)
俊之は小百合の心配顔に申し訳なく思ってしまった。
「何か嫌なことした?」
小百合は少し涙ぐんで肩が震えていた。
(やばい!)
俊之は小百合の涙に対しては高感度のセンサーがあるかのごとく、すぐに察知した
「全然!小百合が悪いわけじゃないから、気にしないで。さ、ご飯食べよ。」
俊之はそう言って小百合の肩に手を置き、朝食の置いてあるオープンテラスへ向かった。
「あっ!」
開けっ放しにしていた部屋の扉まで来ると、俊之はわざとらしくないように突然気付いたフリをした。
「どうしたの?」
小百合は横に立っている俊之を見上げた。
「先に座ってて。いいもの思い出した。」
俊之はそう言うと、右手で小百合の肩を軽く押してテラスへ促し、自分は部屋へ戻った。
(我ながらいい思いつきだったなぁ)
そう思いながら俊之は自分のスーツケースから、クアラルンプールでの乗り継ぎのときに食べたホットドック屋から多めに失敬してきた袋入りのケチャップを取りだし、代わりにガウンからトランクスを抜き出し、洗濯物用のビニール袋に放り入れた。
(とりあえずこれで安心)
スーツケースを閉めると、俊之はケチャップの小袋を持ってテラスへ出た。
小百合は俊之が扉から出て来る気配を感じ取ると、テラスの椅子から降り返って声を掛けた。
「いいものって、何?」
近付いてくる俊之訊いた。俊之はすぐには答えず、小百合の向かい側に座り、小袋を握って小百合に差し出した。
「何が入ってるの?」
小百合は俊之の握り拳を両手で掴み、解いた。
「これって、クアラルンプールの?」
小百合はケチャップの袋を見て思い出した。
「そう、やっぱハインツじゃなきゃね。」
俊之は持ってきたもう一つの小袋を切りとり、自分のスクランブルエッグにかけた。
「確かに!」
小百合も俊之にならって、きれいな半円形のオムレツにケチャップをかけた。
食事が済むと、小百合がポットに入れてあったコーヒーを俊之のカップに継ぎ足し、自分のカップにもコーヒーを入れた。
「ねぇ。」
小百合が甘ったるい声で話し掛けた。
「なに?」
俊之は食事の満足感ですっかり油断していた。
「さっき、どうしたの?」
小百合はそう言うと、さっきまでの心配していた気持ちが湧き上がってきて、また涙目になっていた。
ふいをつかれた俊之は対応に焦ってしまった。
「いや、どうも、しないけど…。」
「どうして?ちゃんと言ってよ。じゃないと判らないまま、また同じことしちゃうかもしれないじゃない。」
俊之の返事で、小百合はすっかり自分が悪くて俊之がそうなったと思い込んでしまった。
「いや、小百合が悪い訳じゃなくて…。」
「なに、その奥歯にモノが詰まったような言い方で、らしくないよ。何か嫌なことがあったら、遠慮なく言ってよ、もう夫婦なんだから、ねっ。」
「だから、嫌なことじゃなくって、その…。」
「その?」
「だから、ね。女性に生理ってものがあるでしょ?」
「うん。」
「そう、男にもね、そうゆうのが…。」
「?、わからない。」
「だから、ね、男は溜まり過ぎると。」
「過ぎると?」
「勝手に出てきちゃうものなの。」
俊之は自分で話をしていて顔が赤くなってしまっていた。
「そ、それって…。」
小百合は俊之が恥かしそうに告白しているのを見て、俊之以上に恥かしくなってしまった。
「…。」
「ごめん、男の兄弟とかいないし、男性ときちんと付き合ったことなかったから、そうゆうことがあるって聞いたことはあったけど、すっかり忘れていた。」
「…。」
俊之は顔を赤くしたままうつむいていた。小百合は俊之の顔を見てどうにかしてあげたい気持ちで弾けそうになった。
「ねぇ、何かしてあげられることってある?あたしに。」
「…そりゃ、ねぇ。…エッチできるのが一番なんだろうけど、それはダメじゃない。」
「…。」
「だから、この件に関しては小百合ができることはないよ。」
「…、何か哀しいな。とっても無力感…。何もしてあげられないんだ、あたしって。」
「そんなことないよ、こうして一緒に居てくれるだけでも、充分嬉しいよ。」
「でも、それについては何もしてあげられないんでしょ?」
小百合は落ち込んで顔を伏せた。
「エッチは、…無理なのは判ってるんだけど…」
「だけど?」
テーブルの向こう側から小百合は覗き込むような顔で俊之を眺めた。俊之はその視線に目をそらせて、真っ白いテーブルクロスの上に置かれたままの食べ終えたプレートをじっと見て口を開いた。
「…、口では?ダメだよね?」
少しくぐもった声で、ようやく俊之は言葉にした。小百合には俊之がどれほど考えてその言葉を言ったのか、充分伝わっていた。
「してあげたいけど…、でも、そうゆうことしたことないから、うまくできないかもよ。」
小百合はそう言うと、籐でてきたいかにもアジアンリゾートにある椅子を引いて席を立ち、俊之の座っている椅子の前に跪いた。ゆっくりとガウンの合わせ目を開き、俊之のトランクスの上から撫でた。
俊之は小百合の手の温もりを敏感な部分で感じると、気持ち良さで目を閉じて集中しようとした。
小百合がゆっくりと何回か撫でると、みるみるうちに大きくなった。初めて間近でその様子を見て不思議に思うと同時に驚いた。チラッと俊之の顔を見上げると、気持ち良さそうな顔が見えた。
(どうしよう…)
視線を股間へ戻し、その扱いに戸惑った。どうゆうことをすれば気持ちがいいのかは、何となく人伝えに聞いたり女性雑誌で見てはいるものの、実際どうすればいいのか迷った。それ以上に抵抗感が邪魔をしていて、仕方なく撫でることを続けていた。
もう一度俊之の顔を見上げた。さっきと同じように気持ち良さそうな顔で小百合の左肩に手を置いていた。
(ん!)
自分の抵抗感を俊之の気持ち良さそうな顔で打ち負かし、トランクスの穴から取り出した。その部分が激しく脈打っているのが、温かさとともに伝わってきた。
(すごっ!)
太陽の下でまじまじと見ると、その部分は想像よりグロテスクだった。子供のときに見た、父親以外のその部分を明るいところで見たことがなかったので、衝撃的だった。
(ん!)
小百合は目を閉じて、もう一度俊之の顔を思い浮かべ、握っていた右手を頼りにゆっくりと口へ含んだ。
(うっ!)
(うえっ!)
俊之が気持ち良さで声が漏れると同時に、小百合は嫌悪感で吐き気をもよおした。小百合は口から離すと、俊之の方を気にする余裕もなく、今にも吐きそうな顔をして、部屋のトイレへ駆け込んだ。
俊之は心配になってトランクスへ大事なものをしまうと、すぐに小百合の後を追った。
小百合はバスルームのドアを閉める余裕もなく、開けっ放しでうずくまってトイレに突っ伏して、戻していた。
(やっぱ無理か…)
俊之は小百合の隣に屈み、小百合の背中を擦った。
小百合が胃の中にあった朝食を吐き終え、喉につまっていた胃液を唾と一緒に吐き出したのを確認すると、俊之はさするのを辞め、歯磨き用に置いてあった使いかけのミネラルウォーターのボトルに手を伸ばしてとり、キャップを開けて小百合の顔の前に差し出した。
「ありがと。」
小百合はしゃがれた声でそう言うと、ペットボトルから水を含み、数回口をゆすいだ。
「大丈夫?」
口をゆすぎ終えた小百合の肩を抱いて俊之が耳元で訊いた。
少し落ち着いた小百合は、自分の情けなさと俊之に対しての申し訳なさで、嘔吐していたときよりも激しく涙が出てきた。
「…、ご・ごめん…ね。」
ようやく、言葉がでてきた。
俊之は小百合の持っていたペットボトルを受け取り、
「イヤ、こっちの方こそごめん。無理なこと頼んじゃって…。」
「ううん、あたしが悪いの。」
小百合は首を振りながらそう言うと、また少し目が回ってしまった。
「小百合は悪くなんかないから、ね。」
俊之はできるだけ優しく言葉をかけた。
「ごめんね、大丈夫、できるって思ったんだけど、いざ…、いざしたら、匂いで昔のことを思い出しちゃったの。」
小百合はまだ便器を見たままで、俊之の顔を見る勇気がなかった。
(嫌われたかな…、こんなこともできないなんて奥さん失格だわ。セックスも拒んでいる上に、口でもしてあげられないんじゃ、俊之がかわいそう…)
「しょうがないって、それも小百合なんだから、ね。そんなこと以上に小百合のこと愛してるから、大丈夫だよ。」
「ほんと?」
「ああ、本当に。」
ようやく安心した小百合は顔を上げ、俊之に抱きついた。
二人はしばらくバスルームで抱き合った後、俊之は小百合を促してベッドへ寝かせた。
小百合は疲労からか、すぐに眠りに落ちた。隣で小百合の様子を見ていた俊之も、朝食の満腹感から眠気が襲い、いつのまにか眠りについた。
昼過ぎになって小百合が目を覚ましたとき、俊之はベッドにいなかった。ゆっくりと身体を起こし、俊之の姿を探したが部屋には見当たらなかった。ベッドから下り、揃えてあった今回の旅行に合わせて買った皮のサンダルを履いた。バスルームの扉を見たが閉まっていなかったので、外へ出てみた。
【パシャッ】
扉を開けると、水音が聞こえた。俊之がプライベートプールの縁に座り、足をプールに入れて本を読んでいた。
俊之は扉が開いた気配に気付き、本を読むのを止めて振り返った。
「起きた?」
俊之はできるだけ平静を装って、小百合に声を掛けた。小百合が起きてきたらそうゆう態度をとろうとずっと考えていたから、かなり自然にそうできたと思った。
「…。」
小百合は俊之がいた安堵感からの笑みと、さきほどの出来事への不安感とが入り混じった顔で頷いた。
「ねぇ、お腹すかない?」
俊之は同じく予め考えていたセリフを投げかけた。お昼を過ぎていたので、実際にお腹もすいていた。
俊之の何事もなかったかのような態度が、小百合にはありがたかった。
「だってお腹が鳴って起きたんだもん。」
小百合は俊之の気持ちに応えようとして、わざと甘ったれた声で答えた。
「水着に着替えたちゃったから、お昼もルームサービスにしない?」
「OK!ちょっと待ってて、メニュー持ってくるから。」
小百合は踵を返して部屋へ戻った。
(良かった、俊之が優しい人で…)
小百合はクローゼットに置いてあるメニューを持って、プライベートプールへ戻った。
二人はその後の4日間もホテルの敷地から一歩も出ず、のんびりと楽しく過ごした。
性的なものを除いては【いつまでもうまくやっていける】と二人が信じられるぐらい、充実した新婚旅行になった。
新婚旅行から帰ると、小百合はマンションから近い街の不動産屋で事務の職についた。俊之は性衝動に抑えがきかなくなると、風俗店で発散するという生活を2年ほど過ごした。
ある日、かつての同僚でもあり同期の雅和が、会議で俊之の所属する本社に久しぶりに訪れた。昨年の春に北海道支社へ転勤になって以来だった。雅和も俊之とほぼ同じ頃に結婚をしていて、もうすぐ1歳になる子供がいた。雅和が北海道支社へ転勤が決まったとき、奥さんは東京の人だったので単身赴任か一緒に行くかかなりもめて、会社帰りに飲みながらよく相談にのっていた仲でもあった。
雅和が本社の用事を終えるのを待って、二人は連れ立って同僚時代によく一緒に行ったおでん屋を訪れた。
狭苦しいカウンターに並んで座り、ビールと焼き鳥をおまかせで注文した。
「どうだ?相変わらずか?」
キンキンに冷えたビールグラスで乾杯するなり、雅和は俊之に尋ねた。
「何が?」
「そりゃ決まってるだろう、あっちの方に…。」
俊之は唯一、雅和だけには小百合と一度も性交渉をしたことがないことを打ち明けていた。
「ああ、あっちね。相変わらずだよ。今だかつて一度もないよ、あれからず~っとね。」
「じゃあ、今もコレ通いか?」
雅和は左手の小指を立ててみせた。
「まあね。相変わらずママゴトみたいな夫婦生活を続けてるよ。」
「まだお兄ちゃんって呼ばれてるのか?」
雅和は結婚前の二人の様子を思い出しながら言った。
「それはないけど、小百合の気持ちはそのままかもな。夫婦でもない、恋人でもない、友達でもない。二人を言い表すのに最も適当な言葉は兄妹が一番近い気がするよ。」
俊之はぶっきらぼうに答えビールをグイっと飲んだ。ビールグラスは殆どなくなり、カウンターの向こう側で焼き鳥を焼いている大将に合図した。
「でも羨ましいなぁ。」
雅和も俊之のペースに合わせてビールを飲み干した。
「ばか、そんなにいいもんじゃないぞ。夜な夜な風俗通いじゃ…、世間体では女房もいるっていうのに…。」
俊之はカウンターに新しいビールグラスが2つ並ぶのと同時に飲み干し、グラスを交換した。
「でもさぁ、毎回毎回同じ女っていうのも考えもんだぞ。」
雅和も新しいビールグラスに交換し、一緒に差し出された焼き鳥を受け取り、二人の間に置いた。
「そっちの方が羨ましいよ、俺は。」
雅和は小百合の姿を思い浮かべながら、鳥皮の串をかじった。
「全然良くなんてないって。いい加減飽きるぞ、同じ女じゃ。それに子供がいるから、なかなかそうゆうことにならない上に、いたしたとしても子供を起こしちゃマズイから、愛撫もそこそこにカミさん自ら下だけ脱いで、上に乗られてっていうワンパターン。おまけに子供産んでからは、具合もいまいちだしね。でもお前さんがそうならないって決めているだけで、もしかしたら小百合ちゃんはそうゆうことを望んでるかもよ。」
「それはないね、今のところ。ベッドで冗談混じりに触れることはあるけど、すぐ身体を縮めるからね。」
「そっか、それも辛いな。だけど、い~よなぁ、女房公認で風俗通いなんて男冥利に尽きるよ。」
雅和は食べ終わった串をブラブラ揺らしながら言った。
「そうゆうもんかね?」
「お前にはわからんだろうけどね、この感覚は。でも普通の妻子持ちだったら、誰でも思うぞ。きっと。」
「飽きてみたいもんだよ。」
俊之は焼き鳥から上がる煙に視線を移し、ぼうっと見つめた。
「小百合ちゃんはきれいだけど、それでもすぐに飽きるって、間違いなく。今のお前の暮らし方がオスとしては正しいよ、生物学的にも。」
「そんなことはないと思うけどなぁ。むしろ風俗女の方に飽きてきているよ、こっちは。」
「いいねぇ、言ってみたいわ、そんな戯言。こっちは出張がてら、お前に連れていってもらおうかと思ってるっていうのに。」
雅和はひそかな企みを子供のような顔をして俊之に話した。
「バレルぞ、匂いで。大丈夫か?」
「どうゆうことだよ?」
「あ~ゆうとこの匂いってのいうのは独特な匂いがするから、帰って服を渡したらおかしいって間違い無く気付くって、女房の話だとね。」
俊之は他の客に聞こえないように雅和に耳打ちした。
「別にお前は公認なんだから、ばれても問題ないんだろ?」
俊之の意外な話に雅和は興味が沸いた。
「それはいいんだけど、その日は【お帰り】のお迎えもないし、当然お帰りのキスもなしで風呂へ直行。その日着ていたものはクリーニング屋の袋へ全部自分で押し込んで,ベランダに置いて次の朝自分で持っていくんだぜ。」
クリーニング屋へ袋を持って行く自分の姿を思い浮かべて、俊之は恥かしかったので小声で答えた。
「本当かよ?」
雅和の声は俊之の声とは反対に店中に聞こえるほど大きな声になっていた。
「し~っ。ああ、パンツまでひっくるめてな。変な家だと思っていると思うよ、クリーニング屋は。」
俊之は持っていた串を指の代わりにして、唇に当てて声の大きさを注意した。
「結構大変なんだなお前も…、傍から見ると楽しそうだけど、苦労してんだな、それなりに。」
そうゆうと雅和は残っていた砂肝の串を頬張り、ビールで流し込んだ。
「まあな。行く気も失せるだろ?そんな話聞くと。」
「あぁ、萎えるな。今日は大人しくホテルのエッチビデオで我慢するよ。」
雅和がそう言うと二人は顔を見合わせて笑った。
二人は名物のおでんをつまみに昔話に花を咲かせた。
雅和と再会した次の週、俊之は仕事で嫌なことが続き、少しむしゃくしゃしていた。気晴らしに行ったパチンコもアタリが引けずで、性的欲求の解消をしに行く為のお金がなかった。仕方なく残ったわずかなお小遣いで屋台へ行き、銘柄もよく判らない安酒でベロンベロンに酔って、千鳥足で夜更けに帰宅した。
いつものように呼び鈴を2回短く鳴らし、おぼつかない手で鞄から鍵を取り出して鍵穴に入れようとした。酔っていてうまく鍵が入らないうちに内側から玄関が開いた。遅くなったことを心配して小百合は呼び鈴の音がなると、畳んでいた洗濯物を放り出して、リビングから飛んできて玄関を開けた。
「お帰りなさい、遅かったから心配したよ。」
小百合は心配そうな顔と俊之を見て嬉しい顔が入り混じった顔で出迎えた。
「ただ今。」
俊之は酔っ払って船を漕ぎながら答えた。
「お帰りなさい。」
小百合は玄関に立っている俊之を抱きしめ、キスをした。
「あ、だいぶ飲んできたね。ご飯食べられる?」
小百合は俊之の口元からアルコールの匂いを嗅ぎ、かなり酔っていると判断して言った。
「…、ごめん、今日は無理そうだ。」
俊之はすまなさと酔いから、ようやく言うと靴を脱ぎ捨て、小百合に抱きついた。
いつものように明るく迎えてくれた小百合がとても眩しく感じた。
「じゃあ、今日はゆっくり寝ましょ。明日はお休みだし、ね。」
小百合はそう言うと俊之を支えて寝室へ歩かせ、俊之の着替えを手伝って、ベッドへ寝かせた。
小百合はベッドの脇に座り、俊之の横顔をじっと眺めていた。
俊之が眠ったのを確認すると軽くキスをして、小百合はキッチンへ行き、用意していた俊之の分の夕飯を片付けた。
キッチンの片付けを終えて、リビングで洗濯物を畳み、小百合は俊之を起こさないように静かに寝室のクローゼットへしまった。パジャマに着替えて、ベッドに眠っている俊之の横に滑り込んだ。いつものように俊之に抱き付いて寝ようと俊之の身体に触れると、俊之は寝ぼけながら半分目を覚ました。俊之は左うでを小百合の頭の下に入れると、小百合の頭を引き寄せてキスをした。小百合は嬉しくて自分の身体を俊之の身体に擦り付けた。俊之は小百合の胸の膨らみを胸板で感じると、抑え難い興奮が襲いかかってきた。
雅和の言った【もしかしたら小百合ちゃんはそうゆうことを望んでるかもよ】という言葉を思い出した。
俊之は理性のタガが外れてしまい、小百合を力ずくで抱こうとした。小百合は初めのうちは酔っ払っているからと楽観していたが、いつもと違う俊之の粗雑な扱いに動揺した。
(やだ、やだ、こんなの…、俊之じゃない!)
小百合は俊之の腕を精一杯払いのけようとした。
「やだ、や、やめてっ!」
過去の出来事が頭に蘇り、マンション中に聞こえる位の声をあげた。俊之はその声で我に返った。
「ごめん。」
俊之は身体を起こし、自分でも何をしたかわからないというように、うつむいて首を振って言った。
「泣くぞっ!」
俊之から身体を離し、ボタンの引き千切られた上着を羽織り、背を向けてそう言った小百合の肩は震えて、目からは大粒の涙が溢れていた。
小百合が俊之と営業で一緒に回っている頃、取引先からクレームで怒られた後、俊之の前でつい涙を流したときがあった。小百合の涙にうろたえる俊之の姿を見てから、小百合は自分の意見が通らないと、そう言って俊之を脅した。
「もう泣いてるし…。本当、ごめん。」
俊之は小百合に対してすまないと思う気持ちで一杯だった。
「冗談じゃなく。約束したじゃない。もう…、一緒にはいられないよ。」
小百合は振り向き、悲しそうな顔で俊之を見つめた。
「待って。ごめん。謝るし、もう二度としないから。」
「本当に悲しかったんだから…、ね。」
小百合は過去の恐怖を思い出し、身体を震わせていた。
「本当にごめん。」
「…、わかった。でも、今日は向こうで寝るね。」
小百合はようやくそう言うとベッドの脇に転げ落ちていた枕を拾い上げ、重い足取りで俊之を振り返ることもせず寝室を出た。
俊之はうなだれて寝室を出て行く小百合の後姿を黙って見送った。
小百合はリビングのソファーに枕を置き、枕に顔をうずめた。泣き声も涙も新婚当初から使っていたお気に入りのふかふか枕が押し殺してくれた。
俊之は、まだ酔いが完全に醒めてはいなかったが、自己嫌悪から眠りにつくことができなかった。
小百合が寝室を出て1時間ほどで小百合の啜り泣く声が途切れた。俊之は声が途切れて5分ほどの間、寝室で小百合が寝たことを確認する為に待った。少しふらつきながらゆっくりと立ち上がり、帰って来たときに小百合がハンガーに掛けてくれた、濃いブルーのトレンチコートを寝巻の上に羽織り、会社用の鞄から財布とキーケース、携帯電話を抜き出し、コートのポケットに押し込んだ。静かな足取りで寝室の扉の前へ立ち、ゆっくりとノブを回して扉を開けた。窓から漏れてくる明かりで、小百合がソファーに突っ伏しているのが、ぼんやりと見えた。小百合は泣き疲れ、気付かぬうちに眠りについていた。
俊之はできるだけ小百合の近くを通らないようにリビングを静かに通りぬけ、玄関を出た。マンションの重い金属の扉を外からゆっくりと閉め、キーケースから取り出した鍵で錠を掛けると、妙に大きな音で鍵が閉まった気がして、深夜のマンション中に響き渡ったかと思った。
(帰って来て、この音を聞くときは幸せな音に聞こえるのに…、今日は地獄の門が閉まったような音に聞こえるなぁ)
俊之は扉に耳を傍立て、小百合が起きてこないことを確認すると、少しふらつきながらマンションの外へ出た。
(どうしよう?)
小百合と一緒にいることを重荷に感じた俊之は、とりあえず宛もなく歩きはじめた。昼間はスーツにこの薄手のトレンチコートで十分だが、11月の後半ともなると、寝巻にトレンチコートでは肌寒かった。
(どこか暖かいところ…)
寒さで震えながら、俊之は県道沿いにある、マンションから歩いて5分程の場所にあるファミリーレストランを思い浮かべた。
(あそこなら24時間営業だったな、財布の中もさびしいことだし…)
寒さで酔いがだいぶ醒めた俊之は、少し足早に目的のファミリーレストランへ向かって足を進めた。
歩いているのに、身体はなかなか暖まらなかった。普段は車で通る道だったので、歩くと余計に遠く感じていた。ようやくファミリーレストランのある信号へ辿り着き、横断歩道の向こう側に暖かそうな光が目に入った。
(長いな)
ファミリーレストランは道幅が広い県道沿いにある。深夜なので県道を通る車輌が優先されている為、なかなか横断歩道を渡れなかった。猛スピードで走る車を見ながら、身体を縮めて青に変わるのを待った。1分ほど待ち、信号が青に変わると同時に俊之は横断歩道へ踏み出した。
そこへ制限速度を50km近くオーバーしていた車が赤に変わったことに気付かず、交差点へ突っ込んできた。その車は急ブレーキを踏んだが間に合わなかった。
(えっ!)
俊之がそう思った次の瞬間には、俊之の身体は赤いスポーツカーの上を舞っていた。
俊之にぶつかった鈍い音と、スポーツカーの急ブレーキの音が深夜の交差点に響き渡った。俊之が飛ばされてアスファルトに叩きつけられた音は、ハンドルをとられ歩道に立っている電柱に車がぶつかった音で掻き消された。
「小百合、ごめん…」
アスファルトに叩きつけられた俊之は、朦朧とする意識の中でそう呻いたが、誰もそれを聞くことはできなかった。
俊之が目を覚ますと、白くペンキで塗られた天井が見えた。マンションとは違う天井に頭はぼやけながらも違和感を持った。
(何処だ?)
そう思って視線を変えようとしたが、ギブスでがちがちに固められている首は動かなかった。俊之はもう一度目を閉じ、頭の中を整理しようとしたが、身体中が痛みで悲鳴をあげていることに気付かされ、それどころではなくなった。痛みで身をよじろうとしたが、全く身動きがとれない状態だった。
(ん?)
痛みの中にも何処かぬくもりを感じる部分があった。ほぼ全身を包帯や検査着で覆われていたが、左手の指先は負傷しておらず、生身の状態だった。そこには小百合の指が重ねられていた。首を動かすことのできなかった俊之はできる限り横目で左側を見ると、小百合がベッドに突っ伏しているのが見えた。
(小百合の暖かみか)
俊之がそう思ったとき、小百合は頭をあげた。小百合は目を擦りながら、俊之の様子を覗くと俊之が目を開けているのを確認した瞬間に声を出さずに泣いた。
(良かった、目を覚ましてくれて)
小百合は触れていた俊之の左手を強く握り締めた。
「ねぇ、俊之、わかる?」
小百合は涙で擦れた声で聞いた。
「…。」
俊之は声を出そうとしたが、声は出てこなかった。それでも小百合は自分の呼び掛けに俊之が反応したことで安心した。俊之の手を握っている左手はそのままに、右手を伸ばして俊之の頭の上にあるナースコールのボタンを押した。
「どうしました?」
ベッドの上にあるスピーカーから看護師が答えた。
「…、目を、目を覚ましました。」
小百合は精一杯の声で答えたが、看護師にははっきりとは聴き取れない声量だった。
「とにかくすぐ行きますから。」
プツンとスピーカーが切れる音がしてから、ものの30秒ほどで先ほど応対した看護師が病室に駆け込んで来た。俊之がそれほど危険な状態にあったことを示していた。
「どうしました?」
病室へ入るなり、看護師は小百合に尋ねた。
「起きました。」
小百合はやっと目を覚ました俊之から目を離したくなかったので、看護師の方を向かずに小声で答えた。
看護師は小百合の両肩に手を当てた。
「これで一安心ですね。そのまま手を握っていてあげてください。」
看護師はそう言うと、またパタパタと駆け足で病室を出て行き、色々な機材や薬品が乗ったワゴンとドクターを連れて戻って来た。
俊之はぼやけながらドクターの言うことを聞いていたが、そのときの会話はすっかり覚えていなかった。
痛みが酷いだろうということで麻酔を打って再度眠らされ、次に起きたときはそれから半日以上経ってからだった。麻酔のせいで頭は霞みがかかったようにハッキリしていなかったが、目を覚ましたとき今度は小百合の顔がすぐ近くにあった。
「小百合…、ごめんね。」
俊之はそう言ったつもりだったが、声にはなっていなかった。
「ううん、もういいの。」
声には聞けていなかったが、小百合には俊之が何を言ったか伝わった。
「…。」
「良かった、貴方が生きてて。」
小百合はそう言って俊之の指先を強く握りしめた。
「…。」
俊之は答えようとしたが、声が出ず、目配せしかできなかった。
「ずっとここで考えてた。貴方とのこと。」
小百合は返事ができないことが判ったので、そのまま続けた。
「あたしね、貴方が生きていることが、当たり前になっていたの。そう、いつだってメールをすれば返事が帰ってくる。電話をすれば声が聴ける。淋しい・逢いたいと言えば、夜中でも車を飛ばして帰って来てくれる。それが当たり前だと思っていた。でも、それは大きな勘違いだよね。誰だって明日のことは判らない。こうやって話していることも、もしかしたら明日はできないかもしれない。確率はとても低いことかもしれないけれど、あり得ないことじゃないって。今回のことで思い知ったの。そして…、それは歳を重ねるごとにその確率はどんどん大きくなっていくって。」
「…。」
「判ってなかったのか、判りたくなかったのか、心の片隅では気付いていたはず。当たり前だよね、誰もが死んでいくんだから…。でもそれに触れまいとして避けているんだと思う。」
小百合は空いている右手で目を擦りながら続けた。
「今はね、あなたが生きていることで【あたしは強くいられる】ってことが判ったの。この世に一人でもあたしのことを大事に思ってくれる人が、しかもその人が生きているってことを嬉しく思えるようになった。だから、もう大丈夫よ。この気持ちをあたしが忘れない限り。貴方が知っている弱虫の妹はもうお終い。これからは本当の意味で、貴方の人生のパートナーとして生きたいの。ね、いいでしょ?」
小百合の顔は涙でくしゃくしゃになっていた。
(これからは夫婦になれるのかな、ようやく。なら今の生活でも悪くないか、小百合と一緒なら)
俊之はそう思って言葉に出そうとしたが、麻酔の眠気がまた襲ってきたので少しだけ動く左手の人差し指を、小百合の手に2回軽く叩き、また眠りに落ちた。